賀川豊彦の畏友・村島帰之(39)−村島「或る自由労働者の手記」(下)

 今回は前回の「或る自由労働者の手記」の続きです。タイトルの名称が変更になっていますが、おそらく前回の名称が正しいのではと思いますが、そのままにしておきます。

              

         ♯         ♯

    「雲の柱」昭和4年5月号(第8巻第5号)

    社会研究
     ある労働者の手記(承前)
                             村島帰之

   アンコウ気質

 鮟鱇生活に這入ってから九日目に、私は釜ヶ崎のH屋の一室へ宿替をした。部屋の二方は壁、廊下に面した入口は腰高障子、それから一間の格子窓といふ作りの三畳であるが、新築に属するものだけに新らしい畳、建具、それに欄間さへあって、古建の棟割長屋等よりは除程瀟洒である。然し、床の間や押入がないので世帯持の室は夜具も、鍋類も、米箱も、バケツも、履物も、勿論、人間もごっちゃになってゐることはいふまでもない。
 此のH屋の宿泊者約九十人を類別して見ると、鮟鱇が過半数を占め、其の他は俥夫、仲仕、職工、電車乗務員、夜店商人、放浪者、會社人夫等で、謂はゞ釜ヶ崎全般の縮圖がそこは窺はれるといふものだ。そして鮟鱇は此のどん底種族の代表者格である。
 鮟鱇と云っても、その範園は廣い、最低賃銀の仕事しか出来ない繊弱未熟の者もあれば、どんな仲仕労働も出来る強壮熟練の者もある。又十年以上の年代を経た古つはものもあれば、まだ駈出しの新米もある。そしてその八分迄は娑婆の落武者である。彼等は鮟鱇が不安定極まる職業である事を千も承知であるが、併し何々組とか何々棟梁とかの一定の仕事に通勤したり、又はその部屋に入ったりすれば、そこには多少の責任があり、扱く事の出来ぬ階級制度がある。又そこには仕事以外の束縛もある。そうした面倒な覇束と気苦労から脱して、放縦気儘を充分発揮しやう!といふのが鮟鱇共通の心理である。従って彼等の生活は丁と出るか半と出るか、全くその日その日の運次第である。良い仕事に有付く日もあれば、割の悪いのにぶつかる日もあり、又その日その日の気の向きやうでは仮令其の日の糧が無くても、気に入った仕事がなければ平然とあぶれて仕舞ふ。
 あぶれた者やケツワリした者は宿への帰途に九分迄は釜ヶ崎の木賃街の入口に当るガードの下に立寄る。此のガードの下は大正八年九月十日迄は寄場であった處で、彼等は何となく懐かしく思へるのと、他に適当な場所がないせいか、晴雨寒暑に拘はらず、何時でも七八人乃至十五六人の姿を見ないことがなく、全く鮟鱇倶楽部の観を呈している。それを知って、毎朝十人、十五人の人数を買ひに来る傭主もあるし、叉今宮の紹介所では八時過ぎになると閉鎖して仕舞ふので、その以後、ケツワリの補充員を此處に需めて家るものもあるほどだ。それに此處は紀州街道の要路に当ってゐて先曳の需要も可成りに多いので、自然鮟鱇の足は此處に吸付けられる。そして諸方の寄場に於けるその日の情況やら、博奕場の消息やらがここで交換され、労働着類其の他の相對賣買や、金融の便宜も此處に開かれる。叉その日の風の吹廻しによっては時に活動見物や酒呑みの相談が纒ったりする事もある。
 彼等の中には相当の経歴を持ってゐる者や、高等の教育を受けた者も少なくないが、半年一年を経つといつしか鮟鱇型に退化して了って、一日の糧を購ひ得て尚ほ少しでも余裕があれば、飲食や博奕等に消費する。甚しきものはその日の糧どころか、一枚の法被を脱いでも、低級な慰安、道楽を追ふてゐる。尤も下層労働界の盛況に際して出稼に鮟鱇をしてゐる府下或は近県の百姓等は例外である事はいふまでもない。

    雨 の 祭 日

 神嘗祭が来た。職業紹介所は休業であったが、その日稼ぎの私共が出入する紹介所は休みでなかった。が生憎此の日は朝からの降雨であった。
 「土方殺すに刄物は入らぬ、雨の十日も降ればよい」といふ俗謡は、土方だけでなく鮟鱇にも共通した事実であった。同じ草鞋穿きの労働者でも、鮟鱇は、土方等とは違って親分もなければ兄弟分もなく、ほんとの裸一貫でその日その日を送ってゐるのだから、糧道を絶つ處の此の不可抗力な雨天程、彼等によって恐るべきものはない。それで少し曇った夕べの釜ヶ崎では、彼方にも此方にも空を仰いで頻りに天文観測をやってゐるむづかしい顔をした絆纒着を見受けるのが常だ。夕刊の天気予報に雨とある夜などは、明日の籠城準備に呑み度い酒も辛棒するといふ状態だが、之に反し明日は好天気と確信してゐたのがいざ翌朝となって思ひがけない雨を見た時などには、天道の無慈悲を歎ぜぬものはない。
祭日と雨天――如何に紹介所は休みでなくとも、鮟鱇共は皆あぶれを予期して草鞋を濡らすだけでも損だ、とあつて出陣を見合せた。私の宿でも此の朝はいづれも観念の枕をあげない。併し私丈けは紹介所へ向つて宿を出た。何時も千余の袢纒着が出勤して一大偉観を呈する釜ケ崎の朝も、雨の此の日は全然別世界のやうな閑寂さで殊にドス黒い、泥田のやうな道路は、足駄でも余程高歯のものでなければ没して了ふほどである。それを見込んで早朝から宿屋の軒下を利用した古足駄ばかりの露店が三四ケ所に出てゐた。これはガードにおける特種露店の一つで、雨の日には足駄、晴天の時には下駄を七八足乃至十五六足づつを並べて華客を迎へて居るのだが、仄聞する處では、その古下駄の八九分迄は娑婆の彼方此方から無断で失敬しで来たものだとの事である。
 紹介所には例日の三百余人の一割三十余人しか詰めかけてゐなかった。此の三十余人を色別して見ると、真の勤勉家は僅か三四人で、他はどうしても今日は働かなければ食へないといふ者と、飯を食ひに出た序に紹介所をひやかしに来た者とであった。供給人員も總計で僅か十人許り、それは屋根下の仕事である会社の常傭と、船舶掃除等であったが、私は叉あぶれて了った。
 私は前日の疲れで眼い晨も、叉雨の日風の日も更らに厭ひなく紹介所に丈けは出掛けて行くもののとかくあぶれが多かった。それは体躯が繊弱で労働に未熟な為に仕事に行っては何時も痛烈な体験を受ける處から、あの仕事も出来さうでないこれも亦むつかしい……とまごまごしてゐる中にあぶれて了ふので、十月一ヶ月間に働いた日数は僅か十三日、その労銀總額十七圓七十銭也。尤も此の外に堂島小橋詰の土方工事と、天満の黒とかいふ親分から傭はれて行った時との二回は、その仕事の激しさに耐へきれないで途中からケツワリをした。併し私に限らす初めて鮟鱇になった一二ヶ月は大概こんなもので、第一期の難関とでも謂はうか、誰しも少なからず悲観をするのは此の頃である。

    朝飯のあんころ
 八時頃に紹介所を辞して宿に帰って見ると、二階の部屋々々では未だ寝床を離れやうともしてゐなかった。然し間もなく雨の日丈けお馴染のあんころ屋がやって来たので、急に部屋がどよめき出して、あんころは忽ち売切れとなった。
 此の日に限らす雨の日は午前中に起床する者は極く稀である。それは一本の雨傘は勿論、一足の下駄すら所持してゐない者が多いからである。娑婆の宿屋なら雨傘と下駄位は客用に備へてもあらうが、そこは釜ヶ崎のホテルだけに、絶対にそんな事はない。宿泊者がたとひ法被を頭から被って跣足で飯屋に走っても、「傘をお持ちなさい……」と一言帳場で云ってはくれない。それで雨の日の宿泊者の大部分は此のあんころを朝食兼昼食の代用にして雨の霽れるのを待つのである。
 あんころ屋が帰って了ふと、嵐のあとのやうに二階は静寂に返った。あんころで腹を満たした連中が叉寝入つたのであらう。
 雨はまだ止まない。
 その中に向側のAと云ふ遊人の室では、階下の俥夫や仲仕達が五六人集って博奕が開帳された。遉に始めの中は處女の如くに、囁き合ふ声すら聞きとれない程であったが、漸次戦の進行するにつれて銀貨や銅貨の響、亢奮した戦士の罵声が聞えて来た。軈て、三時間許りも経ったかと思はれる頃、二階が震動するやうな口論が始まって、巻舌の啖呵が果ては肉弾戦に移りかけたが、仲裁人多数のためにどうにかこうにか収まりがついて何時しか解散して了った。こうした喧嘩は此の日に限らす閑散期に於ける吉例になってゐる。
 雨はまだやまなかった。

   あんこうの述懐
 ふと気がつくと、薄い壁一重の北隣の部屋で、老人と青年らしい両人の談話がハッキリと聞きとれる。
 「―−俺が始めて草鞋穿きの労働をやったのは東京で、大正元年の夏だったが、それから十数年の間に隨分と世の中も変わったが、労働界も違って来たもんだなア。あの時分は今大阪で貳圓五六拾銭の土方仕事が唯の參拾五銭だったからなア。尤も飯屋の大丼が、今の大盛飯の倍はあって、それでたったの四銭だった。木賃宿が八銭からで、救世軍の労働宿泊所が四銭サ。それで矢っ張り食って泊っでバットの一箱も呑めば、一日三拾銭はざっとかゝったよ。それから見れば今の方がいいやうにも思へるーー。俺は始め拾銭でも金を持ってる中はなかなか草鞋穿きの労働をする決心が付かないで、とうとう一日食はず飲まずで浅草公園内で夜明しをやった果てが、その翌日、浅草黒船町の救世軍労働宿泊所に浴衣一枚で泣き付いたんだ。すると其の日は貳拾銭の飯代を貸してくれて、翌日から働く袢纒と草鞋まで拵へてくれたが、この時許りは俺も有難涙にくれたヨ。此の救世軍労慟宿泊所はまマア現今の紹介所を兼ねてゐるやうなもので、毎朝仕事を割当ててくれたがネ。あの時分も労働界は不景気だったが、救世軍では一生懸命に労働口を運動して居たから、吾々は少しもあぶれる心配がなかったのだ。そして病気をすれば救世軍の病院に入れてくれたし、士官達は吾々に丁寧な言葉で親切を盡してくれたもんだから、その宿泊舎に居る六七分迄は皆信仰に入って救世軍の兵士になってゐた。あれから見れば現今の市営の紹介所なんか、不親切無責任極まるものでお話になったもんぢゃないヨ。係員は威張ってばかり居やがるし、手数料だなんて五銭も拾銭も吾々の頭を刎ねてサーー。
 俺はその翌年に足を洗って今度は高利貸の手代をやったんだが、二三年前から叉酒と遊興の持病が出て、無理算段の遣繰で去年の春迄続けたが、とうとう大阪まで流れて来て草鞋穿きの再犯をやった訳サ。どうも斯う年をとってからの労働は実にたまらないネ。併し君も若い割には中々世間師だナ。その北海道の監獄部屋といふのは非道いものだといふことはちょいちょい聞いてるが、君は知らずに行ったのかネ?」

   監獄部屋の話

 今度は青年の声で、
 「ウム、田舎から東京に出たばかりの時だったからなア、故郷か、會津の若松だ。俺も浅草公園で夜明しをしてどうにもならなくなった時だった。共同ペンチで、どうだ良い仕事があるから行かねえか、若え者がぶらぶらしてるのが能でもあるめえ。当節働きせえすりやア金は幾らでもおっこってるぜ。地方の鉄道省の工事で、飯場で食って泊ったほかに一日貳圓だ。旅費も身仕度も、俺の方で立替へてやるから――なんて云ふもんだから俺は渡りに舟と思って三拝九拝しながら行ったのサ。後できくと其奴はポンヒキざかいふんで、北海道行一人出来れば拾圓になるんださうだ−−。處が鉄道は鉄道でも上州のK組の請負で、天盬の軽便鍼道の工事だったが、そのKとは四分六の兄弟分のUが下請で、俺はその部屋に入れられたのサ。人夫は總計で百六十人許りだったが、いづれも世の中の喰詰め者ばかりで、中には刑事上の罪を犯してる者も隨分あった。監獄部屋では其處をつけこんで居るんだ。朝は四時頃から晩の七時過ぎまで毎日十五六時間づゝ非道い仕事に追廻されて、鳥渡呼吸を継いでゐても横面をぶんなぐられるんだ。鬼のやうなUの子分が大勢居るから俺等はどんな事をされても泣寝入をするほかはないんだ。どんなに身体の具合が悪くても休む事が出来ないし、毎日々々涙がポロポロ流れて仕様がなかった。これぢゃ娑婆の監獄よかよっぽど非道いって愚痴をこぼしてる前科者も沢山あったヨ。
 それに部屋の姐御てえのがUの妾だが、これが涙も何もない鬼のやうな奴で、刺青などを出しておどかす凄い女だった。余り苦しいんで自殺した者さへあったヨ。逃げれば鉄砲で撃たれるんだ。うまく番人の目をのがれても、人里離れた山奥だから飢死するか、熊に噛まれるかどっちかだ。ウム逃げたものも四五人あったが皆不成功だった。其の中でも一番気の毒だったのは、上州の者で高橋といふ二十五六になる男で、生家は良いらしいんだが放蕩して料理屋の仲居と一緒になったんで勘当された挙句の果てがポンヒキの口車に乗せられたって段取りサ。夫婦共稼ぎで秋迄に貳參百圓も残すつもりで、男が人夫女が飯炊きと云ふ寸法だったが、獣のやうなUの子分共がその女を奪ひ取りに毎晩なぐさみものにするんで、仮にも夫となってゐる高橋の身になって見ればたまらなかったらうサ。でも腕力では及ばず、それかと云って訴へる人も所もないもんだから、とうとう高橋は部屋を逃げたんだ。然し矢っ張り見付かって鉄砲で腰を撃たれて了ったヨ。あれぢあ天道是か非かと云ひ度くなって了はアーー。
 俺か、俺は五月から十一月の末迄働いてたゞの參圓五拾銭だけの旅費で追放されたんだ。なに始めは族費やなんかの前借金が拾參圓五拾銭、労銀は一日飯代の外に貳圓といふ契約だったのさ。併しそんな事などを掛合はふものならそれこそ半殺しの目に遭はされるのは知れ切ってゐるから皆泣き寝入りをするほかなかったんだ。文明の今日に恁麼話をしたら嘘だって云ふだらうなア、然し嘘どころか事実は話より数倍なんだ。」
 外では雨はまだ止まない。

   自由恋愛の人々

 私の室の南隣には、東北地方の者で五十五六の未亡人と、二十歳許りの息子と、それから河内の産でMと云ふ二十六七の男との世帯が住んでゐた。そのMと息子とは銘仙づくめの風体で毎朝何處へか出勤してゐたが、その息子が余り勤勉家でないと見えて、未亡人が毎朝幾度も幾度も呼起す声を私は目醒時計代用としてゐた。
 当初、私は壁越しに「会社会社」と云ってゐるのを耳にして、此の両人はいづれかの会社の職工で、Mは独身者とて飯代を沸って同居させて貰ってゐるものであらう位に想像してゐたが、隣室の事とて朝夕の挨拶位するやうになってから、或夜Mは初めて私の部屋に話しに来た。なかなか能弁家の彼は、その生家が士族であった事から語り出して、早大政治科を卒業して大阪商船会社に勤めてゐたのが、酒のため没落して現今は大阪電燈春日出発電所で人夫取締のやうな仕事をしてゐるとか。自分の本宅は天下茶屋で、妻君は芸者だったとか、叉斯うしてゐても郷里には幾町歩とかの不動産迄所有してゐる事などを、独りまことしやかに喋り立てた。然しそのうち階下の内儀達の談話やら報道やらで、その正体も自然分明して来た。Mと息子とは大電春日出発電所の日給壹圓貳拾銭の常傭人夫で、未亡人とMとは情交開係のある間柄であった。此のMは中々の発展家らしく、此の未亡人と同棲以前は、その知人が入獄中、その妻君Sと同棲して居た。然しSとは、Sの夫が出獄と同時に別れて今の未亡人と同棲を始めたのだ。Sは未亡人とも豫ねて知合ひの仲で時々五歳位の娘を同件して遊びに来たが、若しMが在宿の時に出會った際などはSが帰った後で、やれ「手を握ったー」の「まだSには未練があるだらう……」のと未亡人はMに對して猛烈な嫉妬をやくのが常であった。
 斯うした共同生活の中へ、今度は生れて間もない赤子が一人加った。それは十九歳になる彼女の息子が、此の母にして此の子ありで、いづれかの娘と出来合って生れた子であった。斯うした境遇の中に初孫を得た未亡人は定めし愚痴をならべるかと思ひの外、非常な喜悦で訪問客のあるたびに「これが女だから幸循ですよ、金蔵が出来たやうなもので……見て下さい伜に似てさう悪い顔でもないでせう」と寧ろ得意であった。宿の人々は「姉娘が北海道で芸者とか妾奉公とかしているから矢張あの娘も金にするつもりだらう」と蔭口を叩いてゐた。
 併し斯うした侮蔑の蔭口をいふて居る連中も矢っ張り隣室の人々に劣らない原始的な、暴露的な生活をしてゐる事はいふまでもない。彼等の中、正式の結婚をした夫婦などは殆どなく、いづれも出来合ひの仲で、殊に天王寺公園や新世界辺から所謂「拾って来た」處の妻君が多かった。で、一年半も同棲してゐながら、お互に名前の外は、身元も何も知らないで暮してゐるうちに別れて了ったなどと云ふ極端なものや、叉府下泉南郡の百姓の娘が、従姉妹同志で別々に此の大阪へ女工の出稼ぎをしたのが、一方は同じ会社の男工と出来合ひ、又一方は天王寺公園のロハ台で一袢纏着と妥協が成立して、いづれも此の釜ヶ崎の宿屋に世帯を持ったのが、偶然にもその二夫婦が私の居る宿に引越して「オヤ……」「マア……」と従姉妹同志が思ひがけない邂逅をした等の奇抜な例もある程である。
 夫婦喧嘩は無論頻繁に演じられた。撃つ、蹴る。怒鳴る、泣く……其の喧囂さが一丁四方に響き渡る程で、お互に裸一貫の男女は、其の儘縁を切って男の方から出て行くのもあれば、女の方から去って了ふのもあり、叉無事に妥協の成立するのもあった。その原因は、男の方から火蓋を切るのは姦通、嫉妬等叉、女の方から攻勢に出るのは経済問題からで、男の怠惰、飲酒、博奕等から生れるのである事は、其の喧嘩のある度毎に立話やら、叉斯うした突発事件の内容を傅令して歩くのを道楽のやうにしてゐるおかみさん達の報道で、私達は居乍らにしてその一伍一什を知るのであった。

   臨 時 人

 十二月に入って七日の紹介所前の廣場に同輩が三十人ばかりも二列横隊に並べられ、其處には半ズボンにオーバの肩を怒らした取締の次郎はんが「オイ、あんじょしてあんじょしてなんだ……早く前と後と揃はないか」
と忙しさうに立廻りながら、猶も刻々と蝟集して来る人々を物色して、何時も安い仕事ばかりに行く者には、
 「オイ、お前も行け、市役所ぢや、楽だぞ、ガードの下で立ってるっもりで壹圓五拾銭儲けて来い」
 斯う命令的に其の列に加へてゐた。私も矢張り其の撰抜に入った一人であった。斯うして四十人纒まると、傭ひに来た袢纒に綿入の腰巻といふ親爺さんに率ゐられてぞろぞろと紹介所を後にした。
 斯界に知識の浅かった私は、取締の次郎はんが唯漠然と、「市役所ぢや」といったその仕事の何であるかを想像出来なかったが、みんなは無言の裡にもそれと合点してゐるらしく見えた。で、同勢の中にTの交ってゐるのを幸に、歩き乍ら聞いて見た。
 市役所と云ふのは土木課の臨時人夫の事で、これはHと云ふ土屋が一手で入方をしてゐるので、そのHの世話役が傭入れに来たのであった。仕事はコンクリート工事であった。
 私共社會で単にコンクリートと呼ぶ仕事は、純然たる土方仕事で、砂利や、砂や其の他を凡て一荷持に肩で担ふて運ぶもので、労銀も手傅仕事が壹圓參四拾銭の時で貳圓貳拾銭から五拾銭位、鮟鱇でもコンクリーが勤まれば先づ一人前といへる程のものである。併し此の市役所のコンクリーだけは労働振りが全然異って、肩を使ふ一荷持の代りに軽い小さな車で、しかもぶらぶらと運搬するもので、鮟鱇には新米の私でも立派に勤まるものであった。殊に監督でも工夫でも何一つやかましく云はないので、同じ労銀でもとかく何かと口うるさい手傅などとは雲泥の差があるとは仲間での定評であった。が、それでも臨時工事なので平常の倍以上も激しく忙しいとの事で工夫達は皆口々に、
 「時間が長いよってぶらぶらおやんなはれや、親父が日の丸やさかい……」などと親切に私達に云ふのであった。
 「ミキッサー」と称するセメントと砂利と砂とを混合する機械が私共を追ひ立てるやうな奇響を立てゝ頻りに輪転してゐたのが、電流の故障で時々パッタリ停止した。此の原動力さへ止まれば自然と私共の運搬も停止となるので、其の度毎には「やあ、ミキサンの腹痛ぢゃ」と一同は思はね休憩が出来た。併し師走の寒空に焚火一つないその休憩は却て有難迷惑とも云へば云はれた。工夫達は襯衣二枚、袢纒二三枚猶其の上に役所から下る外套を着て居たが、私共には二枚の袢纏を累ねてゐる者は少敷で、中には夏シャツー枚の上に汚れた法被一枚、長猿股を穿いたぎりで毛脛を露出した凄いのもゐた。私は想はず、「えらい元気だな」と賞讃の言を放つと、その者はわなわな身顫ひし乍ら前夜博奕で負けた揚句、袢纏と襯衣と腹掛ざ股引を脱いで、壹圓五拾銭に質入れしての最後の一戦が、叉も見事に總敗衂に終わった結果だと語った。
昔、裸一貫で東海道を股にかけてゐた雲助が、その身に着く唯一点の褌を典物ざして、半を張ったのが丁と出て、真の九褌になったその時、そりやお客だ、と云はれてその応急策に一物を竹の皮包として息杖をかたげた――と云ふ噺を思ひ合はさずにはゐられなかった。
 窓はドンヨリと曇って、北風が頻りに吹き荒ぶ。私共の手足はいつしか凍え切って感覚を失ってゐた。セメントの粉末が煙霧のやうに飛散する。未だ日は高い。仕事はまだこれからである。