賀川豊彦の畏友・村島帰之(32)−村島「生涯を癩病院に―若き女医安田千江子」

        



 今回は「火の柱」昭和5年2月1日付に掲載されていた村島の次の小品を収めて置く。

 
           生涯を癩病院に
       ――若き女医安田千江子さん――                            村 島 帰 之

 昔、或る哲學者に、白昼、提灯を携へて、巷に傑人を求めて、歩いた今私は筆を提げて、街頭に、家庭に「善き人」を尋て歩く。私の尋ねるのに世の所謂えらい人でない。また賢人、貴人でもない。況んや富豪、名士の類では尚更らない。世に知られぬ徳行の人、淑徳の妻――よしや貧苦のドン底にあっても、真珠の如く光る「善き人」――それが私の憧れの對象であり、捜し求める寶玉であゐ。

 何が、人に嫌忌されるといって、全身の次第に刳落して行く癩病患者に上を越すものとてはあるまい。叉、何が気の毒だといっても、絶望のドン底に呻く癩患者にしくものはあるまい。

 癩病は古米から、佛陀の冥罰による大刑病だとして、人々から、極度に忌み嫌はれ、これがため、昔は、自らが癩患に罹ったと知るや、累の血族におよぶことを怖れ、ひそかに家を捨て、生涯を寂しい霊場遍路の旅に過して、悲しき廣野の死をとげるのを常としたといふ。日本にはこの気の毒な癩患者が約三万人の多きに達する。人口の比率からすればまさに世界一の癩病國である。この多くの患者のために、現在では五箇所の公立療養所と、六箇所の私立療養所とがあって、約二千五百名の患者を収容してゐるが、しかし、病院の設備は、よしや、患者の病勢の昂進を阻止することが出来るとしても、その癒し難い心の懊悩をどうするのか。

 人皇四十五代聖武天皇の御世、仏教に帰依深く在しました光明皇后は癩患者の救済事業を起させられ、畏くも患者の膿汁を吸はせ給ふたといふ。降って鎌倉時代には、忍性律師が鎌倉及び奈良に癩院を建設し、つづいて紀元二千百年代にカソリック数の輸入せらるゝと共に、同教徒によって京都及び豊後に癩療養所の創設を見たが、徳川時代の初期に至って廃止された。そして、その後は絶えて、この献身的事業に手を染める者とてなかったが、明治二十二年、仏国宣教師テストヴィド氏は驚くべき多数の癩患者の日本にあることを知って、御殿場に癩病院を設け、ついで二十八年、英国宣教師ハンナ・リデル嬢もまた貴族の令嬢の身を以て熊本県下黒髪村に回春病院を建て、三十一年、伊太利フランシスカン会が同県下島崎町に待労院を設置した。最近には、三上千代子女史が上州草津に「すずらん村」を経営してゐる事は世人の知るところである。以上はいづれも、仏教、基督教の別こそあれいづれも信仰より出発して、全生、全霊を、痛ましき宿命の下に在る癩患者に捧げんとしたものに外ならぬ。そしてこの尊い犠牲愛が、患者の上に惜しみなく注がれた時、悲しみに閉ざされた患者のこころも始めて開けて、慰めを覚えるのだった。さうだ癩患者の待望するものは実に身と心の二つながらを兼ねる信頼者であった。

 昭和二年七月、富士山麓の御殿場東山荘に開かれた賀川豊彦氏を中心とするイエスの友会の夏季修養會に、はるばる出席した東京女子医學専問學校生徒の一群があった。彼女たちは賀川氏その他の講師から、イエスの十字架の愛についで教えられ、深き感激をもって山を下って行った。その時、講師であった牧師吉田清太郎氏や石田友治氏等が、帰途に当って、山梨県身延山の深敬病院に癩患者を慰問することとなり、数人の男女がこれに同行した。
         

 深敬病院には約五十名の患者が、自己の罪でもなく、親の過ちでもなく、ただ痛ましい運命の下にあって、人生の希望も、その一切を打ち捨て、絶望のドン底に呻きながら、なほ悲しいその日その日を生きて行くのだった。この痛々しい姿を眺めては、さなきだに涙多き篤信の一行は、人目のない処へ隠れては、せき上げて来る涙を拭ふた。中でも、女子医専の生徒松田千江子氏は、雷霆のやうな衝撃を心に受けた。彼女は心の底で叫ぶ声を聞いた。

 「この可憐な人達を、どうして看過すことが出来やう。自分は医者にならうとしてゐる。来年は医者になるのだ。さうだ、自分は医者としての生涯をこの気の毒な人の前に捧げやう。そして肉体の膿をガーゼで拭ふてあげると同時に、頼るべなき魂の傷を、愛を以て繃帯してあげやう。これこそ、信する神が、私に与へて下さった使命に相違ない。」

 彼女は、深く決心して黙々と身延山を下った。翌年四月彼女は目出度く東京女子医専を卒業して、一個の女医としての存在を自ら見出した。同窓の友だちは、輝しい前途を夢想しつつそれぞれ勇ましく活社会へ乗り出して行った。女医松田千江子は何處へ行くのか。

 ここらで、千江子氏の身上噺を、千江子さん自身の口から聞かう。

 「私の生れ郷里は東京ですが、父が教育者で始め仙台の東北學院に奉職しその後大阪府立岸和田中學校へ転じましたので、私たちもそちらへ移って夢多い娘時代を岸和田市で送りました。女學校は泉南高等女學校を出ました。私は女學生時代も、別に宗教に興味を持ってはゐませんでした。それが吉岡弥生先生の東京女子醤學専門学校へ入りましてから、基督教の信仰を持つやうになりました。それも自動的に信仰に入ったといふよりは、ある一人の友人が、私のために熱心に祈ってゐて下さった、その折りが通じて、信仰に立つやうになったのでした。洗礼は昭和二年四月に牛込の日本基督教会で受けまして、浄きイエスの僕の一人に加へて頂きました。」

 一人の友だちの祈りが通じて信仰の人となった千江子さんはその後、身延山で親しく癩患者の痛々しき姿を見で以来、自らもこの可憐な人々のために生涯祈り続けやうと決意したのだった。しかし、彼女の周囲の人はわけても、彼女の成業を指折り数へて待ち給ふ慈愛深い両親は聞くからに怖しい癩の前に、清浄な娘のからだを投げ出すことを、どうして容易く許さうぞ。

 「勿論、父母は反対でした。その反對は無理からぬことでした。なぜといって、癩病は遺伝病ではなく、伝染病なのだからでございまず。昔は癩は遺傅だとのみ思われてゐまし た。ところが、今から約五十年前、諾威のハンセン博士が癩病菌を発見し、この病気が 一種の慢性伝染病であることを提唱して以来、最早動かすことの出来ぬ定説となって居ります。現に統計によりますと、癩患者を両親に持つ子供の発病率は一割にしかすぎないのです。それも胎内伝染でありまして、遺伝ではございませぬ、残りの九割の未患者は隔離さへすれば発病しませぬ。そして一方血族に癩患者を持たぬ人でも、何時癩に染するか知れないのです。患者の鼻腔を検べて見ますと、屹度多数の病菌を発見いたします。で、もし不注意でゐたら誰でも傅染する訳でございます。かういふ事情ですから、父母の反対するのも、むしろ当然でございます。もし傅染したら可愛いお前の生涯は滅茶滅茶になるではないかといって、親らしい心持で注意してくれました。けれども、両親のその深い愛は愛として、私の決心は動きませんでした 私は心の中で「行けよ! ためらはで行けよ!」といふ神の御声を聞いたからでございます。」

 親の慈愛の言葉に背向いて、神の声についたその感激の日を思ひ出して、千江子さんの柔和な瞳は濡れて光るのを見た。

 「でも、両親は信仰こそ持っては居りませんが、やっぱし教育者でした。私の堅い決心と覚悟を聞いて、それ以上は反對しませんでした。そして私の心事を十分に汲んで、激励 の言葉さへくれました。」

 両親の許しを得た千江子さんは、勇み立って病院の門をくゞった。そこは大阪市西淀川区外島町(尼ヶ崎市を距る約一里の別天地)外島保養院。そして千江子さんを迎へてくれた者は、約七百名の癩患者であった。千江子は、もうセンチメンタルな涙をこぼさたかった。「主よ、みこころの儘になさせ給へ」と神に祈った。

 「私はその日から内科と薬物とを受持つことになりました。年頃の娘さんが、此の囲いの内で空しく老いて行く姿などを見ると「人生から捨てられた人」といふ感が胸に来て、しみじみと祈らずには居られないのでございます。でも、世の中の望みを失ってゐる患者 は、さぞ、世を呪ひ、毒々しい気持でゐるだらう――とは、外部の方々の想像されるとこ ろですが、それは皮相の見で、多くの患者は、他の健康な人々と事変わって、真剣な態度で信仰に立って居ります。院内には各宗佛教の布教師も居られますし、MTL(ミツショ ン・ツー・レプラ)の基督教の方々も居られまして、患者はそれ等の人々に導かれ筒極めて平静に信仰の道に進んで居ります。」

 千江子さんは今年二十七歳、白百合を思はせるやうな、清浄な、そして美しい姿の持主である。ましてや、悩める者、悲しめる者のに、自ら十字架を負うて、荊棘の道を進まうとするその燃ゆる如き犠牲的精神は彼女を神々しいものにさへ見せて、在りし日の、殉教の聖女を今に見る思ひがある。それにしでも、日々に、その愛の手に柔しくいたはられる患者たちが、どんなにか感謝と崇敬の瞳を彼女の上に投げることか。

 「かうした恵れない人々と一緒に暮すことの出来るのは、本当にめぐみです。そこには神の御心が溢れてゐるやうな心地がいたします。私の生涯は神に捧げたのですから、何事 もみこころの動くままでございます。私はすべてを感謝して、日々を喜んで働かせて頂いて居ります。」

 最後に千江子さんについて、喜ばしい知らせを読者に告げやう。

 千江子さんは、既に全生を神に捧げた。そして生涯を癩病院の囲ひの中で過ごす決意でいるが、その献身の決意を、よりコンクリートにするためには院内において家庭を持つといふ事が望しかった。あだかもよし、千江子さんと同じ外島保養院の事務局に働く一人の青年があった。その名を保田春雄と呼んだ。彼もまた敬虔な基督教信者で千江子さんが毎週日躍日、賀川豊彦氏の主宰する大阪四貫島セツルメントの早天礼拝に參ずるため朝四時といふに外島を出て、薄明の一里近い路を四貫島に向ふ時も、常に騎士の如くつき添うに来るのが常であった。それを知った賀川氏夫妻は二人のために進んで月下氷人となった。昭.和四年三月、二人は農民運動の恩人杉山元治郎氏の司式の許に二人一体となって癩患者のために献身することを誓った。今は外島保養院構内の一舎宅に「保田春雄」「保田千江子」の二つの標札を掲げて、敬虔と奉仕と平和の家庭が形成されてゐる。