「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺5

   武内勝氏宛文書
   工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
             第四編

           


       一つの果実
     (一)

   ルンペン哲学
       ――能動的な精神
       ――死線を越えて

 これは、どう考へても、どう自己弁護しても、どう云ふ具合の、私を美化しやうとしても、私はルンペンである。

 イエス団の教会の御世話になって、武内先生から飯代を頂戴して、そして、私の若い日の誤りであった、嫁さんと、五つになった女の子を犠牲にして、私と云ふ男が、大きな面が出来ることなら、これは、敢へて、宗教的な美しい物語として、自己を語るんでなしに、世間的に、侮辱されて、あまりあることである。敢へて、私は罪人の頭だなんて、偽善者めいたことは謂ひたくない。私は恥曝しの生地なしで、生活無能力者で、ルンペンが私であると思ってゐる。これが現実である。

 だから、私はルンペンを尊敬しない。クリスチャングループでも、無料宿泊所に泊ってゐる連中でも、私はルンペンであることは、生活無能力者であるし、敗北者であるから、私はルンペンとしての、その経路としての、いろいろな過程と、同情視すべき点もあると思ふが、ルンペン、それ自身、私は尊敬しないし、ルンペンであることは、決して、誇るべきことでない。だから、ルンペンは、飯を食ったり、食うはなんだり、そして、生きてゐるに過ぎないのであって、北海道の馬車馬と少しも変りがない。そして、その上での苦労が、どれだけ、多くあっても、その苦労に対して、私は尊敬を払ってゐない。だから、貧しいこと、貧しい部落、貧しい人々、私は少しも尊敬を持ってゐない。人間の屑だと思ってゐる。

 人間の屑がルンペンであり、その屑な人間が紙屑を拾って、飯代にして生きてゐるんだと思ってゐる。これは、労働階級がそれである。その一人である私が屑な人間の一人である。

――これが、私のルンペン哲学であり、私のルンペンに徹する自己批判になってゐる。だから、神戸に於ける私は常に裸であり、正直です。そして、いつも、思ふことは、ルンペンの私を愛して貰ひたい――。

 これが、私の念願である。

 で、私は、神戸に来てから、一年五ヵ月を迎へやうとする。六甲山の飯場生活、半年間、新開地の屑な撒水夫、三ヶ月、東部労働紹介所、諏訪山の救済工事、飯を求めて歩いて来た。

 尊敬の払はれない苦労をいやと云ふ程、積んで来てゐる。それでも足りなくって、お情けによって、イエス団の同人から、時々飯を招ばれてゐる。

 ルンペン戦線の私は、涙が出て仕方のないことがある。――これ程、まで、苦しんで、恥を曝して生きなければならないものだらうか――と泌々身に応へることがある。武内先生の所に、別段、用件のある理ではないのであるが、顔を見ることが、有難くなって、救済の登録の受付の所から入って、黙って、覗いて、帰ることが、三度ばかりあったでせう。

 そうです、ここです。老いなければいけない、この現実のルンペン戦線から、私は智慧を絞って、人様に愛せられて、この境地から、私は救ひを求めなければいけない。ルンペンだからって、悲観してはいけない。刑務所の飯を二度喰って、警察の飯を十二三度、喰って、北海道の親父と親類から狂人扱にされ、世から棄てられた私であっても、心の美しさと魂の自由を忘れてはいけない。現実は真っ暗な絶望に近い呻きである。けれど、私は死の線を越える境地――このルンペンの死線から、私は新しく甦えらなければいけない。それは、精神力である。人間にのみ与へられた精神力である。松本兄の言葉で――能動的な精神――その精神と神の心が結ぶとき、私はルンペンの境地を通して、救ひの道が開かれてゐることを知る。

 問題は、ここで初めて、尊敬の価値が生れる、苦労の価値が生れる。美しい、性格の反発力が生れる。現実の生活に破れない、魂の自由が生れる。私が狂人であったかも知れない。こんどは、親父へ孝行する狂人であったなら、親類の人達は何と云ふだらう。

 私の嫁さんと、女の子を犠牲にしてゐる私だ。けれど、私が、こうした残されたる刺から、新しく生まれ変って、出来ることなら、愛の復活が成就されることであったなら、それは奇蹟ではないかと思ふ。

 その間、荊棘(いばら)があり、飢えがあり、泪があり、苦悶があるかも知れない。

 けれど、私よ、
 ――死線を越えなければ、真実(ほんとう)の仕事が出来るものでないことを知らなければいけない。そうです。私はやっぱり死線の子です。労働者と農民の苦悩が私の歩んだ過去です。

 私よ、強くなってくれ。それは、――死線を越えて――この境地から――。



       芸術に関する覚え書。
              ――序論
              ――賀川先生の芸術の統一性
              ――無名時代の地下工作
              ――メカニズムと芸術の統一性
              ――芸術の真実性と商品価値
              ――芸術への展望

 当面、私の芸術の美――

 それは、Tea Room Rumble のケイちゃんが、私の芸術の花である。成程、芸術は生活の基礎の上に咲き誇ってゐる一輪のチューリップの花であるかも知れない。

 貧しい私は、ブルジョアのサロンが、私の芸術の意欲でなくして、――巴里の屋根の下、フランス映画の柔和な芸術の香気、貧しい部落の民衆の旗が私の姿になってゐる。

 ――死の線を越えた私だ――。

 ――芸術に関する覚え書に就いて触れて見たいと思ふ――。

 私は賀川先生の芸術、純芸術の作品としての価値を認め難い。賀川先生は実際派の事業家であって、芸術的な天分には尊敬されてゐるが、表現内容の作品価値、私には再吟味の必要があると思ってゐる。私は神戸の図書館から――死線を越えて――三部作を、新開地の撒水先をやりながら、四日間で読み通してゐる。

 六甲山の飯場生活――私は「一粒の麦」を読んでゐたであらう。神戸に来てから、賀川先生の書物を二十冊近く読んでゐるであらう私は、芸術の真実性とその価値に於いて認めたいと思ふのは、「一粒の麦」である。

 私は此の作品を通して感激したことがある。芸術を取扱ふ者の精細に描くならば、第一に小説の構成法が完全に救はれてゐる。それは、動的美(自然の山と海を背景にして、(一)静的美、主人公の魂の更生、ローマンチズムが、クリスチャン・リアリズムとして、描かれてゐる。

 文章道も非常に洗練されてゐると思ふ。特に、賀川先生の芸術態度として、致命的な欠陥になってゐる人物の性格描写、私は賀川先生は、立派な芸術家であると認めてゐる。けれど、芸術が事業化し、商品化されると、粗雑なキング程度の「幻の兵車」になってゐることを思ふ。

 一体、賀川先生の初期の作品に、私は十分な評価を捧げることが出来る。例へば、大正十二年の作品「星から星への通路」のうちで、散文、雀の葬式、赤ん坊の頬っぺた等は、忠雄君の書物で読んだのであるが、十数年後の今日に至っても、新人である私にとっては、その価値を学んでゐる。

 これは、賀川先生が無名時代に書残してあったのを、清書をして発表になったんだと思ふが、無名時代の賀川先生の作品には血が流れてゐる。人々の脈拍を打たずに置かない魅力がある。私は無名時代程、貴いものはないと思ってゐる。

――堀井さんと話合ってゐたことであったが、漫談的に――武内先生は、いろいろな苦労をして来たやうに思ふが、武内先生の童顔の美しさ、性格美、人間と云ふものは、いやと云ふ程、苦労すると、どこかにクセがあるものであるが、武内先生から、そういった陰影は少しも見当たらないのは、どうしたことだろう、――と。

 堀井加西郡司、曰く、それは賀川先生の無名な時代に、武内先生と行政の父ちゃん、植田のお父さん、を、生命をかけて、教育されたから、珠玉のやうに、今日も輝いてゐる、と云ふ意味のことを話してゐたが、私は無名時代こそ、真実(ほんとう)の仕事が出来るものぢゃないかと思ふ。

 賀川先生の今日、世界的な指導性のあるのは、無名時代に、大半の仕事をしてゐたからであると思ふ。――「死線を越えて」がそれである。堀井さんも言ってゐたが、無名時代の地下工作であった賀川先生は、本質的なものを掴んでゐたし、この頃の賀川氏を、真実に私は尊敬出来ると――。

 従って、私と謂えども、有名時代の伝記小説、鑓田研一氏の「賀川豊彦伝」を認め難い。血の滲んでゐる生命がないのと、文章道に於いても、賀川先生の初期の作品の文章道より、魅力を持ってゐない。これは明らかに失敗作である。

 それから、賀川先生の毎号の「雲の柱」の筆日記は、認め難い所が多い。然し、これは、賀川先生も歴史的な役割を果した人で、工藤が、この原稿を書いてゐる三十前後には、処女作が世に訴へられ、人々の魂を捉へてゐたことである。

 ――武内先生、私も、今、七八年後には、「武内勝伝記小説」を書ける自信を持ってゐる。無名時代、人に棄てられ、苦悩の荊棘を歩んでゐるときこそ、真実(ほんとう)のことを言ふことが出来るし、真の芸術が生れる。栗原君といふ男は、オッチョコチョイで問題にしてゐないが、私は無名時代なる故に、思ひ切って、批判出来るし、真実を書けるものである。

 そう云ふ意味で、私の芸術への精進も、無名時代に骨組を、カッシリ、深く地下に埋めて置きたいと思ふ。土台がフラフラしてゐると、立派な建築が出来ないと同じやうに、無名時代の地下工作が何より大切だと思ってゐる。こうして、武内先生に、原稿を第四編書いてゐるのも、私の無名時代の基礎工作である。

 私は元来、実際運動の闘士であって、芸術に就いて、考へられて来たのは、昨年の六月頃からである。私の関西に来た理由は、小説を書くために来たのではないことは明かなことでせう。明石の農事試験場で働いて、ブラジルに渡航したいと武内先生に相談してゐたことがあったでせう。ブラジルの移民制限法案が通過して、私の転換期に直面したことから、六甲山で勉強してゐた頃、農民小説を書く方面に進みたいと原稿を書いてあったでせう。

 そのやうに、私の歩んだ道は、実際運動の闘士であって、私も芸術方面であったなら、小林と一緒に五六年前から認められてゐなければならない立場にあったかも知れない。

 それが、芸術へ、六甲山で読んだ「一粒の麦」が契機となって、――この書物をイエス団から借りて読んでゐたのであったが、私は赤線を引いて、所々に註を加へてゐたものだから、佐馬太大先生に叱られた記憶を持ってゐる。――この書物は武内先生のであったとか――。

 現在、私は無名時代である。けれど、私は失望しない。私は諏訪山の工区で、労働者諸君の信用がある。(易、踊、六甲山の地盤) 監督が、イエス団にゐる工藤(これは、武内先生の所にゐる意味)といふことが分って来てから、私の気嫌を現場で話合ってゐるが、実はこうしたことを、私は非常に危険だと思ってゐる。

 (私は、神戸労働者のうちで、工藤の頭の上に、手を叩く奴がゐるとすれば、私のために肌を脱ぐ仲間が五名ばかりゐる――。これは番町系統である)

 私は無名時代、苦しみに苦しみ抜いてゐる時こそ、大成を期しることのあるのを知ってゐるからである。

 ――こう云ふ現実の苦悩――阿南先生が、先日、私が、いろいろな点で無理をしてゐるものだから、いろいろ注意してくれてゐたが、男の子は、人様に甘やかされると成長しない。

 武内先生でも、そうである。前田兄がフラフラして一燈園に行くとき、ガンと怒鳴って置くと、決して、幽霊のやうな真似が出来るものではない。金蔵君でもである。実際、三十面下げて、人様の御世話になるなんて、私には出来ないことである。甘やかされることは、お父ちゃんが、苦労して来てゐるから、息子とお嬢さんには苦労させたくない心遣いではあるが、それを理解出来ない低能者は甘へてゐる。だから、私は阿南先生に、その好意は有難く思ふが、青年である私は、これからが、私の人生の荒波である。武内先生なり、阿南大先生は、歴史的な時代の役割を果した人である賀川先生と同じやうに、私達はこれからだから、そう云ふお父ちゃんなり、お母ちゃんが、息子とお嬢さんを、監督して頂けるといいのである。

 ――誤った教育方針は、若草の芽を枯葉にして仕舞ふ。そう云ふ意味で、私は無理をするし、飯の喰へないことがあるし、泪がある。それが、私の芸術への精進になってゐる。

 ――私は現在、書いてゐる血と――百枚(小説)神戸のマルクス派のグループが認めてゐるので、世の中に認められたいと考へないこともないが、私は無名時代の地下工作を今少し探し掘り下げたいと思ふ。そして、「時」、満潮時に対しての姿勢が待機されることであらう。これが、私の芸術への精神になってゐる。無名時代の私を指導して頂きたい。実際、私一人頑張っても駄目である。

 武内先生、私のお父ちゃんになって頂きたい。叱って頂きたい。

 無理があって、失敗して、困った奴だなア、と思ひなさることがあるかも知れない、けれど、私を指導して頂きたい。

 ――無名時代の私は強く戦ひ抜くであらう。来たるべき時代は私達のものであることを知るからである。

         ○

 生活と魂の問題の統一性、(パンと魂の統一性――労働者の問題)

 メカニズムを芸術の統一性といふことは、非常に困難な仕事になってゐる。今日、生活する、そんことは、金である。資本である。金融統制である。一切がメカニズムの資本の集中化である。

 魂とメカニズムの統一性が、どんなに困難であるか、教会は魂を取扱ふ所であるが、こんどの二十五年イエス団基礎工作の募金運動が、単なる魂の救ひでは仕事が出来ない。それ故に、生活無能力者である工藤が芸術の世界に確立されたと言っても、何んにもなれない。

 問題は生活を通して、芸術の確立である。その間の過程(プロセス)が現在、私が歩んでゐる道になってゐる。芸術の魂の問題を取扱ふ者は自由人でなければならない。セツルメントの仕事は組織的でなければ仕事が出来ない。その統一性、これは困難な仕事である。

 それは、おそらく、苦悶でせう。その道を通ることによって、一輪のチューリップの花が咲く――。

 で、芸術の真実性と商品価値は統一されない限り、救はれるものでない。芸術の真実性は苦痛である。ロマン・ローラン「ミレー伝」の一節に、苦痛こそ、芸術表現の最大の美を与へるであらうと言ってゐるが、芸術を愛する者、魂を愛する者は、常に苦痛の世界である。それが商品化、ヂャーナリズム化されることによって、大衆の芸術意欲となることを知る。

 去年の七月、中央公論七月号「盲目」島木健作氏の作品は圧倒的に一等賞になってゐた。それは芸術に真実性があったから、今年の五月、文芸、縣会(けんかい)八十枚、これで、完全に叩き潰されてゐる。といふのは、商品化され、ヂャーナリズムの波に有頂天になったからである。原稿料は七百円頂戴するし、文学フアンの可愛い女の子が訪ねて来るし、出版記念会とか、で気分のメートルを爆発させてゐると、反対派の批評家は朝日新聞の文芸欄で叩き潰す。

 これではいけない。そして、こうなることは、無名時代の基礎工作が深く掘下げてゐないから、線香花火のやうに消える。日本の文芸復興(ルネサンス)がそれである。新人の生命は二年位であるとは心細い。私は、こう云ふ先輩の道を踏みたいと思はない。商品価値が――芸術価値へ、その統一性が私の無名時代であり、この境地から、神の生命線へ、私の芸術の再吟味である。

 ――そのあとに来るもの――。

 それは芸術の展望である。賀川豊彦先生の芸術運動の足跡を踏んで行く一人として、武内先生のイエス団教会から、私は再び、世に訴へることがあるであらう。

 その第一作品は血と――である。

 反(アンチ)賀川派の堀井農村道場から追出された私は、北海道から関西に来て、彷徨と当惑に困却してゐた。その私を拾ってくれたのは、武内先生である。六甲山へ、六甲の真紅に染めるつつじが、私の心であり、私の血になってゐる。

 赤の他人であった私だ。それを、これ程までに親切に尽くしてくれたのは、私の生涯の記録になるであらう。武内先生の伝記小説は、私に優先権がある。旅鴉の嬉しさは、渡る世間に鬼のないことである。

 その二部は、求道者――。

 これは、新開地を中心とした、明暗二重奏を、求道者である私は、いかに苦しんだことか――毎晩、性的アナキズム、酒場の女給の二階住ひに、悩まされ通した。それが、私の拒勢にまで考へられたことである。ここでは、資本主義の文化形態と唯物史観と宗教の論争を、撒水夫の私が、どんな具合に芸術的に生かして行くことが出来るか描きたいと思ふ。

 それが、私の上申書が骨子になってゐる。私は上申書を三百枚書いて、百枚だけしか武内先生と賀川先生に発表してゐない。

 その三部作は、死線を越えて――。

 ここでは、イエス団の二十五年の基礎工作と賀川先生の「死線を越えて」を裏書する、新川の部落である。それに、私自身が、死の線を越えた一人である。友愛幼稚園の阿南先生のことも、書きたいと思ってゐる。一人のお嬢さんのために、全生涯を捧げてゐる偉大な母、貧しい幼児のために、十数年間、この一角で戦ってゐる雄々しい姿、友愛救済所、愛隣館問題、イエス團の同人、それ等の中心を指導する、伝記の人、私は描きたいと思ってゐる。その材料は、実は此の原稿が骨子になってゐる。

 それから、初めて、私は武内先生の弟子になりたいと思ふ。イエスの洗礼を賀川先生に受洗されたいと思ふ。

 それからの私は残されたる刺として、北海道問題がある。

 小林への節操がある。私は賀川先生のやうに、将来、水平社問題を生かしたいと思ふ。

 民族と日本精神を、私はこう云ふ立場から考へてゐる。

 ――芸術に関する覚え書――  
                      (終り)



 私はこの稿で、
 まだ、これだけ書きたい構想を組んでゐる。

一、再び、反(アンチ)賀川派に就いて
        ――イエス団正反合の統一性
        ――指導者に関する私見
        ――私の決意
二、労働者の問題
        ――メーデーを中心に
        ――パンと魂の一元論
        ――マルクス学説への反駁
        ――ラスキンのベニスの石
三、農村とその動向
        ――村井少将の農村座談会
        ――行政の県会地下工作
        ――堀井農村道場の再吟味
        ――農村青年の苦悶
        ――自然美と人工美――。
 
 材料は全部纏ってゐるんですけれど、去年から毎日、原稿を書いてゐるものだから、右手の関節が傷んで来てゐる。二三日休養したいと思ふので、当面、大切な、イエス団二十五年の基礎工作と募金運動に触れて見たいと思ふ。



         (三)

   エス
     二十五年の基礎工作。

           ――参考意見――。

 飛んでゐる鴉を落す、

 その勢であった日本のマルクスの人達――大山郁夫を指導者とする労働農民党、河上博士を盟主とする日本共産党、それ等の生命は丁度、過去、十年間の飛んでゐた鴉を落す、その勢であった。

 そのために、どれだけ、多くの犠牲を払ってゐるか知れない。大阪の増田富美子さんのやうに、株券を共産党の資金局に提供した女性(ひと)もあったし、目白の女子大学生が、貞節を捧げて、アジト「移動住宅」の役割を演じた女性もあったし、小林のやうに殺されてゐる無名の真理を求める労働者と農民の青年闘士を知ってゐる。

 ――弾圧に、反動に、嵐に、日本の共産党は地下細胞の呻きで一杯になってゐるのが今日である。

 これは革命の子等の歩んだ過去である。歴史的に評価されるなら、確かに一つの進歩的なものであったやうに思ふ。

 私は、それを語らうとしない。それは、いづれの機会があるから――。

 ――私は現在、マルクスのグループの一人で、反対派の立場にあったとして、神戸イエス団が二十五年の基礎工作を、この新川の部落に記念されるといふことは、私は反対派の立場にあったとしても、十分に尊敬され得べきことであると思ってゐる。

 反賀川派は理屈は、どうであっても、二十五年の歴史を持ち、そのこと、それは社会的に、人間的に、その仕事の性質、私は十分に評価出来ることである。

 反賀川派に、――それでは、君達がやって見給へ――と強く出られたなら、批判の自由性と真実性を、三十年の基礎工作を築かない限り、それは泥溝(どぶ)の泡に過ぎないであらうし、犬の遠吠えとはこのことである。

 そう云うふ点で、私は阿南先生が、十数年、善隣幼稚園で働いてゐること、そのことは、イエス団と経済的な問題で、合併したとは謂へ、それは経済力の問題であって、阿南先生の貢献には少しの狂ひのないことを思ってゐる。

 そして、その二つの輪、二十五年、武内先生の苦闘――成程、賀川先生の血の滲んだ、そのあとを継ぐもの――その意味で、私は、これ以上、ここで、二十五年の歴史に、何等の批判の価値がありません。

 そのイエス団が陣営を新たにし、行政の父ちゃんに言はせると、墓碑を建てるか、どうか、それは各自の勝手なタコだが――。

 友愛救済所と幼児園とイエス団の三位一体論が、あらゆる点で活動舞台になって来てゐる。

 ――私は後日の参考のために、愛隣館は独立した機能になってゐるのが、イエス団と、どう云ふ関係にあるのか知りたいと思ふ。

 例えば、イエス団が監督官庁といふ立場か――。

 で、私は二十五年の歴史を持ち、イエス団が当面の問題である、募金運動に就いて、私は昨年から御世話になってゐるイエス団教会であり、私の魂の故郷であるイエス団愛党精神によって、少しばかり、その具体性に就いて、座談的に質問し、私の参考意見を話して見たいと思ってゐる。

 その具体的な運動方針として、

 理事者間によって、協議されてゐた、趣意書を拝見しました。

 その運動の実行方法として、

 武内先生に訊いて見たいと思ふのは、一万六千円の資金を理事者間によって、具体化されて行くものであるか、どうかと云ふことである。逆説的に、イエス団同人が関知せずして、武内先生が一人で、市役所から、西ノ宮の幼稚園、イエス団教会と駆ずり?して、置いていいいものであるか、どうかと云ふことである。

 ――この点、私は、どう云うふ具合になってゐるものか、イエス団の同人なら、はっきりしてゐないんぢゃないかと思ってゐる。

 その次――。

 イエス団に常任書記を置く以上、そうでなくして、運動の具体性として、理事者、武内先生が中心に、イエス団教会の基礎工作であるから、武内先生が役所で身動きの出来ない人であるから、常任書記が三十五円の月給を貰って、運動のトップを切ったことだと思ふ。

 それなら、具体的に、書記に奉願帳を作成して、イエス団同人の連絡、大阪・京都・東京・イエスの友会と具体的に文書の往復がなければならないことである。

 そこから、問題は高比良君の奉仕の問題云々が繰返されて来たであらうと、私は遠景法的に考へられることであるが――。

 ――それでは、此後、どうするか――

 いけないことは仕方がない。その後に来るもの――具体性が考へられることである。

 その私の参考意見として松本兄と話合って見たんだが、

 ――イエス団の総会の招集が必要ではないだらうかと思ふ。そして、新しい、専門的に働ける、役所と個別訪問とイエス団の同人と連絡出来る手腕家――常任書記が必要ではないかと思ふ。そして、募金袋の発送、活動写真等考へられることであらうと思ふ。

 それで、これは極く私見的な話であるが――

 松本兄と、大体、こう云ふやうな話をしてゐる。

 ――武内先生が動くと云ふことは、それは、どう考へても出来ないことだ。それで、武内先生を支持する意味で、松本兄を表面の書記に立って貰って、工藤が自転車を持ってゐることであるし、新聞社で金を集めることも苦労してゐることから、多少、経験もあるから、月給制度、云々でなくして、金を集める運動だから、武内先生とこの点を相談して、募金運動の実際問題を処理したなら、どうかと、松本兄と相談してゐたことであった。

 武内先生も、いろいろ考慮して、ゐると思ふが、
 いづれ、何等かの機会に、発表して頂きたいと思ふ。

 ――実際、武内先生に気の毒で仕方がないのです。


        ○


一、     断片語 二つ三つ
 自然程、美しいものはないと思はれて来てゐる。
 マルクスの人達が、人間の世界ばかり見てゐるから、過激派になるのであって、自然と人間の交錯と統一性、これは、神の創造とパン問題の関心が、私をして、唯物史観から救ってくれる。
                     (終り)

                   ――五月五日――



         ♯             ♯


 以上の四編で、工藤豊八氏の残していた草稿はすべてです。(一部人名をイニシャルにした個所があるのと、傍点も附されていますが、ここでは落ちています。)

 工藤氏に関して、武内勝や賀川豊彦などの残した関係資料のなかで触れているものもあるかも知れませんが、いまのところ未確認です。

 草稿の中に記されているように、工藤氏はこれの他にすでに、いくつかの作品を仕上げているようですが、いずれも未確認です。

 そして、工藤氏が神戸に滞在するに至った、より詳しい経緯や小樽に於ける小林多喜二らとの活動の詳細も、この草稿で知るより以上のことはまったく掴めていません。神戸に滞在していた正確な期間や、その後どのような生涯を送ったのかも全く分かっていません。

 また、草稿にある賀川の主催する農民福音学校への参加についても、彼のような日々の困難な労働の中で、果たして正式な参加が可能であったかどうかも疑わしくあります。

 工藤氏はこの時、ブラジル移民を企図していましたが、その願いも果たせなかったことも記されています。草稿「第一編」の中に「機関誌ブラジル」に一文を寄稿したことが記されているので、旧国立神戸移民収容所(神戸移民センター)が現在も神戸に「海外移民と文化の交流センター」として存続しており、そこへ問い合わせれば、それは検索可能かも知れません。

 いずれにせよ、この段階では、まずは「草稿四編」を打ち出して置くだけで、これを改めて順番に並べ直して、冒頭に記した田中隆夫氏へお届けして、北海道のお知り合いの御方へご覧いただくことにします。

 同時に、賀川記念館のHPの「研究所」の中に「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺として収めていただくことにいたします。

          (2014年11月2日記す。鳥飼慶陽)