賀川豊彦の畏友・村島帰之(37)−村島「瑞穂の国は女工の国」

 今回より村島帰之の「雲の柱」に寄稿した論稿を取り出して置きます。
 前回も付記したように、村島の「雲の柱」への最初の寄稿は第4巻第1号(大正14年1月)に「バラックの留守番から(身辺雑記)」が最初で、その2号あとより8回分の連載「歓楽の墓」と「聖書に現れたる買淫」(上下)、そして「社会講座・婦人売買禁止と日本」が続いています。
 しかしその掲載誌の原本が手元になく、現在「武内勝氏所蔵資料」の中にあるものの中から、数本のものをテキスト化して置くことにします。

 最初の論稿は、「雲の柱」更生新春号(昭和4年1月:第8巻第1号)のものです。


 
 「雲の柱」はこの号より、編集発行が東京から「神戸イエス団」に移っていて、発売所は「四貫島セツルメント」になっています。したがって大阪・四貫島セツルメントより刊行されているリーフレットや「消費組合協会」の広告類や大阪の「日曜世界社」の刊行物が掲載されています。

 これには賀川の執筆した論文「弱者の権利」や神戸イエス団で語った賀川の説教の筆記、さらに黒田四郎による「東西南北―伝道日誌」がスタートしています。


      社会科学 瑞穂の國は女工の國
                         村島帰之

    女尊男卑の國
 紡績工場や製糸工場に働く女工の唄ふ歌に『男工串に剌して五つが五厘女工一人が廿五銭』といふのがある。以て女工の男工に對する優越感を知るに足るであらう。自負するだけの事はあって繊維工業においては女工様々である。男工はほとんど問題にはならない。工場へ就職を頼みに行っても女工は『サアどうぞ』と許りに歓迎するが、男工は『妻君か何かをつれて来たらお添へ物のつもりで探用してやる』と恩にきせておいて、それとは入れてくれない。現に会社が職工募集のために使ふ費用を見ても、製糸工場で男工は一人当たり四円六十八銭を支出するに過ぎないのに、女工は一人当り九圓五十銭といふ倍額からの費用を惜げもなく出してゐる。紡績工場などでは、女工一人に平均二十九圓二十八銭といふ巨額の募集費を掛けてゐるのである。金をつかふ許りでなく、或は縁故を辿り、或は募集員を四方に派し、或はタネ女工と称して古參女工をして『連れ出し』をさせたりする。彼等は多くあいての無智に乗じ甘言を以て誘ひ出すが、いざ工場に着いて見ると凡べては幻滅である。女工は唄ふ『甘い口にと乗せられて、金は取られる捨てられる、末の難儀を知らずして、身は浮草の西東』、叉唄ふ『甘い言葉につい欺されて、来て見りゃ此世の生地獄、どうせ生かしちゃ返すまい』と、叉『國を出る時や父母に金を送ると言ふて出たが、いつしか男工さんに欺されて三年満期にや丸裸』と。こうして巨額の金を使った上に、或る場合には欺いてまでして女工を集めるのだ。女工が自負するのも無理ではない。

     女 工 束 縛
 それ許りではない。信州岡谷地方の製糸工場などで出代りの時季に熟練した女工の争奪が盛んに行はれ、或時は流血の惨を見たるさへあった。それで或女工は二つ以上の工場に契約して、双方から前借金をせしめる者さへあるので、工場主仲間は遂に申合せ、女工を登録し何村の何子はどこの工場の者、従って他の工場は一切手出しをせぬといふ事にした。大正十三年に登録された女工は五萬人の多きを数へた。工場にして見ればこれで安心だろうが、迷惑なのは女工で、彼女達は従来の工場が気に入らぬので此次には他へ移らうと望んでも、右の工場主の申合せが邪魔をして果さしめない。これは移転自由を侵害するものであったが、その筋でも気がついて昨年一月末限り之を禁止したのは悦ばしい事。斯くの如く各工場では女工を集めるのに苦心を払ってゐるのだが、そうして集められた女工は一体わが國にどれ程居るのかといふと、職工十五人以上を使用する工場又は危険叉は有害な工場で工場法の適用を受けてゐるもののみについて見ても、八十六萬人を数へてゐる。全職工百五十萬人の五割八分を占めてゐるのだ。若し日本の女工が一斉に手を措くとしたら、日本の工業は半分以上止って了ふ勘定である。之を貿易の上から見ても、我國の輸出總額十八億圓、その中の四割五分は生糸であるが、その生糸を生産する者は、実に二十五萬の可憐なる製糸女工である。製糸女工がその白魚のやうな手を置けば、日本の輸出は半減して了ふのである。紡績女工が『頭につもる埃こそ國家を富す基なれ』と唄ひ、製糸女工が『國の大産腕にありサノサ』と唄ふのもそこにある。
 思へば日本の工業は女工さんあっての工業である。さうだ、わが豊葦原瑞穂の國はまことに女工さんの國である。

     女工の労働條件

 然らば彼女達は如何なる労働條件の下に働いてゐるのだろうか。第一は時間である。社会局の調べでは、女工の平均作業時間は製糸工場が一番長くて十三時間、撚糸工場がその次で十二時間、そして紡績工場と織物工場とが十一時間といふ現状である。即ち女工さん達は一日十二時間を、或は紡績機械の前に佇み、或は百何度といふ熱湯の前で蠶から糸を繰ってゐるのだ。労働時問に関聯した重要問題は、女工の夜業問題である。大正十二年現在で二十三萬人の女工が二交替制度で夜業をしてゐる。炭坑でも七萬五千の女坑夫が夜業をしてゐる。夜業が身体に有害な事は論を俟たない。
 かつて農商務省が某モスリン紡績工などで調べた處では、女工は一週間の夜業をする事によって百七十匁の目方を減ずるのである。尤もその次の週には昼業になるから、それで体力を恢復するが、その恢復量は僅か六十九匁である。そして差引一匁といふものは恢復しないのである。若し一年間此調子をつゞけて行くとしたら二貫六百匁。五年続けば十三貰減ずる勘定である。十一貫内外しかない女工さんは、からだが無くなってまだ釣りが来る訳である。勿論人間の身体は微妙に出来てゐて、こういふ風に数學的には行かないが、而し夜業が繊弱い女工の身心を櫛剔って行く事は疑ふべからざる事実である。

     監獄以上の寄宿舎
 夜業に関聯して言って置きたいのは寄宿制度である。現代わが國には五十萬人の女工さんが父母の膝下を離れて、寄宿住ひをしてゐる。夜業をやる以上工場主にとって寄宿舎制度は必要訣くべからざるものである。『籠の鳥よりも監獄よりも寄宿住ひは尚辛い』と、如何な賤ヶ伏屋でもわが家に越した楽園はないのだ。そしてその寄宿舎には、千人以上の女工が一所にゐる處も少くない。彼女達の七割強は十七歳から二十五歳までの独身の處女である。そこへ例令一割ではあるが既婚者も交って、一人当り一畳半の部屋に雑然と起居してゐるのである。彼女達は教育程度も低い、その教養なき娘達が何百何千と集團生活をしてゐる為に、そこから醸成される群衆心理が彼女達を善き方へ導く筈はない。そこを附狙ふて誘惑が来る。女工さんの胸に對するキューピットの矢は毒を含んだダムダム弾である。  『会社男工はいやですよ、智慧ない金ない甲斐性ない、甲斐性どころか家もない。あるのは借金色女、行って見りや薬鑵のフタもない……』 一串五厘の男工さんに欺されて、彼女達の陥ち行く處は倫落の淵である。関西方面の私娼の前身を洗って見ると、女工が頗る多いといふのは何よりの証拠である。

      不衛生的で不完全な設備

 風紀上寄宿舎の群團生活が望ましくないのみならず、衛生上も亦望ましからぬ節が甚だ多い。まづ第一は、寝室で一人当り一畳半の空間はまア善として、二人一床制や両番使ひと云って、昼の方の女工が起きてまだほとぼりの覚めきらぬ處へ夜の番の者が帰って来て寝る制度をまだ行ってゐる所のあるのは、衛生上寒心に耐へない。前に寝てゐだ女工結核であった場合、後から同じ布団にもぐり込む女工が直ぐそれに感染する事は余りに明白な事実である。食堂は長野の製糸工場では二割五分までは立食である。食物はといふと、五割八分は内地米と麦の混合である。製糸工女の唄ふを聞けば、『おはち引寄せ割飯眺め、米はないかと目に涙』と。
 ついでに紡績工場の献立の一例を記すと、朝飯は梅干と味噌汗、中味は薄あげと菜、昼飯に煮汁内容は天ぷら、ずいきそれに大豆煮豆の附合せ、晩は大根とあげの味噌汁、あげこんにやく、芋の煮込、夜飯はなすびあげの味噌汁に昼飯の煮汁。學者の調べではカロリーは二千カロリーを越えてゐるが蛋白質が少し足らぬさうである。

     女工と病患

 最後に女工の病気と出産について一言しやう。女工病は結核である。最近愛知県廳で工場から帰った女工の死亡原因を調べた結果によると、五割四分までは肺結核であったと云ふ。彼女等の大部分は製糸女工であった。年は二十歳前後、工場生活を送る事僅にして病を得て帰郷し、その中の七割四分までは在る事一年で死んで了ったのである。長野県の製糸職工の死亡原因は七割二分六厘までは結核である。一般の結核死亡率二割二分に比し、三倍からの数である。結核菌に触るる女工に同情せよ。出産は警視廳の調べでは既婚女工百に對し七、即ち既婚女工十四人に一人が子を生む勘定である。而し現行工場法は産後五週間の休養を命じてゐるが、産前の保護については何等規定がない。臨月の腹を抱えて工場通ひをする者もあるのである。従って流産早産が多く、仮令生れても三割二分はその年に死ぬといふ悲惨事さへ生ずるのである。かくの如く女工の生活は悲惨である。そうして此の對價として支沸はるる賃銭はといへば、生糸女工で平均四百八十四圓(月収にすれば四十円)、紡績女工で平均一日一円二十三銭(月収にすれば三十六圓)である。國際労働條約はさきに女工の深夜業の禁止、産前産後六週間の休養を規決し日本も之に調印した。一日も早く此條文が日本に実施されて、少しでも女工さんの苦痛が軽減されるやうに祈らうではないか。