いのちが震えたー震災経験の中から(福岡女学院大学、1995年11月7日)(上)

1995年1月17日の阪神淡路大震災から100日目に絵本『いのちが震えた』が出版されました。版画家の岩田健三郎さんのご厚意で、本当に嬉しい経験をさせていただきました。


その年の11月7日には、福岡女学院大学でのお話の機会があり、急遽この絵本のお話をさせていただき、その時の記録が残っていました。震災関連の続きとして、ここに3回に分けて掲載して置きます。


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その前に、絵本の付録として、岩田さんは10頁分の作品を仕上げてくださいました。それの4頁までを入れてみます。







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         いのちが震えたー震災経験の中からー(上)

          
              福岡女学院大学


             1995・11・7  


こうしてお出会いすることができて、大変うれしく思います。牧村先生から「ディアコニア週間」に因んで『部落差別と宗教』といったお話をするようお誘いを受けました。


私自身、不思議な御縁で、青春時代からこの4半世紀余りの間、神戸の下町―そこは日本で一番大規模な被差別部落―で、ずっと暮してまいりました。激動の疾風怒涛の4半世紀でした。多くの壁を乗り越え、ようやく「部落問題」も過去のことになりつつある、その現状と課題を含め、ご一緒に考える積もりでした。


しかし、私に取りまして、あの「阪神・淡路大震災」に遭遇した後ですので、そのことも触れさせていただきたい、と申し出ましたら、そうしてもいいという御返事をいただきました。したがいまして、本日は「いのちが震えた―震災経験の中から」という題を付けさせてもらいました。


「いのちが震えた」というのは、この絵本のタイトルです。
柄にもなく、私たちの自費出版の本です。作者は岩田建三郎さんといって、20年以上も古くからの友達です。神戸から自動車で1時間余りはなれた姫路市(お城で有名です)におられる、私より少し若いプロの版画家です。


1月17日早朝に、あの大地震が起こりました。その10日目に岩田さんは、神戸の須磨のあたりまで交通が通じていましたので、そこまで来られて、一日歩いてスケッチされた作品のコピーをもって、私たちの避難先を見舞ってくださいました。


リュックにいっぱい、5人分のコーヒーカップと沸かす道具一式、そして、コーヒどっさり差し入れて下さいました。水もガスも出ない時でした。携帯用のガステーブルと給水車から汲んできた水で、コーヒーを沸かして、暖かいコーヒーを頂きました。


そして、私たちは岩田さんに、怖かったあの日の出来事を、いっぱい聞いてもらいました。 ―あのような異常な出来事に遭遇しましたら、それを誰かに聞いてもらったり、自分で書いたりすることが、大事な治療になるそうです。


このまえから、奄美の喜界島などで震度4の地震がつづいています。神戸も、このまえ久し振りに震度4の揺れが深夜にありました。震度4は、ドンと音がして、ものが少し落ちる程度の地震ですが、結構恐ろしいものです。
奄美でも御年寄りの方々が頭痛や吐き気で苦しんでおられるようです。
こうした大地震は、子供にも老人の方にも、また私たちにも、そして、犬や猫など動物たちも、大きなダメージを受けてしまいます。


この作品の書き出しはこうです。


電柱が折れ、電線が垂れ下がり、大きく書きなぐったような文字で「めちゃくちゃや」と書かれています。


先日、京都のKBSラジオでも、この絵本を取り上げて下さいました。作者の岩田さんは山口ラジオとかAM神戸などのパーソナリティーでもありますが、私までマイクの前に引き出されることもありました。


このとき、この書き出しのところを、女性のアナウンサーが上手に読んで下さいました。


―「めちゃくちゃや、こりゃ、あかん・・と思いました。街の様子が変わってしもうとる。家や店がぐじゃぐじゃにつぶれてしもうている。テレビの画面で見るのとはまるで違う。ガクッと体の心底がくずれたような気がしてしまう。途方に暮れてしまう。地震から10日目。かつて歩いたことのある神戸の街を歩きました。のきなみ家がつぶれている。歯が抜けているみたいに、あたりが透けて見える。ペチャンコになってしもうた。なさけない気持になってくる。こんなことになるやなんて、めちゃくちゃや・・。何もかも、メチャクチャやがな!」

                                    岩田さんは、いつも自分の足で歩いて人と自然に出会い、作品をつくられます。
版画も魅力的ですが、それ以上に、独特の播州弁の文章が、とても味があります。

 
そして、近年では、歌をつくり、フィールド・フォークのコンサートも開いて、時折、新作ができたといって、イロリを囲んでの泊まり込みのぜいたくな集いがもたれて、私たちを楽しませて下さいます。
(折角ですので、彼の「うた」も一曲聞いてほしいところですが、限られた時間ですので、またの機会に)
歌の代りに、少し絵本の一部を紹介させて頂きたいと思います。


岩田さんは、初め私たちが被災した神戸の長田や元町あたりまで歩く積もりだったようですが、そのときは、須磨の周辺だけでした。


姫路からJR須磨駅まで乗り、山陽電鉄須磨駅から須磨寺駅、月見山駅あたりまで歩かれて、もと来たJR須磨駅まで戻って、そこで「須磨の海」に出て、子供たちに出会われた、その箇所を、断片的ですが聞いて下さいますでしょうか。
(絵本の読み聞かせは、皆さんは上手でしょうが、私へたですので、想像たくましく、絵も想像して聞いてください)


「もう帰ろう・・と思った。改札口に行きかけて、ふと海を見ている人に気が付いた。 JR駅の南出口は、階段を降りてすぐが、砂浜だった。ぼんやりと、海を見ている人が居る。


浜への階段を降りて、気が付くと朝からなにも食べてへんのやった。瓦礫の街で、食べるところもなかった。座れるところも無かった。持ってきていたパンとコーヒーを口にした。コーヒーを何杯もおかわりをした。


パンを食べていると、ゴミ箱近くに、たむろしているネコが寄ってきた。パンを投げてやったけれど、鼻先でフンと食べもしない。食べないで、こっちをジーッとながめている。


・・浜に出たら、浜で子供らが、サッカーボールを蹴って遊んでいる。遊ぶ子供らの声につられて、ぼくも浜に降りていき、波打ぎわの、のりを刈る船着き場に行って、浜からみた加工場をスケッチした。


できひんかったスケッチのことを思った。須磨寺では出来ひんかった。(須磨寺は遺体の安置場所になっていて岩田さんも、遺体を運び込む手伝いをなさったところでした)


つぶれた家々をスケッチしながら、こんなことになってしまった家を、ヨソ者が通りすがりに描いてえのやろうか、と思った。


船着き場にどっかと座って、見える風景をスケッチした。
スケッチを覗き込んで来る子があった。浜でサッカーボールを蹴っていた子らや。「どこから来た?」と尋ねた。「すぐ近く」と一人の子が答えた。


「この子らは、すぐ近くの小学校に避難しているんです」と、引率してきている女性が説明してくれた。「地震以来、ずっと避難所にこもりっきりやから、きょう、はじめて連れ出してきたんです」。滋賀の大学の学生さんで、ボランテヤで来たのだろう。(滋賀から神戸までは普通なら電車で2時間余りでこれますが、当時は神戸までは来るのには大変でした)


学生さんは疲れた顔をしている。ボランテアをして、今日までのことを、彼女は延々としゃべるのだった。
そうして「何か、日がたつにしたがって、何か無力感がする」というてんやった。「だれかにこのことを、しゃべりたかった」と言うのだった。
ショックなのだった。ものすごい打撃だった。それは、大人も、そして子供も、そうだったにちがいない。


いつのまにか、子供らが、船着き場のコンクリートの上に集まっていた。彼女のひとり語りを聞きながら、集まってきた子供らの顔をスケッチした。
スケッチしたそれを、子供らは「見せて」といい、「欲しい」と言うのだった。


ノートを破って、描いたスケッチを渡すと、「これが、ぼくや」「こっちのが、わたしのやわ」と、描かれた自分の顔と、友達の顔を見くらべて笑いおうた。


今日一日、地震でつぶれてしまった瓦礫の街を歩いてスケッチした中の、一番いいのを取られてしまった気がした。海からの風でパタパタするスケッチをもらった子が、上着の下の胸のところに、大事そうに仕舞い込んでいた。


ふと見ると、山が見えた。以前は、こんなふうに山が見えていたやろか。地震で家がつぶれて、いっそう山が見えるような気がする。


山のうえに、澄んだ空だった。陽が傾きかけて、夕日になる前の透明な空だった。


何か、何か、この子らに言いたいのやった。がんばれ、ということなのやけれど、何か違うような。がんばれと言ってしまっては、何かひとごとのような。


この子らに何か言いたい。何が言えるやろうか、と追い詰められたような気がして、「あの、山がなあ」と言った。「山が、えろうくっきりと見える」。
うつむいて坐り込んでいた子供らが、山を見あげた。

                                    
  見あげて御覧、あの山を、山に続く、深い空を


そういう風景だった。それでとっさに出てきた詩の一節だった。本当にすっきりと澄んだ空だった。
ぼおっと、しばらく空を見て、「これ、歌なのや」と言って歌ったのやった。
小さな声で、ボソボソと歌い出してみて、次に出てくるコトバにハッとした。


  あなたの命より 偉大なものは 何もないんだ この地上には


部屋のなかが、ミキサーでかきまわされたように、ぐじゃぐじゃにゆれまくったのだった。街がぺちゃんこにたたきつぶされたのだった。家を失い、生き埋めになり、沢山のいのちを失った。そうして、いま、生き残った君達やった。


  あなたが夜明をつげる子供たち 素足で大地を かけぬける子供たち


知っているつもりの歌だった。『あなたが夜明をつげる子供たち』だった。(これは、現在ではCDにもなっている、笠木透さんの歌です)


  あなたが未来に生きる子供なら 皆でいっしょに 歩いていきなさい


「君らも一緒に歌え」と口伝えに二度目を歌った。「手話が、この歌にはついていてな」と三回目を歌った。


  たとえ 悲しい今日があっても 生きるって素晴らしい 明日があるかぎり


山が見えた。澄んだ空だった。ゆっくりと陽が傾いていって 海が光っていた。


 
こういう文章とスケッチです。これが、子供たちの顔たちです! 
岩田さんの、この一日のスケッチとそこに書き込まれた文章は、実に素晴らいものでした。何度も何度も、私たちは避難生活の中で読みました。

 
岩田さんは、姫路のお方です。地震でいくらかは揺れたようですが、全く被害はないところでした。その彼が、わざわざ神戸まで来て、実際に瓦礫の街を歩いて、街と人に、子供たちに出会って、「いのちが震えた」ということに、私たちは、深い感動を覚えました。


  (後半は次回)