賀川豊彦の畏友・村島帰之(36)−村島「カガワか、ガンジーか」

 前回は、村島にとっても大きな出来事となった「第1回イエスの友会夏季修養会」の記録(「火の柱」掲載分)を取り出して置きました。

 改めて「雲の柱」の方を検索してみますと、大正12年11月号(第2巻第9号)には「XYZ」の名前で「祝福されしイエスの友研修会」が、そして大正13年3月号(第3巻第2号)にもその続編が掲載されています。「XYZ」は村島のようでもあります。

 その後、村島は「雲の柱」において、「バラックの留守番から<身辺雑記>」(大正14年1月号:第4巻第1号)を、大正14年3月号(第4巻第3号)より11月号(第4巻第11号)まで「歓楽の墓」を8回連載、さらに大正15年6月号(第5巻第6号)より7月号(第5巻第7巻)において「聖書に現れたる売淫」を、大正15年10月号(第5巻第10号)「社会講座・婦人売買禁止と日本」を寄稿していることが確認できます。

 只今同時進行のブログ「賀川豊彦の魅力」で「賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より」を連載中ですが、武内氏所蔵資料のなかに「雲の柱」の昭和4年1月号(第8巻第1号)「甦生新春号」が残されていて、そこに村島の寄稿文「社会科学・瑞穂の国は女工の国」がありました。追って、それらもここに取り出して置きたいと思います。

 ここではその前に、これまで2回にわたって収めた1931年の「アメリカの旅」に関連したものを収めましたので、それから10年後「火の柱」(昭和16年8月15日)第44号で、村島は「カガワか、ガンジーか――米国伝道回想談」を掲載していますので、ここに収めて置きます。

 なお、村島による詳しい「アメリカ紀行」の長期連載は「雲の柱」において、昭和6年9月号(第10巻第9号)より始められいるので、いずれ時間をつくってここで取り出して見たいと思います。



       カガワか、ガンジー
       ――米國傅道回想談
                         村島帰之

 激変する世界状勢の中にあって、日本の生んだ世紀の聖徒として、米國各地に孤軍奮闘されて、今や帰国の航路に就かれてゐる賀川先生を想ふと我々はじッとしてゐられない、思はずロを突いて出るのは祈りである。先生からの便りも殆どなかった。聖戦の激しさを思ふ。祈ろう! 祈らざるを得ないのだ。そして今、昭和六年夏の米國傅道に隨行した白十字會の村島先生から、当時の回想談をお聞きして、先生の御活動を偲ぶよすがとしようではないか。

   素晴しい人気

 昭和六年の夏、賀川先生の米國伝道に私が隨行していった時のことである。カナダのトロントに開かれたYMCAの世界大會には四十箇國の代表が集まってゐて毎食事時には、各國代表が入交って食事を摂るのだが、隣合った異國人が「お前はどこか」と訊くから「日本だ」と答へると、彼等は殆んど型のやうに「カガワのゐる日本か」と訊き質す。賓際、賀川豊彦氏の人気は素晴らしい、おそらくは日本人の誰もが予想しないほどの素晴らしいモテ方だった。

 彼が太平洋の船路を了へて、シヤトルに上陸しやうとした時、米國の移民官と同伴して来た検疫医は、彼の眼を診て「上陸不許可」と宣言した。それは決して無法ではなかった。彼は十数年の久しきに亘る貧民窟生活によって、トラホームに感染してゐたからだ。が移民官は「ドクター・カガワ」の名を知ってゐた。彼はその医師に對して小声で囁いた。『この紳士は日本で最も有名な演説家だよ』と。そして上陸を許してしまった。

 シヤトルにおける二回の講演は満員の盛況だった。特に浸礼教會での外人に向っての説教には無慮二千五百の聴衆を集め、満員のために入り切れぬ聴衆が頗る多かった。

 ヴァンクーヴアーではたゞ一回内外人に向って英語説教を試みたが、これまた満員で、説教の終わると共に聴衆は期せずして起立し敬意を払った。或る老婦人は感激の余り「私が母から譲られた財産の一部を、お前の事業に使ってほしい」と申し出た。

 トロントヘ着いて、YMCAの大會に出てから後の賀川氏も、各國代表を通じての第一の人気者だ。食堂へ出れば、かれを見た同席者が一斉に拍手を以て迎へ、路を歩いてゐるとサインねだりの包囲攻撃だ。七月二十八日夜、彼の試みた特別講演「神による青年の冒険」は朝からの面會者の殺踏で疲れてゐて、決してかれとしては善い出来ではなかったが、三千の聴衆に一大センセーションを起し、翌日の新聞は「トロント始まって以来のセンセーションだった」と報じた。彼の説教中、記者の背後にゐたスコットランド人は「カガワは現代世界における驚くべき存在だ」といって絶賛した。そしてその後で「カガワの年齢は、二十五歳ぐらゐだらうか」といった。賀川氏に隣して坐った司會者のモツト博士が六尺を超ゆる巨漢であるのと比較して余りにも彼が小さく見えたからであらう。

 各種の會合では、決ったやうに彼は卓上演説をさせられた。彼は、木綿の貳圓五拾銭の「賀川服」に短躯を包んで立って、吼えるやうに調子の高いスビーチを試みた。

 予定以外に彼の説教を依頼し来る向が頗る多い。彼のためにアメリカにおける講演旅行のスケジュールを作りつつあるモツト博士は、推高く積まれた各大學その他からの招聘状を示して「まんべんなくこれ等の招聘に応じるなら、少くも二年間はアメリカに滞在して貰はねばなるまい」といった。しかしそれは決して誇張ではなかった。その中には賀川氏の母校であるプリンストン大學からのもあった。またモツト博士の母校コーネル大學からのもあった。しかしこれ等はすべてモツト博士によって拒絶された。スケヂュールは十月、彼の出発までギッシリとつまって一杯だからである。

 それでも、番外は決して少くはなかった。例へばクリーブランドでは急にモツト博士と共に、ラヂオの放送をすることになった。モツト博士といへば米國のクリスチャンのナンバー・ワンだ。これによって見ても、賀川氏が少くともモツト博士と同じ程度に價値づけられ、尊敬されてゐることが判らう。

 各地において試みる彼の説教および講演は決して米國人の耳には愉快なものではないに拘らず、彼等は足を踏みならして喝釆した。彼はアメリカの軍備を論じ、日本人が決して戦ひを好む國民でないことを絶叫し、自由を尊ぶアメリカが、なぜ日本人の移住の自由を蹂躙するかと叫んだ。また彼はアメリカには「天國アメリカ」と「地獄アメリカ」とがあるを説いて地獄アメリカが日本にまで反映して如何に日本を毒しつつあるかを力説した。そして、この行詰った世界を救ふ道は、國際的に魂と魂とが結びつくことであるとし、経済的苦難を打開するためには、各國民が各種の協同組合運動を起すべきだと説いた。

 「僕はアメリカ人に、おもれることは断じてしないつもりだ。その非は飽くまで糾弾してその反省を促す。これが僕の使命だ」と彼はいってゐる。

 賀川氏は七月三十一日にカナダを去リ、八、九、十の三箇月に亘ってアメリカ各地で説教を試みたが、恐らくはカナダにおける以上にセンセーンョンを巻き起すであらう。アメリカ人は、彼とガンヂーを對立させ、光はこの二人の哲人を通して来ると信じてゐるからである。(東京日日新聞所載)


  各地の殺人的日程

 これはおもにカナダのことを記してゐるのに過ぎないのだが、八月以降、アメリカに這入るに及んで、賀川さんの行くところ人気の旋風が賀川さんの周囲を取り巻いた。

 クリーブランドの青年大會では、モット博士が賀川さんを會衆に紹介して『現代に生存する、基督に最も近き人』といった。

 シカゴ大學に於ける三日間に亘る「基督数と社會改造」の大講演がすんで、ウイノア湖に行くと、町を走る自動車の前部にKAGAWAと大書してあるのが目についた。「賀川さん来る!」といふ講演會の宣傅なのだ。食事をとりに筆者らがホテルのカフェテリアヘ行くと「君は賀川博士の一行か」といふ。「そうだ」と答へると「食事代は要らない」といふ。

 チヤタカの夏季キヤンプ村では、賀川きんは本屋の捕虜になって、自著「愛の科學」の扉のサイン書きに汗だくだくだった。本屋のポスターには「光は東より! ガンヂーか、カガワか」と記してある。

 ニューヨークではインターナショナル・ハウスの公開講演をはじめとして各教會の説教が連日連夜に亘ってなされたが、最後に父ロックフェラーの出席した或る教會での説教ではこの世界一の富豪を前にして『我々はアメリカに黄金を求めはしない。私のアメリカに要求するのは、アメリカ自身の純潔である。昔、アメリカは日本に基督教を移し植え、同時に純潔を日本人に教えた。今はアメリカが却って日本から純潔を受けねばならぬのはどうした事か』と喝破したおかげで、ロックフェラーは賀川さんにやらうと思って持って来た数萬弗の財布の紐をしめた。か、どうかそこまでは知らない。

 東部の講演を終わって西部へ移ると、そこでは東部以上の殺人的人気が賀川さんを待ってゐた。

 桑港では加州大學の質問會に出又三回に亘るアールレクチュアにも出たが、後者では出席者二千、入場しきれない紳士たちはいつも四五百を数へる盛況だった。アールレクチュアといふのはアール氏の寄附金を基礎にして、年々世界學者を招聘し、宗数、社會、平和問題について、講演を聞く上流紳士淑女の集りで、大統領ルーズ・ベルトの如きもその説教家だったと云ふし、日本ではさきに姉崎正治博士、今賀川さんと二人だけであった。賀川さんの講演はその儘ラヂオで放送された。それが済むとバークレーのバプテスト神學校や太平洋神學校の質問會に出たり、加州大學教授團の招待會に出たり、そして夜は夜で数個所の教會での説教である。賀川さんの目は充血し一日六回の最後の講演のあとなどは今にも仆れさうに見えた。

 加州の田舎へ這入ると、此度は日本人がいよいよ殺人的プログラムを作って賀川さんを待ち受けてゐた。サクラメント、スタクトンフレスノ、ベーカースフヰールドでは、白人と邦人との教會を別々に説教して歩いた。その間に、北米農業者大會だの何だのと引っぱり出されては一席話をさせられた。そしてベーカースフヰールドから飛行機でイエスの友の待つロサンゼルスに一気に飛んだ。

  ロサンゼルスのSの友
 ロサンゼルスのイエスの友といふのは、勿論、内地のイエスの友と同じく、賀川さんを中心とし、敬虔、純潔、労働、奉仕、平和の五綱領を遵守する祈りと奉仕の団体である。このイエスの友が羅府に結成されたのは、大正十三年に賀川さんが世界第一次世界傅道旅行の途次、羅府を訪問された時の事で、會員各自が固く結んで信仰の道を進むと共に、内地における賀川さんの事業に對して物心双方の後援をして今日に及んでゐるのである。羅府イエスの友の成り立ちやその事業について賀川さん自身の記すところを左に掲げる。

 関東大震災の翌年、私は萬國基督教青年會の大會に出席するために渡米した。そして大正十三年一月十六日午前一時頃ロサンゼルス合同教會の小川清澄氏宅の一室で日本の労働者傅道について祈った。そして午前六時から合同教會に開かれた早天祈祷會の席上、私は私の真意を羅府の同志に打ちあけた。聖霊に導かれてゐた兄弟たちは直ぐに私の祈りに共鳴してくれた。そして始めてイエスの友は結成せられ、大阪の労働者傅道のために毎月二百圓補助してくれることになった。(中略)アウボルン神學校を卒業して来た吉田源治郎氏が大阪の労働街のため献身する約束をしてくれた。しかし労働街の四貫島は殆んど全部正宗家と住友家の土地で建築する所もなければ空家もなかった。その時現れたのが四貫島運輸組合長太田又七氏であった。太田氏はロサンゼルスで永眠せられた令息の記念のため何かしたいと思ってゐたときなので、運輪事務所の二階を日曜學校に貸してくれた。そして同氏の努力で木津川に面した二階屋の家を四貰島セツルメントの第一期建物として借入れることが出来た。つヾいて百坪足らずの土地を借りてロサンゼルス在留同胞の献金を基礎に約一萬圓の建築を完成した。

 大阪に於ける労働街の伝道は其後大阪市生野の聖浄會館が生れ、中心が二箇所に拡大するに至った。そして二つとも活発にキリスト運動の稀薄な地区に熾烈な戦闘を継続してゐることは感謝せねばならない。

 一九三一年ロサンゼルスのイエスの友は、更に日本の農村傅道を応援することを決議せられた。それで私は兵庫県西の宮北口瓦木村に「一麦寮」を建設し、ロサンゼルスのキリスト者献金を基礎にして、日本農民福音學校を開いた。主事藤崎盛一氏は其後北多摩郡千歳村上祖師ヶ谷に、私と共に武蔵野農民福音學校を創設し、そこに住んでくれた。

 私は其の後、御殿場に冷地農業の試験所を作り、ハム、ベーコンの製造を始めた。そして立体農業の試験畑を作り、胡桃の種を全國に配布し、山羊の乳を利用すべきことを全国に奨励し始めた。ロサンゼルスのイエスの友の毎月の献金は直接間接日本全國の農村教化に驚くべき効果のあったことを思はざるを得ない。

 紀州南部の出身である古谷福松氏は故郷傅道のため毎月幾許かの献金を約束せられた。それで私は紀州南部に傅道所を開いた。そして升崎外彦氏を委嘱した。升崎氏は農村副業の中、廃物利用に関して盛名ある士だけあって、福音宣傅を兼ねて農村更生に日本全國を馳け廻ってゐる。

 一九三六年、秋は北米合衆国の旅を終へて日本に帰るや更に一層農村傅道の必要を感じ、東京府下に五ヶ所の傅道地を開いた。立川町、府中町五日市町 村山村、熊野村の五ヶ所である。そののち熊川村と五日市町には保育園の建築を小さいながらにも断行した。そしてこれらの保育園に働く人々の俸給は、一部とはいへ、ロサンゼルスのイエスの友の兄弟達の聖き捧げ物である。一九二五年の一月、ロサンゼルスのイエスの友が祈った所が、かくの如く発展して来たことは神に感謝せざるを得ない。
             ([羅府イエスの友満十五年信仰録])

  羅府を中心として

 羅府のイエスの友は、賀川さんが来るといふので、一ヶ月前から祈り會を開いて待ってゐた。そして九月十三日、賀川さんが飛行機で降り立って南加大學に赴き、在留邦人約二千を前にして獅子吼してから二十四日まで連日連夜の集會である。

 あいてゐるのは、百哩、五十哩の道を甲から乙へと移る自動車や汽車の車中の時間だけである。この傅道旅行の詳細は筆者が「雲の柱」に二年間に亘って連載した「アメリカ紀行」にゆづることゝし、「羅府イエスの友十五年記念録」に筆者が寄稿した一文から、印象記といった部分を抜いて、説明に代へることとする。

 飛行機から降りて羅府の土を踏むや否や引攫ふやうにして自動車で運ばれた處は南加大學だった。約三千の邦人がぎっしりと詰った大學講堂での先生の第一声! それから目まぐるしい先生のプログラムが次から次へと展開された。米人第一組合教會での連夜の講演には、共産党員の妨害があって先生の熱は昂まった。野次や妨害があると、ピッチのあがるのが、労働運動時代からの先生の習性なのである。殊に最後の夜の告別大演説會では、彼等の妨害が白熱化して、遂には警官が飛び出した。イエスの友は善く隠忍自重した。共産党員が革命歌で會場を混乱させやうとした時も、讃美歌の合唱でこれに對抗しただけだった。暴行しさうな者が入場して来ても、おとなしくその隣りへ誰かが座を占めて監視することにした。しかし萬一の場合には先生を守る人垣にならうとして、挺身隊が前列にずらりと並んでゐた。

 先生は毎日毎夜、内外人の集會から引張凧だった。第二世たちへの講演も大成功で父母の國の偉大さを認識しない二世たちも賀川先生の説数を聞いて、父母の國を尊敬する度が強まったやうだった。

 羅府近郊へもイエスの友は神輿を担ぐやうに先生を擁して出かけて行った。暑熱百二十度、日本基督者村のコーチユラでは全村挙げての集會が持たれた。歓迎晩餐會には村の老幼男女が總出で卓上に壽司、ぼた餅、ざくろまで並べられ、さながら、親戚の村の祭によばれて行ったやうな感があって夜遅くまで笑ひ興じたことだった。私はあの夜、砂漠の砂を蹴上げて走り廻った子供たちの姿と、砂塵を透して朧ろに照らしてゐた三日月とを忘れることが出来ない。

 メキシコ境のエルセントロでは到頭、先生の腎臓から小量の出血を見、徳牧師を始め友の面々は大に驚いて、その夜は宿所をわざと変更し、一切の面会人を禁じ、なほ先生の部屋には外から鍵をかけて絶對静養を強要した。そのため翌日のサンデゴの説教の時には、先生も恢復されて、一同愁眉を開くことが出来た。その他リバーサイド、サンクーパーバラ・ポモナその他の集りも皆友の骨折で大成功だったが、先生は大分疲れられた。殺人的プログラムのためであることは勿論だが、しかしそれ許りではなく、一日三四回の講演だのに、先生はその一回毎に熱をあげられたからであった。友はみなそれを案じてゐた。

 九月二十五日、いよいよ羅府を出発される時、羅府滞在の予定が三日間も延びたため、それを取戻す目的で、羅府トロント間を飛行機で飛ばれることになった。その時加州の信用組合運動と内地の傅道事業に廻す金を一文でも浪費してはならぬと言はれて、先生独りで行くと言はれるのを先生の健康を案じたイエスの友が、是非小川先生だけは同伴して行ってほしう、それでないとわれわれは安心出来ないからと要求し、先生は「いや僕一人で行く」と頑張られて押問答を重ねてゐた時、イエスの友古谷兄の令嬢たづ子さんが、自分の貯金六十圓を差出して「これで小川先生も一緒に行って貰って下さい」と申し出で、手もなく先生を參らせて了った佳話も忘れられない。その時十四歳だったたづ子さんは、もう二十二、三歳の善い娘さんになってゐられることであらう。

 言ひ落したが、賀川さんの此時の旅行はカナダのトロントにおけるYMCAの萬國大會の講演から始まって、アメリカに入りグリープランドのYMCA全米大會、シカゴ大學での講演、ニューヨークその他での説教をすませて、ソルトレーキに近い往年賀川さんが日本人會書記として働いたことのあるゆかりの地を訪れ、そこで幾つかの講演をして、西部に移ったのだった。プログラムはぎっしり詰ってゐて、後からの割り込みは一切拒まざるを得なかった。一番悲観したのはカナダだった。折角トロントまで賀川さんを迎へ乍ら、YMCA萬國會議に独占されて、その声咳に接する事さへ許されない。そこで、西部、アメリカの伝道がすんだら、もう一度カナダに来てくれといふのだ。

 カナダといへば、そこのバインヒル大學から賀川さんは神學博士(PHD)の學位も貰ってゐる義理もある。そこで思ひきって羅府の傅道をすますと米大陸を西の端から東へ飛び、シカゴを経て再びカナダに這入り、トロントその他での講演をすませた。トロントの講演には、カナダの總理大臣までが出席した。その帰り、、ついでにニューヨークに立寄り母校プリンストン大學にも顔を見せた。母校では賀川さんが勉強した教室が「賀川の教室」として今も残つてゐた。