「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺2

   武内勝氏宛文書   
  工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿

         

        第一篇 武内先生に――(1)

 この一篇は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。
 武内先生に――。

 ――この一篇を、武内先生に書くに当って、
 中村氏に、一応、下書きを読んで貰ふて、私の神につける信仰上の魂の問題に就いて、全意識的に整理し、本書きに記した、私の最近の心の過程(プロセス)です。
 どうして、私が、此の一篇を、書く心になったかと云ふなら、私の整理されて行く、心の節操観念からである。

 旅先にゐる私は、いろいろな点で、経済的に、精神的に指導されて行く、先輩に対しての礼儀からである。
 それと、同時に、理論的に整理されつつある私の更生の姿ともなってゐる理です。

 然し、まだ、まだ、私は、イエスの宗教の生活体験を掴んでゐないと思ふ。お承知の通り、神戸に来てから、直ぐ、六甲山に登ってゐたこと、新開地のこうした生活雰囲気が、教会主義の敬虔な祈りの気持とは、余程、遠い世界に住んでゐます。それ等のことに就いても、此後、十分に体験しつつ学んで行きたい心で一杯です。

 いずれにせよ、一応、武内先生に読んで頂いて、参考にして頂きたいと願ってゐる所です。

  ――上申書に就いて――。

 私は、いま、上申書を書き続けてゐます。
 大体百枚近くになるんぢゃないかと思ってゐる所です。毎朝、烈しい労働で疲れ切った体を、四時頃から起出して、二時間勉強する時間に費ってゐます。

 上申書の内容と云ふのは、他でもありませんが私自身の思想的な、精神的な、経済的な整理と、贖罪観念に就いての心の問題です。
 丁度、共産党員が、思想の転向に就いて、裁判所に上申書を提出するやうに・・・。

 註――私は思想的に決して、転向してゐない理です。転向と云ふ一種の流行語を、私は好んでゐないからです。

 私は武内先生の教会であるイエス団に来たと云ふ理由、農民福音学校に賀川先生の門を訪ねたと云ふことは、決して、私のいままで持ってゐたマルクス主義に対しての思想的な転向でなくして、マルクス主義の経済体系をキリスト教の指導精神によって、より良く生かす理論的に言ふなら揚棄になってゐるからです。

 私はいま此の理論の確立と精神的な神の絶対性への思慕! 即ち、救ひが私の根本的な生命の問題になってゐるので、そのために私は、それ等のこと柄に就いての上申書を書き続けてゐる所です。

 私は、来年の一月、今少し落ついた気持で農民福音学校に学びたいと心掛けて居ります。そして、上申書によって、私自身の更生と私達の同志であった北海道の労働者と農民への指導的な意見にもなることでもありませうし、本年一杯にしっかりした勉強と宗教的な体験を積みつつ書き上げたいと思ってゐます。

 北海道の私の友人諸君、先輩諸君は、こうした私の心の過程を、お互いに顔を見合わせて、話合ってゐたので、それ程にも、私が賀川先生のイデオロギーとイエス団に寄宿してゐると云ふことで妙にも思って居りませんが、第三者的な立場にある私と云ふ人間に対して、多少でも関心を持ってゐた人達は、一寸、私の節操観念をあやうんでゐる人達もあるかも知りません。

 何故かと云ふなら、北海道では、多少でも農民組合運動と小樽の労働組合と小樽毎日新聞社では社会部の記者として関係し、働いて来てゐるからである。

 然し、私はそれ等の世間的な私に対しての思惑の如何に関らず、魂の救ひと北海道の同志諸君であった人達への指導的な理論を掴んで置くことによって、個人的には魂の贖罪を祈らなければならないことであるし、社会的には大衆の指導性に就いて、社会科学的なハッキリした理論を持ちたいと思ってゐます。
 
 註――そう云ふ点で、賀川先生は指導性を持ってゐると思ふ。北海道の奥地――農村の青年でもし賀川豊彦と荒木陸軍大将とどっちが偉いんだと部落の集会所で話合ふ位であるからです。然し、それは賀川先生の指導性の問題であって、賀川先生の精神である贖罪愛のキリストまで、理解されてゐない一種のフアンであるやうですが・・・。然し、社会的キリスト教の理論的な根拠は、此処にあると思われてゐる・・・。私が求めるとしたなら、私のいままでの傾向として、社会的である故に、その精神をキリストに置くことは、少しも、マルクスの経済学と対立しない理です。この点をハッキリ、農民福音学校で学びたいと思ふ要点です。

 私はこの上申書を、神戸のイエス団で、それこそ世間的で言ふなら、赤の他人である私です。北海道の旅から独りぼっちで広い神戸にやって来た私です。

 そう云うふ私を、いろいろな点で、私の魂を、私の経済的な安息所を指導しつつある武内先生の手を通じて、賀川先生と武内先生に提出したいと忍耐し勉強し、宗教的な体験に身を粉にして働いて見たいと思ってゐる所です。

 それ故にです。
 原則として私の北海道から来た更生の道があり、私の歩んで来た過去の総決算であり、現実に於ては私の魂の贖罪になってゐます。

 私は、どんなことがあっても望みを失わない積りです。新開地の撒水先のやうな仕事を通じて、私は新しく生れ変わりたい意志で一杯になってゐます。

       (二)

  ブラジル問題に就いて。
 ブラジル問題――悲しいことには移民制限法案がブラジル審議会を通過して、日本の移民数が、来年から三千八百五十二名位より渡航出来なくなりました。本年中だけでも二萬人位渡航出来る前年度の契約が履行されることになってゐますけれど、こうゐふ具合にブラジルの情勢が変化してくると、本年中の移民契約数すら、無意識的な農民は、おそれをなして、渡航を中止と云ふ案配で、神戸新聞社が市内版で大々的に提灯を持った記事を書いてゐますけれど、不幸にして事実はそれ等に反して、毎月二回の渡航数が、制限法案が提出される以前と今日では、及びもつかない激減を示すやうになったと日伯協会の当事者が私に語ってゐました。

 これが、日本の農民――特に貧農と小作人――都市の労働者諸君の致命的な打撃です。

 私は農民組合と農村道場で多少でも苦労して来てゐるので、全く惨めな北海道の農民大衆の姿です。

 註――賀川先生が農村更生の対策として、多角形農業と山林農業の開発と産業組合の助成を「幻の兵車」と云ふ小説でも、色々指導してくれるけれど、それ等は、実際問題になってくると、自作農と地主の更生です。明日、今日食へないと云うふ農業労働者は、農民でありながら、土地も家屋も持ってゐません。都市の自由労働者のやうに、その日暮らしの日傭農業労働者に過ぎないのです。こう云ふ点では、私の方が、北海道の農民組合と農村道場で専門的に苦労してゐます。それに、北海道は半植民で、不在地主の多いことです。北海道庁の拓殖計画の失敗は、この不在地主に因る所が多いのです。

 私はそう云ふ意味で私の思想的な更生と主義に対しての節操観念からブラジル行を絶対的に希望してゐました。

 私は純農でないことから、多少でも今までの私の観念から云って、寒い北海道の農業形態より、気候的にも恵まれたブラジル農業に北海道の農民大衆を呼び掛けることが私のせめてもの役割であると信じてゐました。

 然し、不幸にしてそれすら、私に制限法案によって奪はれました。

 註――私は、来年でも、ブラジルに行こうと云ふ意志があるなら、ブラジルに渡航してゐる小樽出身の先輩、私の家と極く近しい猪俣さんと云ふサンパウローの北海道日本人協会の会長をやってゐる農家に行けないこともないが、私のブラジルに行くと云ふ原因は、少なくとも、私の今まで歩んで来た北海道の農民大衆と労働者諸君に呼び掛けるのが、主要目的であったので、今日なって見ると、情けないやうな人間的な悲しみを味ってゐます。これで、ブラジル新聞社の件も、日伯協会から相談されてゐたことも自然解消になった理です。

 私はそれ等のことに就いて、日伯協会の機関誌ブラジル紙に一寸した原稿を書いた所、親切にも激励のある未知な人達からの手紙とハガキが二本イエス団気付の私の手許に来ました。これは大変に有難いことだと現在でも私は思ってゐます。

 私は、これ等の困難な道を通じて、人間的にどんなに努力を惜しまんでも、ある場合には、機会を選ばなければならない神の配剤に服従することが正しいことだと思はれて居ります。そのやうに私の歩んで来た道は、苦しい、あまりにも苦しい道であったのです。新しい出発は輝かしいものでなければなりません。けれど、然し、苦しい道であったにせよ、私の道は労働者と農民の経済的な精神的な更生の救ひの道より他にないでせう。

 私はいま、北海道の農民と小樽の労働者諸君の道に就いて、私自身の魂の救ひと社会的な役割(指導性)の重要性に就いて第二段の方法を考へられて居ります。

 それは何より神と私の問題であり、神と共同社会の連帯性に就いてであります。

 キリストの宗教は個人的に福音を伝へるけれど、社会的に経済的に大衆の生活に就いて無関心であると云ふことは、どう云ふことなのであらう。社会的な認識の不足が斯くならしめてゐるのではないであらうか・・・。

 今日の社会生活の形態では個人生活が社会関係の連帯性を密接に連携されてゐる事実をハッキリ認識してくることによって、イエスの宗教は個人的には魂の贖罪であり、社会的には指導性を持たなければならないと思はれて居ります。その例として、北海道に古くから渡道してゐた実業家の有力者は重にキリスト教信者であります。それと道を異にして(これは資本主義の社会関係が然らしめた事実ですが)北海道共産党の指導者の多くはキリスト教出身者です。それが不幸にして唯物主義思想への転換を余儀なくさせられた日本の組合運動の誤謬でありましたが、こうした社会的な事実の目前に立ってゐるキリスト教会は社会的な事実に対して、どれだけの指導性を持ってゐたことでせう。あまりにも惨めな大衆から棄てられた教会主義の誤謬がなかったでせうか・・・。

 私はブラジル問題によって私の観念形態が今一度、ハッキリした目標の再吟味を図って見たいと特に考へられて居ります。

 註――私の一つの展望は、ここまで、整理されて来てゐる理です。初め北海道から来た当時の私は、私の嫁さんの問題を解決して、日本に居っても、身も魂も組合運動によって、傷を受けた私であるから、小樽での親父の家業を営む理にも行かないし、結局、時を待つ――自殺をするか、更生するかの二つ一つの岐路に立った二三年の心の苦悩を味った理です。それが、私が組合運動をしてゐた頃、知人になってゐた農村道場の仕事を、約八か月近く手伝ふことになって、私は初めて、更生しなければならないと云った気運に動かされて、それには、嫁さんの問題の解決と、賀川先生の書物は、農村道場でも読んでゐましたし、その他、いろいろな機会があったりして、初めて、農民福音学校の門を叩いた次第です。それ等によって、私の第一の更生は農村道場であり、それ等が今日になって、こうした上申書を綴ってゐるやうな、理論的に精神的に整理され、具体的な目標の光りを仰いで来てゐる次第です。これらの詳しいことは、上申書に十分に書きたいと思って居ります。

○私は此後とも移民問題は、私の一生の農村更生になってゐる具体的な私の目標です。

○私は、此後、どんな具合に歩んで行くとしてもブラジルを棄てない、移民を棄てない、現在静観主義です。此後ともに、情勢に応じたいと思って居ります。



      (三)

 新開地で思ふ。

 旅先に来てゐる私は苦労の頂上です。
 ほんとうに苦労する。
 然し、私は苦労と困難を喜んで迎へるやうに真剣な心になって来つつあるやうです。

 それと云ふのは、どんな仕事、どんなことをやってゐるにしても、苦労のない人間は、地下足袋を履くやうに生活に根拠のないことを知ってゐます。

 ――苦労があってこそ、初めて人間になれるんだ――と云ったやうな封建時代の徒弟制度が、今日比較的進歩的な考え方を持って来てゐると自ら自負してゐる私ですら、この言葉はほんとうだとひしひし思って見ることがあるのです。そう云ふ意味で私は神戸に来てから(註――これは、今日では私の力強い地下工作になってゐますが)、六甲山で惨めな程の飯場での生活と冬の寒さに堪えて来た私です。

 註――然し、日本の労働者と失業農民はもっと惨めです。

 新開地は精神的に地獄の一丁目です。

 私は極道男の自動車に乗せられて福原に売られて行く風呂敷を一つ持った女を目撃して居ます。新開地のアスファルトは私の行願である水を撒く心にも反して、不良少年と刑事の鋭い目玉が交錯して居ます。

 刑事は六甲の労働者の変装であったり、遊人風情で映画館近くでぶらぶらしてゐます。

 註――私は特に、小樽の労働組合に居った頃――特高と交渉があったり、新聞社関係で警察に出入りしたものであるから、刑事の顔に、直感的に鋭くなります。それに、私の目付も据って人を見るくせがありますが、これはスパイに対して、絶えず、警戒して来た私の過去の運動に対しての心理的な動きが、ときどき、憎悪すら持って、目付が据ってくるのです。それに、これは、いけないことですが、私は階級闘争をやって来た関係上、争議等の場合の感情を爆発させることが手段であったものですから、武内先生にも、いろいろ迷惑をかけることがあって、大変に済まないと思ふことがあります。これ等は、私の過去の永い経験から来た習慣になってゐるのでせう。ほんとうに、私自身困ることがあります。

 私は毎朝、毎晩露骨に見せられてゐることは性欲の問題です。私の泊ってゐる湊川青年団の事務所のウラ道は新開地の袋小路(と云ふのは、人生の袋小路と云ふ意味です)になってゐる関係上、夜中に一度眼を覚まさせるのです。男と女の秘密は此の袋小路では治外法権になってゐるのかも知りません。

 飲食店の味覚とジャズと映画の殿堂とレビューの踊り子が大衆性を持ってゐる新開地です。私はこうした淫蕩的な雰囲気に勝たなければならないと――ほんとうに祈ることを知らない私は道を求めてゐます。

 私の魂よ、
 悲しむな、

 それに、私は終日烈しい労働に疲れ切ってゐることがあります。私は今少し時間の余裕と心のゆとりとが恵まれるならばと、今少し、私の心の検討と敬虔な奥ゆかしさを持つことが出来るんぢゃないかとも思ふ理です。

 吉田の親分は私を大変可愛がってくれます。
 ――お前のやうな、若い衆は、一寸めづらしい、と云ってゐます。
 然し、私は勝たなければいけない。
 私の魂に私は囁く・・・。
 決して、敗けてはならないことを。

 註――然し、働いても、働いても、お金は少しも残りません。うんと働くものですから、飯代が六十銭かかります。それに風呂代と暑いから氷水の一杯も飲みます。先月(七月)は仕事着のシャツを買ふたり、ズボンを買ふたり、書物を一冊買ふたり、私の従弟が仙台の刑務所の未決に入ってゐるものですから、一寸差入れしたものですから、今月(八月)から、どうにか二円五十銭ばかり貯金をしました。十月頃までに、武内先生に、返済しなければならないと心掛けてゐますけれど、堀井さんの所に二十日過ぎに二日ばかり休息したいと思って旅費を貯めてゐる理です。いろいろお世話になって、どんなに有難く思ってゐるか知りません。



        (四)

  エス団での説教――。

 私はこうした新開地の雰囲気から、日曜日毎にイエス団に行くことがどんなに楽しみであるか知れません。私の故郷に帰ったやうな思ひをする。そして、その席上で私は私自身を恥ずることが多くあるやうです。

 と云うふのは私の住んでゐる新開地の世界とあまりにも異った美しい敬虔な気持に満たされてゐるから、私は表面的には、ことなかれ主義で私の魂の驚異を包んで居りますけれど、私のある反面には、あまりにも恥ずることが多いやうです。

 信仰の生活とは不動の精神であると云ふ現実的な姿を私は武内先生によって見せられて居ります。二十九日の晩、集まる人達も少なく、何となく物足りない感じがないでもありませんが、それにも関わらず、武内先生は新川の贖罪を背負ってゐるかのやうに常日頃と変りなく、ぽつぽつ話される所は、五・一五事件の農村愛郷塾の指導者も斯く青年を指導あらしめたのであらうと思わせる私の経験を通じての魂の躍動です。

 註――私は五・一五事件の公判記録を参考に読んで見ました。

 それに先日十五日の日曜日に説教なされた環境の支配に就いて――私はこうまで武内先生が身をもって体験されつつイエスの宗教とその真理を語ってくれるのかと思ふと、血が流れるやうな嬉しさを感じるのです。

 特に私は私達の生活環境を終日考へられてゐることですから、それ等複雑な社会形態と信仰の勝利に就いて考へざるを得ないことがあるのです。

 飯が食へないと云うふことは事実です。経済生活の絶対性に就いてキリストにつける人達はどうして嫌悪するのでせう。経済生活こそ――環境の支配であるのです。この経済関係の改善を社会的に政治権力的に変革しない限り大多数の飯の食へないプロレタリアと貧農は救われないことです。

 これは歴史的な資本主義経済の恐怖であるからです。然し、それ等を通じて全意識的な信仰の勝利を信じることは幸いなことです。

 それにつけても、私はイエス団の教会が私のやうに宗教的な未経験な宗教生活の訓練に対しても、否、私の歩んで来た方向の異った観念に対しても、理論的に生活的に、信仰的な点から云っても非常に進歩性を持ってゐることを、私は私の北海道の友人諸君へ誇りたい意味でもあるのです。

 北海道にもキリスト教会が多く見受けられるやうです。然し、教会は十年一日の如く大衆から棄てられてゐる日曜説教に過ぎないので、大衆の要求、時代性、大衆の指導性に就いては、キリスト教会はあまりにも遠い世界になってゐるのです。

 註――ロシヤのレニンが宗教の阿片性を暴露してゐるのは、此の点にあると思ふ。左翼の戦闘的な無神論者同盟と云ふ認識不足の団体も、理論的な、教会への対立でなく、感情的な教会への対立となってゐることは、私が北海道に居ったとき、此の一派のグループとも知合ってゐたので、この点は、理論的にも哲学的にも、私の議論が一歩前進の指導性を持ってゐます。

 おそらくそう云ふ意味に於いて、賀川豊彦先生より他に日本の共産党員に対しての指導性を持ってゐる指導者は、キリスト教関係者にあるであろうか?

 全国の刑務所に叩き込まれてゐる五千七百人近くの共産党員が、その三分の二転向状態にあると云はれてゐます。

 然し、来るべき道は何処へ行くと云うふのであらう。私の親しい北海道の同志諸君も多くは転向と生活的な没落をしてゐます。

 註――北海道農民組合の書記をやってゐた菊地君と云ふ親しい私の同志は、最近便りがあって、――生ける屍――だと最近の心境を私に訴へて来てゐます。

 私は共産党員に対しても、傷つける魂を持ってゐる私達に対しても、親切な愛の言葉を囁いてくれる指導者は賀川豊彦氏であることを私は知ってゐます。それが十年一日の如く終始一貫無産者と貧民の味方であるからです。

 私は武内先生の指導を受けたいと思ってゐます。そのことによって、間接的に賀川先生を人間的に個人的に知ることになるのでせう。

 環境の支配――それ等に打ち勝って――信仰の勝利と云うふことは、決して、マルクスの経済学と対立してゐると思はれません。

 註――私は、これ等の原稿を書く順序を、毎日撒水車を引きながら思索を続けてゐるのです。そして、私の職場は湊座のポンプである所から、そこで曇った日を利用して、休憩時間を利用して、断片的に書いたものを、翌日の朝、二枚づつ清書して整理してゐるのです。これは高比良君も知ってゐることですが、毎日のやうに、六甲の労働者諸君は私の所に集ります。飯が食へないと云うふから、私の労働賃金を都合して、壱円二十銭位になってゐるでせう。


         (五)

  農民小説と――。

 撒水車を引くことも相当に辛いことです。
 酷暑の炎日を、私達は汗まみれになって働いてゐます。ほんとうに汗まみれの生活です。

 然し、それも、八月一杯と九月中旬頃までになると、どうにか一つの実を結ぶことが出来ると信じてゐます。

 私のこうした労働の反面と精神的な育って行く――忍苦と努力の反面があるのです。

 私はいま「上申書」のほかに、図書館から借り出してゐる書物と農民小説を書く初歩的な材料を集めてゐます。私の所に来てゐる日本農林新聞社の懸賞論文である所の「農山漁村の更生策」と中央公論七月号「盲目」と云うふ小説の文芸批評を、大体今年中だけでも二百枚近くの原稿と材料と構想を練って見たいと思って居ります。

 私は終日烈しい労働に従ってゐることであるから、無理のない程度で不断の努力を続けたいと思って居ります。

 毎朝二枚づつ原稿を書いても、二百枚だと百日(三ヶ月半)ですから、本年中には書けそうな気もする。それに労働と云ふことも、精神的な祈りの気持が加味しない限り、それは単なる食うふために生きる――少しの進歩性も見出し得ない社会的な屑の労働に、結果かう云ふと終ることになるでせう。

 考へて見るまでもなく、若し、こうした撒水夫のやうな仕事を、世俗的に言ふなら、社会生活の水平準以下であるのです。

 放浪者(ルンペン)より一寸生活的に――食うふために、基礎があると云うふに過ぎない労働である。

 然し、そこに、どんな仕事であってもよろしいから精神的な魅力があると、其れ等が結果に於いて神の栄光の表現ともなることです。

 そう云ふ意味で私は労働とともに、勉強もしてゐます。

 こうした私の一つの行動が、ブラジルを第二の方向へと歩んでゐる過程なのです。

 私が農民福音学校を選ぶと云ふことも、それ等を基礎にして、私の今年中に書ける作品によって、私の才分なり、私のこれから選ぶべき方向なり、私の魂の状態等がハッキリしてくると同時に、あるものを掴んで十分に生かす、それが私の農民小説の重点です。これ等の三位一体によって直接、私の魂を指導しつつある武内先生と賀川豊彦氏によって認められることによって私の更生があり、私の魂の救ひとなってゐるからです。

 私はそれ等を通じて、来年度の私の行動を決めたいと考へつつあります。

 それは言ふまでもありません、現在の私は旅先の道場と云ふ修行です。これからが本格的な北海道の労働者と農民のために、今一度省みる必要を感じなければなりません。

 繰り返し、宗教生活と云ふことは、個人的な贖罪と社会的な指導性が根本的な原理となってゐると思はれる私の全意識的な認識です。

 私はブラジル問題に変って、農民小説を書くことが私の社会的な生命になるでせう。

 そうして、それ等のことを精細に整理して見ると、私の芸術的な天分なり、文学的な基礎は永い間の友情であった、日本共産党文化運動の書記長をやってゐる東京の警視庁で殺された小林多喜二君の霊に対して、私は贖罪しなければならない節操の観念と小樽時代のグループの親しい友情でもあるからです。

 註――彼の小説は、左翼運動の全盛の頃、国際的にほんやくせられて居ります。そして、彼程、勉強した男は、私の小樽時代に見受けられない程に勉強し、彼の小説集は、日本の出版界でも、重きをなしてゐます。私と同年齢で小樽高商出身です。改造の六月号を読んで見ると、山本実彦社長が、賀川氏の「死線を越えて」の出版は出版界でも、あれ以来の出版数が、今日まで絶無になってゐると書いてありました。それ程に、プロレタリヤ作家としての小林君の出版は、プロレタリヤ芸術の方面での絶無であると云うふことが出来るでせう。

 私は性格的に言ふと、非常に急激な変化性を多彩に持ってゐるやうです。

 私の小学校時代の頃、先生が、
 ――工藤はよくなると偉い男になるし、悪くなると、とんでもない男になるやうだ――と云ってゐたことを記憶してゐます。これは、現在、私が小学校時代から今日までの変化を考へて見ると、私と云ふ男は性格的に急激な多数性を持ってゐると同時に実に美しい友情を持ってゐることを私自身が私を認めてゐます。

 註――私のためと云はれるが、どこか、今の所判断がつきませんけれど、私が十勝の農村道場で更生を図ってゐたとき、私が行方不明になったと云ふので、私を尋ね、尋ねてゐた中田義雄君と云ふ小樽の組合の書記をやってゐた彼が、私が自殺をしたんだと思ったことでせう。あの頃の私のことだから。彼は私のあとを追って自殺したんぢゃないかと、私の友人達が、私が関西にくる直前に話してくれたことがあったのです。

 私が、北海道の農民と労働者のことを考へるならば、私は私の魂の救ひと指導理論を、ハッキリ私のものにして帰ることが、どう考へてもほんとうらしいのです。

 そして、小樽の友人諸君等と図ると同時に私一人息子である親父に親類に私の更生の道を証言して、私の家庭の贖罪、私の友人諸君への指導性、小林君の歩んだ今一歩を前進して、彼が生前、樺太を舞台にした小説を書きたいと云ってゐたことが度々ありましたが、彼の意志を、私の立場から樺太での労作は決して無意義であると思はれませんし、そのことによって、私の立場からの贖罪と農民と労働者への指導性が確立されるのではないかと思はれて居ります。

 ですから、此の整理されて行く心が決定的なものでありませんが、若し、出来ることなら、来年の五月頃、大体の目標を定めて、小樽へ帰ることが至当でもあるやうに考へて居ります。そして、そのことによって、私が生きる私の道であり、残された刺が、一つ私の身から贖罪化されてゐるやうな心を覚ゆるのです。



        (六)

  社会科学と宗教生活に就いて。 
 私はこの稿でマルクスの経済学説と宗教生活とが対立しないことを書いて来ました。

 然し、哲学的に言ふなら、マルクス主義史的唯物論であり、宗教は唯心論に属してゐると思はれてゐます。そして、十九世紀の歴史学者の論争と云ふのは、此の唯物論と唯心論の論争であって、マルクス学徒は唯物論者であり、ヘーゲル学徒は唯心論の代弁者であったと思はれる。こうした歴史的な、哲学的な根本問題である論争の中心を、弁証法と云ふ学説を認めるか、否やにあって、決定されてゐると信ずる。

 私は歴史的に観るなら、弁証法論者で、一切の社会科学的な機構を弁証法的に、現在でも批判しつつ来てゐます。これは正しいことで、弁証法とは、歴史の正反合を意味する。

 十九世紀の実証歴史観は正反の論争に過ぎないやうに思はれてゐます。
 然し、二十世紀の機械文明と国際的な複雑性は弁証法の所謂、正反を揚棄して合目的性によって大衆の指導原理になるつつあるやうに思考する。

 註――実際、唯物論と唯心論の論争は、今日の私達の間では解消してゐます。土方人夫が唯物論者で街の淫売婦が唯心論者であるにしか思はれない、古い時代的な論争になってゐる。何故かと云うふなら、人間はパンなくして、生きられないことであるし、精神的な糧である所の文化形態を、精神的に、情操的に、慰安的に必要視され、日常生活に、これらのもの、ラジオ等、心理的に、人間の文化形態の一つになってゐる位だからです。従って、パンのみを言うふ人間は土方人夫であり、愛情の問題のみ促はれてゐる階級は淫売婦に過ぎない――と云ふ極端な表現かも知りませんが、事実は、そうなってゐるのです。それ程に人間の社会形態は、進歩的であり、機械主義であり、情操的に動いてゐる事実なのです。ラジオの音楽はパンではあり得ない、喫茶店のコーヒではお腹がふくれない、デリケートに属した心理性なのです。

 こう云うふやうに、社会科学の世界では、常に古きものより新しいものへと弁証的な神学を認めると否とに関らず、歴史は常に冷酷に弁証法的に進行しつつあることは事実です。

 註――賀川氏の著書で「神への思慕」(一九三一版)自然科学と人文科学に就いて、私は参考に読んで見ました。

 従って、今日のキリスト教徒が純福音の立場から、神を問題にしてゐるなら、大きな誤謬を犯してゐるやうに思はれます。それには社会科学は社会機構の全部と云いひたい程、支配してゐる経済行動に認識の不足であり、ロシヤのレーニンが叫んでゐた――宗教の阿片性――が此処から生れてゐるやうに思はれてゐます。

 と同時にマルクス主義学徒でマルクス主義の絶対性を揚棄しない限り、今日の労働者と農民の問題ばかりでなく、一般人民の名に於て大衆的な指導原理を失ってゐると云はなければなりません。

 註――賀川先生でも、ヒットラーでも、ムッソリーニでも、レーニンでも、特に労働者と農民に政治的な重点を置いてゐる所は、労働階級は次の時代の指導性の原動力になってゐるからです。

 それ故にです。
 日本的に云ふなら、河上博士の資本論賀川豊彦氏の宗教的な精神を理解しない限り、それは労働階級の革命と云ふ小児病者の痴人の夢に過ぎないことになってゐます。

 然しながら、所謂、世の中は冷酷です。労働賃金の決定は商品価値にあるので、決して労働者をして人間価値として取扱ってくれるものでないのです。

 註――河上博士の第二貧乏物語―商品価値論。

 私はこれ等、弁証法的に言うふなら合目的性実証歴史観が此れからの社会科学の指導性と人間史になると思ふ。

 そう云ふ点で私の北海道労働者農民の指導意見書も基礎的な宿題は此処から出発してゐるので、私の産みの苦悩を味ってゐる現在のプロセスは、河上博士の史的唯物論より進歩的な指導性を持ってゐると思はれます。何故なれば日本共産党の資金局の責任者であった河上博士の義弟大塚有章氏は、赤色ギャング事件から、急に心境に変化を来たし、――私は坊主になります――と公判で告白してゐます。こう云ふことであるなら、最初のスタートが誤ったことをハッキリ宣言してゐることで、ここには理論的な整理もなければ、労働階級に対しての節操もありません。それに多くの大塚氏によって指導されつつ行動をともにした同志の友情に対しても裏切ってゐることなのです。

 それ等と稿は変って、私は賀川豊彦氏より経済学を学ぶことを期待して居りません。

 註――賀川氏の「主観経済学原理」(大正九年頃出版)、私は大正十三年頃、二十四歳の頃読んでゐます。

 私は経済学者の権威である河上博士と賀川豊彦氏の宗教生命を揚棄して新しい指導精神の確立を合目的性の指導意見としたいと思ってゐる次第です。

 従って、言葉を換へて言うふなら、マルクス主義は経済学としての権威であり、それ以上ではあり得ないと云うふことと、宗教生命の現実性は神への絶対的な権威に、人間の方向性として社会生活の経済観念を指導しなければならないと云ふキリスト教、組合主義の理想国家論です。それ故に、私は罪人です。労働組合運動と農民組合、小樽の文化運動を、大体に於て指導的な立場にあった関係から、法律的な前科を持ってゐます。その他に、警察の留置所に東京時代から数へると、七八回持ってゐることです。

 註――此の稿を書くと、もっと具体的に書かなければなりませんので、上申書の完成によって、十分に読んで頂きたいと思って居ります。私はマルクス主義の転向者ではありません。ハッキリ、私はキリスト教、組合主義の傾向に、理論的に整理されつつあることです。



        (七)

  性の拒勢に就いて

 私はこのことを、神戸に来てからとか、嫁さんと別離したからと云ふ最近に起った私の祈りではありません。

 これは、少なくとも三十四年の心的な過程を踏んでゐるのです。それ程、具体的に考慮されませんでしたけれど、キリストの宗教と私の祈りの良心的な動きが、再び具体的に、どう云ふ事情があったにせよ、拒勢しなければならない救の刺になってゐるのです。

(イ) その一つとして、私の家系の遺伝的な法則を見逃してならないこと、
(ロ) 私の北海道に於ける指導性――何等かの意味で私は真剣な具体性――贖罪の具体性を持たなければならないこと、
(ハ) 私自身の弱さから来てゐる性的な欲望への拒否、而して、私の十か年のマイナスの生活に対しての更生の祈り。

 これらの具体的な目標が私をして、性の拒勢に就いて、考慮して居ります。

 遺伝的に言ふなら、悲しいことには私の血族関係は此の女に対しての弱さを多分に持ってゐる事実を私は見せられて来ました。

 これは大変に書き難いことですけれど、私の親父は一人息子の私より私を生んだ母親を私が生れて三ヶ月目に追い出して他の女と生活をしてゐたと云ふ祖母の物語が、私が物心がつくに従って知ることが出来てゐます。それから、少年時代から今日までを通じて、――これは全くに恥かしい話ですけれど――私の母となるべき親父の妻が私の知る限りに於いて三人変ってゐることを私は知ってゐます。

 こう云ふ複雑な家庭の事情が私をしてどんなに悲しませたか知れない。それと同時に家庭的に恵まれない私の歩んで来た道と云ふことも出来るであらうし、こうして私が旅先にゐると云うふことも大部分は私の家庭の問題から出発してゐることにもなってゐるのです。

 註――上申書の内容は、こう云ふことに、ふれて見たいと思ひます。

 そうした親父の母に対しての血族の遺伝が祖父によっても見受けられます。それ等が私家の悪質的な遺伝の法則となって私の精神的な問題にまでもくひ込んでゐる。私の過去の道を私は知ってゐます。

 これは、ほんとうに悲しいことであるし、遺伝の法則の恐ろしさと云ったものを、泌々考へらせられてゐることです。

 こう云ふ点で私はほんとうに罪人です。此の罪の深い一人の女性の生涯を台なしにて仕舞ってゐる罪の深い私であることです。私はこの贖いを、何によって贖ふべきであらうか、神への信仰も具体性を持たない限り真剣な祈りの態度がハッキリしないと思ふのです。中央公論七月号に「盲目」と云ふ小説が載せられてあります。此の作者は新人で日本のジャーナリズムから認められて来てゐます。此の「盲目」が大変な良い作品であると云ふ東京朝日新聞の文芸批評で私は読んだことから、私は貴い労働賃金から一冊買って一通り読んで見ました。

 註――この作品の大変良いと云うふことは、中村君とプロレタリヤ芸術に就いて話し合ったとき、十分に認められてゐました。

 作者――日本の共産党員であり、あらゆる貧困と官憲の弾圧と戦って来た彼であったが彼に与へられた報酬は悲しいかな、刑務所の独房であったのです。未決に永い間叩き込まれてゐるうちに過去の栄養不足と急激な生活の変化と囚人風呂で囚人の梅毒菌を目に受けて失明の悲運にと云ふ筋を克明に、彼の経験を通じて芸術の真実性に就いて、十分にふれてゐる理です。八十枚近くの作品ですけれど。

 註――然し、私は朝日の批評家が激賞する程に、私は評価してゐません。これは、作者と私の芸術理論の対立ですけれど、そう云ふ意味で、私は、此の「盲目」の批評を、北海道の同志諸君達であった人達に書きたいと思ふし、中村君にも一応読んで貰ふことを約束してゐます。

 ただ、此の小説の一節に、
 ――私は失明のどん底につき落されながらも、・・・・
 この主義のために、喘ぎながら、生きて行かなければならないと云ふ悲痛極まる全編を通じて彼の真実を語ってゐる理です。

 私はほんとうに此の点だと思はれるのです。此の真実性こそ、読者の胸を打つ生きんとして生きる彼の悲痛な姿となつかしい人間的な情味を感じるのです。

 中央公論の編輯者も、此の作品の価値と彼のこの真実性を通じて新人号として頁を飾ったもののやうに思ってゐます。

 註――賀川先生の場合でも、この点にあると思ふのです。「死線を越えて」は、芸術価値の作品ではありませんけれど、賀川先生の真実な姿と経験が、読者をして、今日、なほ、繰り返し、読んで見たい気持でゐます。私は神戸に来たことから、今一度、「死線を越えて」が、誇張的でないか、――これは、多くの読者は、そう思ってゐるのです。そんな事実があるもんか、小説だから誇張してゐるのだらうと、私もそれを信じて来ました。私は「死線を越えて」を再吟味したいと思ってゐます。

 それ故にです。私は思ふ。
 人一倍の苦労と人のなし得ない新しい境地を開拓して行かない限り、社会人として認め得られものでないと思ふ故に、私の拒勢に対しての態度も、此の真実な祈りが重点になってゐるのです。

 ああ、私よ、
 私は泣き出したいことが度々あります。
 けれど、私は悲しまない。
 具体的に目標を定めて、私の贖罪を考へることが正しいことです。
 この道を通らない限り、理論的に北海道の大衆の指導性を持つことが出来たとしても、人間としての私は信頼され得ないであらう。

 それは、私の血族に対しての贖罪であり、私の同志であった人達への贖罪であり、私の嫁さんに対しての贖罪であり、私の子供――節ちゃんと云ふ五つになる女の子に対しての限りない私の贖罪になってゐるのです。

 これは、私の最後にまで残された刺になってゐます。私には、どうしても通らなければならない道であるやうです。

 註――最近になって、六甲山で一緒に働いてゐた神戸共産党の伊集院が、いよ、いよ、更生の一歩を踏み出して、貨物自動車の積卸人夫になってゐます。彼と新開地で会ったのですが、私に涙を流して、更生をちかってゐます。おそろしい、地下工作の三か年は、血みどろの態度と苦しみが必要であることでせう。私の更生も、神戸にくることによって、二か年目の更生の経過を踏んで来てゐます。ほんとうに、祈りたい心で一杯です。伊集院君は、私に肖像画を書いてくれたと云ふ。彼のためにも祈りたいものです。


付記。
 繰返し、読み直して見ましたけれど、文章的に誤ってゐる所も見受けられます。然し、これは、私の心的な過程で、私の上申書の骨子にもなってゐる断片的な覚え書です。此の一篇を、武内先生に読んで頂くことによって、私の心の重荷が、軽くなるやうな、私の節操の問題です。

 いづれにせよ、一応、目を通して頂きたいと思ふ次第です。

       ○

 終日、忙しいのと、疲れ切った思索で、まとめて見ました。然し、撒水の仕事も、農家の農繁期だと思ふと、それ程に辛いこともありません。

       ○

 いろいろな点で、お世話になって有難く思ってゐます。
 実際、武内先生より他に、私を手引きしてくれる人がありません。それも旅先にゐるのです。
 お借りしてあるお金を、今月一杯にお頼みします。

   八月六日          工藤生