賀川豊彦の畏友・村島帰之(41)−村島「ある労働者の手記」

           

 すでに村島の「或る自由労働者の手記」は二回分を取り出してみましたが、今回「雲の柱」昭和4年12月クリスマス号(第8巻第12号)に寄稿された「ある労働者の手記」も、村島自身が労働体験をした「自由労働者の手記」です。


         ある労働者の手記
                            村島帰之

    あぶれの日

 十一月から十二月の上旬にかけては、鮟鱇も需要が増して、労銀も十月上旬頃より一体に二割方の上騰を見たのであったが、それも束の間、年の瀬の一日毎に押し詰まると共に仕事も減って、十八日に市役所のコンクリート工事終決と同時に、諸々方々の工事も申合はしたやうにもう締切ったものらしく、唯年内に竣成さして仕舞はうといふ貸家建などの手傅仕事が二人、三人と疎らに傭ひ入れられる許りで、釜ヶ崎の歳末は秋風落莫の光景を呈した。
 私は毎朝紹介所(今宮)に出掛けては行くものの廿日から三十日まであぶれ続けた。それは鮟鱇共通性の気儘から仕事の撰り好みしてのあぶれではなくて、毎朝多人数群集して居る處へ、その十分の一にも足らない供給人員の数に入るには、体力に訴へて群集の中を突破し激烈な争奪戦を演じなければならなかったので、とかく勇気と腕力に乏しい私などはあぶれるのも当然であった。
 猫の子の手でも入用だ、とか云ふ程に多忙な歳末の、然かも三十日に、その娑婆とは無関係な私共鮟鱇のすむ宿は、どの室でも大概朝からの昼寝であった。併しそれは他所目に羨ましい程らくでない。彼等の中、日に一二度でも食事が出来る者は先づ良い方で、中には二日越しの空腹を抱へて金融の方策に頭を悩まし乍ら、昼寝を余儀なくせられてゐる者も少くなかった。で、室々からは力なく叉やけ気味な吐息やら愚痴やらが洩れてゐた。
 「人並の正月が出来るやうな心掛けの人は釜ケ崎に落ちて来ない。もし落ちて来たにしても、そんな人達は年を越す前に足を洗って了ふ。だから釜ヶ崎にはうるさい正月なんてものはない……」
 それは釜ヶ崎の永住者が自らの仲間を客観した言葉であった。
 今年の年の瀬も茲一日に堰かれてゐるその宵、私は散歩がてらに釜ヶ崎の通りを彷徨した。流石に此處は、初春を待つ門松や七五三飾りもまだその気配すらなく、娑婆の年中行事の一つのやうな歳末売出しの催しとてもない。只だパン屋に歳暮贈答用の砂糖が並べられ、又餅菓子屋では賃搗の廣告が掲げられて居るのが見受けられた丈けである。しかし往き来の人の顔には何となく落ち付かないやうな歳晩の色が漂ふてゐた。
 ふと行違ひに「やあ……」と声をかけて立留ったのは、紹介所で顔馴染のAであった。彼は私の側へ三四歩近寄って
 「どうもあかんな、どないにも、こないにも年を越されん……」
 斯う云ひ乍ら寒さうに肩をすくめて
 「莨持ってるなら一本どうか……」と私に手を差出した。折柄叉も「やあ」と近寄って来たのはTでめった。すると叉背後の露路から、
 「塞いのにようウロウロしてやがるな」
と冗談らしい語調で顔を出したのは、通称「横浜」と呼んでゐる同輩の一人であった。斯うして四人は電柱を小楯にして立話がそれからそれと交はされて行った。Tは苦笑を湛へ乍ら、
 「どうも驚いたなあ、廿三日に市岡町へ鉄砲担ぎに行ったきり昨日迄あぶれ通しで、今日は仕方なしにとうとう弔の花持に行ったよ」
 Aは急に乗り出して「その葬礼の花持は何處からいいます? あんたは顔が廣いよってとくやな」
 「其處の市場の花屋に行って頼めば、幾らでもあるせ」死人が多いよってな……併し安いよ八拾銭だ」
横浜が横から、
 「とうとう花持に行きやがったな・・・処で俺は今朝紹介所であぶれて帰り道にガードに立っていたら、活動の廣告旗持に行かないかって来たもんだから、その旗持をやったよ。お互に斯うなっちゃあ見得も外聞もないからなあ……労銀は矢張り八拾銭だ。そして明日も行く約束をして来た。それに元日から三ケ日は見物席の仕切の繩曳きに行く約定をしたから、まあ正月は活動見物し乍ら暮せらあ、併し朝の十時前から夜の十一時頃迄だから楽ぢゃねえや」
 横演はTと私の顔を見比べた。Tは真面目に、
 「そりゃうまい事をしたなあ、祝儀も出るんだらう。俺も一度新世界の○○座へ傭はれて行った事があるんだ。ところが道具方の手不足だったと見えて、俺がボンヤリしてると舞台横で、おい早く此處へ来てこれを引張ってくれ、てえいふもんだから、俺は慌てて力任せに引張るとお前、舞台では朝顔日記の屋形船がひっくり返った騒ぎさ、それで役者や何かゞ怒ってな、とうとう祝儀が貰ひそこねよ」
 斯う云ってから彼は急に追憶に迫られたやうに横浜に向って、
 「おい去年の暮も困ったぢゃあないか、苦し紛れにお前も俺も・・・釜ヶ崎から二十人許り高島炭坑の募集にかったがなあ、さうださうだ恰度去年の今日に大阪を出発したんだ。お前は長崎であんなに夜遅く逃亡をして、あれから何うしたい? 遅いし寒いし困ったらうと思ってな……」
 横浜も自然沈んだ語調で、
 「うむお互に鮟鱇が素人ぢゃあるまひし、島の炭坑仕事なんかは監獄部屋同様な事は承知の上だったから、九州に渡ったら逃亡をする心意で行ったもんだが、それが中々いい機會がなし、とうとう長崎迄引摺られたのさ、あの晩は夜通し歩いてそれかち正月初めからお前、人の門に立ったさ、乞食よ。そしてやっと八幡製鉄所迄来て人夫に這入った……釜ヶ崎へ戻って来たのは五月だ。」
 Tも、
 「いや実を謂やあ俺も九州に渡ったら逃亡をする心意でその段取りにおやじから煙草代のつもりで五拾銭借りておいたんだが、俺にはとうとう逃亡の機會が来てくれなかったよ。それでお定まりの苦役をして今年の七月迄かゝって漸と族費やなんかの前借を沸って、貳圓許り握って出たよ。門司で石炭かつぎをやって、八月の末に漸く大阪に帰って来たんだ。併しおかげ様で九州見物が出来たってものさ。今年も亦募集に来てるぜ」
 全然娑婆人気質を失って了った彼等は、一年振りに邂逅したやうな談話を続けるのであった。話が途絶えると寒さが俄かに身に泌み渡った。と三人は云ひ合はしたやうに一様に肩をすぼめて、
 「すっかり冷へ切って了った。感冒に罹ると大変だ。まあ失敬しやう」
 誰れ云ふとなく、もう其時は未練もなく三人は三様に足を運び出してゐた。私も宿を指して歩を移して行くと、とある宿屋の軒下に大勢の男女に取巷かれ乍ら、脊廣服の青年三四人が何やら大声に叫んでゐるのが聞かれた。それは信仰のない人々へ末世の福音を傅へやうとして此の歳晩の寒天に向って辻説教をしてゐる基督者であった。中の一人は続ける。
 「…ですから貴下方の總てのものを投げ出して神様にお縋りなさい。神様は必ず貴下方をお見捨てにはなりません……」 
 すると取巻の中から嗄れた声で、
 「そのすべてのものは昨日質屋に投げ出して了ったがな、もう着たきりの法被と虱だけや、神様は風でも受取ってくんなはるか?」
 斯う横槍を入れた者があったので、群集は遠慮なくアハ・・・と大笑した。そして酔ってゐるらしい男が濁み声で傅道者の語調を真似る。
 「あゝ神様よ、明日の大晦日には骨折れないゴソゴソで労銀の拾圓位な仕事を与ヘ給へアーメン」
 群集が叉どっと笑った。折柄、節賑やかな流行唄の三味線を流し乍らやって来たのは飛田遊廓界隈の門附を生業としてるらしい年増女であった。傅道者の周回の人々は、「やあ別殯やな」「姐さん今晩は……」などと動揺めいて強い力に牽かれるやうに、皆その三味線の音に引連られて行って了った。取残された傅道の人々は、暫時は棒立ちに突立った儘、為す處を知らね様子であった。
 軈て私が宿の露路に曲った時、暗闇からヌッと私の側に現れたのは、夜目にも汚れた風釆の三十五六の女であったが、沈痛な低い語調で、
 「兄さ……ん遊んでいになはれ」
と云ふが早いかいきなり私の袂をしっかり掴んで了った。
 本通りの彼方では荒んだ下卑た以前の三味線と傅道者が讃美歌に合せて打振るタンポリンの音とが錯綜して漂うてゐた。

    大 晦 日
 明くれば大晦日、「釜ヶ崎に正月はない」といって諦らめてゐる。矢張り娑婆で生れた身には大晦日といふ事が彼を尻から追ひ立てるらしく、私が宿を出る頃にはもう二階の室には何時になく大概出切ってゐた。
 私も此の朝は聊か陣形を更へて、工廠前(京橋労慟紹介所の事)へと出馬した。時間は何時もより三十分も早かったのに、誰しも抜けがけの功名を期したのであらう。紹介所には既に百を越すかと思はれる許り多人数の人が詰めかけて、所内に緊張した気分がみなぎってゐた。傭主の来る度毎には、呼出係が登壇する迄もなく群集は閧の声をあげて怒濤のやうに殺倒した。それは飢えた野獣の群に一片の肉を投じたやうに、思ひ詰めた者の呶罵と自棄気味の叫声とが余りに凄惨な渦を巻くのであった。
 朝の電燈が消えた頃にはもう大勢を悟って悄然と帰って行く者や、程近い天満市場に仕事を需めに走る者等が漸次に姿を消して行った。そして九時近くには残る者殆ど稀で、その隣りの人々はもはや愚痴を並べる気力もなく、斯くあるべき事を探知してゐたといふやうな態度で、三々五々生ける屍の如く日向の場所を占めて動かなかった。
 私は歳晩気分の張ってゐる市中を通って釜ヶ崎に戻って見ると、成程今更乍ら「釜ヶ崎に正月はないんだ」といふ詞を繰返して見ざるを得なかった。それは稀に汚れた絆纒姿が徒然さうに彷徨してゐるばかりの殺風景その者も姿であった。
 只、ガードの下の鮟鱇倶楽部には例の如く十二三人日向ボッコをしてゐたが、彼等は私を見ると「工廠前に行ったのか」「今宮の方もあかん」「往生しとるぜ」などと口々に迎へてくれたが、偶と気が付くと、前夜立話をした横浜も居るので、
 「今日は活動の旗持に行かないのか」と訊いて見ると、彼は悄然として、
 「ウム実はもっと値のいい仕事に行くつもりで寄場に行ったんやが、矢っ張りあぶれて帰りがけに食堂の前で「おい仕事に行かないか、壹圓五拾銭で手傅ひだ」と云ふものがあったから、俺は二つ返事で天下茶屋迄行ったんだが屋根瓦上げな、今日び、壹圓五拾銭で十五枚づつ担いぢやゐられないから、俺は五六枚づつぶらぶらやってたんだ。すると一肩十五枚づつ運ぶのが当然だテエんだ。そんなら請取にさしてくれと掛合ふと、請取なら千枚壹圓だどいふんだ。馬鹿にしてるぢやないか。お前、けふび千枚で壹圓五拾銭が高くない相場だ。余り足許を見やがって癪だったから、俺ア啖呵を切って逃亡して来たんだが……今来た許りだ。それで旗持の方をおぢゃんにしたよ。併し今日は正午頃になったら葬礼の花持が傭ひに来るだらうど思ってね」
 と、力ない語調であったが、一方では乞食博奕の話が始ったので、彼も其方に乗出したが、仲間には其の手柄話やら兵法で暫時花が咲いた。私はふと思ひ出した儘に、前夜怪しい女に袂を押さへられた事を話出して見た。併し一同は何そんな事が……と云はぬぬ許りに黙ってゐたが、横浜は急に先輩らしい態度に返って、
 「釡ヶ崎では淫賣の大検挙以前のやうに仰山ではないが、矢張りそんな怪物が夜な夜な姿を現してゐるんだ。お前は昨夜始めてその正体を見屈けたのか?。なに相場は參拾銭ときまってるんだ。併しそんなものを買っちや酷い目に遭ふから気をつけな……お前なんか何にも知るまひが、あれは皆無頼漢の亭主が黒幕になって働いてるんだから・・・兎に角釜ヶ崎は物騒な處だよ。そんな事許しぢやない、十か十一の子供に泥棒をさして、親達が遊んで喰って行くのが何十人居るか知れねえんだから・・・」
        
       (文章はここまでで止められている。鳥飼)