「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺3

  武内勝氏宛文書
  工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
              第二篇
              

 

    武内先生に――。

    魂の彫刻を語る        ――散文的に――
            ――生活と芸術の統一性
            ――一つの小さな喜びの歌。

――春が訪づれて参りました。
  けれど、私の魂はさびしい
  どうしたと云ふことでせう。やっぱり私は人間の子です。

  労働階級と農民の苦悩の子なるが故に、私は現実(リアル)を通さない限り、この苦しみと困難な道を歩まない限り、救ひに至らないのです。これは、どうしたことでせう。

――それ故に、私の魂は寂しくって、人達に蹴られ、泥溝(どぶ)に棄てられた一石かも知りません。

  苦しみ、これ程、辛いことはありません。苦しみを苦しみとして、
  真実(ほんとう)に、苦しいこと、悲しい思ひで一杯になる連続――これは、その人、自身でなければ解らないことです。

  第三者の立場から、苦しみの過去の話を伺ふことは、一種の当人にとっては慰めになるかも知りませんけれど、その人、それ自身が、その苦しみを味ふとき、沁々と苦しみを通って来た人達に温い血にじんでゐることを思ふ。

  それ故に、私は賀川先生を尊敬したいと思ふ。いろいろな理屈はあるけれど、実際、苦しんで来た人であるなら、理屈より何よりも、真実な魂の琴線に触れることが出来るからです。

  私の魂に、武内先生の面影がありませんと、私の魂の中心は失はれてゐます。それ程に、私は魂の彫刻と云ふことは、吐息です。

  私の尊敬してゐる先生の心臓のセコンドが、私のものです。
  この境地は、唯物論者である私にとって、魂の処女地であり、一つの奇蹟です。

  どうにか、私は、ここまで、私のいろいろなものを整理し、揚棄アウフヘーベン)し、諏訪山の現場に登る山道のやうに、肩で息を吐き、休憩して、うしろを振返って、わびしい、鹿の谷水を求めるやうに、水源地の一杯のコップをなつかしんでゐるのです。

  成程、自然は美しい、雲雀は囀って、麦の穂先が、新鮮な匂ひで満ちてゐる。けれど、現実の農民は喰へないでゐる。労働者の生活は一カ月に十日間の失業救済です。

  これは、現実の人の世の姿です。そして、今日、労働者と農民であることが軽蔑されてゐる事実です。

――その前線に立ってゐたのが、私です。世の中を改めて、と。
  そこに、社会科学の世界とマルクスの経済学説があったのです。
  日本共産党北海道地区のオルグであった、私、農民組合の書記であった私だったのです。そのために、戦った親友・小林多喜二君が殺されてゐるのです。

  その私が、人の世の経済学説から、イエスの宗教とその真理を求めることによって、人の世の姿を棄てることが、真実でせうか――。

――いいえ、そうでなく、これは、人の世の姿がそうであっても、――

  私が、武内先生と私に嘘をつくことが出来ても、神様に嘘を言ふことが出来ない、絶対的な境地――、宗教の生命に触れて来た、私です。山林も、畑地も、地主のものであるかも知れない、壱円二十銭の労働賃金で働かなければ喰へない私であるかも知れない。

  けれど、自然の美しさは神のものであり、私の魂の自由な故郷(ふるさと)は、イエスの十字架であることを思ふと、初めて、私は甦えるのです。

――神による新生、とはこのことではないでせうか――。

  そして、此の境地から、此の人生の根本義の生命線から、私は再び、日本の労働者と農民の生活を考へ、親友・小林多喜二君を偲び、私の生涯の行動――芸術への意欲――

  ここまで、私がくるのに、どんなに苦労したことでせう。
  私の苦悶とは、こんことであり、私のさびしい、さびしい、と泣いてゐたのは此の心的な過程(プロセス)であったのです。

――春が訪れて来ました。
  何かしら今年は、ほのかな、光で嬉しいのです。

  女の子の顔を眺めて、美しいと思ふ。Runble 喫茶、ケイちゃんの赤い服を美しいと思ふ。先日も、松本兄と一緒に出掛けたんだが、

――工藤君の美の選択は危険性がなくて、明朗で好ましいと御幸通りを漫談しながら、微笑んで見たんだが、私の美の鑑賞も、こうまで変ってくるなんて、一寸想像もつかなかった位に、私の敗北者としての苦い盃は真っ暗な泥沼でした。

  これは、一寸興太(よた)になるんですが、まあ、勘弁して頂きたい。

――私が新開地で撒水夫をやってゐた頃、手相の易者と毎日親しくしてゐたもんですから、手相のいろはか、アマチュアとして、分るやうになってゐるんです。

  それを、諏訪山工区の仲間の二三人に試みた所、工藤豊八君も、しっかり、易者の大先生になって、私の顔を見ると、工藤先生と呼んでゐるんで、一人になると可笑しくって、吹出してゐる理です。まあ、三十人位見たでせう。酒を飲むと長生きしないこと、賭博を好むと罰が当たること、娘っ子を悪戯すると、君は出世しないこと、等など、多少、輿太(よた)を入れてやるもんだから、仲間の諸君、当る、当るって、言ふんで、工藤大先生も顔負けしてゐる態です。

  今一つ――。
  五千人の失業救済人夫で、大先生とは私一人でせう。呵々

――働いてゐながらも、生活のこと、仕事のこと、十日目の満期のこと等、仲間は暗い顔もする、毎日――。

  よろしい、工藤君は自作の歌を唄ってやるから、元気をつけてくれと云ふのが、左記の歌です。


   草津節で――。

  一 神戸イエスに 一度はお出で、ドッコイショ、
    武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイノチョイナ。
  二 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ、
    阿南先生は、コレア、チパパと躍る、チョイノチョイナ。
  三 神学校の松本兄弟、ドッコイショ、
    神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイノチョイナ。
  四 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ、
    恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイノチョイナ。
  五 長田行くなら、河相さんの所、ドッコイショ、
    日曜学校で、コレア、番町の光り、チョイノチョイナ。


  こんな調子でやるもんだから、喜びこと、喜ぶこと、
  空は明るく、仲間はルンペン、工藤が大将になって、諏訪山音頭です。

  踊れ、躍れと云うふもんだから、ときには、十八番の芸――。
  佐藤おけさを踊って、やると、諏訪山の監督も、ルンペンも、ボーシンも、二十人位集って、昼休みの一服に、円陣を組んで、シャベルを棒で叩いて音頭をとる。歌手は仲間が交代、豈(あに)、工藤たらんや、佐藤おけさに浮かれ、肚を抱えて大笑ひです。

  これで、私も六甲山で苦しんで来た地盤と労働者の信用がある。
  柴田と云ふ前科二犯の曲者―アナーキスト、此の男、工藤が、武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じてゐるもんだから、工藤、俺アも、武内先生の弟子になるから、お前から話してくれと十日ばかり前に楠公さんの所で会ったら、話してゐた。

――須らく、こうでなければ駄目だと一人、クス、クス、微笑んでゐる。

  私も、ここまで来るのに相当苦労した。
  六甲山の飯場の生活、新開地の屑?撒水夫の仕事。それ等を通じて、私は勉強して来た。あの武内先生に読んで貰った上申書を書いてゐた頃は、働くと書けないし、原稿を書くと、飯が喰へないと云うふんで、図書館で五銭の焼芋を噛んで、書いたのです。その他に、十二月頃、私の所に来てゐた京都帝大の学生が、多少、金にして、四円位、飯を喰はしてくれたでせう。

  今年になっても、一月は葺合工区の指令であったから、それ程でもなかったが、二月は、どうして、生きて来たか分らない程、苦しんで来た。それでも、一月は、書物を千二百頁位読んでゐるし、原稿を百五十枚書いてゐるでせう。

  だから、無料宿泊所にゐる連中の顔見知りは、工藤、飯が喰へないで痩せ白い面をしてゐないで、警察の留置所に二十九日泊って来いと自分から志願してゐた位、仕事のなかった月である。

  煙筒商売四日やって、四十銭より儲からなかったし、雲中学校で、便所掃除と硝子拭の四日間は大助かりであった。

  三月も苦しんで来た。それでも私は希望を棄てない。前田兄は、ルンペンの群から、戦い抜けないで、――俺が働くと、仲間の一人があぶれるから、俺ア一燈園に行く、こんな、阿呆な哲学はあるもんでない。だから、こそ、戦って、労働者と農民のために、現在の犠牲を忍ばなければならないと云ふのか、ほんとうであって、四か年も、イエス団で教育され、賀川先生の私的生活まで知ってゐながら、現実から逃げて行く――結局、武内先生の魂を掴めなかったと云ふことである。

  私は原稿を書いたり、勉強してゐなかったなら、それ程、飯を喰ふために、苦しまんでも、悧巧に世の中を渡れる気要を持ってゐる。

  北海道から来たのは、土方の帳付になるために来たんでもなければ、神戸の二流新聞の記者になるために来たんでもない。

――ここまで、来た以上、正直に書きたい。宗教の生命に触れる、このことが、私の出発になって来てゐる。

  ブラジル問題がそうです。嫁さんの問題がそうです。私の真剣に考へてゐた拒勢がそうです。私の現在の苦悶がそうです。

  そのための上申書であり、K君への批判も、実際は、そうなのです。K君のことで、一寸横道に入るが――。

――実際言うふと、あの人のキリスト教と日本精神も掴んでゐない。もっと、もっと、公会の席上で自信があって、話しなら、勉強しなければ駄目です。それに、一体、あの人は、賀川先生の所に飯を喰ひに来たのか、ホーリネスの転向は主義として、合はないで来たのか、判断に苦しんでゐる。多少でも、人を指導するんは、こう云ふ角度を、はっきりしてゐなければ、人間として信用出来ない。主義としての苦悶も見受けられないし、賀川先生の「雲の柱」読んでゐるかと訊きたい。賀川先生は、少なくとも、国際主義(インターナショナル)のキリスト教がある。K君の日本主義とは理論的に尖鋭化すると、当然、分裂しなければならない理論的な見通しを、私は批判出来る。それに、少し、親切に批判して注意すると、感情的に対立してくる。イエスの友会をK君の所に置くと一人頑張ってゐるが、神戸イエスの友会の先輩に相談でもしたことがあると云ふのか。

――どう云ふものか、行動と言論に統一性が欠乏してゐる。

  Tさんを追い出したのもその通りです。Tさんは職場を失って落ち着かないでゐたんだから、そう云ふときは、ゆっくろ休養させて、時間の余裕を与へてやるべきだ。僕は思ふに、愛隣館の基金募金に、Tさん、あたりに働いて貰ったら、どんなに、事業が成功するか知れないと思ってゐた程です。
  それに、お喋べりすることは一人前で、自分の子分である人達からさへ、奉仕生活云々で、むっか腹を立て、同人に恥をかかせるとは、あれでは、腹の底が見物席に曝け出してゐるやうなものです。

――どう云ふものか、度胸が座ってゐない。松本兄と私との間だけの話だが、・・・ぢゃないかと思ってゐる。頭のある、信用される、人だとは思はれない。それで、イエス団でも、愛隣館でも蜂の巣をぶっこわしたやうに、信頼されてゐないと、いくら、賀川先生の弟子だって、神戸で仕事が出来ないでせう。

  少し、批判して、仲善くしたいと思ってゐても、相手が感情的に対立してくると、幼児に刃物を持たせたみたいに危なくって仕方がない。それに、三十七歳まで、キリスト教グループで、ふら。ふらしてゐたやうでは、あの人の歩んで来た道が、決して、あの人に有利に歩んで来たと思はれない。

  こう云ふと気を悪くするかも知れないけれど、これが真実(ほんとう)なのです。正しいことは正しい角度を持って、いけないことは、善くするやうに、ルンペンになったなら、それでいいから、正直に裸になって、先輩に愛せられるやいでなければ嘘だと思ってゐる。

  そう云ふ点でいま、明るい心を持って、よーし、仕事をやらう、と私なら考へる所です。こうに書いたことで、私が間違って居ったら、武内先生に批判して頂きたい。私は悪気で決して書いてゐるのでない。労働者は感情が正直だから、少し、酷くに当ってゐるかも知れないが、そう云ふ点で、私も腹を割って、くるなら、私は喜んで、自分のいけない所は頭を下げる。

――私の性情として、私も苦労の子です。

  三月も相当苦しんで来た。忠雄君のお父っあんの所で、飯の食へないとき招ばれてゐる。佐藤さんの所もそうです。

  私は立派な人間になって、この黒い瞳のパチパチ動いてゐる間は、お恩になった人達に、お恩返し、しなければならないと心掛けてゐる。これだけは忘れることが出来ません。

  そして、此の苦しみの境地から――私は人に問ひたい。

――工藤の真似が出来るかって――、お上品なことは誰でも言ふことが出来るが、自分に自信のないことは、多少でも良心を持ってゐるんなら、言へないでせう。

  諏訪山の仲間に、日本の労働者と農民の指導者に、日本の文芸復興(ルネサンス)の人達に、宗教青年のグループに言ひたい。

――俺の真似の出来る人・・・そればかりでなく、そう云ふやうな苦しみを通って来た人を、私は尊敬したいのです。

  こう書くと、武内先生にも、私は「傲慢な態度」だと思ひなさるでせう。然し、そうではないのです。

  私は集団の生活から、自分を掴んで行きたいのです。波に流されない、そのために、私は馬鹿でない限り、嫁さんと五つになる女の子を犠牲にしません。親父の金を七百円近くも、消費して、親類と親父から狂人扱ひされなくとも、よかったかも知れません。

  この点では、松本兄と、顔を会はして、私の心の重点を分って貰ってゐるので、不自然がないと思ってゐます。

  私は、そう云ふ点でも、武内先生に認められる青年になりたいのです。

  堀井さんだって、そうでせう。年輩から謂へば、私の少し上だから、伝道と生活を確立してゐないと、クラークさんばかりでなく、私でも尊敬出来ないとハッキリ書いて手紙を出してゐます。

  畠地も、養鶏場も、あれでは、決して、成功してゐるとは言ふことが出来ません。堀井さんは、役者が一枚上だけあって、工藤の云ふことが間違ってゐたら、直ぐ返事を寄越す。

  私も、どうにか、生活と芸術の統一が出来るやうになって来ました。それは、今、書いてゐる小説で、ともかくも、どうにか、自信が出来るやうになったからです。従って、これから、書くために、それ程、生活を犠牲にするんではなく、生活の基礎をコツ、コツ、確立しながら、勉強し、原稿を書きたいと思ふ。

  これは、私の一歩だけ前進した勝利の唄です。賀川先生の「死線を越えて」と、武内先生の苦労には、足許にも寄りつけないと思ってゐるが、然し、私には、まだ、若さがあります。私も、こうして、苦労しながら、勉強してゐると、あとから来る者の指導位は、出来るでせう。

  ただ、それだけです。
  神の生命線の出発は繰り返しここからだと確信してゐる。

  人と人との間では、多少の傲慢もゆるされるかも知れませんが、神様の前だけは、嘘を言ふことが出来ませんし、凡てが、神の生命から、私の心のヒントを外したくないと思ってゐます。

――いろいろ書きました。
――間違った所があったなら、勘弁して頂きたい。
――実は、これだけ書くんでも、一週間ばかり前から想を考へ、考へ続けてゐたのです。

――こうして、書いたのも、武内先生の心のうちに、私のレンズを、ぴったりして置きたいからです。
――いつか、私も認められることもあるでせう。

   三、二八日
                       工藤 生

  ○それから、お面倒ながら此の一文なり、此後、書くものなり、一纏めにして置いて頂きませんか。これ等が、私の芸術の骨子にしたいとも考へてゐるからです。