賀川豊彦の畏友・村島帰之(38)−村島「或る自由労働者の手記」(上)


 前回は「雲の柱」更生新春号(第8巻第1号)に寄稿された村島の作品を収めました。今回は、その2号あとの昭和4年3月(第8巻第3号)の「編輯後記」と同年4月号(第8巻第4号)にある「或る自由労働者の手記」を表紙と共に取り出して置きます。

 同時進行の別のブログ「賀川豊彦の魅力」において、昭和初年の同時代を刻んだ武内勝氏の日記を数回前に数回に分けて連載しています。

 まず、村島の短い「編輯後記」です。「XYZ」は、前にも触れたようにこれは村島のことではないかと思います。

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 編輯後記(昭和4年3月)

 ◇早くも更生第三号を皆さんの御手許へお届け出来ることを衷心から悦びとし且つ感謝して居ります。賀川先生の熱誠に姑く措き、先生の萬年筆代りをつとめられる吉本健子嬢の、五尺の男子も及ばぬエナージーと、編輯、校正、発送、庶務、會計の一切を引受けて、栗鼠の如く敏捷に、乙かも雲雀のやうに快活に走り廻って、少しも倦怠を覚えぬ快漢杉山健一郎兄の馬力には、ただただ感服の外ありまゼん。本誌の出来上りまでに、隠れたる以上の二兄姉の並々ならぬ努力のひそんでゐることを、読者諸兄姉もどうか覚えてゐて下さい。
 ◇賀川先生もいよいよ御元気で御用のためお働きになって居りますが、本誌に對してドジドシと原稿を御寄越なさいますので原稿は机上に山をなし、さすがの杉山兄も「七十二頁ではのせきれない。せめて改造ぐらゐの頁敷があっむらなア」と嘆声を発してゐる始末です。
 ◇本号の「エペソ研究号」については敢て手前味噌を申しますまい。今後も時にこうした特輯号を出したいと思って居ます。
 ◇編輯と印刷の都合で本月は三四日後れることになりました。実は原稿が豊抱にありますので選択になかなか骨が折れます。読み物のゝ第一に数へられる賀川先生の隨想「みあしの跡」も、とうとう次号に廻さねばならなくなり残念でなりません。
 ◇本号より時評と各地の事業報告と掲載いたしました。次号より教友だよりを掲載したいと思ひます。諸兄姉の御投稿を歓迎いたします。
 ◇なほ本誌は直接購読者に對しお送りするのみで、一般の書店には一切出して居りませんから、御知友の方にも直接読をおすゝめ下さいますやう。それが一つの文書傅道にもならうかと思びまず。
 ◇でば、この次は、さくら花咲く頃、また御意を得ませう。恩寵の下におすごしなさいませ。(XYZ)

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         「雲の柱」昭和4年4月号(第8巻第4巻)

           或る自由労働者の手記
                               村島帰之

    木 賃 宿

 歓楽境が若い男女の魂を吸ひつける所謂、灯ともす頃は、ドン底境でも一日の労働から漸くに解放されたドン底社会の人々の心をときめかす時間である。彼等は労働に疲れた体躯を、いぶせき畳の上に横へて、夢の國に遊ぶ前、暫くの時間を狭いドン底街のメイン・ストリートに出て、人間らしき呼吸をするのである。そしてドン底街は此の一ときにおいて、シャンデリア美しき帝國ホテルの大宴會場のやうな歓喜の波をたゞよはせる・・・。
 私は南大阪の賑ひを一点に集めたかと思はるる新世界の「歓楽境」の電光を逃れて、開西線のガードを隔てた釜ヶ崎の街頭に立った。大阪から紀州へ通ずる紀州街道の両側には、薄暗い灯の下に商品を拉べた夜店が拉んでゐて、その間を避難民のやうな姿をした男女が行き交ふ。
 南側の夜店は美しからぬ労働着類を並べた古着屋、草鞍屋、肉そつぷ、肉うどん、團子汁、巴焼あん巻、天ぷらなどの露店、それに店舗を張った飯屋、居酒屋、芋屋、餅屋、うどん屋……いづれも飲食を唯一の楽みにする此の界隈の人々の胃袋をハチ切れさせやうと許りに立並んでゐる。
焼肉と称して鯨肉を売る怪しげな屋台店や、関東煮、アラ汁、うどん等の蒸せ返るやうな匂ひ、居酒屋から洩れ出る濁み声・・・此處教丁のドン底街には明状し難いドス黒い雰囲気が漂やう。
 その夜店や店舗の合間合間には「やど」と文字の浮いた角行燈や「ひっそりとした別間もあります」と記された大きな提灯が点々として見へる。
之といって、別に選択もせすに、私が一夜の宿を乞ふた木賃宿はその中のDといふ宿であった。
 D屋の木賃料は一室借切りなら四拾銭と參拾銭割込なら貳拾銭と拾五銭といふ事であった。私はその中の最下等の拾五銭を選んだ。
 「履物は部屋へ持ってあがっとってくれあす」
先に立った案内媼さんが注意するので下駄を下げた儘梯子段を登った。
 部屋に這入るとその壁には「ばくちをすることはかたくおことはり、もしするひとがあればみつけしだしそのすじへうつたへます」といふ蚯蚓流の掲示があった。
 案内されたのは二階の三畳の間で、廊下の電燈を障子越しに利用してゐる。室は二方壁で、一方は高窓そして寝床が二つ敷かれてあって先客が一人既に仰向けになってゐたが、壁に下げかけてある絆纒は、その自由労働者である事を物語っていた。神棚のやうな棚には古い草鞋と下駄、それから泥塗れの跣足袋が載ってゐた。
 私は一応の挨拶をして室に入ると、鎌首を檯げた合客は矢張り人並みの答礼をした。
 「お湯がまだあるから入ったらどうです」
 見れば三十五六の温和さうな男であった。私は勧められるる儘裏手の浴場へと向ったが、その途筋の階下両側の矢張り三畳の間は、皆世帯持で、それぐ簡易な家庭を成してゐるのが、また残暑の開放しで悉皆覗かれた、子供の二人もゐるのがあった。夫婦裸体の儘の差向ひで晩酌の食卓も見へた。岐阜提灯と虫寵を吊した風流子らしいのもあった。
 遠距離電燈の明りを応用してある薄暗い浴場は脱いだ着物の置き場とてもない。浴槽は三四人入り程のものであつたが、丁度雑巾水のやうに汚れてゐて、泥溝のやうな臭気が鼻をつく。どろどろになった湯が六分目位もあって、「かかり湯」の備へられてない代りに、井戸が傍らにあった。私は裸にはなったものゝ、到底此の浴槽に飛込む勇気は出なかった。
折柄、丸裸の儘やって来たのは銀杏返し若い女であった。私は冷水を浴びせかけられたやうな気がした。
 室に戻ってから聞けば、男湯と女湯とは初めの中だけ時間で嘔別してあるものの、遅くなれば無紳経無秩序の男女は自然と男女混浴となるのであった。そして合客は、
 「僕も始めの中は入れませんでしたが、宿屋住ひをしてゐると何時の間には慣れっこになってね、女達だってあの湯の中でセツセと白粉を塗ってますよ」
 合客はTといって東京生れの男であった。彼は綿糸業に失敗の結果、大阪に流れて来たのが、とうとう此の釜ヶ崎に落ちて、鮟鱇を始めてから既う足かけ六年にもなるとの事であった。
「斯うしてその日送りをしてゐると、他で見る程悲惨なものぢやありませんぜ、娑婆のやうな気苦労がチツトもありませんからねえ」
 Tは私の問ひに任せて、それからそれからと言葉を続けた。
「寄場ですか、天満にも四貫島にもあるんですが、電車で行くのが厄介だから矢張り今宮の市役所のがいいですよ。此頃迄大正組といってガードの下を寄場にして、鮟鱇の手合賃を取って居たのですが、今度市役所で其の株――繩張をアマ買ったやうな訳ですよ。」
 Tは眠さうな欠伸を一つ噛みしめて、
 「とにかく明日の朝は一緒に出掛けませう」

    労働紹介所

 T町労働紹介所に導かれたのは翌くる朝の六時半、娑婆ではまだ夢暖い人々の多い時刻なのに、もうこゝに集まってる人は八九十人許りもある。襟垢のピカピカしてゐるどすぎたない、法被一枚の姿、夏襯衣一枚の者、夏帽、冬帽、向ふ鉢巻等の種々雑多の扮装をした十八九歳から六十歳前後迄を網羅してゐた。
 此の紹介所は、職業紹介所の裏手に別棟となった五間に六間程の建物で、事務所、傭主人口、労働者控所等に区画されてゐる。見れば係員の一人は傭ひ主と対応して作業種別、労銀、人数等を傅票に記入して、一方「労働紹介所取締」の印袢纒を羽織った呼出係は其の傅票に依って「壹圓參拾銭、町手傅、三人…諾…お前もか・・」などと怒鳴る。そしてそれに応じた者を、一人の係官が紙片に復寫で姓名を記入してこれを傭び主に渡すのであった。これは当所の手敷料は傭ひ主が支彿ふので、若し傭はれた者が気変りして途中で逃げてしまうた場合――これをケツワリと稀してゐる――当所の處置を念のため、叉手数料の受取代りに、一々記名して雇ひ主に渡すのである。
 所内には左のやうな二三の掲示があった……
「紹介手数料は五銭均一とす」
「仕事に行く途中及び現場より休止したる者には後廻しにし又は紹介せざる事あるべし」
「本所の紹介に係る労働者にして一箇月間に二十三日以上の精勤者に對しては左の区別に従ひ相当賞品を与ふ。一等二十五日以上精勤したる者、二等二十四日間精勤したる者、三等二十三日精勤したる者。賞品は草鞋、手拭、石鹸、引続き三箇月各等の賞を受けたる者に對する賞品は、猿股、襯衣足袋、引続き六箇月各等の賞品を受けたる者に對する賞品は、袢纒、股引、兵児帯。賞品は以上の如く定むるも時宜に依り他の物品を以て之に代ふる事あるべし」………‥。
 異様の扮装の人々は刻々と集まって来た。そして呼出係の声につれて、押合ひ揉合ひ之に応する緊張した叫びと、交される話声とが錯綜して一方ならぬ喧騒の光景を呈して行った。七時頃には十六坪許りの控所が殆ど立錐の緑地もない程、かれこれ三百人近くも数へられた。然しその中で絆纒、腹掛又は厚司といふやうな一定の姿は僅か十四五名しか見当らず、子供用の赤い帽子を被った雲助然たる髯面や夏襦袢に腰巻一枚の姿や、女袢纏一枚を羽織った跣足の者等……
 それは皆見得外観を超越した人々ばかりであった。折柄群衆の中から呼出係に真向に切込んだ声があった――それは一際目立つ武者振のワイシャツにチョッキ、夏ズボン、パナマ帽子の八字髯といふ中老人で、
 「いや、それは逃亡したのではないのです、途中で親方が、もし雨が落ちてくれば直ぐ中止だ、その時は帰りのパスもやる事はならないからどうだ、後で文句いはないやうに帰るなら今の中に帰れといふで空はどうも曇ってますし、それに吾々はその日その日働かなければ食へない身分ですから、それなら他にするといふて三四人帰って来た次第ですから、吾々の方も御酌量願ひたいもんで」と聊か激したやうな、叉歎願するやうな懸河の弁滔々たるのに、取締は傅票を持った儘ピックリした体が瞬間の滑稽を演じた。
 「えらいもんや…」
 「なんぢゃろか、あのお髯はんは・・」
 「役人のなぐれかも知れんな…」
 「あんな人を鮟鱇の代表にして、労働會議へ出したえゝぢゃろ喃・・」
 取締を説服した八字髯を一同は口々に斯う賞讃した。
 偶と気が付くと、控所の窓外に十二三人の車座に蹲踞むだ一團があった。が、それは何時の間にか「サイカブ」とか称する野天博奕の盆が敷かれてゐて「ヤツ・・虎の六法だ…」 「アッ! オイチョ!!」等と小声ながらも緊張した声と共に、拾銭貳拾銭と頻りに輸臝を争ふてゐるのであった。
 一方、呼出係の前面には幾重にも詰めかけ、いづれも耳を聳て眼を光らし仕事の選択と争奪は愈々高潮に達して行った。そして矢張り一日の労働を需むべき私もその渦の中に巻き込まれた。
 「一日四拾銭、ぶらぶら仕事、ごそごそぢゃ・・」
斯う叫んだ呼出係は、偶と私に視線を向けて
 「オイ、お前も行け! 楽だぞ・・名前は?」
と声をかけてくれた。

    巻ゲートルの男
 呼出係の推薦で、思ひがけない仕事にありついた私は、同輩四人と一緒に、高津橋詰の「土木建築請負京市」ざいふ軒燈のある家に伴われた。そして少憩の暇もなく、四人のうち二人は他の方へ、私と今一人の巻ゲートルの奥羽誂ある三十恰好の男とは、紹介所へ傭ひに来た京市の世話役に連れられて電車に乗った。私達は之の京市の手から更に京町堀の古川といふ府廳御用の請負師の許へ向けられて行くのであった。
 此の日、府廳の會計課に大工の工事があって、私共はその材料を担いで、京市と府廳との間を三四度も往復した。仕事は隨分とつらかった。
 「壹圓四拾銭でこんなエライ仕事が出来るもんか、これなら貳圓五拾銭の値打が立派にある・・・」
 巻ゲートルは斯う愚痴を並べてゐるが、我慢がしきれずに世話役に、
 「一日こんな仕事をさすのんか・・」
 「いやこれはちよっとの間だ、もう一度ぐらゐ運んだらしまいだ。それからあとは府知事さんと内務部長さんと官舎へ庭の夏日覆を取りに行くんだ。それを一日がかりでぷらぶらやればいいんだ・・」
 斯ういったので私もホット安心した。
 府知事の官舎に行ったのは十時頃であった。その裏庭に廻って
 「マア慌てなくともええ、一服しやう……」
と世話役は庭前に腰を下した。が、巻ゲートルはさも驚いたやうに、佇立したまゝ四辺を見廻してゐたが
 「ウーム、大したもんだなア……」
 と、独言のやうに呟いた。なるほど、宏荘な日本建と西洋館との二棟、その橡側に置かれてある大きな藤椅子、開け放した窓に、垂れたすがすがしい色のカーテン、庭の築山、植込の芝生等、等等、彼の眼には御殿のやうに映ったのであらう。
 彼は感嘆の言葉を続けて、
 「之の手洗鉢も安くはないだらう……」
 「掬水月左手」と彫られてある大きな自然石の手洗鉢を撫ぜながら、
「府知事……ざいへば大阪府の頭だね、昔なら大名だらうな」
 「左様な、まア二三十萬石位の御大名ぢゃろ・・俺はちょいちょい之の邸へ仕事に来るんでヨウ知っとるが、そりゃお前……大したもんぢゃ、あんな綺麗な女中だってあんなにたんと居るし、それにあの白い前掛をつけた男は料理番だ、雪隠だってIつや二つぢやない。旦那や奥さんの行くのと、お客の行くのと、女中やなんかゞ行くのと皆違ってゐるんだ。その雲隠の中まで電燈がつくんだから電燈の数だって大したもんぢゃ・・」
世語役はさも得意顔になほも詞を続けて、
「あすこに居る庭掃除の小父さんだって、家内中食って住った上に、ぶらぶら仕事で五拾圓の月給だからなう……」
「ウーム、大したもんだア……」
 巻ゲートルは再び呻吟してから、
 「大将が大きいと違ったもんだ、犬になっても大家の犬になれ……テいふが、あの犬だって俺達よりか良い物を食って楽してるだらう……」
と、巻ゲートルは雑種らしい犬の後姿を見送った。
 夏日覆取除けは午後の三時頃に終へたので、再び府廳に行って工事の跡掃除をさせられた。
 やがて夕陽が窓影に落ちた時、
「あゝもう電燈がついたからよからう・・・・之の證明を持って二人で先きに今朝寄った京市の處に行って労銀を貰ってくれ……日本橋一丁目で乗換券を利用するとええ」
 世話役は斯ういって「二人」と書いて捺印した名刺と電券一枚づつ渡してくれた。

    満員の宿泊所

 労銀をもらって再び電車に乗った時、巻ゲートルは私に向って、
「君は始めてだといふから委しくも知るまいが、俺等の仕事には労銀の頭を刎ねる奴が屹度二三人附いてるんだ・・・今日だって、京市で紹介所の手数料と半賃電車の外に貳參拾銭頭を刎ねて、あの古川といふ請負師の處へ廻したのだからねえ、それで吉川で叉頭を刎ねるといふ段取りになるんだから、取下げからどうしても六七拾銭位は天引されるんだ……」
「搾取」といふ事実が、今までよりもズット明瞭に頭に這入った。
 軈て、霞町で電車を下りた時「君は何處に泊ってるんだ?」と、私に問ひかけて、
 「さうか、木賃宿にか……俺は紹介所の共同宿泊所に泊ってるんだが、一晩七銭で入湯もあるよ、それで浴場だって、夜具蒲團だって、木賃宿よりかズウと清潔だよ、俺は東京から大阪に来て何も良いと思ふものはないが、あの宿泊所だけはとても東京の宿泊所なんか及ばない、それで俺はあの宿泊所は大阪第一の名所だと思ってるんだ、なかには安い理髪所もあるしね、なかなか大したもんだよ」
 斯う話してくれたので、私も今夜から其の宿泊所に泊めて貰へるだらうか、と聞いて見ると彼は「独身の者は宿泊所が一番よいよ……すぐ隣りには食堂もあるから便利だ、一食拾銭で……尤も働いてゐちゃ一人前では足りないが、幾人前でも食べるし、飯だけなら六銭、副食物が四銭でお代りも出来るんだ、これから一緒に行かう」
 それから二人は沈獣の儘歩いてゐたが、彼は思ひ出したやうに、私の姿を見上げ見下しながら、
「君はこれ迄何をしてゐたんだ……労働は始めてらしいね、草鞋の穿きやうを見れば直ぐわかるよ……鮟鱇に一度なるとなかなか足が洗へないぜ、三年やっても、四年やっても、夏冬法被一枚が開の山で、少し惰けたり不景気などには青天井の夜明しで焼芋一つ食えないことが珍しくないんだ。あの紹介所で、二十三日以上仕事に行ったものには賞与をくれといふ貼紙を読んだらう、そりゃ月に二十六七日も仕事に行く者は百人の中五人や六人はないこともないが、併し鮟鱇には第一お天気が物を言ふし、叉今日は飯代もないからどうしても仕事をしなければならないと気込んで現場まで行っても、癪にさはって中止をすることもあるからなァ、それに生きた身体だもの、下痢をするとか、風邪を引くとか、負傷をするとか、叉紋日は職人共の休みで手傅はないし、日曜祝祭日は役所や會社の仕事は休みが多いしね、それで俺等は十人が九人迄はマア精々働いて月は二十日か二十一二日位のものだがね。紹介所の考へぢや、毎日壹圓參四拾銭づつの安い仕事をしても、七銭で泊って一日參拾銭で食って行ったら貯金が出来るだらうといふ心意らしいが、そりゃ洋服着て髯をはやした、お役人の算盤玉の上の勘定だけだ。二日三日はその真似も出来るだらうが、根が鮟鱇になってるやうな俺等には、十日と続くもんか、しかし宿泊所に三百人も居るうちで、その算盤玉と同じに活きて行く人間も二三人は居るやうだよ」
 こんな談話が今宮職業紹介所前まで続けられた共同宿泊所は矢張りその職業紹介所の事務所で午後の四時から受附けるのであった。私は巻ゲートルからロを添へて貰って、宿泊を頼んで見たが、満員になってるからと素気なく拒絶された。然も宿泊者の全部分は一夜泊りではなく永続的の約束やうの人々が多いので、両三日中に欠員はあるまい――との係員の詞であった。 (つゞく)