賀川豊彦の畏友・村島帰之(34)−村島帰之「アメリカ視察談」

 今回は前回収めた「アメリカから」と関連する村島帰之の「アメリカ視察談」で、「火の柱」(昭和6年12月20日)掲載されているものです。藤本冬子の聴き取った小品。

 この写真は、1931年(昭和6)7月10日、カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招きで日本代表として、賀川は村島と小川清澄と共に横浜を出帆。平安丸の船上にて。


           アメリカ視察談                            村島帰之

 賀川先生や小川先生の前で話すのは、村島はどの程度にアメリカをみてきたかを、試験されるやうな気もするが、あたるも八卦、あたらぬも八卦、勇敢にこころみよう。

 視察とは、私のアメリカ行きを、最も適確にあらはす、誠によい言葉である。視て、察してきただけの話だから、事実どうだかわからない。誤察があるとも、悪しからず御容赦を願ふ。

 私はアメリカヘ

 ゆく前に、あまり恥をかきたくないと考へて、礼儀作法を研究しておいた。最初のうちは、エレベーターにのると、早速帽子をとってゐたが、それは私一人であったので、三日目位からぬがないことにした。

 私は、アメリカの概念を、くはしくは調べなかったが、かうもあらうかと想像していった。その期待が、大きかったために失望も大きかった。『幻滅のアメリカ』それだけ礼儀作法を心得過ぎてゐた。感心した点もあり点取表は五分五分であった。

 ヴァンクーバーに最初ついたが、スカイラインに感心した。アメリカ、カナダの印象は、スカイラインから始まってゐる。着かない前に、まづその大層高楼が頭にいり、奥へはいってゆくほど、それが膨れていった。最後にニューヨークで、世界最高のエンパイア・ステートビルディングにのぼった。下をみて『人間の墓場だ』と賀川先生はいはれた。この摩天楼をみても一度にニューヨークにきたのでなく、だんだんみてきたので、さして驚かなかった。

 大都会の音は? と耳をすますと、ゴーッといふ。丁度ダイナモの音のやうに、雑然と一つにとけていた。高い建物についても、日本を出てくるときには、大きな摩天楼を期待したのであったが、かうなるほど人間の生活は不便だと思った。最上の百二階にのぼるのは、三度もエレベーターを乗りかへねばならぬ。採光が悪く、からだはのぼって行くのに、気持ちとしては地下の炭坑へでも、おりて行くやうであった。

 高層建築の悲しみ 

 を感じた。通風の悪いことはもちろん、ヴェンチレーターで空気を送ってもらわぬと、窒息しさうだ。なかに住んでゐる人がみぢめに思はれた。エンパイヤ・ステートをおりてくると、私などは耳がぢーんとなる。建物高きが故に尊からず。人類は蟹と同じく、平面をあるくやうにできているのに、ビルディング人は、たてに動いている。コンクリートの上にすんで、土の喜びをわすれてゐるのが、都會人である、我々は、蟹の喜びを感じ、自由に土をふみ得る特権を感謝した。

 道路のいいのは、頭が下がった。三ヶ月旅行して、靴の底が汚れずしまひに、船にのることができた。日本の道路は、どろどろしているが、アメリカにおいては『どーろ』といふのは不適当である。それはその筈、ガソリン一ガロンについて、三銭づつを道路修繕費にあてている。

 しかし、日本にそれを適用するなら、道のみで、すむ處がなくなるだらう。アメリカの道路は、自動車本位で、『自動車には道あり、されど人の子は・・・』。自動車は百パーセントに活動して、先生の腎臓を悪くしたが、人はほとんど歩いていない。ルンペンの姿しかみない。人道無視、全く人道問題である。歩くものじゃない。のるものだ。人間の足がなくなるのじゃないかと感じた。間違っていたらあしからず。

 自動車の発達には、あきれてしまった。自動車を持っていないのは、人間が足をもっていないと同様である。すべての物が、機械化されていることをみたのであったが、人間の足も機械化して、地理的距離は非常に短縮した。

 六十哩、百哩とはなれた處から、一家が自動車にのって、東京から松沢位の気軽さで、講演を聞きにくる。のみならず、青物なども六七十哩も離れた処から、百姓がきて、売って帰る。(市場通いしているのは、大抵日本人である)マーケットが非常に拡大されているのは、自動車のおかげである。しかし自動車のため犠牲になっているものもある。電車の失業、サンタバーバラなどは電車がない。無用の長物をおいては、不経済だとレールも取り除いてしまった。汽車も同じ状態である。

 よく汽車の屋根

 の上には、ルンペンが無銭乗りをしているが、ルンベンにとっては、汽車が何時までも必要なのである。一番の犠牲は交通事故である。

 賀川先生の旅は、三万哩に近かったが、無事故であった。かうしたことは珍らしく、毎日何萬人の人が死んで、交通地獄が出現している。犬猫など家畜は、最早都会に棲息できなくなったのであろう。姿をみなかった。子供は、もう街路を遊び場とすることは、絶対にできない。貧民窟には、大きな問題がある。シカゴのハルハウスに對しては幻滅を感したが、テイラー氏のコンモンスには感心した。テイラーさんから市にお願ひして、貧民地区のある街路は、一定の時間を限って閉鎖し、子供の遊ぴ場となる。セツルメントの事業の一つであるが、愉快なことである。タクシーがないのは不便だった。

 今度は巡査。これはナンセンスな存在のやうにみてきた。棍棒をぶらぶらさせながら、なかなか融通がきいて、日本のやうに『おいこら』といった調子ではない。一種のフェミニストかも知れぬ。コンミッションをもらふ点では、感心できぬ。泥捧を捕へる巡査としては黒星であるが、街頭風景としては、愛嬌ある存在のやうに思った。兵隊さん、上等と下等と有り、士官といはれている。

 上等の兵隊さんは

 随分、月給をもらって、贅沢をしてゐるといふことである。ハワイで『兵隊がたくさんゐるからこの辺は危い』といふ話をきいた。兵隊と見たら泥棒と思はなければならないとは、アメリカが黒星。日本は二重まる三重まるである。

 婦人の話。往来を歩いていると女ばかりのやうな気がした。深窓に育った女などはない。女の国、働いている女の多いのに感心した。社会事業には殊に女が多い。ラッシュアワーをみて女の人達がやす物の小説などをもって、出てくるのが多い。映画を通じて、想像していたのと違ってゐることを、認識してきた。えげつないメイクアツブをしてゐるのは、映画女優のみである。

 悪い意味で、世界の先端を行くのはミス・ギンザであらう。着物なんかの感じも、スカートが長くなってきて、すっかり違ってゐた。しかし、今のスカートは長すぎるので、必要がもっと短くするだらうといはれてゐる。クリスチャンホームのレディ等の日本の女性におとらない淑徳と、そして話題の豊富な点などは、学ばなければならぬ。婦人の問題も五分五分である。欧州戦争に出征してきてからは、男の価値が少し上がったやうだ。

 子供の問題、社会施設が子供に対して熱心である。児童相談所などが、各家庭に深く入って行って、毎日の子供の育て方を、指導している。しかし、遊び場のない悲劇は大きい。ニューヨークで私のとまった家では、時間を定めて、母が子供を連れていっていた。

 日本の松沢の子供の特権を、しみじみと感じた。ハイスクールまでは無月謝で、交通費を学校が負担してまで通わせてくれる。遠い所に、手の届く点に感心した。専門学校や大学の学生なども、映画でみるやうに一分のすきもないのと違ひ、一高式に、上着なしで歩いているのなどをみて、愉快に感じた。

 社会事業はあまり

 得る所なかった。『これは日本にないなア』と思ふことは、ほとんどない。参考になるのもならぬんも、第一桁違ひである。一つの町で、何千万円などといふ金を使ふので、参考にならない。

 学ぶべき点は、整頓している、秩序正しくやっていることなど抽象的な点であるが、これとも『金』でやっているので、日本のやうに『人』がやっている社会事業の方がよい。日本の社会事業は金がないことが、むしろ恵みじゃないかと思ふ。博物館の発達などは、アメリカの自然科学に対する校外教育に大に貢献している。

 動物園、美術館なども、文化運動として立派である。さうした社会施設の点に於いては、うらやましく思った。日本は貧乏であることが非常なハンデイキャップであるが、魂でやる、愛でやる、余地がのこされている。金あるをもって社会事業貴からず。
                       (藤本冬子記)