ここまでの主な記事一覧ただいま同時進行で「延原時行歌集<命輝>」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+tokiyuki/ 「賀川豊彦の魅力」 http://keiyousan.blog.fc2.com/ などのブログを活用していますが、このブログの主な記事を、自習のために略記しておきま…
武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿 第四編 一つの果実 (一) ルンペン哲学 ――能動的な精神 ――死線を越えて これは、どう考へても、どう自己弁護しても、どう云ふ具合の、私を美化しやうとしても、私はルンペンである。 イエス団の教会…
武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿 第三篇 武内先生に――。 春と花の心を語る ――血と光の真理を求めて ――只、一つの道、生命線 ――人生の未完成交響楽 春と花の心――これは、若い私達にのみ与へられた特権です。 女学生フアンの水ノ江ター…
武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿 第二篇 武内先生に――。 魂の彫刻を語る ――散文的に―― ――生活と芸術の統一性 ――一つの小さな喜びの歌。――春が訪づれて参りました。 けれど、私の魂はさびしい どうしたと云ふことでせう。やっぱり私は…
武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿 第一篇 武内先生に――(1) この一篇は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。 武内先生に――。 ――この一篇を、武内先生に書くに当って、 中村氏に、一応、下書きを…
武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿 序 表記については、2009年の「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」(現在も伴武澄氏の御好意でこのサイトは http://k100.yorozubp.com/ に引っ越して公開中)における「賀川豊彦のお宝発…
「賀川豊彦の畏友・村島帰之」所収リスト 2014年2月4日〜10月6日第1回 2月4日 「村島帰之略年譜(準備稿)」(1回分) 第2回 2月5日〜第26回 3月3日 「賀川豊彦病中闘史」(25回分) 第27回 3月5日〜第29回 3月6日 「病みて益ありき」(3回分) 第30回 3月7…
「読書展望」第2巻第6号(昭和22年8月1日)22頁 賀川豊彦入門 −著作を透して見た人と事業− 村島帰之 世界の人カガワ 多くの指導者がいる。しかし多くは紙の上や壇上の指導者で実践に乏しい。彼等が如何に巧みに笛吹けばとて、巷の民衆は踊るものではない。指…
「神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業」(1960年、イエスの友大阪支部)所収 交友四十四年を顧みて 村島帰之 社会運動の開拓者 大正六年夏、大阪府知事官邸の社会事業の集会で私は始めて賀川先生と相知った。それから四十四年。交友は絶えることなく、私…
「百三人の賀川伝」(昭和35年、キリスト新聞社)所収 砕けたる魂 村島帰之 大正十年、関西の労働争議の頻発するまっさいちゅう、わたしは過労のため肋膜炎にかかって寝ていました。すると或る日、賀川先生が見えて、「肋膜炎の治療には湿布療法が一ばんいい…
掲載紙、年月日不明 現代の聖者・賀川豊彦氏 わが友の人間愛―死後50日、初公開の秘話 44年間の親友・平和學園園長 村島帰之 去る四月二十三日、賀川豊彦氏は心筋コウソクのため七二歳の生涯をおえた。氏は世界的な宗教家として、博い人類愛はだれからも…
昭和26年7月15日「世の光」第4号 病苦をひっさげて神と人類のために今も闘う 愛の使徒 賀川豊彦の生涯 村島帰之 キリストに近い人 一九三一年八月カナダのトロント市に聞かれた基督教青年会万国大会の晴れの開会式の式場で六尺豊かな議長ジョン・Rモ…
村島帰之著「歓楽の墓」 (大正14年、文化生活研究会) 賀川豊彦の「跋」 今から、八年前であった。私は、初めて、大阪府知事官邸で村島兄に會った。そして、そのはっきりした句調で、色々面白い貧民窟研究の話をしたのであった。 その時、村島兄は、既に「…
「雲の柱」大正14年10月号(第4巻第10号)歓楽の墓(7) 歓 楽 の 墓 (七) 村島帰之 それは私の廿五六才の春の事であった。当時、私は既に約一年間の新聞記者生活を送り、光の巷に出入する事も多かったが、尚辛くも童貞を保ってゐた。それは自分一…
「雲の柱」大正14年9月号(第4巻第9号)歓楽の墓(6) 歓楽の墓(六) 村島帰之 たとへ或る点において幻滅はあっても、芸者を女王とする歓楽の王國は、若い男にとって、どこよりもなつかしく、慕わしい場所であった。機曾を待ち望む者に、機會はしげし…
「雲の柱」大正14年8月号(第4巻第8号)歓楽の墓(5) 歓 楽 の 墓(五) 村島帰之 周囲に女の友達を持ってゐなかった当時の私としては、芸著と話が出来るといふ事だけで、お茶屋遊びは、此上もない歓ばしいものに思はれた。その事以外、異性と歓談す…
「雲の柱」大正14年6月号(第4巻第6号)歓楽の墓(4) 歓 楽 の 墓(四) 村島帰之 たとへば、女湯でも覗くやうな、好奇心から出発した私の「探険」は、浅草界隈から、更に長駆して新吉原にまで延びた。 大火前で、吉原はまだ「張見世」であった。(張…
「雲の柱」大正14年5月号(第4巻第5号)歓楽の墓(3) 歓 楽 の 墓 (三) 村島帰之 千 束 町 素 見 今や話題を、周回の人々から、私自身の上に移さねばならなくなった。 私が遊里に足を踏み入れたのは、後に説ぐ如く、學生生活へ終え、腰辨生活に這入…
「雲の柱」大正14年4月号(第4巻第4号)歓楽の墓(前承) 歓 楽 の 墓(承前) 村島帰之 斯うして、周園の人々は、いづれも土曜の夜の安息所を持ってゐたが、その中に、只だ一人私は土曜の夜を下宿の部屋で守ってゐた。 廓下に出ると、いつも各部屋の障…
「雲の柱」大正14年3月号(第4巻第3号)への寄稿分です。 歓 楽 の 墓 (一) 村島帰之 は し が き 或人は、これを一つの『小説』として読むかも知れない。叉或人は、これを一つの『懺悔録』として見るかも知れない。更らに或人は、これを一人の遊蕩児…
「雲の柱」大正14年新年号(第4巻第1号)への寄稿分です。 バラックの留守番から 村島帰之 バラックのあるじ、賀川先生は十一月廿五日、横浜解纜の春洋丸で『世界舌栗毛』の旅に出発されました。之れより先き、イエスにある兄弟姉妹は、是非、先生の鹿島…
「雲の柱」昭和15年10月号終刊号(第19巻第10号)への寄稿分です。 雲の柱十九年私史 村島帰之 小生は「雲の柱」の嘗ての乳母―と申すよりは、寧ろ子守の一人でありました。それだけに、雲のその雲隠れを悲しむ点において敢て人後に落ちるものではご…
「雲の柱」昭和15年6月号(第19巻第6号)への寄稿分です。 賀川豊彦氏の社會事業とその特異性 村島帰之 アメリカで或る米國人と話した時、その人は言った。「賀川博士は世界的大指導者だが、しかし、日本へ行って彼の事業を見ると失望する」と。この言…
「雲の柱」昭和15年3月号(第19巻第3号)への寄稿分です。 労働不安の絶頂・大正十年 村島帰之 休戦! 恐慌来! 欧洲戦乱の影響を承け、好景気の波に乗って宇頂天となってゐたわが経済界も、休戦成立と共に情勢が一変し、大正九年四月、突然として起っ…
「雲の柱」昭和15年2月号(第19巻第2号)への寄稿分です。 労働組合の産業自営試験 賀川氏を組合長の二組合 村島帰之 御用組合に反對して 労働組合運動の発達に驚いた工場主の中には、狼狽してこれを圧迫し、組合員を解雇する向もあったが、かうした連…
「雲の柱」昭和15年1月号(第19巻第1号)への寄稿分です。 普選運動を中心として 大正九年のわが労働運動 村島帰之 関西中心の普選運動 大正八年がわが労働運動陣営の「勢揃ひ」であったとすれば九年は正にその「出発」である。そして七十一の労働團体…
「雲の柱」昭和14年12月号(第18巻第12号)への寄稿分です。 本邦労働運動と基督教(10) 二昔前の労働運動挿話 村島帰之 組織労働者は嘆く 本号は、一つ趣きを替へて、大正八九年頃、筆者が大毎紙上に書いた労働運動の記事の中から当時の労働界の…
「雲の柱」昭和14年10月号(第18巻第10号)への寄稿分です。 本邦労働運動と基督歌(9) 労働運動の花一時に開く 村島帰之 記憶すべき大正八年 大正八年といふ年は、単に欧洲戦乱が終息して世界に平和が訪れた最初の年として記憶せらるべきではない…
「雲の柱」昭和14年9月号(第18巻第9号)への寄稿分です。 本邦労働運動と基督教(8) 関西労働同盟の指導精神 村島帰之 社會不安の爆発 米騒動は越後の漁村の女房達によって火蓋を切られた。しかしそれは只だ火蓋を切られたといふだけであって、表現の形式…
「雲の柱」昭和14年8月号(第18巻第8号)への寄稿分です。 本邦労働運動と基督教(7) 村島帰之 神戸の労働運動の飛躍 大正七年の関西の労働運動――といっても友愛会の運動であるが――は、松岡駒吉氏の東京引揚と入替りに一月には久留弘三氏、四月には加藤滋…