賀川豊彦の畏友・村島帰之(33)−村島「アメリカから」

今回は昭和6年10月20日付の「火の柱」に寄稿した村島の「イエスの友」への短いアメリカ報告です。

上の写真は、1931年(昭和6)カナダのトロントで開催の世界YMCA大会の招きで日本代表として賀川豊彦は村島帰之と小川清澄と共に平安丸で横浜港より出帆、埠頭での見送りの時のもの。


         アメリカから
                           村島帰之

 イエスの友諸兄姉

 凡てが感謝です。賀川先生のアメリカ伝道のプログラムが、何の障害もなく、順序善く運ばれて行ってゐることは、とても人の業とは考えられません。見えざる神の御手のままに、昨日も、けふも、またあすも、抱えられて運ばれるやうにして、各地に転戦してゆくのです。

 七月二十二日朝、シヤトルに着いて以来、バンクーバーに、トロントに、クリーブランドにシカゴに、ウイアレークに、チヤタカに、ニューヨークに、ソルトレーキに、オグデンに、そして太平洋沿岸の各地に、華々しい霊の火玉が散ってゐます。それは全くワンダフルです。
 アメリカ人たちは、今更らのやうに「偉大なるカガワ」を絶讃してゐます。

 「現存する人間で最もキリストに近き人格」「霊界の第一人者」「日本のムーデー」「日本のウェスレー」「日本のガンヂー」等の肩書が、彼等によって先生の名の上に冠せられます。そしてギッシリと詰まっているプログムの中へ、更に割り込んできて、「たとへ十分間でもいいから」といって先生を引っばりに来るのです。

 講演の時間がないと知ると、せめて食事に来てくれといって招いて来ます。それも出来ぬと聞くと、顔だけでも見せてくれといって、一言も判らぬ日本語の講演を聞きに――いいえ、見に――来る白人も少くないのです。

 その外、やれ「サインをしてくれ」とか、やれ「握手をしてくれ」の「偉大なる人格に触れさせたいから小供に握手をしてやってくれ」のと来る者が多くて、これがため先生は少からぬ時問を取られてゐます。

 先生は、白人のためには英語で、邦人のためには日本語で福音を説いてゐるのですが、一日に七回以上の日本語の集會を持ったことも一再には止りません。

 先生の病気を知ってゐる私たちはハラハラしてゐるのですが、先生は一向平気で「どうせ、やけくそだ。いくらでもやるぞ」と、凡べての要求に応じられるのです。

 幸ひに、神に支えられて、先生は大元気です。それにつらなる私たちも元気です。これが感謝でなくてなんでせう。

 先生は米人に向ってはアメリカのために神の国運動の起るべきことを唱道してゐます。アメリカの離婚率の急激に増加して行ってゐる事実などを挙げて、痛いところを突かれますが、白人は却って拍手をしてゐるのです。

 また日本のために、日本人が決して好戦国民でない事を詳述し、またアメリカの移民法アメリカ建國の精神に悖ることを説いて、國民外交の実を挙げています。桑港の若杉領事などは、これに感激して「賀川先生は國宝だ」といってゐます。

 在留邦人に向っては極力、神の救いを説くと共に、協同的精神が植民地において特に必要であることを力説して、在留同胞が如何に進むべきかといふ具体的方法を示されるのです。

 先生のこの内外人に向っての火のやうな叫びは、大なる反響を呼ばずにはゐませんでした。カナダでは既に神の国運動が始まらんとし、先生の帰朝を一船遅らせてその口火を切ってくれと頼んで来ました。

 これがため先生は東から西へ帰った後、もう一度、米大陸を横断してカナダに向はれる事になってゐます。それも、時間が乏しいので、汽車の旅に要する日数を節約するためロサンゼルスからグリーブランドまで飛行機で飛ばれる事になっているのです。

 先生はエール、シカゴ、南加州、スタンホードの各大学、太平洋神学校その他で講演し、若しくはしやうとしていますが、これを聞き伝えて招聘してくる大学が十指に余りました。

 だが、遺憾ながら時間の繰り合わせがつかぬので断りました。世話役のモット博士は「これらの大学の招聘に応じやうとすれば、ドクター賀川に少なくも二年間は滞米して貰わねばならぬ」といっていられるほどです。

 在留邦人間には今や一大センセーションが起こりつつあります。ロサンゼルスなどでは南加州全体に向かって大伝道を開始することとなり、各派牧師が一致して協同すると共に、これを助けるために義勇伝道者が蹶起しました。

 九月十五の早天祈祷會などでは、その席上だけで、四十数名の信者が義勇伝道の申し出をしました。これ等の人々は先生のプランにより、今後、牧師を扶けて農村方面に向かって白兵戦の火蓋を切る筈です。

 在留邦人の数の少いに拘らず、決心者の数は予想外に多く、サクラメントなどでは一夜に百六十名の決心カードが書かれました。また日本における先生のお働きを助けたいと申し出る人も数なくなくて、例えばロサンゼルスの平田医学博士の如きは、博士の郷里(岐阜県)に伝道してほしいといってこれに要する費用の負担を申し出られました。これからまだまだ外にもかうした人が出さうな気配です。

 きっと、アメリカに大なる聖火が燃え上がるでせう。先生がその口火をつけられたのですから。どうか、アメリカのために、祈って下さい。

 忙しい旅で、落ち着く暇がなく、思ふやうにお便り出来ない事をお許し下さい。この手紙も、先生の南加大学に於ける講演のお伴の暇を盗んで、やっとの事で認めたのです。

 遥かに諸兄姉の上に恩寵を祈りつつ。
                   (九月十五日羅府にて)