賀川豊彦の畏友・村島帰之(179)−村島「歓楽の墓」(2)

  「雲の柱」大正14年4月号(第4巻第4号)歓楽の墓(前承)

          歓 楽 の 墓(承前)
                         村島帰之

 斯うして、周園の人々は、いづれも土曜の夜の安息所を持ってゐたが、その中に、只だ一人私は土曜の夜を下宿の部屋で守ってゐた。
 廓下に出ると、いつも各部屋の障子際に一足づゝの上草履の脱いであるのが、その夜に限って一足も見当らぬ時など、何となくうらかなしい心地がするのであった。そうした時、鬱散じに、友を訪ねやうとして外出すると、友も居らす、二三の友の宿を訪ね廻っても、いづれも留守で、ガッカリして宿に婦って家る時もあった。
 吉原の大火はその頃であった。私はその夜、神田青年曾館で三宅雪嶺博士の太平洋問題の講演を聞いてゐた。博士は『昔、彰義隊の、戦争、の時、福沢諭吉、先生は、静に、論語を、講じた。今、吉原、の、大火を、よそに、三宅は、太平洋問題の、講演を、する』と、吶り乍ら講演した。
 恰度その時刻であったらう。△大學の寄宿舎へ、焼出された娼妓が、馴染の學生を訪ねて避難して来たのは。
 素より大學寄宿舎に、暇令一時でも娼妓を匿う事出来ぬ事は知れた事だが、無智な女は、そんな事を考へずに、ただ一番頼み甲斐ある『大學の書生さん』を頼って来たのであらう。
學生の「もてる」事は非常なものであったらしく、なじみ女が立替へてくれる事を予想して、空財布の儘、出かけて行く者も少くなかった。        ’
 そうした男が、女から受取る手紙には、きまったやうに『早く泥足を洗って、あなたの妻になりたい』と記してあった。彼女達の此の儚い望みの何パーセントが叶ふた事であらう。
 芸者遊びをする者は、遊女買をするものほど多くはなかった。某文豪の甥に当るMは、始終神楽坂に通ふた。試験中、待合から通ふてゐた事もあった。
 支那留學生の李は赤坂芸者にあつくなってゐた。私の下宿の隣りが、李の下宿であったが、その芸者が李を誘ひ出しに来たのを見受けた事もあった。
 李は金持の倅であった。彼はNの下宿で、私達と一緒に呑んだ時(私はその頃から少しく酒を呑み出してゐた)李は「磯ぶし」を踊った。
 「日本の歌の中で、私は磯ぶしが一番よいと思ひます」 李は仲々の芸人であった。
 その後、李は赤坂芸者を落籍し、一戸を借り受けて同棲してゐた。李は、女をまるで狆でも飼ってゐるかのやうに愛した。来客の前で、女の頬をついて見たり、あごを撫ぜて見たりした。
 「およしなさいよ、見っともない!」 女に叱られると、李は笑ひ乍ら頭を敲れた猫のやうに、ぢいっと手を引いた。同胞の女がそうした翫弄品扱ひされるのを見ると、堅い一方の私は、一種異様な國民主義が台頭して、鉄拳でも見舞ひたい昂奮を覚えるのであった。
 然し、李の妾は、永くは、李の翫弄品になってはゐなかった。或日、李は悲しさうに私に語った。
 『女逃げました。自分のキモノと私の貴重品を持って……』
 私は彼をあはれむと共に、それが当然の帰結のやうにも思はれ、叉、ざまア見ろといふ気持さへ心の底に湧いた。
 こうして外、娼妓なり、芸妓なりをあいてとする以外に、下宿屋の娘、下女、ビャホールの女及び他家の妻と私通する者もあった。
 私の最も親しい級友であったHは、中學時代から既に或る未亡人と関係を結び、ゴーチン(後家さんの稚児の謂)といふ綽名さへあったほどの天才であったが、下宿を移る毎に、そこの娘なり、女中なりと通じた。そして最後に一下宿の娘から「懐妊したがどうしてくれる」と持ち込まれた時、「私一人が、對手ではない」とて、膠なく謝絶して了った。
 娘はその後、Hと同宿の或る文科學生に引取られて宿の妻になった。
 私の下宿にゐた八重ちゃんといふ女中は、一支那留學生と恋に陥ったが、男が転居した時、半日、その空間になった男の元の部屋で泣いてゐた。
 そうした果報な支那留學生がゐるかと思へば、或る留學生は、夜陰、女中部屋に忍び込んで木枕で欧られたといふ話もあった。
 私はモウ之れ以上書く事をやめる。兎に角、こうした中に、私が童貞をつづけ得た事が、私自身においてさへ、不思議だとする事を、首肯して貰へば善いのだ。
 百人内外のタラスメートの中で、童貞のものは一割にも足りなかったであらう事を、読者も同感してくれられると思ふ。                  
 或友と友とは『村島を引っぱり出さうじやないか。若し引ぱり出せたら遊興費は俺が出す』とさへ言ったそうである。その友などは、忌しい病ひさへ罹ってゐた。
 女にもしまほしい柔しい顔をしたAは『痔が悪いので入院してゐる』といってゐたが、あとから同じ病院へ、花柳病の治療に入院したKによって、それが痔でなかった事が曝露された事もあった。
 Kは再度睪丸炎を患って、最早妻帯しても、こどもを作る可能性を奪れてゐるのである。Kは九州の或地主の息であった。彼は卒業して帰ってから結婚したが、Kの妻は今も、それを知らす、母となる日を待ってゐるのかも知れない。
 それはKに限った事ではなかった。私は花柳病の病院に何人の友人を見舞ったか知れない。
 今は△爵として羽振をきかしてゐるSも、鶏姦から麻毒を受けて入院してゐた。前におこなった者が、有毒者であったためである。
 試験場にびっこを引き乍ら来る學生も見受けた。平常なら休んで療養するのだが試験のためそれもならす、押して出かけて来るのであった。
 之等の級友から見れば、清浄無垢な私達は愚かな、ホンのこどもに見えた事であらう。
 私は彼等が、遊廓に、待合に遊ぶ時、おでん屋あたりへ出かけるのが関の山であった。私は大正二年の「世界之日本」に、こんな事を書いてゐる。


     江戸名物 おでんの趣味

 師走は来りぬ。新春踵いで来らんとす。吾れに一銭の借銭も無ければ鬼、門に来らず。一厘の貸金もあらざれば懸取りの面倒無し。炬燵して発句するも可なり。側に美酒あらば更に妙也。
 雖然、吾れに酒温むる妻君なく、肴買ひに行く下女なし。まして況んや読書三昧夜二更に及び腹に空虚を覚ゆるあるに至りては、豈夫れ啻だ徒らに唾液を嘸下するのみにして之れを怺ゆるを得べけんや。
 寒月雲より出で、行人の影法師地に印して明かに、下駄の音高く寒室に冴え返る大路の夜、吾れは四辻のおでん屋に立つの趣味を解す。
 熱き爛酒あり須らく飲むべし。酒の肴を求めんか。おでんあり、豆腐あり、半平あり、すじも甘し、しんじよ亦た更らに妙也。而して空腹の良薬に茶飯ありて、そのうまきことうまきこと、蓋し紳士淑女の夢寐にだも味ひ得ざるところなるべし。
 山盛りにもった茶腕の威勢の善き、温きめしの煙の快さ、更に、煮出したる茶の匂のかんばしさよ。山の巓辺におでんを添へて掻込めは、腹の蟲の立所に鎮まること、寧ろ事の奇蹟に属す。
 おでんのその舌触りの善さ、がんもどきに浸みたる汁のうまさ、ほんのりと焦げたる豆腐の香しさ、之れに添ふる山葵あらば、風味蒋に宇内に冠絶せん乎。
 おでん屋は、纔(わず)かに残されたる江戸名物のなごりなり。吉原のおでん屋の盛んなること、昔も今も変わる事無し、遊冶郎は茲に燗酒をあふり蹣跚蹌跟として妓楼を階段を登る。
 本郷の一高屋は、各の如く夜毎に集う白線帽の一高生多ぐ、彼等は茲に酒抜きのおでんを喰うて腹を作り、デカンションを高唱して本郷街に横行闊歩す。城北早稲田の近在にも多くのおでん屋あり。就中神楽坂上のおでん屋は最も美味也。されど独り三田には多くのレストランととカッフェーあれど未だ一軒のおでん屋を見ず。可惜三田の健児、此の美味なる御芋の煮えたをお存じ無き也。
 おでんと記したる行燈は、出来得る限り古きが善し、新しき紙に彩あるが如きは以ての外也。箸も右手につまむ二本棒より、左右何れなりとも青竹の一本棒が善し。要は技巧を加へざるにあり、あらけづりなるにある也。主人は若きよりも年老えるがよし、問はるればぼつりぼつりと若かりりし頃のお惚気を話すやうならば愈々出でて愈々可也。
 お芝居の戻りさ、偖ては風呂からの帰途、暗く燻れる行燈の下、大いなる銅鍋に沸々とおでんの煮立てるを目堵する時は、吾れは遂ひに之れを看過するを得ざる也。
 冬は愈々寒からんとし、おでんは愈々そのうまきを加へんとす。吁、世に不幸なる事、此の趣味を解せざるより甚だしきはあらざるべし。


 茲には記されてゐないが、八幡屋には桑ちゃんと呼ぶ愛らしい十五六の娘がゐた。桑ちゃんは私達が、障子をあけて這入って行くと、『アラまあ』と嬉しさうに、細い目を更らに細くして迎へてくれた。それが一年たっかたゝぬ内に向ひの天ぷらの親爺に誘惑されてすっかり様子が変わって了った。                
 私達が幾月ぶりかで行ぐと、安物の香水を匂はせ乍ら、迫るやうに接近しで来るのだった。
 然しそれも暫し、彼女の姿はいつか八幡屋の店先から消えて了った。
 私も軈て學校を出て、金釦を背廣に代える日が来た。誘惑の日が近づいて来た。