2011-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「神われらと共に在すー阪神大震災での経験」(『思想のひろば』第5号、1995年5月)

阪神大震災を経験したすぐあとに、『思想のひろば』に短く寄稿したものもありましたので、これも記録として収めて置きます。

「トタン屋根の下から甦る」(「賀川豊彦記念・松沢資料館<資料館ニュース>1996年3月1日)

上の絵は、これまで何度か紹介した、岩田さんの絵本『いのちが震えた』の出版の後、岩田さんの地元・姫路で開かれた展示会のひとつです。 * * さて今回の「トタン屋根の下から甦る」は、震災から1年後の「資料館ニュース」に寄稿したものです。これも記録…

「阪神淡路大震災」の当日の写真など(含・新聞報道など)

1995年の震災関係を続けましたので、ここで写真を記録として少し収めて置きます。 まず、1995年1月17日の、我が家のベランダで写したものを3枚UPします。恐ろしい光景でした。 当日の夜は、強い余震に怯えながら、隣の御蔵小学校の校庭で一夜…

「震災短信メモ」(1995年3月、コープこうべ「協同学苑」での「賀川豊彦研究会」会報に寄稿)

1995年1月17日の大震災の前から、コープこうべの協同学苑において「賀川豊彦研究会」が続けられていました。私もなぜかその常連のようにして三木市にある学苑まで出掛けていましたが、この震災のときには、すぐに現在の状況を知らせるように記事を求…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(7)「震災を描いた作家たち展」

上の作品は、岩田健三郎さんの版画です。どこに出ていたものをコピーしたのか不詳ですが、書き込まれた言葉も面白く、「猫」に因んでここに収めて置きます。 「余録」の最後は、神戸新聞社文化事業部主催の「震災を描いた作家たち展」で、岩田健三郎さんを取…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(6)<いのちが震えた:阪神大震災チャリティーコンサートIN KYOTO>

古い歴史を刻む「全国部落問題夏期講座」の初日の夕べ(1995年7月27日)に<「いのちが震えた」阪神大震災チャリティーコンサートIN KYOTO>という企画が立てられ、大勢の方々が参加して、盛り上げて下さいました。 ご存知のようにこの講座は…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(5)山田洋次監督「寅さん」の長田ロケ

仕事場のスタッフが絵本『いのちが震えた』を、映画監督の山田洋次さんにお送りしたところ、ご丁寧に私たち夫婦宛に次のようなお葉書を届けてくださいました。(1995年5月29日付) ちょうどその前に「長田の良さを生かした街づくり懇談会」の皆さんが…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(4)「くらしと協同の研究所」報「協う:Kanau」1995・7

これは前にも紹介した岩田さんの作品で、絵本『いのちが震えた』の出版のあとに、猫を取り上げた一連の作品を展示された時のひとつです。 * * ひょんなことから、京都にある「くらしと協同の研究所」報『協うKanau』の編集部の方の取材があり、199…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(3)「兵庫民報」の記事など

上の記事は、どの紙面に掲載されたのか不詳のものです。そして、次の記事は、丁寧な取材受けて、1995年6月18日付けの「兵庫民報」に載せられたものです。 若かりし頃の写真が載っています。

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(2)「毎日新聞の紹介記事」など

これは、岩田さんの絵本『いのちが震えた』のあと、猫を題材にした作品をまとめて描いて展示されたときの素人写真です。 今回の、1995年7月21付けの毎日新聞に掲載された記事は、わたしが投稿したかたちのものですが、当人にはその記憶もなく、内容に…

岩田さんの絵本『いのちが震えた』余録(1)「神戸新聞の紹介記事」など

このところ、1995年1月17日に経験した大震災に関連するものが続いていますので、ここからはちょっと「余録」風に、関連するものをまとめて収めて置きます。 先ずは、完成した絵本『いのちが震えた』の表紙をUPします。スキャンできる枠をはみ出しま…

大震災における市街地同和地域(1996・6・3〜14、トルコでの「HABITATⅡ」日本NGOフォーラムレポート準備草稿)

今回の「大震災における市街地同和地域」の小稿は、日本NGOフォーラムがトルコ・イスタンブールで開催される「第2回国連人間居住会議」(HABITATⅡ)に提出準備するひとつとしてにもとまられ、急遽書き上げて提出したものです。 当時マスコミ関係…

被災者の視点から:復興への要望(日本科学者会議編『日本列島の地震防災』1995年、大月書店)

阪神淡路大震災の起こった1995年11月には、日本科学者会議の研究者の方々の提言の著書『日本列島の地震防災』が出版されました。なぜか私のようなものに「被災者の視点から:復興への要望」という短い発言を求められました。 この時はまだ、仕事場の一…

いのちが震えたー震災経験の中から(福岡女学院大学、1995年11月7日)(下)

このお話は今回で終わりになりますが、絵本の付録として作られた「震災から100日目に」の綴りの終わりのところを、ここに収めてから、本文へと進みます。 * * いのちが震えたー震災経験の中から(下) 福岡女学院大学 1995・11.7 (前回につづ…

いのちが震えたー震災経験の中から(福岡女学院大学、1995年11月7日)(中)

絵本『いのちが震えた』の付録として収められた10頁分の「震災から100日目」の5頁から7頁を、はじめにUPします。 * * いのちが震えたー震災経験の中から(中) 福岡女学院大学 1995.11・7 ところで、このたびの地震では、本当に無数の方…

いのちが震えたー震災経験の中から(福岡女学院大学、1995年11月7日)(上)

1995年1月17日の阪神淡路大震災から100日目に絵本『いのちが震えた』が出版されました。版画家の岩田健三郎さんのご厚意で、本当に嬉しい経験をさせていただきました。 その年の11月7日には、福岡女学院大学でのお話の機会があり、急遽この絵本…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(6)

長くなりましたが今回で最終回です。話の中でほとんど触れることの出来なかった絵本『いのちが震えた』のことについては、次回から取り上げる予定の福岡女学院大学でのお話で取り上げていますので、そちらに譲り、ここでは1枚、岩田健三郎さんが、この絵本…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(5)

話の中で少し触れている絵本『いのちが震えた』を大きく取り上げて頂いた神戸新聞の記事です。 * * 震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(5) 神戸市立赤塚山高校教師研修会 (前回のつづき) 3 「葺合新川」でのボランタリーな新しい生活 最初の「…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(4)

今回は、早速前回の第2節の後半の箇所を収めます。 * * 震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(4) 2 賀川の苦悩と冒険 なぜ「貧民窟・葺合新川」で生き始めたのか (前回のつづき) 青年期は特に誰でも自分の「生きる意味」や「価値」を問います。…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(3)

今回は3回目ですが、賀川代表作『死線を越えて』に触れています。現在、次々と新しい復刻版が登場して、誰でも読みやすくなっていますが、1980年代以降は社会思想社から3部作が出版されて広く読まれてきました。残念上がらこの出版社は倒産して、文庫…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(2)

阪神淡路大震災で倒壊した私たちのまちの写真を2枚、ここに収めます。 * * 震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(2) 赤塚山高校教師研修会 1995年12月13日 1 「『賀川豊彦』を知っていますか」(NHK) (前回のつづき) 本題に入る前に「震災と…

震災経験をとおして賀川豊彦から学ぶもの(神戸市立赤塚山高校教師研修会草稿、1995年12月)(1)

前回は、版画家の岩田健三郎さんの版画集『あぜ径』への拙文を収め、そこに震災のあと100日目に出来た絵本『いのちが震えた』を掲載しました。 その続きというわけではありませんが、あの大震災のあと、神戸市立赤塚山高校の教師研修会に招かれてお話をし…

岩田健三郎版画集『あぜ径』(1998年、雑木社)によせて

若い頃からのお世話になった岩田健三郎さんの版画集が出版されるということで、短いお祝いの文章を届けるように依頼を受け、その版画集の中身も書名も聞かされないまま、お送りした拙文です。 完成した版画集は、『あぜ径』と命名され、笠木透さんの編集で、…

「笠木透と雑花塾」の魅力(「谷守建築事務所:通信」1997年10月)

長い連載が続きましたので、ちょっと調子を変えてみます。 これまでにも他のブログで触れましたが、若い頃から、岡林信康さんや高田渡さんのフォークに親しんで来ました。そして1970年代に版画家の岩田健三郎さんのうたにも魅かれるものがあり、あの神戸…

『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(67)あとがき(最終回)

この「記録」は、今から6年余り前(2004年)に作っていたものですが、未刊行のままお隠れだったものを、今回こうして、少々遊び気分で、昔の写真などをはめ込みながら掲載してみて、人は誰でも、その人に備えられた「一筋の道」を歩んで現在に至ってい…

『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(66)終章「キリスト教と部落解放運動」第4節「独自課題の徹底」

部落問題をめぐる疾風怒濤の激動の始まる最中の1974年の段階で、この小稿を纏めて見たことは、いま振り返ってみて、私自身のその後のあゆみに大きな出来事だったことを思い知らされています。 この論考はしかし、その後いちどもどこにも公開する機会のな…

『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(65)終章「キリスト教と部落解放運動」第3節「批判的精神の発揮」

前回にも短くコメントを加えたかもしれませんが、この論考を発表した1974年という時は、部落解放運動をめぐる激動のときでした。 神戸においても当時まだ「部落解放同盟」という組織内にあって、この年の暮れに引き起こされたあの「八鹿高校事件」を契機…

『在家労働牧師を目指してー「番町出合いの家」の記録』(64)終章「キリスト教と部落解放運動」第2節「解放理論の再検討」

終章に収めたこの論考は、前回に掲載誌をUPしましたように、1974年6月の特集で、その2ヶ月ほど前に書き上げています。 ですので、ちょうどこの当時は、平和運動や政治的な活動が根本から問い直されて、旧来のものが大きく分裂して固定化するころで、…