『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(41)第4章「Weekly 友へー番町出合いの家から」第1節「創刊に寄せて・裏現」

今回から第4章に進みます。


1969(昭和44)年1月22日付の「朝日新聞」の「ある抵抗」という連載記事の最終回(第14回)に、「解放こそ真の宗教:“牧師の座”去り工員に」という、私たちを取り上げた大きな記事が、写真入りで掲載されました。




しかしこの記事にはいくつもの事実誤認もあり、決して後味のよいものではありませんでした。


ところが、新聞掲載の後すぐ、同じ系列の東京12チャンネル報道部から、当時夕方7時半から30分のゴールデンタイムの人気番組に「ドキュメンタリー青春」というものがあって(関西では放映されていませんでしたが)、それの番組の取材の申し込みがありました。


私たちはこの申し入れを断りましたが、あの当時は国の法的措置も確定しなかった時で、地元の解放運動関係者は、この企画に積極的な協力と支持を得たという根回しもあり、結局これの取材に応えることになりました。


第3章までの「日録・解放」でも、大凡の地域の動向はお分かりのように、漸く神戸でも、部落問題の解決の取り組みが本格化し始めるときでしたので、この番組では、地域の人たちや仕事場の撮影なども行われて、1969年の2月23日(丁度29回目の誕生日に)に、「ドキュメンタリー青春」は「やらなあかん! 未解放部落番町からの出発」というタイトルで放映されました。



そのとき、フォーク歌手・岡林信康君(同志社大学神学部の後輩で、私たちの最初の任地であった滋賀県近江八幡市内で、彼の父親も牧師さんで親しく交流を持っていました)が、この番組に協力出演して、既にリクエストも多かった「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」などを、ドキュメンタリーの中で歌ってくれたのでした。


そして、番組の中でも歌われた彼の歌「友よ」をいただいて、この年(1969年)4月27日に創刊した、手作りの新しい生活の便り=「Weekly『友へ―番町出合いの家から」の誕生へと、繋がれていきました。




この第4章では、その中からいくつかを取り出して、記録に留めて置くことにします。



           第1節 創刊に寄せて 「裏現」


        (『週刊・友へ』1号、1969年4月27日)


「週刊・友へ―番町出合いの家から」をつくることにした。


番町での1年間の生活における禁止事項のひとつに「教会そのほかの諸団体からの話の依頼は一切断ること」というのがあった。


この間、口を閉じ、目立つことなく、日ごとの労働の生活をより深く探求することに関心を集中させてきたつもりでいる。


しかし、独立した歩みのなかから溢れ出た「言葉たち」は、ほかの独立した生活者たちへの交流を求めはじめ、昨年秋ごろから、ぼくは文集「解放」誌を、相方は「歌集」および文集「この道は遠けれど」誌をとおして、ごく限られた友だちとの言葉による友誼を持ちはじめた。


もちろんわれわれは、当初より孤立した歩みをしていたつもりはなく、あるべからざる古い関わりを絶ちながら、独立者の新しい絆に連なりながら生活する喜びに生きていたのであるけれども。


そして、いまや、番町での2年目の生活がはじまり、上記の不定期な刊行物に加えて、さらに現在の思いを表現すべき必要性をおぼえ、ここにウイークリーの印刷物を発刊することとなった次第である。


どこの教会でも「週報」と呼ばれるモノが発行されているが、われわれのこれは大いにその趣を異にして「番町出合いの家」の生活綴り方のごときものとなるであろう。


「未解放部落」番町での生活者たち、零細ゴム工場の労働者たち、番町出合いの家と実質的交流を持っている友だちたち・・などの生活記録の諸断片を、限られた誌面のなかに盛り込みたいと思っている。


ところで、そもそも言葉というものは、作り出すものではあるけれども、根本的に問い直してみるならば、われわれのうちに宿り、生まれ出るものであって、その意味では「作る」というより「できる」という側面が強いように思うのだ。


とにかく作らねばならないということで、感動も何も宿っていないのに、無理をしてキバったりすると、なんともエゲツないモノがオデマシになる。


無理にでも作らざるを得ない場合、生命も感動も力もない寒々とした死語が羅列され、書く本人も読むものたちも、空虚この上ないといった悲劇が起きる。
(今、ここで連想されるのは、私ちの礼拝説教のことなのだが・・)


語るべきことがないときは、何も語るべきでなく、他人も語れと強制すべきでもない。こういう基本的自由が保障されるようでなければならないと思うのだ。


本誌も週刊としているけれども、何もないときは休むか一部空白のまま発行するか、そこは適当にやりたい。


われわれが何事かを「表現」しようとする場合、やはり表に現すべき隠れたものが潜まっていることが前提になるのだから、われわれの関心の的は、「隠れ潜まる裏」となるのである。


われわれにとって、表現とは「裏現」に他ならない。
さてサテどんな言葉たちが現れることやら、楽しみなことである。