賀川豊彦の畏友・村島帰之(40)−村島「婦人犯罪の種々相ーその二、棄児」

 村島は「雲の柱」昭和4年10月号(第8巻第10号)で「婦人犯罪の種々相―その一、堕胎」を寄稿していますが、その号がいま手元にないので、今回はその続き「その二、棄児」を取り出しておきます。

            


     「雲の柱」昭和4年11月(第8巻第11号)

         婦人犯罪の種々相
         ――その二、棄児
                           村島帰之

 子の可愛いことは、今更言ふまでもあるまい。多くの親にとって、予は生存の意義である。
 暇令、子を持って親の患を悟らぬ親があっても、子を持って子の恩を感じない親はないであらう。彼にとって、子こそは、最大の慰籍者であり、愛と悦びの泉であるからである。
 愛は強い。愛は寛容である。愛は慈悲である。そして愛は克く耐え、克く忍ぶ。子故の闇は深く暗く、死の谷をさへ善く越えるであらう。
 その愛の寛容と、慈悲と、忍耐とを裏切って、近来子を捨てる親の輩出するのは抑々何の故であらう。彼等は、子の愛を知らぬのであらうか。子の愛のために善く耐え、善く忍ぶ事をし得ぬ者だらうか。
 棄児は自殺や情死などゝ同じやうに暗示作用によって傅播する。一つの棄児事件が新聞紙上に誇大に報ぜられると、屹度幾つか棄児のそれに続くを常とする。例をとると大正十五年三月二十一日に東京駅の待合室で児を捨てた親があると、間もなく同じ場所で女の児の棄児があったといふが如きこれである。近頃は不景気のためでもあらうが、めっきりと棄児の数が殖えた。数年前まで東京府下における棄児数は年に二十名足らずといふところであったものが、十三年には二十八人となり、十四年には三十九人と殖え、更に十五年に這入ってからは、僅か三箇月の間に二十八人を越える棄児を発見したといはれる。若し此の調子で進むものと仮定したら、今年はその数五六十名を越えて棄児の当り年となるかも知れない。如何に不景気とはいへ、それは除りに箆棒な殖え方といはねばならない。これ蓋し暗示作用によって次から次へと誘引されて来る結果に外ならない。
 今、大正十五年一月以降約三箇月間に東京府下において行はれた棄見を、新聞記事から拾って見ると、実に次の如き多敷である。
 
一月  四日  浅 草    活動写真客席    女    三ヶ月
  五日  南千住    神社境内      女    二歳
  二十三日  本 郷    軒下        女    三ヶ月
   同     新 橋    共同便所      女    一カ月
二月  五日  浅 草    仲見世       女    三歳
 七日  同      共同便所      女    生後間もなし
   同     寺 島    工場構内      男    三ヶ月  
二十二日  上 野    駅待合室      女    二歳
   同     南千住    軒下        男    二歳
   二十四日  板 橋    木賃宿       男    二歳
三月  四日  淀 橋    路地内       女    六歳
     十日  本 郷    軒下        女    一カ月
    十一日  深 川    地先        男    六歳
    十五日  浅 草    寄席客席      女    一カ月
   同     南千住    軒下        男    二歳
   二十一日  丸の内    駅待合室      女    五歳
   同     同      同         男    四歳
 四月  一日  芝      他家        男    十歳
     七日  丸の内    駅待合室      女    二歳
     八日  赤 坂    街路        女    一カ月
     九日  浅 草    おでん屋      女    四か月

 即ち約百日の間に二十一件、即ち五日目に一件づつの棄児があった勘定である。方面は、さすがに市内が多く、就中、盛り場がしかも細民地帯に近い浅草が一頭地を抜いて多数を示し、東京駅を控へた麹町がこれに次でゐる。郡部では千住が最も多いのも、矢張り労働者街のある関係であらう。
表にすると次の如くである。

浅草 五  深川 一  下谷 一  本郷 二  芝 二  赤坂 一
麹町 三                    小計 十五
千住 三  淀橋 一  板橋 一  寺島 一  小計 六   総計 二十一

棄児の性別を見ると、男七、女十四とあって、女児の方が約倍数を示してゐる。然し東京養育院の調べなどでは、昨年末収容棄児百二十七名中九十六名、即ち七割強は男であった。一体棄児に女児が多いといふことは、その棄児の親が、所謂ドン底社會の人々よりも、相当の家庭の者ではあるが、事情あってこれを養育し難いといふ人々の方が、多数である事を物語るものである。大阪における歴年の棄児の男女別を見ると、男の方が遥かに多いのである。(弘済會、葛野氏の調査に依る)
         男    女            男    女   
  大正元年   一    六      八年   十二    五
    二年  十六    五      九年    一    二
三年  二十   十五      十年    三    三
四年  十一    六     十一年    三    四
五年   五    四     十二年    四    四
六年   六    九     十三年    四    二
七年   十    四       計  九十六  六十九 

 既往十三箇年の中、四箇年を除いて残りの九箇年はいづれ男児の方が多数で、その合計においでも四割方男の棄児の方が多数である。これは棄児の親が真の困窮者である結果である。経験者は斯う語ってゐる。
 「ドン底社會では、女の子の方が男の子よりも遥か金になるし、また仮令少し位低能でも、色を売る場合には少しも差支へはない。それに幼少の頃は、女の子の方が男の子よりも育て易いといふやうな事情もあって、女の棄児は比較的少いのである。」
 斯う聞くと、棄てられぬのが幸福か棄てられるのが不幸か、我等はその判断に苦しむ。襁褓の中にある頃から、早くも金に換える事の難易を考へ遺棄する事の損得を打算される無産者の子は、何といふ悲しき運命を荷負うて来たものであらう。然し、さうした無産者の親を咎めてはならぬ。責めを受くべきものが若しありとしたら、それは、彼をしてさうした考へを持たしめるやうにした社會でなければならない。棄児の年齢は、さすがに一年未満の者が最多数を示す。笑ふやうになったり、片言交りで話すやうになれば、減多に棄てられるものでもないし、叉、棄てねばならぬ事情の殺倒するのは、多くは生後直ぐであるからである。
 前記東京の棄児二十一人の年齢は
十歳 一人  六歳 二人  五歳 一人  四歳 一人  三歳 一人
二歳 六人  四か月 一人 三ヶ月 三人  一カ月 四人
生後間なし 一人      計 二十一
 即ち半数までは誕生に達せぬ嬰児である。叉之を既往二十四年間の大阪の棄児二百五十二名について見ても、
 生後十日以内 五   二十日以内 七人    三十日以内 八人 
 五十日以内  九人  二ヶ月以内 九人    三ヶ月以内 十八人
四か月以内  八人  五カ月以内 十一人   六ヶ月以内 七人
七カ月以内  九人  八カ月以内 四人    九ヵ月以内 二人
十カ月以内  五人  十一カ月以内 一人   十二カ月以内 八人  
小計 百十一人
 二年以内 二十三人   三年以内 二十四人  四年以内 二十八人
 五年以内 十八人   六年以内 十一人   七年以内 十二人
 八年以内 七人    九年以内 五人   十三年以内十一人
                       小計 百三十九人
 不詳 二人                 合計 二百五十二人

 即ち約四割までは生後一箇年未満の者である。恐らくは之等の嬰児はその母の胎内に宿った時、既に父母の膝下において育てられ難き運命にあったものであらう。
 なほ右の数字の中に五六歳から甚だしきは十歳以上の少年の捨児のあるのは、読者をして一見奇異の感を抱かしむるものがある。蓋し若しこれが尋常の児なら、最早親の手助けもする年齢で、如何に愚かな親でもその児を手離す筈はないからである。かうした少年の捨児は、殆ど凡てが低能白痴若くはそれに近い者で、いつまでも育てても、足手纒ひとなる許りで、迚も手助けにはなり兼ねるもののみである。「片輪の児ほど可愛い」のは人情である。金満家でも、貧乏人でも人情に変りはないが、さなきだに生活不安に苦しんでゐるのに不生産者を抱えてゐては、迚もやって行けないから、つひに切羽詰って捨てるのである。彼等は捨てたくて捨てたのではない。捨てねばなならなくなって、巳むなく捨てるのである。捨てずに済むなら何で子を捨てやうぞ。
 現に前掲三月四日淀橋の露路内に捨ててあった六歳の女児は半身不隨の低能児であった。
 次に捨てた場所を調べると、大部分は人の出入の激しい場所を選んでゐるのを発見する。東京の捨児二十一人について見ると、
停車場構内 四     共同便所 二     神社境内 一
木賃宿   一     工場構内 一     おでんや 一
見世物の客席 二    軒下   四     盛り場  一
露路    一                合計 二十一
 即ち停車場の待合室、活動寫具や寄席の客席の如き、人の出入の最も激しきところを選んでゐる。便所の如き不潔な場所を選んだのを不審がる人もあらうが、人の目につく事を願へば、多少不潔な位は忍び得るのであらう。叉大阪における大正十二、三、四年の三箇年の捨児二十三人について見ても、
停車場 三    公園 二    軒下 二    街路 十一
天王寺境内 一   ボート 一   劇場 一   炭小屋 一
塵箱 一       合計 二十三
 最も多いのは街路で、これについでは停車場、公園のペンチなどである。
 斯うして捨児をするのに、なるだけ人目につき易い場所を選ぶは何故であらうか。それは全く捨児の親にとって、捨てる事が目的でなく、拾って貰ふための手段であるからである。即ち情けある人に拾はれて、生みの親の許にあるよりも遥か幸福に暮すやうにと祈って捨てるのだから、なるだけ早く人の目につく場所を選ぶのは当然の事でなければならない。憎くて捨てるのでなく、愛すればこそ捨てるのである。その愛は、捨児の身の廻りにも現はれてゐる。一例をあげると、十五年四月七日東京駅に捨ててあった女の児は、手に大きな大福饅頭を持ち、身にはメリンス花模様の袷にちゃんちゃんこを着、更に更紗のねんねこ袢纏にくるんであったのみならす、傍らに置いてあったバスケットの中には、メリンス筒袖、セルロイドの鈴付玩具その他十三点もが入れてあったといふ。巳むなき事情から心を鬼にして捨てる親のこころは涙で一杯になってゐるに相違ない。
 更に、捨児の親のその切ない心を何よりも雄弁に物語るものは、捨児に添へた書置である。書置の多くは鉛筆の走り書であるが、その短い、拙い文章の中に、親のこころを読む事が出来る。そして同じく親でも、母親の場合と、父親の場合とはそこに自らなる差を見出すのである。母の書置は涙にぬれてゐるが、父の場合に厄介沸ひの気味があって理智の勝った文字を発見する。まづ母親の書置から記して行く事にしやう。本年四月七日東京駅に捨ててあった女児に添へた女文字の置手紙には、次の如く記されてあった。
 「拝啓書面に警察様にお願ひ致します。扨て私はある深い深いかたるにかたられぬ事情のため自分の身のふり方がつがず一層の事此の子を残し自分は死ぬかくごはしたなれど、死んだとて子供は尚もふびんさ増すばかり、それよりも私はおにになったつもりで、此の子をここへおきざりをしますから、どうぞあわれと思ひ警官様のおなさけで養育園へ送りとゞけどうぞふびんと思ひお助け下さる様幾重にもお願ひ致します。叉私も一所懸命に働き自分の身のふり方の付き次第自首致し、その時はありし事情を語ります故、私のむねの中お察し下さい。尚いたゞきにくい時は大正十五年四月八日清子とたづねていただきに上ります。」
 子を捨てるよりは、自ら死んだ方がましだと考へたといひ、然し、自分が死んだとて子が仕合になる訳ではないと思ひ返し、心を鬼にして捨てると記し、身の振方がつけば屹度自首して出ると誓ってゐるところに、偽りならぬ母親の心が読めるであらう。これと同じやうな書置が、数年前市場鴨村氏の取扱ったのにあったから併せて掲げやう。
 「たびさき○てやいイ二て、ふたりのこども、ちちおやわ、一ねんあまりわづらいまして、ついなくなりました。あとにのこり、ふたりのこどもどこえもたよるところもなし、さゞんかんがいつくし、おやこ三人にてしのうとまで、かくごいたしてもみたが、せかくたんせいしたこどもがふびん、よどころなくすておくこだから、たすけて下た、かげながらおがみたてまつてをりますから、おんたのみもうし上そろ。このははおやのこころは、すいりすして下た○そじささねんの一月五日うまれ」
 判読の出来ぬ文字、至るところの欠字、拙ない筆跡―−然し此の遺書には、母親の真情の寵ってゐるのを読む事が出来る。「断腸の思ひ」といふ言葉は、かうした人の心を形容するために作られたもののやうに思はれる。
 かうした母親の涙の書置に反し、父親の書置には母親の場合ほど窮迫した心を読む事が出来ない。涙がない訳ではないが、それを押し包む理性が働くのだ。
 本年三月二十一日東京駅で一見労働者者風の男が捨てて行った二人の捨児に添へてあった手紙には次の如く記されてあった。
 「拝啓私儀さる國の者なれ共國にて商売を失敗致し、つまとはりべつし子供二人つれて上京致せしなれ共、いづれにても子供をつれてゐる故つかってくれず、やむなく置ざりに致し候ゆえ、けいさつの御同情を持って三年間おそだて下さい。私もはたたらいて三年の後はかならす名のって出ます。いそぎ候まま是非々々御ゆるし下さい。
 けいさつ御中」
 妻を離別し二人の児を抱えて上京した男が、生活難のために途方に暮れ、遂に二人の児を捨てたのである。三年を限って育ててくれと頼むところ、前記の女親が「身のふり方のつき次第」と時期を定めず、一刻も早きを望んでゐるらしいのと對照して、男親と女親との、情愛の差を読む事が出来やう。
 叉数年前、大阪の博愛社に収容された女捨児にそへた手紙には、
 「お前の母親ほど薄情な奴はない。私はお前の親父ぢや、死んだ後お前は大きくなったら大阪の梅田にゐる叔父をたづねて行け」
と記してあった。彼は妻に逃けられ、病を得て此の遺書と児を残して死んだのだったが、最期まで妻を恨んでゐるのも悲愴である。叉男女私通の中に生れた子を、男女共謀で捨てる時、男が書いた手紙に、
 「心得違ひにて私生児安産候處養生致させ兼候間何卒一命御助被下度重々奉願上候」
 とあったのは、余りに簡単直截、人情味がなさすぎるといふもの、叉莫迦々々しい一例としては、之も教年前東京日本橋区小傅馬町上町祖師境内に捨てゝあった児に添へた手紙にはコンナ文面があったといふ。
 「此の男子は前世の誓願に依りて世に出で、吾が日蓮宗派を拡張せんと胎に托せし旨、令夢を感じたるものなり、故ありて是を養育する事得ざる場合となり、御鬮を判断、村雲殿に当りし故甚だすまざる儀には候得共御院に当時捨児することとは相成れり、哀れ便よりなき捨児天地間御院の外に持參なし、院の力に寄り、講中諸氏に育児に投する其の幾分御院の御声援を蒙り度此擧に及候、不愍の者と御聖察ありて御救護を垂れ賜らん事を祈る。拝上敬白
名号日一九と称す。正しく桓武天皇の後胤なり、陽暦五月十一日、舊四月十五日出生、某伏て拝す」
 あまりに芝居気の多い書置ではあるまいか。霊夢を夢みて生れた桓武天皇の後胤を捨てる親には屹度罰が当たるだらうに。
 尤も、書置の文面はどうあらうと、児を捨てる刹那の親の心は、到底第三者の想像し得る處ではない。彼等の或る者は、一且捨てはしたが、愛惜の情禁じ難くして再びそこに取って返し、捨てやうとした意志を翻して連れ戻った。又或る者は数日を経てから、自首して出た。愛すればこそだ。愛は強い。
 然うだ。彼等が子を捨てるまでには、耐え難き苦しみがあったのだ。捨てられた児の一人々々には、皆、例外なしに生活悲劇が絡んでゐるのだ。自首しない親については知る由もないが、自首した三四の親の口から漏れた「子を捨てねばならなかった」事情を記して見ると――最も多いのは、所謂不美の子を孕んだが、頼む男は妊娠と知って薄情にも逃げて了った場合、子の母であるよりもまづ街頭の女として自ら口を糊せねばならぬ無産者の娘は、つひに胃袋のために、子を捨て去るのである。大正十四年二月十九日朝東京駅に生後四箇月の女の児を捨てた女は二週間後になって自首して出た。彼は大阪某會社のタイピストで、去る文士の甘言に欺かれ関係を結び妊娠したが、男には妻子があって夫婦になれぬ事を知り、分娩後處置に困って捨てたのであった。叉十五年一月四日東京浅草公園電気館で可愛らしい女の嬰児を捨てた罪の女は、以前戸塚の下宿の女中であったが、止宿中の支那留學生と通じ遂に妊娠した。それと知って男は下宿を飛出して行方が知れず、女は女中の身で母になり、子を育てる道がないので遂に子を捨てたのであった。
 次は嫡出であるが、良人にそむかれ、生活苦から子を捨てる場合である。十五年四月九日東京駅へ二歳の女子を捨てた女は、良人が酌婦の愛に溺れて家出した儘行方知れず、巳むなく子を抱いて東京に出で女中奉公でもしやうかとしたが、子持では何處でも雇ってくれず、遂に心を鬼にして捨てたのであった。
 第三は純粋の生活苦から、愛する子を捨てるもので、その実例としては十五年二月五日浅草仲見世に捨児をした女親をあげる事が出来る。彼女の夫は病気であった彼女はそれがため一旦家を畳み郷里へ帰ったが、遊んでゐては喰ふ事が出来ぬので意を決し子を連れて上京し、働く口を捜したが素よりない。忽ちに糊口に窮して吾妻橋から投身を圖ったが、子の可愛さに気遅れして果たさず、各所を徘徊の末、遂に人通り多き仲見世に捨てたといふのである。そして彼女はその足で吾妻橋から再び投身しやうとして通行人に助けられたのであった。
 之等は何れも女親の場合であるが、男親の場合は妻に先立たれ、子を抱えてゐては働けぬので、つひにその子を捨てたといふのが大部分を占めてゐる。
 彼等は自分丈けが生きて、子を捨てるのではない。子と共に生きたいのは山々だが、それが出来ないので、已むなく別れ別れにでも生きやうとするのである。
 そして彼の心の底には「若し善い人が拾ってくれたらどんなに此の児が仕合に世を送れる事だらう」と萬一の僥倖を夢みて捨てるのである。児の可愛いのは皆同じである。只その場合、此の方法を探るより外に生きて行く道を発見する事が出来なくて此の擧に出でたものである。捨てた者はその親でなくして誤れる社會組織そのものである。