2011-10-01から1ヶ月間の記事一覧
本書の最終章に収めた論考は、1974年6月号の『福音と世界』における特集「解放とは何か」に寄稿したものです。雑誌では「部落解放運動とキリスト教」というタイトルでした。 * * 終章 キリスト教と部落解放運動 『福音と世界』(1974年6月号、新教出…
この小話は、1978年という30年以上も昔のものですが、すでに問題解決への見通しが具体的に見えてきている感じがいたします。 特に、ここにも取り上げている、和歌山県の吉備町で取り組まれた「ドーン計画」や、山口県光市での猿回しの復活運動は、私た…
この「小話」でも触れている作家の住井すゑさんの作品は、これを語った当時、広く読まれていました。 これは、2002年のシネマフロントの別冊35号の表紙です。 * * 第7章 神戸女学院での小話ひとつ 同和問題とわたしたち 1978年11月29日 第…
この第7章では、今から33年も前、1978年11月に神戸女学院中高部で生徒たちに語ったお話が、翌年にパンフレットにされて残されていたものがありましたので、それを収めています。 私にとってこのとき、1968年に「番町出合いの家」を開設してちょ…
本日、資料の中から「同志社大学・壮図寮十周年・1954〜1964」という120頁足らずのパンフレットが出てきました。 表紙には、当時の寮の全景が収められ、友人たちや教授方の寄稿文もあります。私は、1960年の夏期実習で、琵琶湖畔の小さな教会…
1970年代になって、あるご縁から、奇妙な組み合わせの「悪童会」なるものが生まれて、不定期ながら我が家と、兵庫県山崎町と、そして京都と大阪と、お互いに出向いては、取り止めのない語らいを楽しんできました。 常連のメンバーは5人でその中には、歌…
前回に続いて、1968年春「番町出合いの家」がスタートした最初の住宅「中根アパート」が、改良住宅の建設のために壊される直前の写真を、ここに掲載して置きます。今回の小稿を発表した1970年11月より、数年後の写真ですけれど。 第5章 モグラ暮…
今回、このような連載を進めて、資料整理をしていましたら、不付け不詳ですが、1968年に住み始めた「中根アパート」が、やっと改良住宅の建設の順番が回ってきて、壊し始める時の写真が出てきました。 もちろんすでにこのときは、仮設住宅に移っているの…
はじめに、写真を1枚UPします。これは、1968年春、新しい生活をスタートさせた当時の、国際都市神戸のまちのどまんなかの、私たちのまちの風景です。 今回は、『働く人』のコラム「石の叫び」(1970年7月1日)に掲載された「力点」です。 * *…
この第2節に収めるものは、日本基督教団出版局の発行する機関誌のひとつ「働く人」に掲載された小稿です。 まず最初に掲載するのは、1970年1月1日号のもので、すっかり語調をかえたものです。 * * 第5章 モグラ暮らしの中からの小さな発言 第2節 …
「教団新報」に連載分の最終回です。早速掲載することにします。 * * 第1節 被差別部落と番町出合いの家 4 「積極的解散」の過程を経ること〔1975年1月12日〕 ――教団成立の問題に立ち信仰の根本的再評価―― 以上三回にわたり「教会」を背にした歩みとそ…
今回もまず、掲載紙をUPします。 * * 第1節 被差別部落と番町出合いの家 3 住民運動として幅広い解放運動(1973年12月29日) ――真剣にそして自由な批判的作業を―― ここで部落解放運動とのかかわりについて触れておこう。 あらためて記すまでもなく、部…
早速、第2回目のレポートを掲載します。 * * 第1節 被差別部落と番町出合いの家 2 牧師の独立こそ教会革新の前提(1973年12月15日) ――信仰的独立と経済的独立をたずねる―― 先に、わたしたちの歩みは、こんにちの教会の問題性にたいして単に反発し抵抗…
1968年4月から始めることになった私たちの小さな実験は、時代の大きな流れに呼応したものであったのでしょうか、私の所属する日本キリスト教団の機関紙である『教団新報』で「現代の辺境と教会」というコラムが設けられ、「番町出合いの家」のレポート…
当時、ごく限られた友人たちに送り届けていたこの週刊紙は、そんなわけで廃刊にしました。同時にまた、第3章で取り出した「日録・解放」の公開も中止といたしました。 実際自らの日録は、自分自身の自己耕作のために欠かす事はできませんが、それを公開する…
1969年2月の「ドキュメンタリー青春:やらなアカン・未解放部落番町からの出発」に岡林君が協力出演した後、私たちの地元の若者たちのフォーク仲間から、「岡林信康を番町に招いて、夏の地蔵盆の時に、大きなヤグラを組んで、一緒に歌おう」という声が…
今回の第6節では、岡林信康さんのうた「流れ者」を取り上げています。本文では歌詞をあげていませんので、ご存知ない方のために、シングル盤のUPして置きます。 岡林と共に、高田渡との個人的な出会いも生まれた、神戸でのコンサート資料と、「山谷ブルー…
このWeeklyを出し始めたころは、岡林信康さんの歌の世界とどこか響きあうものを覚えていたときでした。当時、『フォーク・リポート:うたうたうた』が創刊されていて、読んでいました。 いまも「JANUARY 1969 VOL1 NO1」が残ってい…
1968年4月からスタートした肉体労働の経験の記録の一部は、さきの「日録・解放」でちらっとお見せした通りですが、前回もUPしましたような、会社の旅行などもあったりして、前回の四国旅行をはじめ、九州旅行などもありました。 今回は、南紀白浜に出…
当時の日本は、いくらか好景気の時代ではありましたが、長田の下町にある零細企業のゴム工場はしょっちゅう倒産に見舞われていました。それらのことは、前の章でも触れた通りです。 しかし、働き始めて早々に、職人たちは揃って、休日の日曜日には有馬ヘルス…
今回のところで、岡林信康さんのことに触れています。彼は同志社大学神学部の後輩ですが、部落問題との直接的なかかわりにおいては、いくらか先輩です。 私たちは、1968年4月に番町出合いの家での生活をスタートさせていますが、彼はすでに東京・山谷の…
労働を始めた最初の仕事場の写真は少ないのですが、工場の入口の写真と、「日録・解放」にも収めていた、はじめての日曜日に有馬ヘルスセンターに仕事仲間が、家族そろって出掛けた時の写真と、2枚を収めます。 * * 第4章 Weekly・友へー番町出合…
今回は、「番町出合いの家」を初めて訪ねていただいた古川泰龍師との出合いのことに触れています。 この著書は、平成3年に法蔵館より出版された作品ですが、私の別のブログ「番町出合いの家TORIGAI」の今年8月15日〜27日の間に、「叫びたし寒満…
今回から第4章に進みます。 1969(昭和44)年1月22日付の「朝日新聞」の「ある抵抗」という連載記事の最終回(第14回)に、「解放こそ真の宗教:“牧師の座”去り工員に」という、私たちを取り上げた大きな記事が、写真入りで掲載されました。 し…
一度、親しい友人たちへ公開した「日録・解放」は、今回までのところで閉じています。何故ここで閉じたのかは、次の章で取り出すドキュメントで明らかになりますが、このとき既に28歳で二人の娘がいましたから、決して青春ではないのでしょうが、私にとっ…
1968年4月から始めた私たちの「新しい生活」は、まだ幼い2歳と3歳の娘たちにとっては、どういうものであったのかはわかりませんが、近所の保育園や幼稚園、小学校・中学校・高校、そして友人たちと同じように大学などでも学べる時代に生きて、それぞ…
前回につづいて、或る雑誌で掲載された私たちのまちの写真と「識字学級」の様子。この写真は大変珍しいものですが、当時のコピーで、どうにも復元できません。 * * 第3章 働くこと・生きること 「日録・解放」 (前回につづく)1968年4月16日夢が宿…
当時、ある雑誌で私たちの「識字教室」の取り組みの取材があり、あの頃のまちの写真が掲載されていました。これは現物ではなく当時のコピーですから、再生が難しいのですが、大凡の感じは分かるように思いますので収めてみます。 私たちの「識字学級」という…
「新しい生活」をスタートさせたのは1968年の春のことですから、思えばむかしむかしのことになります。 当時、限られた友達に送り届けていた「日録・解放」を、ただいまここで掲載していますが、当時の写真が殆ど見つからず、探し出した少ない写真の中か…