「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝氏所蔵資料)補遺1

  武内勝氏宛文書 工藤豊八氏(元毎日新聞社会部記者)草稿
                     

 表記については、2009年の「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」(現在も伴武澄氏の御好意でこのサイトは http://k100.yorozubp.com/ に引っ越して公開中)における「賀川豊彦のお宝発見」(長期連載の最終回)で短く言及し、それは賀川記念館のHP http://www.core100.net/ の「研究所」の関連個所においても閲読可能になっています。
 まずその部分を、ここに改めて取り出して置きます。

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 (前を省略) 公開できた中で最も注目させられたのは、「武内勝日記」のA(昭和前期)とB(最晩年)であった。これは武内氏の人柄と日常を知る一等資料となった。「手帳」に残された戦後の武内メモも貴重であるが、本サイトでは殆ど紹介できなかった。

 「玉手箱」に収められていた「お宝」には、120通近くもの武内勝宛の「賀川夫妻からの封書・葉書」が残されていたことも驚きであった。私にとってこれは、まさしく予期せぬ「大発見」であった。

 一部を除いて、このサイトでほぼ紹介することが出来たが、改めて武内氏と賀川夫妻とが「同時代の同労者」として「苦楽を分かち合う間柄」であったかを知る、得がたい基礎資料であった。書簡類も失われてしまっているものも多いようであるが、よくこうして「玉手箱」に遺していただけたものだと、祐一氏に深謝している。
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(写真省略)

 これは、所蔵資料の中にあった4冊の文書である。400字詰め原稿用紙にペン書きされ、こよりで綴じられており、4冊とも「武内先生に――」として届けられている。

 筆者は「工藤」と書かれ、当時30歳代と思われるが、北海道小樽で毎日新聞社会部の記者として、農民運動や労働運動にも関与し、小林多喜二とも深い関係を持つ人のようである。(文面に「工藤豊八」とあるので、これがお名前かも知れない。)

 北海道で賀川豊彦を知り、神戸のイエス団に飛び込み、武内のもとで日雇労働をしながら執筆活動を重ねている、小説家志望の文士という印象を持つ。

 因みに第一冊目は、「武内先生に―。この一編は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。」(原稿用紙42枚)
 第二冊目は第二編で、「武内先生に―。魂の彫刻を語る―散文的に―生活と芸術の統一性―一つの小さな喜びの歌」(原稿用紙13枚)
 第三冊目は第三編で、「武内先生に―。春と花の心を語る―血と光の真理を求めて―只、一つの道、生命線―人生の未完成交響楽」(原稿用紙13枚)
 第四冊目は第四編で、「一つの果実。(一)ルンペン哲学―能動的な精神―死線を越えて 芸術に関する覚え書き―序論―賀川先生の芸術の統一性―無名時代の地下工作―メカニズムと芸術の統一性―芸術の真実性と商品価値―芸術への展望 書きたい構想―再び、反賀川派について―イエス団正反合の統一性―指導者に関する私見―私の決意 労働者の問題―メーデーを中心に―パンと魂の一元論―マルクス学説への反論―ラスキンのベニスの石 農村のその動向―村井の農民座談会―行政の県会地下工作―堀井農村道場の再吟味―農村青年の苦悶―自然美と人工美 イエス団―25年の基礎工作―参考意見」

 以上四篇が残されている。ご自分では『武内勝伝記小説』を書ける自信をもっている、と記すほどに、武内勝への深い尊敬の思いを、文面いっぱいに滲ませているドキュメントである。

 ここでは一つだけ、紹介しておこう。

 「武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じているもんだから」と書いて、工藤は日雇い労働の仲間たちに、次のような歌をつくっている。

 草津節で―

 1 神戸イエスに、一度はおいで、ドッコイショ
   武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイナチョイナ
 2 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ
   阿南先生は、コレア、チパパと踊る、チョイナチョイナ
 3 神学校の松本兄弟、ドッコイショ
   神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイナチョイナ
 4 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ
   恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイナチョイナ
 5 長田に行くなら、河相さんの所、ドッコイショ
   日曜学校で、コレア、番町の光、チョイナチョイナ
                        (第二冊目5枚目)

 ともあれこの作品は、じっくりと閲読をさせて頂きたい。
 工藤さんはその後、どのような歩みをされ、どんな作品を書き残されたのか、興味津々であるが、今のところすべて不明である。

     
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 このブログでは過日「賀川豊彦の畏友・村島帰之」の長期連載(190回)を終えたばかりで、ここでひとやすみをしておりました。

 ところが、2014年10月15日、久しぶりに、地域史研究・民衆史研究に打ち込んで居られる田中隆夫氏よりお電話を受け、以前我が家に来訪いただいた折に、前掲の「工藤氏の草稿」(コピー)をお渡ししていて、田中氏は最近、所用で北海道在住の研究仲間の方にこの資料についてお話しいただいたそうで、できればこの資料に私のコメントを添えて、その方へお届けしてもよい、との申し出をいただきました。

 そこで私は、標記の貴重な資料を、是非この機会に、読みやすい形にテキスト化しておき、それを田中氏とその研究仲間の方の閲読をいただいて、適切な読解とコメントを願えればと考えました。

 この作品は、「武内勝氏宛の工藤レポート」であるので、武内勝氏その方についても、ここで始めに言及して置くのが順序ですが、すでに上記ブログの長期連載で、武内勝氏の全容については公開していますので、関心のある方は、まずそちらをご覧いただくとして、ここでは早速、工藤氏の草稿そのものを、少しずつテキストにしてUPしていくことにいたします。

 この作業を進めながら、工藤氏の労作の意義づけがいくらかでも明らかに成ればと願っています。このブログを御読みになった方の中で、何か御教示をいただくことができればありがたく存じます。

       (2014年10月29日記す。鳥飼慶陽)