ここまでの主な記事一覧

 ここまでの主な記事一覧

ただいま同時進行で「延原時行歌集<命輝>」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+tokiyuki/賀川豊彦の魅力」 http://keiyousan.blog.fc2.com/ などのブログを活用していますが、このブログの主な記事を、自習のために略記しておきます。

1 このブログに収められている「賀川豊彦の畏友・村島帰之」に関する膨大なドキュメントの大半と「KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」、そして現在絶版の拙著『賀川豊彦と現代』『賀川豊彦の贈りもの―命輝いて』(テキスト化)は、神戸の賀川記念館のHP「研究所」の「鳥飼慶陽の部屋」に整理して掲載しています。
http://www.core100.net/lab/lab_torikai.html

2 著作関係
・在家労働牧師を目指して―「番町出合いの家」の記録 2011.8.27-11.4
・爽やかな風―宗教・人権・部落問題 2012.12.15-2013.1.2
・私たちの結婚―部落差別を乗り越えて 2011.8.16-20
・対話の時代のはじまり―宗教・人権・部落問題 2011.7.13-18

3 共著
・『講座・青年』「私の青春とキリスト教」2011.7.28-8.1 2012.3.23-26
・『宗教の今と未来』「同和問題と宗教」 2012.1.28-29 2012.3.27-28 
・『Think KAGAWA ともに生きる』「仲間:武内勝と吉田源治郎」 2012.2012.9.9-14

4 論稿
・宗教と人権問題―その基礎理解を求めて(「部落」) 2011.2.26-27
・人間の尊厳性(人権)とその「享有」について(「月刊人権問題」) 2011.2.21 2012.4.3
・杉之原先生の回想(「地域と人権」) 2011.7.20 2012.4.5-6
・杉之原寿一先生の人と業績への回想(「部落」) 2011.7.21  2012.1.26-27
・断章:結婚・差別・部落(「鄙語」) 2011.8.10-15 2012.3.10-11
・「私たちの結婚―部落差別を乗り越えて」編纂から20年(「月刊人権問題」) 2011.8.21-23 2012.3.14
・書評:杉尾敏明著「部落解放と民主教育―現代同和教育論」(「阪南大学」) 2011.12.26 2012.3.29-30
・書評:杉尾敏明著「融合教育の視点―部落解放と人権主体の形成」(阪南大学) 2012.3.31
・書評:東上高志著「社会同和教育の考え方・進め方」(「部落問題」) 2012.4.7
・書棚:加藤西郷著「宗教と教育―子供の未来をひらく」(「部落」) 2012.4.16
・宗教の基礎―部落解放論に関わって(「部落問題論究」) 2011.12.28-31  2012.2.29−3.3
・部落解放理論とは何かー「解同」の解放理論「三つの命題」をめぐる一試論(「RADIX」) 2012.1.1-2 2012.3.8-9
・部落解放運動とキリスト者(「福音と世界)) 2012.1.3−4  2012.3.4-5
・「解放教育とキリスト者」への疑問(「福音と世界」) 2012.4.18
・部落解放論の基調を問う―全国水平社「創立宣言」の批判的検討(「九大新聞) 2012.1.8 2012.3.6-7
・現代の危機と革命神学(「世界政経」) 2012.1.10-11
・連載「神戸からの通信」(「部落」) 2012.2.13-18
キリスト教と部落問題(「部落問題論究」) 2012.2.24-28
キリスト教と部落問題の研究(「部落」) 2012.4.4
・「差別の現実から学ぶ」とはどういうことか(「部落問題」) 2012.4.8
・全同教の「実践中心主義」について(「部落問題」) 2012.4.9
キリスト教界の部落問題―加藤氏の「提起」を受けて(「部落」) 2012.4.15
兵庫県部落問題研究集会「基調報告」 2012.4.19
・「市民啓発」の重要性について(「神戸の部落問題」) 2012.4.20
・「部落解放の基調―宗教と部落問題」(序) 2012.5.5
・「賀川豊彦再発見―宗教と部落問題」(序) 2012.5.6
賀川豊彦の贈りものー21世へ受け継ぐ宝庫(「神戸と聖書」) 2012.5.8
賀川豊彦と部落問題 2012.5.9
賀川豊彦の「協同・友愛」「まちづくり」−創立期の水平社と戦後の公営住宅建設((「部落問題研究」) 2012.5.11-13
滝沢克己と笠原初二―笠原遺稿「なぜ親鸞なのか」を読む(「思想のひろば」 2012.5.14-17
・大惨事東日本大震災被災者仮設住宅自治会訪問 2013.9.14-21 
 

5 講演草稿(講演記録)
・人間の尊厳性とその享有について(教師研修会) 2011.2.22-24 2012.3.15-16
・震災経験を通して賀川豊彦から学ぶもの(赤塚山高校) 2011.7-13
・いのちが震えた―震災経験の中から(福岡女学院大学) 2011.11.15-16
・宗教者と部落問題ー在家牧師の神戸からの報告(全国集会)2011.12.3-12
・神戸の部落解放運動―同和問題は何処まで解決したか(教師研修)2011.12.13-16
・うつわの歌ーいのちの尊さ(関西学院大学) 2011.12.19-20
・新時代を迎える―神戸に於ける小さな経験から 2011.12.21-25
・宗教と部落問題―実りある「対話・交流活動」のために 2011.12.27 2012.4.14
・部落問題の対話的解決のすすめーキリスト教在家牧師の小さな模索 2011.8.8-9 2012.2.10 2012.3.17-18 
同和問題とわたしたち(神戸女学院中高) 2012.1.6-7
・私の部落問題入門―「出合い」のなかから学んだこと 2012.1.12-13
・宗教と部落問題―キリスト者として(人権研究所) 2012.1.14-15
・部落問題との出合い―神戸からの個人的報告(野洲キリスト教会)2012.1.16−21
・いのち輝いて―神戸からの報告(教師研修会) 2012.1.22-25
・人としてのしあわせ(兵庫県大屋町) 2012,1,30-2.1
・部落問題とは何か(広島集会) 2012.2.2-5
・宗教と部落問題(東播集会) 2012.2.6-7
・宗教と部落問題―「対話の時代」のはじまり(全国集会) 2011.8.2-3 2012.2.8 2012.3.19
・宗教・人権・部落問題―「対話の時代」のはじまり(全国夏期講座) 2-12.2.9
・宗教界の部落問題―「対話」ははじまるか 2011.8.4-7 2012.3.20-22
・宗教と部落問題(国民融合東播) 2012.4.1
・「出合い」のなかで学んだこと(阪神集会) 2012.4.12-13
・天の心・地の心(賀川墓前集会) 2012.4.21 2012.5.7
・部落問題をめぐる宗教界の現状とこれからの課題(全国夏期講座) 2012.4.24-25
・「出合いと対話の時代」がはじまる(全国研究集会) 2012.4.26-28
・神戸保育専門学院卒業式祝辞 2-12.4.29
・21世紀に生きる賀川豊彦(徳島) 2-12.4.30-5.2
・部落問題の現状について(広島教師研修) 2012.5.3-4
・新しい人権の確立を求めて(イエスの友会) 2012.8.17-26
・吉田源治郎牧師から見えてくるラクーア伝道(栄光教会) 2-12/9.15-10.2
・「賀川豊彦と現代」その後(賀川豊彦学会) 2012.5.10 2012. 8.28-31

6 エッセイ・小文・新聞などの紹介記事
・笠木透と雑花塾の魅力 2011.11.5
岩田健三郎版画集「あぜ径」寄稿 2011.11.6
・岩田さんの絵本「いのちが震えた」余禄(新聞記事など) 2011.11.19-25 2012.8.2-8
岩田健三郎「いのちが震えた」(震災から5年:震災と美術) 2011.12.1
・フォーク歌手・高田渡さんのこと(「鄙語」)2012・4.11
・銭考−高田渡さんのこと(「鄙語」) 2012.1.5
・遺骨ひとつ(「水の音」) 2012.4.23
・「私たちの結婚」「千和の時代のはじまり」紹介記事 20118.24-26
・結婚と部落差別ー「地区外結婚事例調査」を終えて 2012..9
・結婚と部落差別(「私たちン結婚―部落差別を乗り越えて」序章) 2012.3.12-13
・「私たちの結婚」紹介 2012.8.1
・被災者の視点から復興への要望(「日本列島の地震防災」) 2011.11.17 2012.8.10
・大震災における市街地同和地域(「第二回国連人間居住会議」への日本NGOフォーラムレポート) 2011.11.18 2012.8.11
・トタン屋根の下に甦る(松沢資料館) 2011.11.28 2012.8.14
・震災短信メモ(コープこうべ協同学苑) 2011.11.26 2012.8.15
阪神大震災当日の写真など 2011.11.27
・神われらと共に在る―阪神大震災の経験(「思想のひろば」) 2011.11.30 2012.8.16
・「賀川豊彦と現代」紹介記事など 2012.7.10-26
・「賀川豊彦と現代」出版余禄(「部落問題」) 2012.8.9
・「対話の時代のはじまりー宗教・人権・部落問題」紹介等(中浦悦也・加藤西郷) 2012.7.27-31
・心打つ静かな熱気(「ふくしま文庫」一周年記念誌) 2012.2.11
・時代の変化と共に(「滋賀県「地域同和」) 2012.2.12
・岡映著「荊冠記」完結を祝して(「調査と研究」) 2-122.19
・兵庫部落問題研究所創立20周年を前に(「解放の道」) 2012.4.2
・兵庫人権問題研究所の創立のころの思い出(「慰労の会」) 2012.4.17
・住み続けたいまちに(「番町住推協「20年の歩み」) 2012.4.22

補遺
・「賀川豊彦のお宝発見」武内勝資料補遺「工藤豊八(元毎日新聞社会部記者)草稿全四編 2014.10.29-11.2









 
 

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺5

   武内勝氏宛文書
   工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
             第四編

           


       一つの果実
     (一)

   ルンペン哲学
       ――能動的な精神
       ――死線を越えて

 これは、どう考へても、どう自己弁護しても、どう云ふ具合の、私を美化しやうとしても、私はルンペンである。

 イエス団の教会の御世話になって、武内先生から飯代を頂戴して、そして、私の若い日の誤りであった、嫁さんと、五つになった女の子を犠牲にして、私と云ふ男が、大きな面が出来ることなら、これは、敢へて、宗教的な美しい物語として、自己を語るんでなしに、世間的に、侮辱されて、あまりあることである。敢へて、私は罪人の頭だなんて、偽善者めいたことは謂ひたくない。私は恥曝しの生地なしで、生活無能力者で、ルンペンが私であると思ってゐる。これが現実である。

 だから、私はルンペンを尊敬しない。クリスチャングループでも、無料宿泊所に泊ってゐる連中でも、私はルンペンであることは、生活無能力者であるし、敗北者であるから、私はルンペンとしての、その経路としての、いろいろな過程と、同情視すべき点もあると思ふが、ルンペン、それ自身、私は尊敬しないし、ルンペンであることは、決して、誇るべきことでない。だから、ルンペンは、飯を食ったり、食うはなんだり、そして、生きてゐるに過ぎないのであって、北海道の馬車馬と少しも変りがない。そして、その上での苦労が、どれだけ、多くあっても、その苦労に対して、私は尊敬を払ってゐない。だから、貧しいこと、貧しい部落、貧しい人々、私は少しも尊敬を持ってゐない。人間の屑だと思ってゐる。

 人間の屑がルンペンであり、その屑な人間が紙屑を拾って、飯代にして生きてゐるんだと思ってゐる。これは、労働階級がそれである。その一人である私が屑な人間の一人である。

――これが、私のルンペン哲学であり、私のルンペンに徹する自己批判になってゐる。だから、神戸に於ける私は常に裸であり、正直です。そして、いつも、思ふことは、ルンペンの私を愛して貰ひたい――。

 これが、私の念願である。

 で、私は、神戸に来てから、一年五ヵ月を迎へやうとする。六甲山の飯場生活、半年間、新開地の屑な撒水夫、三ヶ月、東部労働紹介所、諏訪山の救済工事、飯を求めて歩いて来た。

 尊敬の払はれない苦労をいやと云ふ程、積んで来てゐる。それでも足りなくって、お情けによって、イエス団の同人から、時々飯を招ばれてゐる。

 ルンペン戦線の私は、涙が出て仕方のないことがある。――これ程、まで、苦しんで、恥を曝して生きなければならないものだらうか――と泌々身に応へることがある。武内先生の所に、別段、用件のある理ではないのであるが、顔を見ることが、有難くなって、救済の登録の受付の所から入って、黙って、覗いて、帰ることが、三度ばかりあったでせう。

 そうです、ここです。老いなければいけない、この現実のルンペン戦線から、私は智慧を絞って、人様に愛せられて、この境地から、私は救ひを求めなければいけない。ルンペンだからって、悲観してはいけない。刑務所の飯を二度喰って、警察の飯を十二三度、喰って、北海道の親父と親類から狂人扱にされ、世から棄てられた私であっても、心の美しさと魂の自由を忘れてはいけない。現実は真っ暗な絶望に近い呻きである。けれど、私は死の線を越える境地――このルンペンの死線から、私は新しく甦えらなければいけない。それは、精神力である。人間にのみ与へられた精神力である。松本兄の言葉で――能動的な精神――その精神と神の心が結ぶとき、私はルンペンの境地を通して、救ひの道が開かれてゐることを知る。

 問題は、ここで初めて、尊敬の価値が生れる、苦労の価値が生れる。美しい、性格の反発力が生れる。現実の生活に破れない、魂の自由が生れる。私が狂人であったかも知れない。こんどは、親父へ孝行する狂人であったなら、親類の人達は何と云ふだらう。

 私の嫁さんと、女の子を犠牲にしてゐる私だ。けれど、私が、こうした残されたる刺から、新しく生まれ変って、出来ることなら、愛の復活が成就されることであったなら、それは奇蹟ではないかと思ふ。

 その間、荊棘(いばら)があり、飢えがあり、泪があり、苦悶があるかも知れない。

 けれど、私よ、
 ――死線を越えなければ、真実(ほんとう)の仕事が出来るものでないことを知らなければいけない。そうです。私はやっぱり死線の子です。労働者と農民の苦悩が私の歩んだ過去です。

 私よ、強くなってくれ。それは、――死線を越えて――この境地から――。



       芸術に関する覚え書。
              ――序論
              ――賀川先生の芸術の統一性
              ――無名時代の地下工作
              ――メカニズムと芸術の統一性
              ――芸術の真実性と商品価値
              ――芸術への展望

 当面、私の芸術の美――

 それは、Tea Room Rumble のケイちゃんが、私の芸術の花である。成程、芸術は生活の基礎の上に咲き誇ってゐる一輪のチューリップの花であるかも知れない。

 貧しい私は、ブルジョアのサロンが、私の芸術の意欲でなくして、――巴里の屋根の下、フランス映画の柔和な芸術の香気、貧しい部落の民衆の旗が私の姿になってゐる。

 ――死の線を越えた私だ――。

 ――芸術に関する覚え書に就いて触れて見たいと思ふ――。

 私は賀川先生の芸術、純芸術の作品としての価値を認め難い。賀川先生は実際派の事業家であって、芸術的な天分には尊敬されてゐるが、表現内容の作品価値、私には再吟味の必要があると思ってゐる。私は神戸の図書館から――死線を越えて――三部作を、新開地の撒水先をやりながら、四日間で読み通してゐる。

 六甲山の飯場生活――私は「一粒の麦」を読んでゐたであらう。神戸に来てから、賀川先生の書物を二十冊近く読んでゐるであらう私は、芸術の真実性とその価値に於いて認めたいと思ふのは、「一粒の麦」である。

 私は此の作品を通して感激したことがある。芸術を取扱ふ者の精細に描くならば、第一に小説の構成法が完全に救はれてゐる。それは、動的美(自然の山と海を背景にして、(一)静的美、主人公の魂の更生、ローマンチズムが、クリスチャン・リアリズムとして、描かれてゐる。

 文章道も非常に洗練されてゐると思ふ。特に、賀川先生の芸術態度として、致命的な欠陥になってゐる人物の性格描写、私は賀川先生は、立派な芸術家であると認めてゐる。けれど、芸術が事業化し、商品化されると、粗雑なキング程度の「幻の兵車」になってゐることを思ふ。

 一体、賀川先生の初期の作品に、私は十分な評価を捧げることが出来る。例へば、大正十二年の作品「星から星への通路」のうちで、散文、雀の葬式、赤ん坊の頬っぺた等は、忠雄君の書物で読んだのであるが、十数年後の今日に至っても、新人である私にとっては、その価値を学んでゐる。

 これは、賀川先生が無名時代に書残してあったのを、清書をして発表になったんだと思ふが、無名時代の賀川先生の作品には血が流れてゐる。人々の脈拍を打たずに置かない魅力がある。私は無名時代程、貴いものはないと思ってゐる。

――堀井さんと話合ってゐたことであったが、漫談的に――武内先生は、いろいろな苦労をして来たやうに思ふが、武内先生の童顔の美しさ、性格美、人間と云ふものは、いやと云ふ程、苦労すると、どこかにクセがあるものであるが、武内先生から、そういった陰影は少しも見当たらないのは、どうしたことだろう、――と。

 堀井加西郡司、曰く、それは賀川先生の無名な時代に、武内先生と行政の父ちゃん、植田のお父さん、を、生命をかけて、教育されたから、珠玉のやうに、今日も輝いてゐる、と云ふ意味のことを話してゐたが、私は無名時代こそ、真実(ほんとう)の仕事が出来るものぢゃないかと思ふ。

 賀川先生の今日、世界的な指導性のあるのは、無名時代に、大半の仕事をしてゐたからであると思ふ。――「死線を越えて」がそれである。堀井さんも言ってゐたが、無名時代の地下工作であった賀川先生は、本質的なものを掴んでゐたし、この頃の賀川氏を、真実に私は尊敬出来ると――。

 従って、私と謂えども、有名時代の伝記小説、鑓田研一氏の「賀川豊彦伝」を認め難い。血の滲んでゐる生命がないのと、文章道に於いても、賀川先生の初期の作品の文章道より、魅力を持ってゐない。これは明らかに失敗作である。

 それから、賀川先生の毎号の「雲の柱」の筆日記は、認め難い所が多い。然し、これは、賀川先生も歴史的な役割を果した人で、工藤が、この原稿を書いてゐる三十前後には、処女作が世に訴へられ、人々の魂を捉へてゐたことである。

 ――武内先生、私も、今、七八年後には、「武内勝伝記小説」を書ける自信を持ってゐる。無名時代、人に棄てられ、苦悩の荊棘を歩んでゐるときこそ、真実(ほんとう)のことを言ふことが出来るし、真の芸術が生れる。栗原君といふ男は、オッチョコチョイで問題にしてゐないが、私は無名時代なる故に、思ひ切って、批判出来るし、真実を書けるものである。

 そう云ふ意味で、私の芸術への精進も、無名時代に骨組を、カッシリ、深く地下に埋めて置きたいと思ふ。土台がフラフラしてゐると、立派な建築が出来ないと同じやうに、無名時代の地下工作が何より大切だと思ってゐる。こうして、武内先生に、原稿を第四編書いてゐるのも、私の無名時代の基礎工作である。

 私は元来、実際運動の闘士であって、芸術に就いて、考へられて来たのは、昨年の六月頃からである。私の関西に来た理由は、小説を書くために来たのではないことは明かなことでせう。明石の農事試験場で働いて、ブラジルに渡航したいと武内先生に相談してゐたことがあったでせう。ブラジルの移民制限法案が通過して、私の転換期に直面したことから、六甲山で勉強してゐた頃、農民小説を書く方面に進みたいと原稿を書いてあったでせう。

 そのやうに、私の歩んだ道は、実際運動の闘士であって、私も芸術方面であったなら、小林と一緒に五六年前から認められてゐなければならない立場にあったかも知れない。

 それが、芸術へ、六甲山で読んだ「一粒の麦」が契機となって、――この書物をイエス団から借りて読んでゐたのであったが、私は赤線を引いて、所々に註を加へてゐたものだから、佐馬太大先生に叱られた記憶を持ってゐる。――この書物は武内先生のであったとか――。

 現在、私は無名時代である。けれど、私は失望しない。私は諏訪山の工区で、労働者諸君の信用がある。(易、踊、六甲山の地盤) 監督が、イエス団にゐる工藤(これは、武内先生の所にゐる意味)といふことが分って来てから、私の気嫌を現場で話合ってゐるが、実はこうしたことを、私は非常に危険だと思ってゐる。

 (私は、神戸労働者のうちで、工藤の頭の上に、手を叩く奴がゐるとすれば、私のために肌を脱ぐ仲間が五名ばかりゐる――。これは番町系統である)

 私は無名時代、苦しみに苦しみ抜いてゐる時こそ、大成を期しることのあるのを知ってゐるからである。

 ――こう云ふ現実の苦悩――阿南先生が、先日、私が、いろいろな点で無理をしてゐるものだから、いろいろ注意してくれてゐたが、男の子は、人様に甘やかされると成長しない。

 武内先生でも、そうである。前田兄がフラフラして一燈園に行くとき、ガンと怒鳴って置くと、決して、幽霊のやうな真似が出来るものではない。金蔵君でもである。実際、三十面下げて、人様の御世話になるなんて、私には出来ないことである。甘やかされることは、お父ちゃんが、苦労して来てゐるから、息子とお嬢さんには苦労させたくない心遣いではあるが、それを理解出来ない低能者は甘へてゐる。だから、私は阿南先生に、その好意は有難く思ふが、青年である私は、これからが、私の人生の荒波である。武内先生なり、阿南大先生は、歴史的な時代の役割を果した人である賀川先生と同じやうに、私達はこれからだから、そう云ふお父ちゃんなり、お母ちゃんが、息子とお嬢さんを、監督して頂けるといいのである。

 ――誤った教育方針は、若草の芽を枯葉にして仕舞ふ。そう云ふ意味で、私は無理をするし、飯の喰へないことがあるし、泪がある。それが、私の芸術への精進になってゐる。

 ――私は現在、書いてゐる血と――百枚(小説)神戸のマルクス派のグループが認めてゐるので、世の中に認められたいと考へないこともないが、私は無名時代の地下工作を今少し探し掘り下げたいと思ふ。そして、「時」、満潮時に対しての姿勢が待機されることであらう。これが、私の芸術への精神になってゐる。無名時代の私を指導して頂きたい。実際、私一人頑張っても駄目である。

 武内先生、私のお父ちゃんになって頂きたい。叱って頂きたい。

 無理があって、失敗して、困った奴だなア、と思ひなさることがあるかも知れない、けれど、私を指導して頂きたい。

 ――無名時代の私は強く戦ひ抜くであらう。来たるべき時代は私達のものであることを知るからである。

         ○

 生活と魂の問題の統一性、(パンと魂の統一性――労働者の問題)

 メカニズムを芸術の統一性といふことは、非常に困難な仕事になってゐる。今日、生活する、そんことは、金である。資本である。金融統制である。一切がメカニズムの資本の集中化である。

 魂とメカニズムの統一性が、どんなに困難であるか、教会は魂を取扱ふ所であるが、こんどの二十五年イエス団基礎工作の募金運動が、単なる魂の救ひでは仕事が出来ない。それ故に、生活無能力者である工藤が芸術の世界に確立されたと言っても、何んにもなれない。

 問題は生活を通して、芸術の確立である。その間の過程(プロセス)が現在、私が歩んでゐる道になってゐる。芸術の魂の問題を取扱ふ者は自由人でなければならない。セツルメントの仕事は組織的でなければ仕事が出来ない。その統一性、これは困難な仕事である。

 それは、おそらく、苦悶でせう。その道を通ることによって、一輪のチューリップの花が咲く――。

 で、芸術の真実性と商品価値は統一されない限り、救はれるものでない。芸術の真実性は苦痛である。ロマン・ローラン「ミレー伝」の一節に、苦痛こそ、芸術表現の最大の美を与へるであらうと言ってゐるが、芸術を愛する者、魂を愛する者は、常に苦痛の世界である。それが商品化、ヂャーナリズム化されることによって、大衆の芸術意欲となることを知る。

 去年の七月、中央公論七月号「盲目」島木健作氏の作品は圧倒的に一等賞になってゐた。それは芸術に真実性があったから、今年の五月、文芸、縣会(けんかい)八十枚、これで、完全に叩き潰されてゐる。といふのは、商品化され、ヂャーナリズムの波に有頂天になったからである。原稿料は七百円頂戴するし、文学フアンの可愛い女の子が訪ねて来るし、出版記念会とか、で気分のメートルを爆発させてゐると、反対派の批評家は朝日新聞の文芸欄で叩き潰す。

 これではいけない。そして、こうなることは、無名時代の基礎工作が深く掘下げてゐないから、線香花火のやうに消える。日本の文芸復興(ルネサンス)がそれである。新人の生命は二年位であるとは心細い。私は、こう云ふ先輩の道を踏みたいと思はない。商品価値が――芸術価値へ、その統一性が私の無名時代であり、この境地から、神の生命線へ、私の芸術の再吟味である。

 ――そのあとに来るもの――。

 それは芸術の展望である。賀川豊彦先生の芸術運動の足跡を踏んで行く一人として、武内先生のイエス団教会から、私は再び、世に訴へることがあるであらう。

 その第一作品は血と――である。

 反(アンチ)賀川派の堀井農村道場から追出された私は、北海道から関西に来て、彷徨と当惑に困却してゐた。その私を拾ってくれたのは、武内先生である。六甲山へ、六甲の真紅に染めるつつじが、私の心であり、私の血になってゐる。

 赤の他人であった私だ。それを、これ程までに親切に尽くしてくれたのは、私の生涯の記録になるであらう。武内先生の伝記小説は、私に優先権がある。旅鴉の嬉しさは、渡る世間に鬼のないことである。

 その二部は、求道者――。

 これは、新開地を中心とした、明暗二重奏を、求道者である私は、いかに苦しんだことか――毎晩、性的アナキズム、酒場の女給の二階住ひに、悩まされ通した。それが、私の拒勢にまで考へられたことである。ここでは、資本主義の文化形態と唯物史観と宗教の論争を、撒水夫の私が、どんな具合に芸術的に生かして行くことが出来るか描きたいと思ふ。

 それが、私の上申書が骨子になってゐる。私は上申書を三百枚書いて、百枚だけしか武内先生と賀川先生に発表してゐない。

 その三部作は、死線を越えて――。

 ここでは、イエス団の二十五年の基礎工作と賀川先生の「死線を越えて」を裏書する、新川の部落である。それに、私自身が、死の線を越えた一人である。友愛幼稚園の阿南先生のことも、書きたいと思ってゐる。一人のお嬢さんのために、全生涯を捧げてゐる偉大な母、貧しい幼児のために、十数年間、この一角で戦ってゐる雄々しい姿、友愛救済所、愛隣館問題、イエス團の同人、それ等の中心を指導する、伝記の人、私は描きたいと思ってゐる。その材料は、実は此の原稿が骨子になってゐる。

 それから、初めて、私は武内先生の弟子になりたいと思ふ。イエスの洗礼を賀川先生に受洗されたいと思ふ。

 それからの私は残されたる刺として、北海道問題がある。

 小林への節操がある。私は賀川先生のやうに、将来、水平社問題を生かしたいと思ふ。

 民族と日本精神を、私はこう云ふ立場から考へてゐる。

 ――芸術に関する覚え書――  
                      (終り)



 私はこの稿で、
 まだ、これだけ書きたい構想を組んでゐる。

一、再び、反(アンチ)賀川派に就いて
        ――イエス団正反合の統一性
        ――指導者に関する私見
        ――私の決意
二、労働者の問題
        ――メーデーを中心に
        ――パンと魂の一元論
        ――マルクス学説への反駁
        ――ラスキンのベニスの石
三、農村とその動向
        ――村井少将の農村座談会
        ――行政の県会地下工作
        ――堀井農村道場の再吟味
        ――農村青年の苦悶
        ――自然美と人工美――。
 
 材料は全部纏ってゐるんですけれど、去年から毎日、原稿を書いてゐるものだから、右手の関節が傷んで来てゐる。二三日休養したいと思ふので、当面、大切な、イエス団二十五年の基礎工作と募金運動に触れて見たいと思ふ。



         (三)

   エス
     二十五年の基礎工作。

           ――参考意見――。

 飛んでゐる鴉を落す、

 その勢であった日本のマルクスの人達――大山郁夫を指導者とする労働農民党、河上博士を盟主とする日本共産党、それ等の生命は丁度、過去、十年間の飛んでゐた鴉を落す、その勢であった。

 そのために、どれだけ、多くの犠牲を払ってゐるか知れない。大阪の増田富美子さんのやうに、株券を共産党の資金局に提供した女性(ひと)もあったし、目白の女子大学生が、貞節を捧げて、アジト「移動住宅」の役割を演じた女性もあったし、小林のやうに殺されてゐる無名の真理を求める労働者と農民の青年闘士を知ってゐる。

 ――弾圧に、反動に、嵐に、日本の共産党は地下細胞の呻きで一杯になってゐるのが今日である。

 これは革命の子等の歩んだ過去である。歴史的に評価されるなら、確かに一つの進歩的なものであったやうに思ふ。

 私は、それを語らうとしない。それは、いづれの機会があるから――。

 ――私は現在、マルクスのグループの一人で、反対派の立場にあったとして、神戸イエス団が二十五年の基礎工作を、この新川の部落に記念されるといふことは、私は反対派の立場にあったとしても、十分に尊敬され得べきことであると思ってゐる。

 反賀川派は理屈は、どうであっても、二十五年の歴史を持ち、そのこと、それは社会的に、人間的に、その仕事の性質、私は十分に評価出来ることである。

 反賀川派に、――それでは、君達がやって見給へ――と強く出られたなら、批判の自由性と真実性を、三十年の基礎工作を築かない限り、それは泥溝(どぶ)の泡に過ぎないであらうし、犬の遠吠えとはこのことである。

 そう云うふ点で、私は阿南先生が、十数年、善隣幼稚園で働いてゐること、そのことは、イエス団と経済的な問題で、合併したとは謂へ、それは経済力の問題であって、阿南先生の貢献には少しの狂ひのないことを思ってゐる。

 そして、その二つの輪、二十五年、武内先生の苦闘――成程、賀川先生の血の滲んだ、そのあとを継ぐもの――その意味で、私は、これ以上、ここで、二十五年の歴史に、何等の批判の価値がありません。

 そのイエス団が陣営を新たにし、行政の父ちゃんに言はせると、墓碑を建てるか、どうか、それは各自の勝手なタコだが――。

 友愛救済所と幼児園とイエス団の三位一体論が、あらゆる点で活動舞台になって来てゐる。

 ――私は後日の参考のために、愛隣館は独立した機能になってゐるのが、イエス団と、どう云ふ関係にあるのか知りたいと思ふ。

 例えば、イエス団が監督官庁といふ立場か――。

 で、私は二十五年の歴史を持ち、イエス団が当面の問題である、募金運動に就いて、私は昨年から御世話になってゐるイエス団教会であり、私の魂の故郷であるイエス団愛党精神によって、少しばかり、その具体性に就いて、座談的に質問し、私の参考意見を話して見たいと思ってゐる。

 その具体的な運動方針として、

 理事者間によって、協議されてゐた、趣意書を拝見しました。

 その運動の実行方法として、

 武内先生に訊いて見たいと思ふのは、一万六千円の資金を理事者間によって、具体化されて行くものであるか、どうかと云ふことである。逆説的に、イエス団同人が関知せずして、武内先生が一人で、市役所から、西ノ宮の幼稚園、イエス団教会と駆ずり?して、置いていいいものであるか、どうかと云ふことである。

 ――この点、私は、どう云うふ具合になってゐるものか、イエス団の同人なら、はっきりしてゐないんぢゃないかと思ってゐる。

 その次――。

 イエス団に常任書記を置く以上、そうでなくして、運動の具体性として、理事者、武内先生が中心に、イエス団教会の基礎工作であるから、武内先生が役所で身動きの出来ない人であるから、常任書記が三十五円の月給を貰って、運動のトップを切ったことだと思ふ。

 それなら、具体的に、書記に奉願帳を作成して、イエス団同人の連絡、大阪・京都・東京・イエスの友会と具体的に文書の往復がなければならないことである。

 そこから、問題は高比良君の奉仕の問題云々が繰返されて来たであらうと、私は遠景法的に考へられることであるが――。

 ――それでは、此後、どうするか――

 いけないことは仕方がない。その後に来るもの――具体性が考へられることである。

 その私の参考意見として松本兄と話合って見たんだが、

 ――イエス団の総会の招集が必要ではないだらうかと思ふ。そして、新しい、専門的に働ける、役所と個別訪問とイエス団の同人と連絡出来る手腕家――常任書記が必要ではないかと思ふ。そして、募金袋の発送、活動写真等考へられることであらうと思ふ。

 それで、これは極く私見的な話であるが――

 松本兄と、大体、こう云ふやうな話をしてゐる。

 ――武内先生が動くと云ふことは、それは、どう考へても出来ないことだ。それで、武内先生を支持する意味で、松本兄を表面の書記に立って貰って、工藤が自転車を持ってゐることであるし、新聞社で金を集めることも苦労してゐることから、多少、経験もあるから、月給制度、云々でなくして、金を集める運動だから、武内先生とこの点を相談して、募金運動の実際問題を処理したなら、どうかと、松本兄と相談してゐたことであった。

 武内先生も、いろいろ考慮して、ゐると思ふが、
 いづれ、何等かの機会に、発表して頂きたいと思ふ。

 ――実際、武内先生に気の毒で仕方がないのです。


        ○


一、     断片語 二つ三つ
 自然程、美しいものはないと思はれて来てゐる。
 マルクスの人達が、人間の世界ばかり見てゐるから、過激派になるのであって、自然と人間の交錯と統一性、これは、神の創造とパン問題の関心が、私をして、唯物史観から救ってくれる。
                     (終り)

                   ――五月五日――



         ♯             ♯


 以上の四編で、工藤豊八氏の残していた草稿はすべてです。(一部人名をイニシャルにした個所があるのと、傍点も附されていますが、ここでは落ちています。)

 工藤氏に関して、武内勝や賀川豊彦などの残した関係資料のなかで触れているものもあるかも知れませんが、いまのところ未確認です。

 草稿の中に記されているように、工藤氏はこれの他にすでに、いくつかの作品を仕上げているようですが、いずれも未確認です。

 そして、工藤氏が神戸に滞在するに至った、より詳しい経緯や小樽に於ける小林多喜二らとの活動の詳細も、この草稿で知るより以上のことはまったく掴めていません。神戸に滞在していた正確な期間や、その後どのような生涯を送ったのかも全く分かっていません。

 また、草稿にある賀川の主催する農民福音学校への参加についても、彼のような日々の困難な労働の中で、果たして正式な参加が可能であったかどうかも疑わしくあります。

 工藤氏はこの時、ブラジル移民を企図していましたが、その願いも果たせなかったことも記されています。草稿「第一編」の中に「機関誌ブラジル」に一文を寄稿したことが記されているので、旧国立神戸移民収容所(神戸移民センター)が現在も神戸に「海外移民と文化の交流センター」として存続しており、そこへ問い合わせれば、それは検索可能かも知れません。

 いずれにせよ、この段階では、まずは「草稿四編」を打ち出して置くだけで、これを改めて順番に並べ直して、冒頭に記した田中隆夫氏へお届けして、北海道のお知り合いの御方へご覧いただくことにします。

 同時に、賀川記念館のHPの「研究所」の中に「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺として収めていただくことにいたします。

          (2014年11月2日記す。鳥飼慶陽)

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺4

   武内勝氏宛文書   工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
              第三篇

          


     武内先生に――。

     春と花の心を語る
          ――血と光の真理を求めて
          ――只、一つの道、生命線
          ――人生の未完成交響楽

 春と花の心――これは、若い私達にのみ与へられた特権です。

 女学生フアンの水ノ江ターちゃんが、大阪松竹座の絢爛とした舞台一杯になって、シルクハットを横チョに被って、輝かしい眸を観客席一杯に投げつけ、春だ・・踊だ、桜だ・・春だと曲線を描いたステップを踏んでゐることであらう。躍る人生の民衆は、一升徳利を腰にぶら下げ、花と酒と美人を枕にして、諏訪山工区は一杯です。――汝等、笛吹けど,踊らずとは、旧約時代の話で、今日の民衆は方向を失ってゐる難破船のやうに地獄への踊る合奏(コーラス)の春の魁です。

 喫茶店はタンゴ、ロザーで充満し、カフェーは菊地寛の貞操問答が実演され、ダンス・ホールはブラジロレイの事務所の窓から覗くと、人魚のやうに、泳ぎ、シャンペンの泡は青春の若き血潮を誇ってゐます。

――一切合財、メカニズムと黄金の支配する所、唯物史観万能です。日本の官憲が共産党を弾圧しても、病的な唯物主義の芽が文化形態となって、――金さへあれば、・・その他の言葉の通用しない今日の社会情勢です。

 元町通りの三光堂蓄音機店が、真っ黒山です。私は図書館の帰途、覗いて見ると、

 ハア、娘ナーエ、娘十八、ナアコラショ
 番茶も出花ヨーイ、
 膝の子猫が、サア、アリア気にかかる気にかかる
      (ㇵ、コレコタホントニ、モットモダット)

 レコードは拡声器で拡大し、?者と通行人、娘さん達、マネキン嬢の指導(コーチャー)って云ふ理で、南国の春は陽気なものです。北海道の農村は、これからが、開拓の第一歩で、雪解けの赤土から、福寿草が黄色い蕾を結んで、春先の光りを、かすかに望んでゐることであらう。

 けれど、歓楽の春に哀愁あり、…一体、民衆よ、汝何処へ行くと云ふのだらう。

 春と花と心は、あまりに侘しい、酔っ払いが、動けなくなって、舗道の上に、ゴロット寝転んだ。寒さの冷気を感ずるやうに、民衆は常に飢えと太陽を求めてゐるのです。パン問題は民衆の現実、太陽は芸術と宗教への躍動です。そして、何処かへ、行かなければならないことを考へながらも、暗中模索です。

 私はキリストを人間の子として、考へられても、偉い人だと思ふ。

――我に従へ! こう云ふ権威のある言葉は、おそらく、それ自身に自信のない限り言ひ得ないことでせう。

 そして、人生程、複雑多岐な、妙なる調べはありませんでせう。私のやうに、苦悶期があり、ある愛人同士の愛の囁きがあり、動的なメカニズムから、静かなる美へ、そして、醜悪との限りない闘争が人間の子としての未完成な交響楽ではないだろうかと思ふ。

 私は、Tae Room Rumble 白い百合の花、ケイちゃんの所で、シューベルトの二部作に触れ、未完成であること、そうです、未完成なる故に、妙なる調べが、限りない魅力ともなるものでせう。――無名な時代、人に棄てられて顧みられない時代、そう云ふ未完成な時代に自己を養ふこと、それが大切であると、今年の正月、賀川先生と話合ってゐたときの断片語を覚えてゐるが、私の芸術も現在は未完成です。けれど、我が恋の終わらざる如くに、我が曲も終わらざるべしとシューベルトが訴へてゐる心境、私は未完成としての誇りを持ちたいのです。

 私は、現実主義者(リアリスト)です。先日、幼稚園にピアノを修理に来てゐた戸川君と話合って見たが、私達の歩んだ傾向が労働者と農民である場合、それが、戦ひに破れ、愛情に飢え、敗北者の立場にあるとは謂ひ、二つの魂の角度が触れ合ふとき、それは花火です。

 私は、現実(リアル)なる故に、無抵抗愛と云ふより、抵抗愛が私達、労働者と農民の立場に課せられた任務とも考へられるのです。

 私は決して、新川の村田を相手にとって、喧嘩を売るとは思ひません。武内先生が、一月元旦の説教に、腹の底に一抹の決意云々――この度胸試しから、私の神による新生――の今後の方向も、小林への忠節も考へなければならないし、そして、少なくとも、労働者と農民の言論の自由を獲得するには、「再び、時の敗者」であるかも知れない、× ×の政治権力と闘争しない限り解放されるものではないことを知ってゐるからです。

 それ故に、私は、先日、武内先生が話された――来世への信仰――これは、私にとっては奇蹟と云ふより他ないのです。

 現実に破れ、神を信ずることによって、来世への勝利を約束されてゐると云ふことは、現実の苦痛を逃避し、社会生活に於ける無能力がキリストを信ずることによって、勝利の唄でせうか――。

 成程、私は未完成です。生活はルンペン戦線です。然し、私の魂は神の生命線に触れるとき、自由の王国です。こう云ふ、現実(リアル)を揚棄アウフヘーベン)する、その立場から、来世への信仰、このこと頷けることかも知れません。

――こうした、一つの心的な発展形態も、六甲山に登る困難を知らなければならないことを省みるのです。

 武内先生に――私も、どうにか、此の四月になって、一つのもの、血と光の小説、百枚完成しました。これは、私の生命をかけたと言っても差し支へない程に、苦労した作品です。一つの作品を書くんでも哲学がなければ書けませんし、根本的な、ものの観点の角度が、ハッキリしてゐないと書けるものではありません。それが、私の苦悶期であるのです。

 この処女地まで、どんなに苦労したか知れない、血と光です。

 この原稿を、今少し、修正して、「改造」の九月締め切りで、懸賞小説に応募して見る積りです。これは、労働者と農民に訴ヘる処女作であり、日本の文芸復興(ルネサンス)に爆弾を投ずる作品でありたいと思ふ。これは、私の生命線に触れて来た一つの具体化です。

 そして、この境地から、新しい出発として、――イエス団とその人々――を百枚書ける材料と構想を組んであります。私も、今、二三年の忍耐です。苦しんで、悶えて、死んで生きた積りで、勉強しよう。大阪朝日の一万円懸賞小説は、横山の美ちゃん、あの位の作品は、私は三年後に書いて見せる自信が十分あります。

 此の間、堀井さんから手紙が来て、行政の父ちゃんが遊びに出掛けたらしい。そして、曰くには、イエス団が幼稚園と合併し、友愛救済所の事業を継続して、やることは、イエス団の墓碑の建立に他ならないと云った意味のことを話したらしい。行政の父ちゃんが、加西郡に出掛けたのは、今年の県会議員の選挙があるそうで、阪本勝氏が金を出して、立候補しないかと云ふ相談が三四回に亘ってあるらしい。それで、堀井さんも、そのことで、地盤の下調べもあるので、行政の父ちゃんが出掛けたらしいんだが・・・。

 それは、ともかくとして、私はこのイエス団の関係した手紙を読んで、直ぐ、堀井さんに返事を書いてゐる。

――よろしい、イエス団の一粒の麦が、地に落ちて、死んだ。それは、それで、結構ではないか。然し、多くの実を結んでゐるイエス団二十五年基礎工作から、堀井さん、あなた自身もイエス団出身ではないか。そして、イエス団の親父――武内先生の第何囲(ママ)期の――の弟子である工藤が、再び、賀川先生の出世作である「死線を越えて」を二十五年後の今日、武内先生の弟子として、書こうとしてゐる。

 これに対し、堀井さん、あなたは、どう云うふ鋭い批判をしてくれるか、と反駁の手紙を書いてゐる。行政の父ちゃんは、社会大衆党から立候補すると、勝負戦はあるやうであるが、行政さんは日本農民運動の荒畑時代の指導者だ。工藤も農民畑だ、一度戦ひに敗れた、無名な現在ではあるが、堀井ブロックが喧嘩を売ってくるなら、私は武内派として、闘へる若さを持ってゐる。堀井さんは、成程、日本の農村伝道のトップを切った先駆者ではある。けれど、自給伝道に芳しい成功をさせない限り、立派な口を効けないであろうし、イエス団墓碑の建立なんて、有難くない批判は、そのまま、返上して、差支がない。

 だが、然し、一歩退却して考へて見ることにしよう。理論は理論とし、批判は批判として、受け入れることは、それは、一つの進歩を意味してゐる。そう云ふ意味で、私は考へて見たい。

 だが、不幸にして、堀井加西郡の殿様は、反(アンチ)賀川派として、感情的なものがあることは、どうしたことだらう――。

 Sさんもそうです、反(アンチ)賀川派である。然し、私は反賀川派であっても、相対的な立場になることによって、競争意識の進歩的な役割を演じることを知ってゐる。× ×の女の子みたいな、感情的なものが、あることそれ自身敗北を意味してゐる。嫉妬心の発生は、ここから、生まれてゐるのではないかと思ふ。

 それにしても、私は、こう云うふ角度のハッキリした観点から、批判し、相対的な真理を見出して行くことは、嬉しい限りだと思ってゐる。そう云うふ意味で、私は堀井さんとも交際出来るし、Sさんから飯を招ばれることが出来る。私は公用と私用を別にしてゐる。Sさんと反賀川派の意味で対立して居っても、私用では、あの人にお恩返しをしなければならない、義務を私は受けてゐる。前田兄もそうです。批判はある、けれど、私が北海道から来たとき、親切にしてくれた前田兄に対して、有難く思ってゐる所がある。

 武内先生、しっかりやって下さい。イエス団二十五年の基礎工作から、全国のイエスの友会――あとの鴉(からす)が先になるやうに――工藤は武内先生から指導されて来てゐるんだから、再び、「死線を越えて」を世に問ふであろう。これは、私の一つの決意になってゐる。

 それで、私はイエス団の内部陣営に就いて考へて見る――。

 当面、イエス団青年部として、第一線に立って活躍してゐるのは、A君です。然し、私は此の男を少しも信用してゐないのは、どうしたと云ふことだろう。実際派として、私は正直に言ふと、彼は、性格の破産者である。彼の小学校時代を偲ぶことが出来るやうに、逗留の低度を疑ひたい位、悧巧な所があるとは思はれません。それに、少しの美しい、個性美の見受けられない、ところのあるのは、どうしたことでせう。そして、おそらく、此の批判は私一人の意見でなくして、イエス団先輩の口に出して、お喋りこそしないが、私と同じ意見であることは、私もイエス団の飯を一ヶ年四ヶ月喰ふことによって、察しることが出来るのです。

 去年の話だが、中村君と前田兄は、A君を凡児と微笑んでゐた。大阪朝日の只野凡ちゃんは、麻生豊先生の漫画で、人気役者であったのであるが、クリスチャン青年は感情に煙幕を張って、凡ちゃんを反効果的な風刺がA君であるのです。

 そして、彼は嘘の多い人間である。嘘の多い二重人格を持ってゐる。彼は神様にすら、嘘を申し上げてゐる。嘘の多い男だ。彼のために、私は、なんどとなく、注意しても、嘘が多い男である。

 人様に愛せられる、美しい対話でなくして、苦痛な、あまりにも苦痛な、偽善の多い、イエス団の同人と争ふ、嘘の鎖に、しばられてゐる男である。彼は自分の郷里の同志に嘘を言ってゐる。彼はイエス団の書記になったんで、賀川氏の古戦場の書記と云ふと、地方の同志は、相当に尊敬してゐる。その彼が、イエス団の同人から信用されるんでなく、嘘によって、地方の郷里の同志に、明らかな嘘を言ってゐる。

 私は、こう云うふ嘘の多い人間を憎む。人間として、嘘の多い人間程、侮辱されることはないからです。

 それに、彼は奉仕と云ふが、奉仕者らしい、働きをしない限り、奉仕の美名に酔わされてゐる阿片に過ぎないであらう。私と同じ、屋根の下に住んでゐることであるから、行為的に、見たいと思ふが、少しの同情に値する所の見受けられないのは、どうしたことだらう。

 而も、彼の生命線である、日曜学校の腕白諸君から、「コロッケ」の仇名で、新川の少年グループから、嫌われてゐる。その証拠に、若し、私が悪意的であると思うふなら、他の先生方に訊いて見ることが正しいでせう。それは、毎日、どぢやうが、お天日様に叱られて、田圃の畦道に、体をぎゅっと、くねらせてゐるやうに、少しのお愛想がないからである。幼稚園のインキナ、トウサン、小使さんからでも、Aさんは、難しい人だなア、工藤さんと先日も話してゐたっけ。

 それで、私は思ひ出した、お釈迦様の言葉である。

 ――こう云ふ変質者は、常識的に考へるんでなく、孤独にさせて置くことが、その人のためであると――。

 時々、彼の前非を悔いるやうに、私の所に、ヒステリックになって、話し込んでくるが、私はキッパリ拒絶した。――当分、僕に言葉をかけないでくれ――と、そのことが、彼を孤独にさせることによって、彼を救ふものであることを、私は知るからである。

 で、私はA君への関心は別の方向である。私は決して、人と感情的に対立しない男があるから、それで、いけなければ、別な方法から眺めることを知ってゐる。それは、彼の性格的な、ジキル博士とハイドを、芸術的に取扱ふことである。昨年の世界映画の最高峰は「にんじん」であった。リナン少年の性格、変質者が、客観的に取扱はれることによって、芸術的に評価されてゐる。

 ドストエフスキーの「罪と罰」の大学生が、実在のイエス団グループであるなら、苦痛を感じるであらうが、芸術作品として、描かれるとき、「罪と罰」は最善の文学価値であらう。それは、特殊性の問題であるからである。

 私はA君を、孤独者として、関心を持つことによって、彼の特殊的な性能が、私の芸術的価値の深さを、評価せしめるであらう。私は、そう考へたいと思ふ。

              ○            ○

 今日は西ノ宮の電線人夫で働いて、相当に疲れてゐます。

 西ノ宮の畑地は、菜の花が一面に咲き誇って、美しいと思ふ。

 それに、大丸の人形より美しく着飾った神戸女学院のお嬢さん達が美しいと思ふ。自然と女性美の交錯である。日本のブルジョア女学校ではないでせうか――然し、こうした美しさも、単なる美しさであるなら、イプセンの「人形の家」のノラに過ぎないであらう。

 それは、男性への玩弄物に過ぎないからです。美に個性がなければ特色がありません。そう云うふ点で、私は大阪の情死の増田富美子さんのやうな、個性美を愛する。高島愛子さんのやうに、性格的な、メカニズムと悲哀(エレーヂ)を愛する。

 私は、電線人夫であっても、私の思索は、いろいろなことを考へる。

 中村兄は、愛らしい、美しい男だと思ふ。彼の童心な微笑みは、上官に愛される魅力を十分備へてゐる。彼は私の神戸に於ける親友になることが出来るでらう。

 然し、それにしても、西ノ宮の女学院のお嬢さん達は美しい。人間的な美しさである。阿南先生のお嬢さんが、お友達と向ふから、やってくる。ルンペン戦線の工藤君も、実は、少しばかり照れちゃって、恥しいやうな思ひがする。

 このお嬢さんと私はイエス団の同人の光栄にあるからである。

 そんな、ことばかり考へてゐると、工夫が怒鳴ってくる。女の子の面ばかり眺めてゐないで、穴を掘って、墓を建てらうって――。

 私は、私の親父を思ふ。沁々、親父の愛情を偲ぶやうになって来てゐる。けれど、現在はルンペンだ。死んでも生きた身だ。立派に錦を飾って、親父の前に、頭を下げることが、今、一息でせう。

 そうです、男の子は、こうでなければいけない。

 この不動の精神――動的なうちにも、静かなる吐息、私の魂の故郷、私の生命、それは、武内先生の魂を通して、その態度から、学ばなければいけない。(四月六日、分室にて)。

 斯くあたいと思ふ。

 春と、花の心、

――お前よ、

――悲しまないでくれ、

――春と花の心は、今一息です。

                  工藤 生
    四月十二日 晩。

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺3

  武内勝氏宛文書
  工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
              第二篇
              

 

    武内先生に――。

    魂の彫刻を語る        ――散文的に――
            ――生活と芸術の統一性
            ――一つの小さな喜びの歌。

――春が訪づれて参りました。
  けれど、私の魂はさびしい
  どうしたと云ふことでせう。やっぱり私は人間の子です。

  労働階級と農民の苦悩の子なるが故に、私は現実(リアル)を通さない限り、この苦しみと困難な道を歩まない限り、救ひに至らないのです。これは、どうしたことでせう。

――それ故に、私の魂は寂しくって、人達に蹴られ、泥溝(どぶ)に棄てられた一石かも知りません。

  苦しみ、これ程、辛いことはありません。苦しみを苦しみとして、
  真実(ほんとう)に、苦しいこと、悲しい思ひで一杯になる連続――これは、その人、自身でなければ解らないことです。

  第三者の立場から、苦しみの過去の話を伺ふことは、一種の当人にとっては慰めになるかも知りませんけれど、その人、それ自身が、その苦しみを味ふとき、沁々と苦しみを通って来た人達に温い血にじんでゐることを思ふ。

  それ故に、私は賀川先生を尊敬したいと思ふ。いろいろな理屈はあるけれど、実際、苦しんで来た人であるなら、理屈より何よりも、真実な魂の琴線に触れることが出来るからです。

  私の魂に、武内先生の面影がありませんと、私の魂の中心は失はれてゐます。それ程に、私は魂の彫刻と云ふことは、吐息です。

  私の尊敬してゐる先生の心臓のセコンドが、私のものです。
  この境地は、唯物論者である私にとって、魂の処女地であり、一つの奇蹟です。

  どうにか、私は、ここまで、私のいろいろなものを整理し、揚棄アウフヘーベン)し、諏訪山の現場に登る山道のやうに、肩で息を吐き、休憩して、うしろを振返って、わびしい、鹿の谷水を求めるやうに、水源地の一杯のコップをなつかしんでゐるのです。

  成程、自然は美しい、雲雀は囀って、麦の穂先が、新鮮な匂ひで満ちてゐる。けれど、現実の農民は喰へないでゐる。労働者の生活は一カ月に十日間の失業救済です。

  これは、現実の人の世の姿です。そして、今日、労働者と農民であることが軽蔑されてゐる事実です。

――その前線に立ってゐたのが、私です。世の中を改めて、と。
  そこに、社会科学の世界とマルクスの経済学説があったのです。
  日本共産党北海道地区のオルグであった、私、農民組合の書記であった私だったのです。そのために、戦った親友・小林多喜二君が殺されてゐるのです。

  その私が、人の世の経済学説から、イエスの宗教とその真理を求めることによって、人の世の姿を棄てることが、真実でせうか――。

――いいえ、そうでなく、これは、人の世の姿がそうであっても、――

  私が、武内先生と私に嘘をつくことが出来ても、神様に嘘を言ふことが出来ない、絶対的な境地――、宗教の生命に触れて来た、私です。山林も、畑地も、地主のものであるかも知れない、壱円二十銭の労働賃金で働かなければ喰へない私であるかも知れない。

  けれど、自然の美しさは神のものであり、私の魂の自由な故郷(ふるさと)は、イエスの十字架であることを思ふと、初めて、私は甦えるのです。

――神による新生、とはこのことではないでせうか――。

  そして、此の境地から、此の人生の根本義の生命線から、私は再び、日本の労働者と農民の生活を考へ、親友・小林多喜二君を偲び、私の生涯の行動――芸術への意欲――

  ここまで、私がくるのに、どんなに苦労したことでせう。
  私の苦悶とは、こんことであり、私のさびしい、さびしい、と泣いてゐたのは此の心的な過程(プロセス)であったのです。

――春が訪れて来ました。
  何かしら今年は、ほのかな、光で嬉しいのです。

  女の子の顔を眺めて、美しいと思ふ。Runble 喫茶、ケイちゃんの赤い服を美しいと思ふ。先日も、松本兄と一緒に出掛けたんだが、

――工藤君の美の選択は危険性がなくて、明朗で好ましいと御幸通りを漫談しながら、微笑んで見たんだが、私の美の鑑賞も、こうまで変ってくるなんて、一寸想像もつかなかった位に、私の敗北者としての苦い盃は真っ暗な泥沼でした。

  これは、一寸興太(よた)になるんですが、まあ、勘弁して頂きたい。

――私が新開地で撒水夫をやってゐた頃、手相の易者と毎日親しくしてゐたもんですから、手相のいろはか、アマチュアとして、分るやうになってゐるんです。

  それを、諏訪山工区の仲間の二三人に試みた所、工藤豊八君も、しっかり、易者の大先生になって、私の顔を見ると、工藤先生と呼んでゐるんで、一人になると可笑しくって、吹出してゐる理です。まあ、三十人位見たでせう。酒を飲むと長生きしないこと、賭博を好むと罰が当たること、娘っ子を悪戯すると、君は出世しないこと、等など、多少、輿太(よた)を入れてやるもんだから、仲間の諸君、当る、当るって、言ふんで、工藤大先生も顔負けしてゐる態です。

  今一つ――。
  五千人の失業救済人夫で、大先生とは私一人でせう。呵々

――働いてゐながらも、生活のこと、仕事のこと、十日目の満期のこと等、仲間は暗い顔もする、毎日――。

  よろしい、工藤君は自作の歌を唄ってやるから、元気をつけてくれと云ふのが、左記の歌です。


   草津節で――。

  一 神戸イエスに 一度はお出で、ドッコイショ、
    武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイノチョイナ。
  二 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ、
    阿南先生は、コレア、チパパと躍る、チョイノチョイナ。
  三 神学校の松本兄弟、ドッコイショ、
    神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイノチョイナ。
  四 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ、
    恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイノチョイナ。
  五 長田行くなら、河相さんの所、ドッコイショ、
    日曜学校で、コレア、番町の光り、チョイノチョイナ。


  こんな調子でやるもんだから、喜びこと、喜ぶこと、
  空は明るく、仲間はルンペン、工藤が大将になって、諏訪山音頭です。

  踊れ、躍れと云うふもんだから、ときには、十八番の芸――。
  佐藤おけさを踊って、やると、諏訪山の監督も、ルンペンも、ボーシンも、二十人位集って、昼休みの一服に、円陣を組んで、シャベルを棒で叩いて音頭をとる。歌手は仲間が交代、豈(あに)、工藤たらんや、佐藤おけさに浮かれ、肚を抱えて大笑ひです。

  これで、私も六甲山で苦しんで来た地盤と労働者の信用がある。
  柴田と云ふ前科二犯の曲者―アナーキスト、此の男、工藤が、武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じてゐるもんだから、工藤、俺アも、武内先生の弟子になるから、お前から話してくれと十日ばかり前に楠公さんの所で会ったら、話してゐた。

――須らく、こうでなければ駄目だと一人、クス、クス、微笑んでゐる。

  私も、ここまで来るのに相当苦労した。
  六甲山の飯場の生活、新開地の屑?撒水夫の仕事。それ等を通じて、私は勉強して来た。あの武内先生に読んで貰った上申書を書いてゐた頃は、働くと書けないし、原稿を書くと、飯が喰へないと云うふんで、図書館で五銭の焼芋を噛んで、書いたのです。その他に、十二月頃、私の所に来てゐた京都帝大の学生が、多少、金にして、四円位、飯を喰はしてくれたでせう。

  今年になっても、一月は葺合工区の指令であったから、それ程でもなかったが、二月は、どうして、生きて来たか分らない程、苦しんで来た。それでも、一月は、書物を千二百頁位読んでゐるし、原稿を百五十枚書いてゐるでせう。

  だから、無料宿泊所にゐる連中の顔見知りは、工藤、飯が喰へないで痩せ白い面をしてゐないで、警察の留置所に二十九日泊って来いと自分から志願してゐた位、仕事のなかった月である。

  煙筒商売四日やって、四十銭より儲からなかったし、雲中学校で、便所掃除と硝子拭の四日間は大助かりであった。

  三月も苦しんで来た。それでも私は希望を棄てない。前田兄は、ルンペンの群から、戦い抜けないで、――俺が働くと、仲間の一人があぶれるから、俺ア一燈園に行く、こんな、阿呆な哲学はあるもんでない。だから、こそ、戦って、労働者と農民のために、現在の犠牲を忍ばなければならないと云ふのか、ほんとうであって、四か年も、イエス団で教育され、賀川先生の私的生活まで知ってゐながら、現実から逃げて行く――結局、武内先生の魂を掴めなかったと云ふことである。

  私は原稿を書いたり、勉強してゐなかったなら、それ程、飯を喰ふために、苦しまんでも、悧巧に世の中を渡れる気要を持ってゐる。

  北海道から来たのは、土方の帳付になるために来たんでもなければ、神戸の二流新聞の記者になるために来たんでもない。

――ここまで、来た以上、正直に書きたい。宗教の生命に触れる、このことが、私の出発になって来てゐる。

  ブラジル問題がそうです。嫁さんの問題がそうです。私の真剣に考へてゐた拒勢がそうです。私の現在の苦悶がそうです。

  そのための上申書であり、K君への批判も、実際は、そうなのです。K君のことで、一寸横道に入るが――。

――実際言うふと、あの人のキリスト教と日本精神も掴んでゐない。もっと、もっと、公会の席上で自信があって、話しなら、勉強しなければ駄目です。それに、一体、あの人は、賀川先生の所に飯を喰ひに来たのか、ホーリネスの転向は主義として、合はないで来たのか、判断に苦しんでゐる。多少でも、人を指導するんは、こう云ふ角度を、はっきりしてゐなければ、人間として信用出来ない。主義としての苦悶も見受けられないし、賀川先生の「雲の柱」読んでゐるかと訊きたい。賀川先生は、少なくとも、国際主義(インターナショナル)のキリスト教がある。K君の日本主義とは理論的に尖鋭化すると、当然、分裂しなければならない理論的な見通しを、私は批判出来る。それに、少し、親切に批判して注意すると、感情的に対立してくる。イエスの友会をK君の所に置くと一人頑張ってゐるが、神戸イエスの友会の先輩に相談でもしたことがあると云ふのか。

――どう云ふものか、行動と言論に統一性が欠乏してゐる。

  Tさんを追い出したのもその通りです。Tさんは職場を失って落ち着かないでゐたんだから、そう云ふときは、ゆっくろ休養させて、時間の余裕を与へてやるべきだ。僕は思ふに、愛隣館の基金募金に、Tさん、あたりに働いて貰ったら、どんなに、事業が成功するか知れないと思ってゐた程です。
  それに、お喋べりすることは一人前で、自分の子分である人達からさへ、奉仕生活云々で、むっか腹を立て、同人に恥をかかせるとは、あれでは、腹の底が見物席に曝け出してゐるやうなものです。

――どう云ふものか、度胸が座ってゐない。松本兄と私との間だけの話だが、・・・ぢゃないかと思ってゐる。頭のある、信用される、人だとは思はれない。それで、イエス団でも、愛隣館でも蜂の巣をぶっこわしたやうに、信頼されてゐないと、いくら、賀川先生の弟子だって、神戸で仕事が出来ないでせう。

  少し、批判して、仲善くしたいと思ってゐても、相手が感情的に対立してくると、幼児に刃物を持たせたみたいに危なくって仕方がない。それに、三十七歳まで、キリスト教グループで、ふら。ふらしてゐたやうでは、あの人の歩んで来た道が、決して、あの人に有利に歩んで来たと思はれない。

  こう云ふと気を悪くするかも知れないけれど、これが真実(ほんとう)なのです。正しいことは正しい角度を持って、いけないことは、善くするやうに、ルンペンになったなら、それでいいから、正直に裸になって、先輩に愛せられるやいでなければ嘘だと思ってゐる。

  そう云ふ点でいま、明るい心を持って、よーし、仕事をやらう、と私なら考へる所です。こうに書いたことで、私が間違って居ったら、武内先生に批判して頂きたい。私は悪気で決して書いてゐるのでない。労働者は感情が正直だから、少し、酷くに当ってゐるかも知れないが、そう云ふ点で、私も腹を割って、くるなら、私は喜んで、自分のいけない所は頭を下げる。

――私の性情として、私も苦労の子です。

  三月も相当苦しんで来た。忠雄君のお父っあんの所で、飯の食へないとき招ばれてゐる。佐藤さんの所もそうです。

  私は立派な人間になって、この黒い瞳のパチパチ動いてゐる間は、お恩になった人達に、お恩返し、しなければならないと心掛けてゐる。これだけは忘れることが出来ません。

  そして、此の苦しみの境地から――私は人に問ひたい。

――工藤の真似が出来るかって――、お上品なことは誰でも言ふことが出来るが、自分に自信のないことは、多少でも良心を持ってゐるんなら、言へないでせう。

  諏訪山の仲間に、日本の労働者と農民の指導者に、日本の文芸復興(ルネサンス)の人達に、宗教青年のグループに言ひたい。

――俺の真似の出来る人・・・そればかりでなく、そう云ふやうな苦しみを通って来た人を、私は尊敬したいのです。

  こう書くと、武内先生にも、私は「傲慢な態度」だと思ひなさるでせう。然し、そうではないのです。

  私は集団の生活から、自分を掴んで行きたいのです。波に流されない、そのために、私は馬鹿でない限り、嫁さんと五つになる女の子を犠牲にしません。親父の金を七百円近くも、消費して、親類と親父から狂人扱ひされなくとも、よかったかも知れません。

  この点では、松本兄と、顔を会はして、私の心の重点を分って貰ってゐるので、不自然がないと思ってゐます。

  私は、そう云ふ点でも、武内先生に認められる青年になりたいのです。

  堀井さんだって、そうでせう。年輩から謂へば、私の少し上だから、伝道と生活を確立してゐないと、クラークさんばかりでなく、私でも尊敬出来ないとハッキリ書いて手紙を出してゐます。

  畠地も、養鶏場も、あれでは、決して、成功してゐるとは言ふことが出来ません。堀井さんは、役者が一枚上だけあって、工藤の云ふことが間違ってゐたら、直ぐ返事を寄越す。

  私も、どうにか、生活と芸術の統一が出来るやうになって来ました。それは、今、書いてゐる小説で、ともかくも、どうにか、自信が出来るやうになったからです。従って、これから、書くために、それ程、生活を犠牲にするんではなく、生活の基礎をコツ、コツ、確立しながら、勉強し、原稿を書きたいと思ふ。

  これは、私の一歩だけ前進した勝利の唄です。賀川先生の「死線を越えて」と、武内先生の苦労には、足許にも寄りつけないと思ってゐるが、然し、私には、まだ、若さがあります。私も、こうして、苦労しながら、勉強してゐると、あとから来る者の指導位は、出来るでせう。

  ただ、それだけです。
  神の生命線の出発は繰り返しここからだと確信してゐる。

  人と人との間では、多少の傲慢もゆるされるかも知れませんが、神様の前だけは、嘘を言ふことが出来ませんし、凡てが、神の生命から、私の心のヒントを外したくないと思ってゐます。

――いろいろ書きました。
――間違った所があったなら、勘弁して頂きたい。
――実は、これだけ書くんでも、一週間ばかり前から想を考へ、考へ続けてゐたのです。

――こうして、書いたのも、武内先生の心のうちに、私のレンズを、ぴったりして置きたいからです。
――いつか、私も認められることもあるでせう。

   三、二八日
                       工藤 生

  ○それから、お面倒ながら此の一文なり、此後、書くものなり、一纏めにして置いて頂きませんか。これ等が、私の芸術の骨子にしたいとも考へてゐるからです。

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺2

   武内勝氏宛文書   
  工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿

         

        第一篇 武内先生に――(1)

 この一篇は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。
 武内先生に――。

 ――この一篇を、武内先生に書くに当って、
 中村氏に、一応、下書きを読んで貰ふて、私の神につける信仰上の魂の問題に就いて、全意識的に整理し、本書きに記した、私の最近の心の過程(プロセス)です。
 どうして、私が、此の一篇を、書く心になったかと云ふなら、私の整理されて行く、心の節操観念からである。

 旅先にゐる私は、いろいろな点で、経済的に、精神的に指導されて行く、先輩に対しての礼儀からである。
 それと、同時に、理論的に整理されつつある私の更生の姿ともなってゐる理です。

 然し、まだ、まだ、私は、イエスの宗教の生活体験を掴んでゐないと思ふ。お承知の通り、神戸に来てから、直ぐ、六甲山に登ってゐたこと、新開地のこうした生活雰囲気が、教会主義の敬虔な祈りの気持とは、余程、遠い世界に住んでゐます。それ等のことに就いても、此後、十分に体験しつつ学んで行きたい心で一杯です。

 いずれにせよ、一応、武内先生に読んで頂いて、参考にして頂きたいと願ってゐる所です。

  ――上申書に就いて――。

 私は、いま、上申書を書き続けてゐます。
 大体百枚近くになるんぢゃないかと思ってゐる所です。毎朝、烈しい労働で疲れ切った体を、四時頃から起出して、二時間勉強する時間に費ってゐます。

 上申書の内容と云ふのは、他でもありませんが私自身の思想的な、精神的な、経済的な整理と、贖罪観念に就いての心の問題です。
 丁度、共産党員が、思想の転向に就いて、裁判所に上申書を提出するやうに・・・。

 註――私は思想的に決して、転向してゐない理です。転向と云ふ一種の流行語を、私は好んでゐないからです。

 私は武内先生の教会であるイエス団に来たと云ふ理由、農民福音学校に賀川先生の門を訪ねたと云ふことは、決して、私のいままで持ってゐたマルクス主義に対しての思想的な転向でなくして、マルクス主義の経済体系をキリスト教の指導精神によって、より良く生かす理論的に言ふなら揚棄になってゐるからです。

 私はいま此の理論の確立と精神的な神の絶対性への思慕! 即ち、救ひが私の根本的な生命の問題になってゐるので、そのために私は、それ等のこと柄に就いての上申書を書き続けてゐる所です。

 私は、来年の一月、今少し落ついた気持で農民福音学校に学びたいと心掛けて居ります。そして、上申書によって、私自身の更生と私達の同志であった北海道の労働者と農民への指導的な意見にもなることでもありませうし、本年一杯にしっかりした勉強と宗教的な体験を積みつつ書き上げたいと思ってゐます。

 北海道の私の友人諸君、先輩諸君は、こうした私の心の過程を、お互いに顔を見合わせて、話合ってゐたので、それ程にも、私が賀川先生のイデオロギーとイエス団に寄宿してゐると云ふことで妙にも思って居りませんが、第三者的な立場にある私と云ふ人間に対して、多少でも関心を持ってゐた人達は、一寸、私の節操観念をあやうんでゐる人達もあるかも知りません。

 何故かと云ふなら、北海道では、多少でも農民組合運動と小樽の労働組合と小樽毎日新聞社では社会部の記者として関係し、働いて来てゐるからである。

 然し、私はそれ等の世間的な私に対しての思惑の如何に関らず、魂の救ひと北海道の同志諸君であった人達への指導的な理論を掴んで置くことによって、個人的には魂の贖罪を祈らなければならないことであるし、社会的には大衆の指導性に就いて、社会科学的なハッキリした理論を持ちたいと思ってゐます。
 
 註――そう云ふ点で、賀川先生は指導性を持ってゐると思ふ。北海道の奥地――農村の青年でもし賀川豊彦と荒木陸軍大将とどっちが偉いんだと部落の集会所で話合ふ位であるからです。然し、それは賀川先生の指導性の問題であって、賀川先生の精神である贖罪愛のキリストまで、理解されてゐない一種のフアンであるやうですが・・・。然し、社会的キリスト教の理論的な根拠は、此処にあると思われてゐる・・・。私が求めるとしたなら、私のいままでの傾向として、社会的である故に、その精神をキリストに置くことは、少しも、マルクスの経済学と対立しない理です。この点をハッキリ、農民福音学校で学びたいと思ふ要点です。

 私はこの上申書を、神戸のイエス団で、それこそ世間的で言ふなら、赤の他人である私です。北海道の旅から独りぼっちで広い神戸にやって来た私です。

 そう云うふ私を、いろいろな点で、私の魂を、私の経済的な安息所を指導しつつある武内先生の手を通じて、賀川先生と武内先生に提出したいと忍耐し勉強し、宗教的な体験に身を粉にして働いて見たいと思ってゐる所です。

 それ故にです。
 原則として私の北海道から来た更生の道があり、私の歩んで来た過去の総決算であり、現実に於ては私の魂の贖罪になってゐます。

 私は、どんなことがあっても望みを失わない積りです。新開地の撒水先のやうな仕事を通じて、私は新しく生れ変わりたい意志で一杯になってゐます。

       (二)

  ブラジル問題に就いて。
 ブラジル問題――悲しいことには移民制限法案がブラジル審議会を通過して、日本の移民数が、来年から三千八百五十二名位より渡航出来なくなりました。本年中だけでも二萬人位渡航出来る前年度の契約が履行されることになってゐますけれど、こうゐふ具合にブラジルの情勢が変化してくると、本年中の移民契約数すら、無意識的な農民は、おそれをなして、渡航を中止と云ふ案配で、神戸新聞社が市内版で大々的に提灯を持った記事を書いてゐますけれど、不幸にして事実はそれ等に反して、毎月二回の渡航数が、制限法案が提出される以前と今日では、及びもつかない激減を示すやうになったと日伯協会の当事者が私に語ってゐました。

 これが、日本の農民――特に貧農と小作人――都市の労働者諸君の致命的な打撃です。

 私は農民組合と農村道場で多少でも苦労して来てゐるので、全く惨めな北海道の農民大衆の姿です。

 註――賀川先生が農村更生の対策として、多角形農業と山林農業の開発と産業組合の助成を「幻の兵車」と云ふ小説でも、色々指導してくれるけれど、それ等は、実際問題になってくると、自作農と地主の更生です。明日、今日食へないと云うふ農業労働者は、農民でありながら、土地も家屋も持ってゐません。都市の自由労働者のやうに、その日暮らしの日傭農業労働者に過ぎないのです。こう云ふ点では、私の方が、北海道の農民組合と農村道場で専門的に苦労してゐます。それに、北海道は半植民で、不在地主の多いことです。北海道庁の拓殖計画の失敗は、この不在地主に因る所が多いのです。

 私はそう云ふ意味で私の思想的な更生と主義に対しての節操観念からブラジル行を絶対的に希望してゐました。

 私は純農でないことから、多少でも今までの私の観念から云って、寒い北海道の農業形態より、気候的にも恵まれたブラジル農業に北海道の農民大衆を呼び掛けることが私のせめてもの役割であると信じてゐました。

 然し、不幸にしてそれすら、私に制限法案によって奪はれました。

 註――私は、来年でも、ブラジルに行こうと云ふ意志があるなら、ブラジルに渡航してゐる小樽出身の先輩、私の家と極く近しい猪俣さんと云ふサンパウローの北海道日本人協会の会長をやってゐる農家に行けないこともないが、私のブラジルに行くと云ふ原因は、少なくとも、私の今まで歩んで来た北海道の農民大衆と労働者諸君に呼び掛けるのが、主要目的であったので、今日なって見ると、情けないやうな人間的な悲しみを味ってゐます。これで、ブラジル新聞社の件も、日伯協会から相談されてゐたことも自然解消になった理です。

 私はそれ等のことに就いて、日伯協会の機関誌ブラジル紙に一寸した原稿を書いた所、親切にも激励のある未知な人達からの手紙とハガキが二本イエス団気付の私の手許に来ました。これは大変に有難いことだと現在でも私は思ってゐます。

 私は、これ等の困難な道を通じて、人間的にどんなに努力を惜しまんでも、ある場合には、機会を選ばなければならない神の配剤に服従することが正しいことだと思はれて居ります。そのやうに私の歩んで来た道は、苦しい、あまりにも苦しい道であったのです。新しい出発は輝かしいものでなければなりません。けれど、然し、苦しい道であったにせよ、私の道は労働者と農民の経済的な精神的な更生の救ひの道より他にないでせう。

 私はいま、北海道の農民と小樽の労働者諸君の道に就いて、私自身の魂の救ひと社会的な役割(指導性)の重要性に就いて第二段の方法を考へられて居ります。

 それは何より神と私の問題であり、神と共同社会の連帯性に就いてであります。

 キリストの宗教は個人的に福音を伝へるけれど、社会的に経済的に大衆の生活に就いて無関心であると云ふことは、どう云ふことなのであらう。社会的な認識の不足が斯くならしめてゐるのではないであらうか・・・。

 今日の社会生活の形態では個人生活が社会関係の連帯性を密接に連携されてゐる事実をハッキリ認識してくることによって、イエスの宗教は個人的には魂の贖罪であり、社会的には指導性を持たなければならないと思はれて居ります。その例として、北海道に古くから渡道してゐた実業家の有力者は重にキリスト教信者であります。それと道を異にして(これは資本主義の社会関係が然らしめた事実ですが)北海道共産党の指導者の多くはキリスト教出身者です。それが不幸にして唯物主義思想への転換を余儀なくさせられた日本の組合運動の誤謬でありましたが、こうした社会的な事実の目前に立ってゐるキリスト教会は社会的な事実に対して、どれだけの指導性を持ってゐたことでせう。あまりにも惨めな大衆から棄てられた教会主義の誤謬がなかったでせうか・・・。

 私はブラジル問題によって私の観念形態が今一度、ハッキリした目標の再吟味を図って見たいと特に考へられて居ります。

 註――私の一つの展望は、ここまで、整理されて来てゐる理です。初め北海道から来た当時の私は、私の嫁さんの問題を解決して、日本に居っても、身も魂も組合運動によって、傷を受けた私であるから、小樽での親父の家業を営む理にも行かないし、結局、時を待つ――自殺をするか、更生するかの二つ一つの岐路に立った二三年の心の苦悩を味った理です。それが、私が組合運動をしてゐた頃、知人になってゐた農村道場の仕事を、約八か月近く手伝ふことになって、私は初めて、更生しなければならないと云った気運に動かされて、それには、嫁さんの問題の解決と、賀川先生の書物は、農村道場でも読んでゐましたし、その他、いろいろな機会があったりして、初めて、農民福音学校の門を叩いた次第です。それ等によって、私の第一の更生は農村道場であり、それ等が今日になって、こうした上申書を綴ってゐるやうな、理論的に精神的に整理され、具体的な目標の光りを仰いで来てゐる次第です。これらの詳しいことは、上申書に十分に書きたいと思って居ります。

○私は此後とも移民問題は、私の一生の農村更生になってゐる具体的な私の目標です。

○私は、此後、どんな具合に歩んで行くとしてもブラジルを棄てない、移民を棄てない、現在静観主義です。此後ともに、情勢に応じたいと思って居ります。



      (三)

 新開地で思ふ。

 旅先に来てゐる私は苦労の頂上です。
 ほんとうに苦労する。
 然し、私は苦労と困難を喜んで迎へるやうに真剣な心になって来つつあるやうです。

 それと云ふのは、どんな仕事、どんなことをやってゐるにしても、苦労のない人間は、地下足袋を履くやうに生活に根拠のないことを知ってゐます。

 ――苦労があってこそ、初めて人間になれるんだ――と云ったやうな封建時代の徒弟制度が、今日比較的進歩的な考え方を持って来てゐると自ら自負してゐる私ですら、この言葉はほんとうだとひしひし思って見ることがあるのです。そう云ふ意味で私は神戸に来てから(註――これは、今日では私の力強い地下工作になってゐますが)、六甲山で惨めな程の飯場での生活と冬の寒さに堪えて来た私です。

 註――然し、日本の労働者と失業農民はもっと惨めです。

 新開地は精神的に地獄の一丁目です。

 私は極道男の自動車に乗せられて福原に売られて行く風呂敷を一つ持った女を目撃して居ます。新開地のアスファルトは私の行願である水を撒く心にも反して、不良少年と刑事の鋭い目玉が交錯して居ます。

 刑事は六甲の労働者の変装であったり、遊人風情で映画館近くでぶらぶらしてゐます。

 註――私は特に、小樽の労働組合に居った頃――特高と交渉があったり、新聞社関係で警察に出入りしたものであるから、刑事の顔に、直感的に鋭くなります。それに、私の目付も据って人を見るくせがありますが、これはスパイに対して、絶えず、警戒して来た私の過去の運動に対しての心理的な動きが、ときどき、憎悪すら持って、目付が据ってくるのです。それに、これは、いけないことですが、私は階級闘争をやって来た関係上、争議等の場合の感情を爆発させることが手段であったものですから、武内先生にも、いろいろ迷惑をかけることがあって、大変に済まないと思ふことがあります。これ等は、私の過去の永い経験から来た習慣になってゐるのでせう。ほんとうに、私自身困ることがあります。

 私は毎朝、毎晩露骨に見せられてゐることは性欲の問題です。私の泊ってゐる湊川青年団の事務所のウラ道は新開地の袋小路(と云ふのは、人生の袋小路と云ふ意味です)になってゐる関係上、夜中に一度眼を覚まさせるのです。男と女の秘密は此の袋小路では治外法権になってゐるのかも知りません。

 飲食店の味覚とジャズと映画の殿堂とレビューの踊り子が大衆性を持ってゐる新開地です。私はこうした淫蕩的な雰囲気に勝たなければならないと――ほんとうに祈ることを知らない私は道を求めてゐます。

 私の魂よ、
 悲しむな、

 それに、私は終日烈しい労働に疲れ切ってゐることがあります。私は今少し時間の余裕と心のゆとりとが恵まれるならばと、今少し、私の心の検討と敬虔な奥ゆかしさを持つことが出来るんぢゃないかとも思ふ理です。

 吉田の親分は私を大変可愛がってくれます。
 ――お前のやうな、若い衆は、一寸めづらしい、と云ってゐます。
 然し、私は勝たなければいけない。
 私の魂に私は囁く・・・。
 決して、敗けてはならないことを。

 註――然し、働いても、働いても、お金は少しも残りません。うんと働くものですから、飯代が六十銭かかります。それに風呂代と暑いから氷水の一杯も飲みます。先月(七月)は仕事着のシャツを買ふたり、ズボンを買ふたり、書物を一冊買ふたり、私の従弟が仙台の刑務所の未決に入ってゐるものですから、一寸差入れしたものですから、今月(八月)から、どうにか二円五十銭ばかり貯金をしました。十月頃までに、武内先生に、返済しなければならないと心掛けてゐますけれど、堀井さんの所に二十日過ぎに二日ばかり休息したいと思って旅費を貯めてゐる理です。いろいろお世話になって、どんなに有難く思ってゐるか知りません。



        (四)

  エス団での説教――。

 私はこうした新開地の雰囲気から、日曜日毎にイエス団に行くことがどんなに楽しみであるか知れません。私の故郷に帰ったやうな思ひをする。そして、その席上で私は私自身を恥ずることが多くあるやうです。

 と云うふのは私の住んでゐる新開地の世界とあまりにも異った美しい敬虔な気持に満たされてゐるから、私は表面的には、ことなかれ主義で私の魂の驚異を包んで居りますけれど、私のある反面には、あまりにも恥ずることが多いやうです。

 信仰の生活とは不動の精神であると云ふ現実的な姿を私は武内先生によって見せられて居ります。二十九日の晩、集まる人達も少なく、何となく物足りない感じがないでもありませんが、それにも関わらず、武内先生は新川の贖罪を背負ってゐるかのやうに常日頃と変りなく、ぽつぽつ話される所は、五・一五事件の農村愛郷塾の指導者も斯く青年を指導あらしめたのであらうと思わせる私の経験を通じての魂の躍動です。

 註――私は五・一五事件の公判記録を参考に読んで見ました。

 それに先日十五日の日曜日に説教なされた環境の支配に就いて――私はこうまで武内先生が身をもって体験されつつイエスの宗教とその真理を語ってくれるのかと思ふと、血が流れるやうな嬉しさを感じるのです。

 特に私は私達の生活環境を終日考へられてゐることですから、それ等複雑な社会形態と信仰の勝利に就いて考へざるを得ないことがあるのです。

 飯が食へないと云うふことは事実です。経済生活の絶対性に就いてキリストにつける人達はどうして嫌悪するのでせう。経済生活こそ――環境の支配であるのです。この経済関係の改善を社会的に政治権力的に変革しない限り大多数の飯の食へないプロレタリアと貧農は救われないことです。

 これは歴史的な資本主義経済の恐怖であるからです。然し、それ等を通じて全意識的な信仰の勝利を信じることは幸いなことです。

 それにつけても、私はイエス団の教会が私のやうに宗教的な未経験な宗教生活の訓練に対しても、否、私の歩んで来た方向の異った観念に対しても、理論的に生活的に、信仰的な点から云っても非常に進歩性を持ってゐることを、私は私の北海道の友人諸君へ誇りたい意味でもあるのです。

 北海道にもキリスト教会が多く見受けられるやうです。然し、教会は十年一日の如く大衆から棄てられてゐる日曜説教に過ぎないので、大衆の要求、時代性、大衆の指導性に就いては、キリスト教会はあまりにも遠い世界になってゐるのです。

 註――ロシヤのレニンが宗教の阿片性を暴露してゐるのは、此の点にあると思ふ。左翼の戦闘的な無神論者同盟と云ふ認識不足の団体も、理論的な、教会への対立でなく、感情的な教会への対立となってゐることは、私が北海道に居ったとき、此の一派のグループとも知合ってゐたので、この点は、理論的にも哲学的にも、私の議論が一歩前進の指導性を持ってゐます。

 おそらくそう云ふ意味に於いて、賀川豊彦先生より他に日本の共産党員に対しての指導性を持ってゐる指導者は、キリスト教関係者にあるであろうか?

 全国の刑務所に叩き込まれてゐる五千七百人近くの共産党員が、その三分の二転向状態にあると云はれてゐます。

 然し、来るべき道は何処へ行くと云うふのであらう。私の親しい北海道の同志諸君も多くは転向と生活的な没落をしてゐます。

 註――北海道農民組合の書記をやってゐた菊地君と云ふ親しい私の同志は、最近便りがあって、――生ける屍――だと最近の心境を私に訴へて来てゐます。

 私は共産党員に対しても、傷つける魂を持ってゐる私達に対しても、親切な愛の言葉を囁いてくれる指導者は賀川豊彦氏であることを私は知ってゐます。それが十年一日の如く終始一貫無産者と貧民の味方であるからです。

 私は武内先生の指導を受けたいと思ってゐます。そのことによって、間接的に賀川先生を人間的に個人的に知ることになるのでせう。

 環境の支配――それ等に打ち勝って――信仰の勝利と云うふことは、決して、マルクスの経済学と対立してゐると思はれません。

 註――私は、これ等の原稿を書く順序を、毎日撒水車を引きながら思索を続けてゐるのです。そして、私の職場は湊座のポンプである所から、そこで曇った日を利用して、休憩時間を利用して、断片的に書いたものを、翌日の朝、二枚づつ清書して整理してゐるのです。これは高比良君も知ってゐることですが、毎日のやうに、六甲の労働者諸君は私の所に集ります。飯が食へないと云うふから、私の労働賃金を都合して、壱円二十銭位になってゐるでせう。


         (五)

  農民小説と――。

 撒水車を引くことも相当に辛いことです。
 酷暑の炎日を、私達は汗まみれになって働いてゐます。ほんとうに汗まみれの生活です。

 然し、それも、八月一杯と九月中旬頃までになると、どうにか一つの実を結ぶことが出来ると信じてゐます。

 私のこうした労働の反面と精神的な育って行く――忍苦と努力の反面があるのです。

 私はいま「上申書」のほかに、図書館から借り出してゐる書物と農民小説を書く初歩的な材料を集めてゐます。私の所に来てゐる日本農林新聞社の懸賞論文である所の「農山漁村の更生策」と中央公論七月号「盲目」と云うふ小説の文芸批評を、大体今年中だけでも二百枚近くの原稿と材料と構想を練って見たいと思って居ります。

 私は終日烈しい労働に従ってゐることであるから、無理のない程度で不断の努力を続けたいと思って居ります。

 毎朝二枚づつ原稿を書いても、二百枚だと百日(三ヶ月半)ですから、本年中には書けそうな気もする。それに労働と云ふことも、精神的な祈りの気持が加味しない限り、それは単なる食うふために生きる――少しの進歩性も見出し得ない社会的な屑の労働に、結果かう云ふと終ることになるでせう。

 考へて見るまでもなく、若し、こうした撒水夫のやうな仕事を、世俗的に言ふなら、社会生活の水平準以下であるのです。

 放浪者(ルンペン)より一寸生活的に――食うふために、基礎があると云うふに過ぎない労働である。

 然し、そこに、どんな仕事であってもよろしいから精神的な魅力があると、其れ等が結果に於いて神の栄光の表現ともなることです。

 そう云ふ意味で私は労働とともに、勉強もしてゐます。

 こうした私の一つの行動が、ブラジルを第二の方向へと歩んでゐる過程なのです。

 私が農民福音学校を選ぶと云ふことも、それ等を基礎にして、私の今年中に書ける作品によって、私の才分なり、私のこれから選ぶべき方向なり、私の魂の状態等がハッキリしてくると同時に、あるものを掴んで十分に生かす、それが私の農民小説の重点です。これ等の三位一体によって直接、私の魂を指導しつつある武内先生と賀川豊彦氏によって認められることによって私の更生があり、私の魂の救ひとなってゐるからです。

 私はそれ等を通じて、来年度の私の行動を決めたいと考へつつあります。

 それは言ふまでもありません、現在の私は旅先の道場と云ふ修行です。これからが本格的な北海道の労働者と農民のために、今一度省みる必要を感じなければなりません。

 繰り返し、宗教生活と云ふことは、個人的な贖罪と社会的な指導性が根本的な原理となってゐると思はれる私の全意識的な認識です。

 私はブラジル問題に変って、農民小説を書くことが私の社会的な生命になるでせう。

 そうして、それ等のことを精細に整理して見ると、私の芸術的な天分なり、文学的な基礎は永い間の友情であった、日本共産党文化運動の書記長をやってゐる東京の警視庁で殺された小林多喜二君の霊に対して、私は贖罪しなければならない節操の観念と小樽時代のグループの親しい友情でもあるからです。

 註――彼の小説は、左翼運動の全盛の頃、国際的にほんやくせられて居ります。そして、彼程、勉強した男は、私の小樽時代に見受けられない程に勉強し、彼の小説集は、日本の出版界でも、重きをなしてゐます。私と同年齢で小樽高商出身です。改造の六月号を読んで見ると、山本実彦社長が、賀川氏の「死線を越えて」の出版は出版界でも、あれ以来の出版数が、今日まで絶無になってゐると書いてありました。それ程に、プロレタリヤ作家としての小林君の出版は、プロレタリヤ芸術の方面での絶無であると云うふことが出来るでせう。

 私は性格的に言ふと、非常に急激な変化性を多彩に持ってゐるやうです。

 私の小学校時代の頃、先生が、
 ――工藤はよくなると偉い男になるし、悪くなると、とんでもない男になるやうだ――と云ってゐたことを記憶してゐます。これは、現在、私が小学校時代から今日までの変化を考へて見ると、私と云ふ男は性格的に急激な多数性を持ってゐると同時に実に美しい友情を持ってゐることを私自身が私を認めてゐます。

 註――私のためと云はれるが、どこか、今の所判断がつきませんけれど、私が十勝の農村道場で更生を図ってゐたとき、私が行方不明になったと云ふので、私を尋ね、尋ねてゐた中田義雄君と云ふ小樽の組合の書記をやってゐた彼が、私が自殺をしたんだと思ったことでせう。あの頃の私のことだから。彼は私のあとを追って自殺したんぢゃないかと、私の友人達が、私が関西にくる直前に話してくれたことがあったのです。

 私が、北海道の農民と労働者のことを考へるならば、私は私の魂の救ひと指導理論を、ハッキリ私のものにして帰ることが、どう考へてもほんとうらしいのです。

 そして、小樽の友人諸君等と図ると同時に私一人息子である親父に親類に私の更生の道を証言して、私の家庭の贖罪、私の友人諸君への指導性、小林君の歩んだ今一歩を前進して、彼が生前、樺太を舞台にした小説を書きたいと云ってゐたことが度々ありましたが、彼の意志を、私の立場から樺太での労作は決して無意義であると思はれませんし、そのことによって、私の立場からの贖罪と農民と労働者への指導性が確立されるのではないかと思はれて居ります。

 ですから、此の整理されて行く心が決定的なものでありませんが、若し、出来ることなら、来年の五月頃、大体の目標を定めて、小樽へ帰ることが至当でもあるやうに考へて居ります。そして、そのことによって、私が生きる私の道であり、残された刺が、一つ私の身から贖罪化されてゐるやうな心を覚ゆるのです。



        (六)

  社会科学と宗教生活に就いて。 
 私はこの稿でマルクスの経済学説と宗教生活とが対立しないことを書いて来ました。

 然し、哲学的に言ふなら、マルクス主義史的唯物論であり、宗教は唯心論に属してゐると思はれてゐます。そして、十九世紀の歴史学者の論争と云ふのは、此の唯物論と唯心論の論争であって、マルクス学徒は唯物論者であり、ヘーゲル学徒は唯心論の代弁者であったと思はれる。こうした歴史的な、哲学的な根本問題である論争の中心を、弁証法と云ふ学説を認めるか、否やにあって、決定されてゐると信ずる。

 私は歴史的に観るなら、弁証法論者で、一切の社会科学的な機構を弁証法的に、現在でも批判しつつ来てゐます。これは正しいことで、弁証法とは、歴史の正反合を意味する。

 十九世紀の実証歴史観は正反の論争に過ぎないやうに思はれてゐます。
 然し、二十世紀の機械文明と国際的な複雑性は弁証法の所謂、正反を揚棄して合目的性によって大衆の指導原理になるつつあるやうに思考する。

 註――実際、唯物論と唯心論の論争は、今日の私達の間では解消してゐます。土方人夫が唯物論者で街の淫売婦が唯心論者であるにしか思はれない、古い時代的な論争になってゐる。何故かと云うふなら、人間はパンなくして、生きられないことであるし、精神的な糧である所の文化形態を、精神的に、情操的に、慰安的に必要視され、日常生活に、これらのもの、ラジオ等、心理的に、人間の文化形態の一つになってゐる位だからです。従って、パンのみを言うふ人間は土方人夫であり、愛情の問題のみ促はれてゐる階級は淫売婦に過ぎない――と云ふ極端な表現かも知りませんが、事実は、そうなってゐるのです。それ程に人間の社会形態は、進歩的であり、機械主義であり、情操的に動いてゐる事実なのです。ラジオの音楽はパンではあり得ない、喫茶店のコーヒではお腹がふくれない、デリケートに属した心理性なのです。

 こう云うふやうに、社会科学の世界では、常に古きものより新しいものへと弁証的な神学を認めると否とに関らず、歴史は常に冷酷に弁証法的に進行しつつあることは事実です。

 註――賀川氏の著書で「神への思慕」(一九三一版)自然科学と人文科学に就いて、私は参考に読んで見ました。

 従って、今日のキリスト教徒が純福音の立場から、神を問題にしてゐるなら、大きな誤謬を犯してゐるやうに思はれます。それには社会科学は社会機構の全部と云いひたい程、支配してゐる経済行動に認識の不足であり、ロシヤのレーニンが叫んでゐた――宗教の阿片性――が此処から生れてゐるやうに思はれてゐます。

 と同時にマルクス主義学徒でマルクス主義の絶対性を揚棄しない限り、今日の労働者と農民の問題ばかりでなく、一般人民の名に於て大衆的な指導原理を失ってゐると云はなければなりません。

 註――賀川先生でも、ヒットラーでも、ムッソリーニでも、レーニンでも、特に労働者と農民に政治的な重点を置いてゐる所は、労働階級は次の時代の指導性の原動力になってゐるからです。

 それ故にです。
 日本的に云ふなら、河上博士の資本論賀川豊彦氏の宗教的な精神を理解しない限り、それは労働階級の革命と云ふ小児病者の痴人の夢に過ぎないことになってゐます。

 然しながら、所謂、世の中は冷酷です。労働賃金の決定は商品価値にあるので、決して労働者をして人間価値として取扱ってくれるものでないのです。

 註――河上博士の第二貧乏物語―商品価値論。

 私はこれ等、弁証法的に言うふなら合目的性実証歴史観が此れからの社会科学の指導性と人間史になると思ふ。

 そう云ふ点で私の北海道労働者農民の指導意見書も基礎的な宿題は此処から出発してゐるので、私の産みの苦悩を味ってゐる現在のプロセスは、河上博士の史的唯物論より進歩的な指導性を持ってゐると思はれます。何故なれば日本共産党の資金局の責任者であった河上博士の義弟大塚有章氏は、赤色ギャング事件から、急に心境に変化を来たし、――私は坊主になります――と公判で告白してゐます。こう云ふことであるなら、最初のスタートが誤ったことをハッキリ宣言してゐることで、ここには理論的な整理もなければ、労働階級に対しての節操もありません。それに多くの大塚氏によって指導されつつ行動をともにした同志の友情に対しても裏切ってゐることなのです。

 それ等と稿は変って、私は賀川豊彦氏より経済学を学ぶことを期待して居りません。

 註――賀川氏の「主観経済学原理」(大正九年頃出版)、私は大正十三年頃、二十四歳の頃読んでゐます。

 私は経済学者の権威である河上博士と賀川豊彦氏の宗教生命を揚棄して新しい指導精神の確立を合目的性の指導意見としたいと思ってゐる次第です。

 従って、言葉を換へて言うふなら、マルクス主義は経済学としての権威であり、それ以上ではあり得ないと云うふことと、宗教生命の現実性は神への絶対的な権威に、人間の方向性として社会生活の経済観念を指導しなければならないと云ふキリスト教、組合主義の理想国家論です。それ故に、私は罪人です。労働組合運動と農民組合、小樽の文化運動を、大体に於て指導的な立場にあった関係から、法律的な前科を持ってゐます。その他に、警察の留置所に東京時代から数へると、七八回持ってゐることです。

 註――此の稿を書くと、もっと具体的に書かなければなりませんので、上申書の完成によって、十分に読んで頂きたいと思って居ります。私はマルクス主義の転向者ではありません。ハッキリ、私はキリスト教、組合主義の傾向に、理論的に整理されつつあることです。



        (七)

  性の拒勢に就いて

 私はこのことを、神戸に来てからとか、嫁さんと別離したからと云ふ最近に起った私の祈りではありません。

 これは、少なくとも三十四年の心的な過程を踏んでゐるのです。それ程、具体的に考慮されませんでしたけれど、キリストの宗教と私の祈りの良心的な動きが、再び具体的に、どう云ふ事情があったにせよ、拒勢しなければならない救の刺になってゐるのです。

(イ) その一つとして、私の家系の遺伝的な法則を見逃してならないこと、
(ロ) 私の北海道に於ける指導性――何等かの意味で私は真剣な具体性――贖罪の具体性を持たなければならないこと、
(ハ) 私自身の弱さから来てゐる性的な欲望への拒否、而して、私の十か年のマイナスの生活に対しての更生の祈り。

 これらの具体的な目標が私をして、性の拒勢に就いて、考慮して居ります。

 遺伝的に言ふなら、悲しいことには私の血族関係は此の女に対しての弱さを多分に持ってゐる事実を私は見せられて来ました。

 これは大変に書き難いことですけれど、私の親父は一人息子の私より私を生んだ母親を私が生れて三ヶ月目に追い出して他の女と生活をしてゐたと云ふ祖母の物語が、私が物心がつくに従って知ることが出来てゐます。それから、少年時代から今日までを通じて、――これは全くに恥かしい話ですけれど――私の母となるべき親父の妻が私の知る限りに於いて三人変ってゐることを私は知ってゐます。

 こう云ふ複雑な家庭の事情が私をしてどんなに悲しませたか知れない。それと同時に家庭的に恵まれない私の歩んで来た道と云ふことも出来るであらうし、こうして私が旅先にゐると云うふことも大部分は私の家庭の問題から出発してゐることにもなってゐるのです。

 註――上申書の内容は、こう云ふことに、ふれて見たいと思ひます。

 そうした親父の母に対しての血族の遺伝が祖父によっても見受けられます。それ等が私家の悪質的な遺伝の法則となって私の精神的な問題にまでもくひ込んでゐる。私の過去の道を私は知ってゐます。

 これは、ほんとうに悲しいことであるし、遺伝の法則の恐ろしさと云ったものを、泌々考へらせられてゐることです。

 こう云ふ点で私はほんとうに罪人です。此の罪の深い一人の女性の生涯を台なしにて仕舞ってゐる罪の深い私であることです。私はこの贖いを、何によって贖ふべきであらうか、神への信仰も具体性を持たない限り真剣な祈りの態度がハッキリしないと思ふのです。中央公論七月号に「盲目」と云ふ小説が載せられてあります。此の作者は新人で日本のジャーナリズムから認められて来てゐます。此の「盲目」が大変な良い作品であると云ふ東京朝日新聞の文芸批評で私は読んだことから、私は貴い労働賃金から一冊買って一通り読んで見ました。

 註――この作品の大変良いと云うふことは、中村君とプロレタリヤ芸術に就いて話し合ったとき、十分に認められてゐました。

 作者――日本の共産党員であり、あらゆる貧困と官憲の弾圧と戦って来た彼であったが彼に与へられた報酬は悲しいかな、刑務所の独房であったのです。未決に永い間叩き込まれてゐるうちに過去の栄養不足と急激な生活の変化と囚人風呂で囚人の梅毒菌を目に受けて失明の悲運にと云ふ筋を克明に、彼の経験を通じて芸術の真実性に就いて、十分にふれてゐる理です。八十枚近くの作品ですけれど。

 註――然し、私は朝日の批評家が激賞する程に、私は評価してゐません。これは、作者と私の芸術理論の対立ですけれど、そう云ふ意味で、私は、此の「盲目」の批評を、北海道の同志諸君達であった人達に書きたいと思ふし、中村君にも一応読んで貰ふことを約束してゐます。

 ただ、此の小説の一節に、
 ――私は失明のどん底につき落されながらも、・・・・
 この主義のために、喘ぎながら、生きて行かなければならないと云ふ悲痛極まる全編を通じて彼の真実を語ってゐる理です。

 私はほんとうに此の点だと思はれるのです。此の真実性こそ、読者の胸を打つ生きんとして生きる彼の悲痛な姿となつかしい人間的な情味を感じるのです。

 中央公論の編輯者も、此の作品の価値と彼のこの真実性を通じて新人号として頁を飾ったもののやうに思ってゐます。

 註――賀川先生の場合でも、この点にあると思ふのです。「死線を越えて」は、芸術価値の作品ではありませんけれど、賀川先生の真実な姿と経験が、読者をして、今日、なほ、繰り返し、読んで見たい気持でゐます。私は神戸に来たことから、今一度、「死線を越えて」が、誇張的でないか、――これは、多くの読者は、そう思ってゐるのです。そんな事実があるもんか、小説だから誇張してゐるのだらうと、私もそれを信じて来ました。私は「死線を越えて」を再吟味したいと思ってゐます。

 それ故にです。私は思ふ。
 人一倍の苦労と人のなし得ない新しい境地を開拓して行かない限り、社会人として認め得られものでないと思ふ故に、私の拒勢に対しての態度も、此の真実な祈りが重点になってゐるのです。

 ああ、私よ、
 私は泣き出したいことが度々あります。
 けれど、私は悲しまない。
 具体的に目標を定めて、私の贖罪を考へることが正しいことです。
 この道を通らない限り、理論的に北海道の大衆の指導性を持つことが出来たとしても、人間としての私は信頼され得ないであらう。

 それは、私の血族に対しての贖罪であり、私の同志であった人達への贖罪であり、私の嫁さんに対しての贖罪であり、私の子供――節ちゃんと云ふ五つになる女の子に対しての限りない私の贖罪になってゐるのです。

 これは、私の最後にまで残された刺になってゐます。私には、どうしても通らなければならない道であるやうです。

 註――最近になって、六甲山で一緒に働いてゐた神戸共産党の伊集院が、いよ、いよ、更生の一歩を踏み出して、貨物自動車の積卸人夫になってゐます。彼と新開地で会ったのですが、私に涙を流して、更生をちかってゐます。おそろしい、地下工作の三か年は、血みどろの態度と苦しみが必要であることでせう。私の更生も、神戸にくることによって、二か年目の更生の経過を踏んで来てゐます。ほんとうに、祈りたい心で一杯です。伊集院君は、私に肖像画を書いてくれたと云ふ。彼のためにも祈りたいものです。


付記。
 繰返し、読み直して見ましたけれど、文章的に誤ってゐる所も見受けられます。然し、これは、私の心的な過程で、私の上申書の骨子にもなってゐる断片的な覚え書です。此の一篇を、武内先生に読んで頂くことによって、私の心の重荷が、軽くなるやうな、私の節操の問題です。

 いづれにせよ、一応、目を通して頂きたいと思ふ次第です。

       ○

 終日、忙しいのと、疲れ切った思索で、まとめて見ました。然し、撒水の仕事も、農家の農繁期だと思ふと、それ程に辛いこともありません。

       ○

 いろいろな点で、お世話になって有難く思ってゐます。
 実際、武内先生より他に、私を手引きしてくれる人がありません。それも旅先にゐるのです。
 お借りしてあるお金を、今月一杯にお頼みします。

   八月六日          工藤生

「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺1

  武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
                     

 表記については、2009年の「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」(現在も伴武澄氏の御好意でこのサイトは http://k100.yorozubp.com/ に引っ越して公開中)における「賀川豊彦のお宝発見」(長期連載の最終回)で短く言及し、それは賀川記念館のHP http://www.core100.net/ の「研究所」の関連個所においても閲読可能になっています。
 まずその部分を、ここに改めて取り出して置きます。

              ♯              ♯

 (前を省略) 公開できた中で最も注目させられたのは、「武内勝日記」のA(昭和前期)とB(最晩年)であった。これは武内氏の人柄と日常を知る一等資料となった。「手帳」に残された戦後の武内メモも貴重であるが、本サイトでは殆ど紹介できなかった。

 「玉手箱」に収められていた「お宝」には、120通近くもの武内勝宛の「賀川夫妻からの封書・葉書」が残されていたことも驚きであった。私にとってこれは、まさしく予期せぬ「大発見」であった。

 一部を除いて、このサイトでほぼ紹介することが出来たが、改めて武内氏と賀川夫妻とが「同時代の同労者」として「苦楽を分かち合う間柄」であったかを知る、得がたい基礎資料であった。書簡類も失われてしまっているものも多いようであるが、よくこうして「玉手箱」に遺していただけたものだと、祐一氏に深謝している。
________________________________________
 
(写真省略)

 これは、所蔵資料の中にあった4冊の文書である。400字詰め原稿用紙にペン書きされ、こよりで綴じられており、4冊とも「武内先生に――」として届けられている。

 筆者は「工藤」と書かれ、当時30歳代と思われるが、北海道小樽で毎日新聞社会部の記者として、農民運動や労働運動にも関与し、小林多喜二とも深い関係を持つ人のようである。(文面に「工藤豊八」とあるので、これがお名前かも知れない。)

 北海道で賀川豊彦を知り、神戸のイエス団に飛び込み、武内のもとで日雇労働をしながら執筆活動を重ねている、小説家志望の文士という印象を持つ。

 因みに第一冊目は、「武内先生に―。この一編は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。」(原稿用紙42枚)
 第二冊目は第二編で、「武内先生に―。魂の彫刻を語る―散文的に―生活と芸術の統一性―一つの小さな喜びの歌」(原稿用紙13枚)
 第三冊目は第三編で、「武内先生に―。春と花の心を語る―血と光の真理を求めて―只、一つの道、生命線―人生の未完成交響楽」(原稿用紙13枚)
 第四冊目は第四編で、「一つの果実。(一)ルンペン哲学―能動的な精神―死線を越えて 芸術に関する覚え書き―序論―賀川先生の芸術の統一性―無名時代の地下工作―メカニズムと芸術の統一性―芸術の真実性と商品価値―芸術への展望 書きたい構想―再び、反賀川派について―イエス団正反合の統一性―指導者に関する私見―私の決意 労働者の問題―メーデーを中心に―パンと魂の一元論―マルクス学説への反論―ラスキンのベニスの石 農村のその動向―村井の農民座談会―行政の県会地下工作―堀井農村道場の再吟味―農村青年の苦悶―自然美と人工美 イエス団―25年の基礎工作―参考意見」

 以上四篇が残されている。ご自分では『武内勝伝記小説』を書ける自信をもっている、と記すほどに、武内勝への深い尊敬の思いを、文面いっぱいに滲ませているドキュメントである。

 ここでは一つだけ、紹介しておこう。

 「武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じているもんだから」と書いて、工藤は日雇い労働の仲間たちに、次のような歌をつくっている。

 草津節で―

 1 神戸イエスに、一度はおいで、ドッコイショ
   武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイナチョイナ
 2 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ
   阿南先生は、コレア、チパパと踊る、チョイナチョイナ
 3 神学校の松本兄弟、ドッコイショ
   神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイナチョイナ
 4 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ
   恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイナチョイナ
 5 長田に行くなら、河相さんの所、ドッコイショ
   日曜学校で、コレア、番町の光、チョイナチョイナ
                        (第二冊目5枚目)

 ともあれこの作品は、じっくりと閲読をさせて頂きたい。
 工藤さんはその後、どのような歩みをされ、どんな作品を書き残されたのか、興味津々であるが、今のところすべて不明である。

     
               ♯              ♯


 このブログでは過日「賀川豊彦の畏友・村島帰之」の長期連載(190回)を終えたばかりで、ここでひとやすみをしておりました。

 ところが、2014年10月15日、久しぶりに、地域史研究・民衆史研究に打ち込んで居られる田中隆夫氏よりお電話を受け、以前我が家に来訪いただいた折に、前掲の「工藤氏の草稿」(コピー)をお渡ししていて、田中氏は最近、所用で北海道在住の研究仲間の方にこの資料についてお話しいただいたそうで、できればこの資料に私のコメントを添えて、その方へお届けしてもよい、との申し出をいただきました。

 そこで私は、標記の貴重な資料を、是非この機会に、読みやすい形にテキスト化しておき、それを田中氏とその研究仲間の方の閲読をいただいて、適切な読解とコメントを願えればと考えました。

 この作品は、「武内勝氏宛の工藤レポート」であるので、武内勝氏その方についても、ここで始めに言及して置くのが順序ですが、すでに上記ブログの長期連載で、武内勝氏の全容については公開していますので、関心のある方は、まずそちらをご覧いただくとして、ここでは早速、工藤氏の草稿そのものを、少しずつテキストにしてUPしていくことにいたします。

 この作業を進めながら、工藤氏の労作の意義づけがいくらかでも明らかに成ればと願っています。このブログを御読みになった方の中で、何か御教示をいただくことができればありがたく存じます。

       (2014年10月29日記す。鳥飼慶陽)
     

「賀川豊彦の畏友・村島帰之」所収リスト

      賀川豊彦の畏友・村島帰之」所収リスト
           2014年2月4日〜10月6日

第1回 2月4日 「村島帰之略年譜(準備稿)」(1回分)
第2回 2月5日〜第26回 3月3日 「賀川豊彦病中闘史」(25回分)
第27回 3月5日〜第29回 3月6日 「病みて益ありき」(3回分)
第30回 3月7日 「病床を道場として」の「解説」(1回分)
第31回 3月8日 「賣娼」(1回分)
第32回 3月9日 「生涯を癩病院に――若き女医安田千江子」(1回分)
第33回 3月10日 「アメリカから」(1回分)
第34回 3月11日 「アメリカ視察記」(1回分)
第35回 3月17日 「あの頃のこと――歴史的賀川講演「ヨブ記」」(1回分)
第36回 3月19日 「カガワか、ガンジーか」(1回分)
第37回 3月21日 「瑞穂の国は女工の國」(1回分)
第38回 3月23日〜第39回 3月24日 「或る自由労働者の手記」(2回分)
第40回 3月27日 「婦人犯罪の種々相――その2、棄児」(1回分)
第41回 3月29日 「ある労働者の手記」(1回分)
第42回 3月31日〜第51回 4月19日 「賣淫論―1〜10」(10回分)
第52回 4月21日 「道頓堀の考現学的研究」(1回分)
第53回 4月23日 「現代世相の一断面」(1回分)
第54回 4月25日 「被害者としての職業婦人」(1回分)
第55回 4月27日 「大阪府方面事業の将来」(1回分)
第56回 4月29日 「スピード時代」(1回分)
第57回 5月1日 「新聞の話」(1回分)
第58回 5月3日 「瀕死の丁稚制度」(1回分)
第59回 5月5日 「路傍の行き倒れ」(1回分)
第60回 5月7日〜第61回 5月9日 「不良児の特癖」(上下)(2回分)
第62回 5月11日 「素晴らしい賀川氏の人気――トロントにて」(1回分)
第63回 5月13日〜第70回 5月27日
    「太平洋を行く――賀川先生に随伴して」(8回分)
第71回 5月29日〜第80回 6月12日 「アメリカ大陸を跨ぐ」(10回分)
第81回 6月14日〜第158回 9月3日 「アメリカ紀行」(77回分)
第159回 9月4日〜第160回 9月5日 「風水害地の人間愛1〜2」(2回分)
第161回 9月6日 「回顧二十年――あの頃の神戸新川」(1回分)
第162回 9月7日〜第171回 9月16日 
     「本邦労働運動と基督教1〜10」(10回分)
第172回 9月17日 「普選運動を中心に」(1回分)
第173回 9月18日 「労働組合の産業自営試験」(1回分)
第174回 9月19日 「労働不安の絶頂・大正十年」(1回分)
第175回 9月20日 「賀川豊彦氏の社会事業とその特異性」(1回分)
第176回 9月21日 「雲の柱十九年私史」(1回分)
第177回 9月22日 「バラックの留守番から」(1回分)
第178回 9月23日〜第184回 9月30日 「歓楽の墓」(7回分)
第185回 10月1日 「歓楽の墓」の賀川の「跋」」(1回分)
第186回 10月2日 「愛の使徒賀川豊彦の生涯」(1回分)
第187回 10月3日 「わが友の人間愛」(1回分)
第188回 10月4日 「砕けたる魂」(1回分)
第189回 10月5日 「交友四十四年を顧みて」(1回分)
第190回 10月6日 「賀川豊彦入門」(1回分)