賀川豊彦の畏友・村島帰之(180)−村島「歓楽の墓」(3)

  「雲の柱」大正14年5月号(第4巻第5号)歓楽の墓(3)

          歓 楽 の 墓 (三)
                          村島帰之

    千 束 町 素 見
 今や話題を、周回の人々から、私自身の上に移さねばならなくなった。
 私が遊里に足を踏み入れたのは、後に説ぐ如く、學生生活へ終え、腰辨生活に這入ってから後の事であるが、これ以前、研究的態度(実は好奇心から出発するのだが、それを合理化するために、強いてそうした態度を採ったものである)で、その遊里の輪廓を恐る恐る視察しに行った事は一再にして止まらなかった。
 大正元年頃、未だ學生であった私は、浅草千束町の私娼窟を視察した、その際の視察記がが今も手許に残って居る。それは斯麼な事が記述されてゐる。

 日永の春の一日がとぷり暮れて、六区一帯の活動寫真館のイルミネーションが、往来の人の眼に痛く映る時、二人は喧騒な音、執拠い匂、あくどい彩、夫れ等に咽んだ戦場のやうな世界と、背中合せになった暗い街を歩いてゐた。
 物狂はしう響く活動寫真街の騒音が、街一つ隔てゝ向ふから夢のやうに響いて来る。
 「チョイト、寄ってらっしゃいな」「チョイとチョイと、袴のお方ッてば」
 狭い道を挾んで両側に立並んだ長屋には、屋号を書いた電燈がしょんぼりと軒に光っでゐる許りで、入口と隣合せの竹の格子窓に、硝子障子がはまって、その硝子の向ふに黒く女の顔が見えた。「チュツ」「チュツ」と鼠啼きがその内から聞えて来る。
 「此處は未だ何でもないのさ、十二階下が猛烈なんだ」
 二人は肩を並べて歩いた。
 二千近くの若い女が毎晩毎晩此處で浅猿しい男の醜悪の歓楽の犠牲となって媚を賣り肉を鬻いでゐる。夫れがみんな「冷たい鉱物」を得んとしての努力だ――、私はそう思って歩いた。友は何を考へてゐるのか黙々として歩いてゐた。
 十二階下の路次は、狭いが上に暗くて、入口の格子を開けて半身を外ににぢり出してゐる女さへあった。
 「アラ××大學のお方チョイト、話があるんだからサ、爰までいらっしやいなってば、チョイト」
 白粉の顔が軒燈の灯に映えて四辺の闇の色からくっきりと浮き出た。  「中々美人が居るね」と前に商人風が云って行ぐと「アラ、中折のお二方、入らっしやいな、よをツ」と肉聾が直ぐその後を追ふた。
 紳士も行く、學生も来る、印袢纏が追越して行く、鳥打、中折、山高が暗い中に蠢動してゐる、格子先に突立ッて女と話合ってゐる商人風も居た。
 「お髭の旦那、アラ、チョイㇳ」
 「萬世橋のお方、入らっしゃいな」
 「アラ、やうすの善い方、来てくれれば善いのにねえ」
 「チョイト、すまして行く先生」
 「何時かの方じゃなくって、チョイトお遊びなさいよ、ネ、チョイト、袴のお方ッてば」
 まるで小學校の運動場のやうにかしましい中を縫ふて行った。
 「つけてあげませうよ、ねえ、チョイト」
 友が莨(たばこ)の火を点け悩んでゐるのを見て、をう呼止めたのは十五六位の女の聾だった。
 「仲が善いのねえ、嫉けるヮ」
 二人が肩を並べて行くのを、そういったのもあった。「もろきものよ、女とは汝が綽名じゃ」 ハムレットの詞が遂ひ口に出る。
 「全くだ」 友は力強い調子で之に和した。
 「噫、現実暴露の悲哀!」
 二人が暗い路次から明るい往来へ出ると、不図交番所の赤い電球が眼に映った。
 「−−」 二人は期せずして同時に深い吐息をついた。――

 当時(明治四十五年――大正元年頃)は千束町の全盛時代であった。その頃の浅草の魔窟は、今日ほど北へ移らず、観音堂の周囲を取り巻いてゐた。そして五区の「御堂裏」と六区の「活動裏」は銘酒屋、千束町の「十二階下」は新聞縦覧所といふ看板を掲げて、軒燈影淡きところ、猿臂を延ばしては、漂客を引っぱり込んでゐた。いふまでもなく、軒燈に記した文字に「銘酒屋」と「新聞縦覧所」の差はあっても、いづれも同じ腐肉を賣る淫賣屋に相違はない。
 当時所轄象潟警察署の調査に依ると、ここには左の如く約二千の私娼が巣食ってゐたのであった。

        淫賣屋数        淫賣婦数
  御堂裏   九十軒         百三十五人
  活動裏   百六十三軒       三百五十七人
  千束町   六百二十二軒      千二百人
   計    八百七十五軒      千六百九十二人

 勿論、此の数字は極めて内輪の数で、事実は遥かに多数に上ったであらう事は想像するに難くない。而も此の二千の美人が、夕さり来れば美しく化粧して待受けてゐて、「萬事お手軽」に、餓虎のやうな男の要求を満たしてやるといふのだから、浅草は、夜毎千客萬来押すな押すなの繁昌であった。
 私は今、浅草の私娼窟を形容するに「萬事お手軽」の冠句を以てした。事実、まことに然うであるのだ。
 信ずべき筋の調査では、そこでは「ちょんの間」と「泊込」と「遠出」と「しき」の三方法があって、「ちょんの間」は短い時間に簡便に用を辨じるもので、之に要する金は当時にあって約一圓。「泊り込み」はその名の如く泊り込むもので当時約二圓、「遠出」は向島の安待合あたりへ出かけるもので、夜の十時過ぎから、翌朝までに少くも四圓は取る(待合の席料、酒肴科は別)、「しき」は場末の安宿、素人宿などへ連れ込むもので約二圓といふ相場であった。右の中、「遠出」は収入は多いが、ドンドン(警官の不意の臨検)の懸念から、女には余り歓ばれず、短時間に要領を得る「チョンの間」が却って重宝がられるのである。そして彼等は一夜少くとも三四人の客を取るのだから、私娼二千として、夜毎一萬に近い男が、甘きに寄る蟻のやうに集って来て、憐むべき女を弄ぶ勘定であった。
 その後「浅草」には幾多の変遷が来た。或時は徹底的撲滅策が講じられた。然しそれは俎上の蠅を追ふに均しく、いつかは又元の殷盛を見るのであった。
 私は前にも記した如く、浅草の淫賣屋の外廓を視察した事は屡々であった。然し親しく登楼した経験は一度も持たなかった。只だ一度だけ、友人Tと共に、「お茶を呑んで帰らう」といふ申合せで、淫賣屋のきだはしを登った事があった。淫賣屋の制度の一つに、何等性的行為なしに、只だ女をあいてに、茶を呑み乍ら、暫くの間、浮世話をして、二十銭乃至五十銭のお茶代を置いて帰って来る制度のあるのを知ってゐたからである。
 然るに此の一生一代の私の大冒険は、つひに大團圓を告げる以前に壊れて了った。それは当局の取締だ、一時如何に彼等の上に巌重に及んでゐたかを証明するところの一挿話である。私は当時(大正九年)その際の事を、林歌子さんに宛てゝ某雑誌に次の如く記してゐる。

 林歌子女史――
 ものに戦のく赤い官能、張り裂けさうな胸の鼓動を眤と押へ乍ら、物怖ぢの瞳を四辺に瞠って縫れあう群衆の中を縫ふて行くと、光明と音楽、匂と媚のハーモニカをなした六区の活動寫真街の裏手あたりから、所謂曖昧屋の街燈がチラホラと見へるのでした。
 そうです、全くくチラホラと見える許りでした。数年前に視察した経験を持ってゐる私は、今度もその時同様に、数十軒、数百軒の曖昧屋が軒を並べ、数千の白首が、まるで雀の囀るやうに呼立てる事を期待して居たのです。それが什うした事でせう。成るほど曖昧屋は昔通り軒を並べては居りますが、その大部分はガラン堂の空家で、軒燈の灯のなまめかしさも見えず、宛るで死骸のやうな姿を見せてゐやうとは、そしてその間に一二軒の曖昧屋がチラホラと灯をつけてゐるのでした。
 夫れも勤工場あたりを歩いてゐる時のやうに、両側の硝子窓に女の居るのが見えますが、呼声一り立てはしないのです。外からからかう人があっても、女は黙々として端座してゐるのであります。或者は俯向いて雑誌の小説を読んでゐました。又或者は火鉢にひじをかけ乍ら物思はしげに灰に字を書いてゐました。斯くして彼等は腐肉の需用者もがなと待ってゐるのです。

 林歌子女史――
 私はその日帝國議曾の記者溜りで斯麼話を聞いたのでした。六区裏へ行って茶だけを飲んで戻って来れば二十銭の茶代で済むといふ事を。私は勇気を鼓舞して、どこか一軒曖昧屋に這入る事に決心したのであります。
 私は成るべく初心らしい女もがなと物色しました。夫れは海千山千の女に引っかゝればどんな事になる知れやしないと思ったからです。
 私の希望してゐたやうな女が約一時間の視察に依って、漸と一人見出す事が出来ました。そこには年の頃は未だ十六七の少女が、面羞ゆげに俯向いてゐるのが、小さな硝子障子の間から見えたのでした。私は華巌の瀧へでも飛込むやうな気持でその家の中へ這入って行きました。

 林歌子女史――
 華厳の瀧に飛込む人は凡べて絶望の淵に立った人許りであります。此處に『華厳の瀧に飛込むやうな気持で』と記しましたものゝ、私は絶望して飛込むのではありませんでした。そこには私の嘗て見た事のない未知境が錦檜のやうに私の前に展開されるのだ。――そういふ希望と期待と及びロマンチックな想像を持って飛込むだのであります。謂はば希望に満ちた冒険であったのであります。
 『お茶を飲まして下さいね』
 私は道々考へた未、漸と考へ出した冒頭の言葉を切出しました。私の胸では行進序曲が鳴り出してゐます。
 『どうぞお二階へ』
 少女は少しも燥いだやうな調子はひく、極めて沈痛な句調で申しました。私はやをら下駄をぬいで階段を上らうとしたのであります。恰度その時……

 婦人矯風會長林歌子女史
 茲まで筆を運ばせて来て、私は不図之をお読み下さるあなたの心中に思ひ至るのでありました。
 私が私娼の敷居を跨いだ、その次の瞬間に現はれて来る場景を、あなたは現はれぬ先から忌み嫌ってゐらっしゃるに違ひございますまい。私が夫れを描寫するのを喜んでは居られまいかとも考へられます。然るに事は意外にもあなたの御希望を裏切る事なしに進んだのであります。私は胸に抱いてゐた希望を滅茶滅茶に粉砕されて、華巌の巌頭に立つ青年のやうに絶望して了ったのであります。

 林歌子女史−―
 私が階段を上らうとした恰度その時、私に続いて上って来やうとした女は突如として私を引止めました。
 『お気の毒ですがおりて下さいまし』
 私は怪冴な顔をして女の顔を見ました。怪冴な眼と、驚怖の眼とがピッタリと視線を結び付けました。私は階段の半に立った儘、反問致しました。
 『どうしたってんだ』
 『警察がやかましいものですから』
 女の言ふ只だ夫れ丈けの言葉では私には少しも事情が了解されませんでした。で善く女に反問して見ました。そして夫れに對する女の答へは私を失望させました。叉喜ばせもしました。女の答は斯ういふのでありました。
 此頃は警察では私娼撲滅の方針を執ってゐて隨分と過酷な布令を出します。併し如何に過酷でも之に反抗する事は出来ないので小さくなってゐるのですが、最近に至っては更に斯ういふ達示を出しました。制帽を破った學生を登楼させてはならぬ事苟も袴をはいてゐる者は一切登らせてはならぬ事、――
 『若し之れに叛かうものなら、直ぐさま営業停止になんですよ。』
 『でも内々あげりや分かりやしまい』
 『どうしまして、刑事さんがしよっちう巡回してるですもの……』

 林歌子女史
 私は斯くして折角の冒険もその一歩を踏出した許りで挫折して了ったのであります。私はその時、マントの下に袴をはいてゐたのでありました。戸外に立ってゐた時には、夜隠で女の気付かなかった袴が、階段へ上りかけて、あわてゝ断りを言ったのでありました。
 何といふ物堅い娼婦達でせう。いいえさうではありません、物堅いといふのは警察の取締の事です。
 実際象潟暑が斯かる英断を執るやうになってから、六区は滅ッきりと寂びれて、以前は一夜五六人の客を取った流行妓が、今ではお茶を引く事も珍しくないといふ事です。淫賣屋の老舗料なぞも以前は五百圓、千圓といふ箆棒な値段を呼んでゐたのに、今日では二百圓に下って買手は皆無だと申すのです。象潟署の取締は茲に成功したと申さねばなりません。

 かくて、私の大冒険は木ッ葉微塵となった。私はその後、その失敗を取り返す機會を持たなかった。今後も永久にそれを持たぬであらう。