賀川豊彦の畏友・村島帰之(35)−村島「あの頃のこと―歴史的賀川講演「ヨブ記」」

 今回は、「火の柱」昭和27年10月5日付に掲載された、「第1回イエスの友夏季修養会」(1924・大正12年8月25日〜29日、御殿場・東山荘)の村島帰之による重要な記録をUPします。

 下の写真は、この時の参加者47名、賀川夫妻は幼い長男・純基を抱いて前方に、村島は後列の右から5人目に写っています。

 この時の賀川豊彦の講演「苦難に対する態度―苦難の人ヨブを中心として」は、村島の筆記によって、大正13年2月25日、警醒社書店より刊行されました。

  

    あのころのこと――歴史的賀川講演「ヨブ記
        第1回イエスの友研修会のこと
                           村島帰之

 発足以来二年、満を持して動かなかったイエスの友會を、街頭に押し出そうとして、神は大なまずに命じ、そのしっぽを一ふりふらしめ給うた。
 大正十二年九月の関東大地震かそれである。

 しかし当のイエスの友もまた統帥賀川豊彦先生もこの神の遠大なる計書を知る由なく、御手に導るるまま、神の準備せられた集結地、富士の霊峰の下、風清き御殿場の東山湖畔に三々五々集合したのは、震災に先立つわずか七日の八月二十五日のことだった。

 そしてこの集いにおいて、イエスの友の面々は、賀川先生の声涙共にくだる大説教を通じ、神の決死隊としての心構えを身につけたのである。

 顧みれば芒々既に語りになろうとしている。わたしは「あのころのこと」の最初にその日の感激を語りたい。


 わたしはその頃まだ基督信者となっていなかった。
 ただ賀川先生からの依頼で、関西学院教授の新明正道(現東北大教授)松沢兼人(前代議士)両氏と共に、社会問題の講義をするため出席したのだが、これが自分の一年を左右する分岐点になろうとは、神ならぬ身の知るよしもなかった。当時、わたしは三十歳、まだ独り身で、大阪毎日新聞の学芸部記者だった。

 會場の東山荘は御殿場駅から東方約二十町の高原の中にあった。
 大阪から遥々来て汽車から吐き出されたわたしは、駅頭で偶然邂逅した柳つる子姉らと一つ自動車で町はずれの杉並木を東山荘へ運ばれた。
 見ればびろうどの手触りを思わせる翠の丘の中腹に、學校のような粗末なバラックの二階建、それが東山荘だった。

 自動車が止った時、建物の中から急霰の拍手、何事かと下り立つと、それはわたしたちを歓迎する賀川先生らの拍子で、先生のほか先着の友と、春子夫人も赤ン坊の純基ちゃんを抱いて出迎えてくれられているのだった。「よく来ましたね」「早やかったですね」といいつつ、先生らの釘抜きのような堅い握子。

 そして幹事の面々の紹介、「これはパウロ後藤安太郎君、こちらはナタナエル馬淵康彦君、いずれも一騎当千のイエスの友です」と。パウロもナタナエルもまだ二十歳前後、パウロ鉄道省の詰襟服だが、襟章は彼がこの若さで既に判任官であることを語っていた。

 宿舎は建物の両翼に分かれていて右翼の洋風の間、カンバスベットのある方が私たち講師の宿舎、左翼の畳敷きが会員の宿舎だという。

 會員は続々到着した。自動車の警笛が杉木立の中から聞える毎にみんなは急いで窓から顔を出して拍手で迎えた。そして開会時問までに赤穂浪士ではないが四十七名の顔が揃った。

 その中には後に賀川グループの中心人物となった木立義道、杉山健一郎、菊池千歳 (現在佐竹)、矢崎ぎやう(現在後藤、)浅野春子、吉本健子、今井よね、水戸晤郎、小林光雄、多田篤一、それに賀川夫人令妹芝八重、伊藤傅氏らの顔も見えた。今、五十代の老人も、まだ二十代の青年であった。

 かくて二十五日午後四時、裏山のひぐらしを聞きつつ石田友洽氏司會の下にまず祈祷會が開かれた。

 賀川先生の祈りに次で熱のある祈りがつづいた。九州の八幡孫一氏のごとき、天にも聞えよとばかり大声で「自分に信仰の火をもやして下さい。それでなければ、きれいさっぱりと首をちょんぎって下さい」と祈って劈頭から息づまるような雰囲気がただよう。

 夕食がすんで休憩していると、早くも講義の時間となって、第一講は「生存競争の研究」と題する先生の講義。

 宇宙の根源に自然淘汰や生存競争のあるのは事実だが、それだけが宇宙を支配するものではない。一方に神の摂理があって、内側から善の方へ導く力のあることを忘れてはならぬ。これが良心宗教となって、生存競争をすら修正する。この修正の力こそ、イエスの贖罪愛である。これこぞ人類の世界が持つ使命であり、人間の菩薩であり、神の子たらんとする意識であると先生は力強く述べられた。

 終わって「イエスの友の時間」第一夜だというので、各自が目己紹介をすることとなったが、私の動議で「他己紹介」をも併用することとなった。婦人は専門學校の學生が多く、男子は社会に出て働いて人が多かった。

 翌れば二十六日、五時半から日曜礼拝をもつ。讃美と聖書朗読の後、先生は静かに祈られてた、
 ・・・腐り行く生命に新しき霊を与え給え。生活の経験を与え給え。新日本に、新精神をわれ等を通じて吹き込み給え。凡てに感謝し、凡てに懺悔いたします。そして凡てに強くあらんことを祈ります。私どもがこうしている時も、この聖日に労働を強いられ、長屋の下、燃ゆる瓦の下に生活の煩悶に苦しむ兄弟があります。父よ、彼らを顧み給え。私どもの我儘心を取り去り、自らを十字架につける決心を与え給え。大自然の物語が浸み入ります。この拙なき霊に光を与え給え。今もパルテマの戸をあけ、霊の窓を開いて、あなたの御来光あらんことを祈ります・・・アーメン

 先生の熱祷が會衆のたましいをゆすぶる。
 礼拝をおえると、夜まで、引っきりなしの曰課で、食事の時を除いては講演のぶっ通しである。

 この曰、朝からの日本晴で、富士の姿が會場の窓一杯に仰がれて、一同は講演を聞きながらその美しい景観をも見る特権を輿えられていたが、何としたことか、午後から急に空模様が変わって、午後四時祈祷会を開こうとした頃には天地をくつがえさんばかりの大雷雨。電燈も消えてしまった。

 あすの先生の講演に予定されている「ヨブ記」の中の一節「電光をもてその両手を包み、その電光に命じて敵を撃たしめ給う」というその電光の閃きの中に、一同は静かに祈った。特に労働者、失業者のために――。

 けれども豪雨はなかなかにやまず、電燈もつかない。そこで七時から新明正道氏の「社会学における宗教的見解」は蝋燭の灯の中で講述された。
 
 ところが、講演もイエスの友の時間も終わって一同眠りにつこうとした頃、雷もおさまり、雨もやみ、あまつさえ、十五夜の月がみずみずしい光を裾野の天地に投げるではないか。

 庭後の杉木立が風にざわめき、部屋の中に投ぜられた杉の梢が月光の中にゆらいで、まるで川の流れのように美しい。夜更けだと言うのに外には青年の口笛さえ聞こえる。月にさそわれて起き出たのであろう。

 翌けて二十七日、第三日、朝五時半から先生の「ヨハネの宗教的経験」があり、八時から私か「売笑婦問題」を話す。

 私はわが國に今なお娼妓が居る事、彼女たちは家の貧しいために人肉の市に売られるのだが、前借金は大部分五百圓から千圓で、これを皆返済するためには長い者は十年も稼がせられていること、私娼には十六歳未満の者さえあり、前身は半数まで女工である事などを述べた。

 私が着席すると石田友治氏が立上った。見れば氏の頬にば熱涙が傅っている。
 神さま、私たちは今私たちの姉妹が非人道な笞の下に虐げられているという怖しい事実を眼前に突きつけられてじっとしてはいられないのです。どうかこの人たちを救う方法と、そしてそれを敢行する力とを与えて下さい。

 二三の女性も「虐げられ同性のために、私のからだを役立たせて下さい」と祈った。
 この日、特に富士に面した離れの圖書室に移された小さな會場には、ただ、すすり泣きの声のみが聞こえた。多くの青年の熱烈な祈りについで、先生が立ち上がった。
 「あまりセンチメンタルになってはならない」とみんなを制した後
「私は卑怯者です。なぜもっとこうした社会悪に向って勇敢に突進できないのでしょう」
 短刀のような鋭い言葉だ。そして見よ! 先生の面には涙が傅っているではないか。

 何という感激! 私は労働組合の集會には出つけでいるが、こうした宗教的な浄き昂奮は始めでの経験である。私は言う事を知らなかった。しかし、この感激は、まだ序の口にしか過ぎなかった。果然十時から始められた賀川先生の、「ヨブ記」の研究は、ついに感激引火点まで一同を引っ張っていった。

 ヨブは五つの災忌をうけながら、なおその苦痛を乗り越えて神を信じた。彼は本質的悪、宇宙悪を説く友の言葉に反対して、あくまで道徳善を主張した。
 神はヨブにささやき給うた。腰ひっからげて、ますらおのごとくなれよ! と。強くなることだ。悪の解決も、神それ自身の中にある。

 オイッケンは「神こそは悪に打ち克つ勝利の福音だ」といったそうだ。悪に打ち克つには、神によって、丈夫のごとく強く緊張するより外に方法はない。
 悪を怖るるな。丈夫のごとく悪に對抗せよ。瞑想的煩悶を離れ、大胆に、丈夫の如く行動せよ。悪に勝つのは思想ではなく、行動である。世を善くするために行動の前に悪は解決する。世は暗闇であっても、善に向かって突進せよ。善は悪に打ち克つ工夫である。
 ヨブは神により立てられ、友のために贖いをさせられた。悪の解決はついた。われ等もヨブのごとく、悪に向かって猛進撃をつづけねばならぬ。怖れず、まどわず、丈夫のごとく勇ましく・・・・。

 みんなの胸には行動の宗教ということが、しみじみと感ぜられるのだった。

 夕陽はひぐらしの啼く背後の丘の上で行われたが、みなの胸にはヨブ記が恪印されていて、主題の「世界平和」を中心に、熱祷がささげられた。

 二十八日、第四目、朝はいつものように瞬間の雨と、ひぐらしの声に明けた。この日は時間のすきを利用して會員の感話がなされた。わけても伊藤傅氏の語る東京の水上生活者の子女二萬が義務教育から閑却されている事実と、氏の水上学校長としての苦心談はみなの心を惹いた。

 夜の送別會に隠し芸が披露され、先生の鶏の鳴声は拍手喝采であった。私は「弁士注意」というのをした。これは中西伊之助氏からの直伝の秘芸であった。

 ついに最終日、二十九日は来た。先生は朝の五時半から十一時半まで立ちつづけて、ヨハネ黙示録、聖書社会学及びヨブ記の三講演をつつけられたが、ヨブ記の最終講演に至って、一同は感激の絶頂に追い上げられた。

 先生は力強く叫ばれた。
 「平然として地殻の上を悪に打ち克って行け」 これがヨブ記の解決である。この自然の大宇宙の構造の大の中に、悪もその一つの機能として存在を許すがいい。神の力を得る事によって、悪は毫も怖るるに足りないからだ。われ等はこの信仰をもって、腰ひっからげて、ますらおのごとく進もうではないか!

 ヨブの信仰は一同に大きな衝撃を輿えずにいなかった。
 ヨブのごとく、確かな信仰をもって生きよう、神の力が加われば、苦難が何だ! 
 われ等は敢然と、十字架の大佩をかざして悪に向って抗戦しよう。そして世の中を少しでも善くしよう。
 行動の神だ。教会の門は街頭に向って開かれねばならぬ――
 こう考えると、私どもの心には早くも進軍喇叭が鳴りひびくのであった。
 しかし、私たちは誰一人、大地震が後三日に控えていて、友の蹶起を要求していようとは夢にも考えず、ただ感激に胸をおどらせつつ五日間の修養會を終わり、「しっかりやろうぜ」と互に肩をたたきながら、東に西に袂を別ったのであった。