2014-03-01から1ヶ月間の記事一覧

賀川豊彦の畏友・村島帰之(42)−村島「賣淫論」(一)

今回からは数回にわたって村島帰之の労作「賣淫論」を取り出して置きます。まず第一回は、「雲の柱」昭和5年1月号(第9巻第1号)に掲載の論稿です。 賣淫論 村島帰之 Prostitution(賣淫)といふ言葉は、Pro(前)とStitution(提供)とに分れて、自らの肉体…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(41)−村島「ある労働者の手記」

すでに村島の「或る自由労働者の手記」は二回分を取り出してみましたが、今回「雲の柱」昭和4年12月クリスマス号(第8巻第12号)に寄稿された「ある労働者の手記」も、村島自身が労働体験をした「自由労働者の手記」です。 ある労働者の手記 村島帰之 あぶれ…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(40)−村島「婦人犯罪の種々相ーその二、棄児」

村島は「雲の柱」昭和4年10月号(第8巻第10号)で「婦人犯罪の種々相―その一、堕胎」を寄稿していますが、その号がいま手元にないので、今回はその続き「その二、棄児」を取り出しておきます。 「雲の柱」昭和4年11月(第8巻第11号) 婦人犯罪の…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(39)−村島「或る自由労働者の手記」(下)

今回は前回の「或る自由労働者の手記」の続きです。タイトルの名称が変更になっていますが、おそらく前回の名称が正しいのではと思いますが、そのままにしておきます。 ♯ ♯ 「雲の柱」昭和4年5月号(第8巻第5号) 社会研究 ある労働者の手記(承前) 村…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(38)−村島「或る自由労働者の手記」(上)

前回は「雲の柱」更生新春号(第8巻第1号)に寄稿された村島の作品を収めました。今回は、その2号あとの昭和4年3月(第8巻第3号)の「編輯後記」と同年4月号(第8巻第4号)にある「或る自由労働者の手記」を表紙と共に取り出して置きます。 同時進…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(37)−村島「瑞穂の国は女工の国」

今回より村島帰之の「雲の柱」に寄稿した論稿を取り出して置きます。 前回も付記したように、村島の「雲の柱」への最初の寄稿は第4巻第1号(大正14年1月)に「バラックの留守番から(身辺雑記)」が最初で、その2号あとより8回分の連載「歓楽の墓」と…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(36)−村島「カガワか、ガンジーか」

前回は、村島にとっても大きな出来事となった「第1回イエスの友会夏季修養会」の記録(「火の柱」掲載分)を取り出して置きました。 改めて「雲の柱」の方を検索してみますと、大正12年11月号(第2巻第9号)には「XYZ」の名前で「祝福されしイエスの…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(35)−村島「あの頃のこと―歴史的賀川講演「ヨブ記」」

今回は、「火の柱」昭和27年10月5日付に掲載された、「第1回イエスの友夏季修養会」(1924・大正12年8月25日〜29日、御殿場・東山荘)の村島帰之による重要な記録をUPします。 下の写真は、この時の参加者47名、賀川夫妻は幼い長男・純基を…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(34)−村島帰之「アメリカ視察談」

今回は前回収めた「アメリカから」と関連する村島帰之の「アメリカ視察談」で、「火の柱」(昭和6年12月20日)掲載されているものです。藤本冬子の聴き取った小品。 この写真は、1931年(昭和6)7月10日、カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(33)−村島「アメリカから」

今回は昭和6年10月20日付の「火の柱」に寄稿した村島の「イエスの友」への短いアメリカ報告です。上の写真は、1931年(昭和6)カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招きで日本代表として賀川豊彦は村島帰之と小川清澄と共に平安丸で横浜港より出帆、…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(32)−村島「生涯を癩病院に―若き女医安田千江子」

今回は「火の柱」昭和5年2月1日付に掲載されていた村島の次の小品を収めて置く。 生涯を癩病院に ――若き女医安田千江子さん―― 村 島 帰 之 昔、或る哲學者に、白昼、提灯を携へて、巷に傑人を求めて、歩いた今私は筆を提げて、街頭に、家庭に「善き人」を尋…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(31)−「火の柱」掲載の村島「賣娼」

今回から数回にわたってイエスの友会の機関誌「火の柱」などに寄稿した村島の原稿(もしくは彼の講演・談話筆記)を取り出して収めて置きます。 まず、次の小品は昭和4年8月15日付の「火の柱」第82号にあったものです。筆記者の「藤本冬子」というお方はどの…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(30)−「病床を道場として」の「解説」

これまで村島の名著『賀川豊彦病中闘史』と共著『病の床にも慰めあり』の村島の小品「病み益ありき」を収まました。 今回は賀川豊彦の『病床を道場として―私の体験した精神療法』(福書房、1959年)から、賀川豊彦の「序」と村島の「解説」を収めておきます…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(29)−「病みて益ありき」(3)

病みて益ありき 村島帰之 (前承) 綱島梁川の場合 「綱島梁川も、しっかりした精神力をもっていたらしいね。病間録や回光録を読むと頭がさがる」 「そうだよ。梁川は早稲田専門学校を出た翌年はじめて喀血して、それから病気の消長はあったが、しばしば喀血…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(28)−「病みて益ありき」(2)

病みて益ありき 村島帰之 (前承) 誘惑をはじき飛す力を 「キューリー夫人の伝記を読むと、夫人はこんなことをいっている。わたしたちのような弱い人間にとって一ばん必要なことは、周囲のものがみな動かずにそのままいてくれることだ。しかしそれが得られ…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(27)−「病みて益ありき」(1)

前回まで村島帰之の名著『賀川豊彦病中闘史』を25回にわたって連載しました。豊彦と歩みをともにした帰之ならではの「賀川物語」でした。それは昭和26年8月に発行されましたが、今回から3回に分けて掲載する『病の床に慰めあり』(村島帰之・長谷川初…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(26)−『賀川豊彦病中闘史』(25)

賀川豊彦病中闘史(第25回) 一六 たましいの凱歌 的中しなかった預言 賀川は昭和二十三年七月十日をもって満六十才を迎えた。その日、友人門下によって還暦祝が催された。春子夫人を始め長男純基(バッハ音楽研究家)長女千代子(女医)次女梅子(関西学院…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(25)−『賀川豊彦病中闘史』(24)

賀川豊彦病中闘史(第24回) 一五 世界を家として 世界の人カガワ 賀川は日本の名士というよりは、世界の名士である。外国、特にアメリカにおける彼の人気は大したもので、内地の人々の想像以上である。ロサンゼルスにカガワ・ストリートという街のあること…

賀川豊彦の畏友・村島帰之(24)−『賀川豊彦病中闘史』(23)

賀川豊彦病中闘史(第23回) 一四 決死の傅道行脚 室気の甘い阪紳沿線へ 東京の震災復興運動も一段落ついたので大正十五年十月、賀川一家は東京を引揚げて酉宮郊外の瓦木村高木へ移った。此處は北に六甲の山脈を仰ぎ、海へは約十町、東は数丁で武庫川の清…