賀川豊彦の畏友・村島帰之(24)−『賀川豊彦病中闘史』(23)


     賀川豊彦病中闘史(第23回)

      一四 決死の傅道行脚 

           室気の甘い阪紳沿線へ
 東京の震災復興運動も一段落ついたので大正十五年十月、賀川一家は東京を引揚げて酉宮郊外の瓦木村高木へ移った。此處は北に六甲の山脈を仰ぎ、海へは約十町、東は数丁で武庫川の清流があった。賀川の借りた家は、その美しい山川に囲まれた野中の小さな部落の西端にある二軒長屋の一軒。南側に二尺と五尺の窓しかあいてないので、大工を頼んで東にも南にも小窓をあけさせた。あとで家主が来て見ると、あけもあけたり、合計七つの窓が、家主の愚を嘲笑するかのように大きな口をあけていた。おかげで美しい日の光が、階上階下、六つの部屋にもさんさんと降り注いで、賀川および一家を喜ばせた。

 空気の清澄なことは日本一の阪紳沿線である。賀川は曾て筆者に物語ったことがある。
「僕は呼吸器か弱いので空気には頗る敏感だが、西宮から蘆屋、御影へかけての空気は、どこの空気よりもおいしいと思う。山に近く海に近い闘係でしょう」
  
 賀川は三年ぶりで関西へ帰って、そのおいしい空気を肺臓一杯に吸い、朝夕、美しい六甲山脈を眺めているうちに、東京での疲れも次第に回復して行くのだった。

 彼の腎臓炎は一時は結核性のものではないかと気遣われたが、そうではなかった。しかし無理をすると、血尿の出る心配があった。もし血尿が出始めれば、中風のように、身体の自由が利かなくなる。そうなれば賀川もおしまいだ、と周囲の者、特に義妹の芝八重子女医など、切に自重を望んだが、当の本人は一向に平気だった。或日筆者が見舞に行くと、寝床にいると想像して行ったのに、彼は朝から六甲の苦楽園まで登って来たといって笑っていたことなどもあった。

 そういえば賀川は、神戸の貧民窟に居た頃も、暇があると、裏神戸の山の背を、布引から諏訪山あたりまでハイキングをしたものだった。神戸衛生病院に入院していた筆者を引っぱり出して、つれて行ってくれたことも度々あった。

 「僕は貧血症なんでね、腰から下が冷えます。その上、湿気に大変弱いのです。ですから、寝室はなるべく二階にとり、その上戸板でベットを作ったりして湿気から遠ざかるエ夫をしています。それから、乾燥した空気が吸いたいので時々こうして山や高原に出かけるようにしていますが、高いところへ行くと空気の圧力も少く、紫外線が多くなって気持が朗かとなり、食慾も増すのですよ」
 そういって説明してくれた。

 暫くも、じっとしていない賀川は瓦木村で静養している間を利用して、自宅を開放し、また隣家をも借入れて、第一回農民福音学校を開校した。生徒は住込みで春子夫人らが炊事万端の指揮をした。いわば昔の村塾そのままだった。杉山元治郎や吉田源治郎及び筆者らが講師として加勢した。

       病を冒して奥丹後の震災地へ                  

 賀川はその頃、少しく中耳炎の気味であったが、三月十一日、奥丹後地方に地震が起って多くの罹災者を出したと聞くと、義妹の芝八重女医その他を伴って罹災地へ急行した。山田から加悦に行く道を賀川は八貫に近い荷物を背負って歩いた。電車事故で傷ついた脊髄が痛んだが我慢して強行軍をつゞけた。

 加悦では京阪基督教救護團と一しょになって救護に従事したが、病後の身に、強行軍がこたえたのか、熱が出はじめた。それに耳が痛い。

 これより先き、奥丹後に地震にて賀川の講演会が予定され、賀川のほかに、筆者も加わることになっていた。そこへ突然震災である。綾部のイエスの友は関東震災に東京のイエスの友が活躍したように立上って救護に努めた。賀川は喜んでこれにも脇力しているうち、綾部の講演の日が来た。ちょうどその前夜から賀川は無理がこたえて、またしても悪寒が襲うた。そして綾部のイエスの友の家へ落ちつくと、仆れてしまった。医者は急性中耳炎だという。だが講演会は十分宣伝してあるのでやめられない。その上、生憎のことに、前座として出る筈だった筆者までが病気で来られないことになったので、賀川は三十八度八分の高熱を冒して講壇に立った。帰ると、直ぐ病床に這入った。ところが講演会は一夜だけではなく五回の連続だった。賀川は無理に起きて、病床から講壇へ、講壇から病床へと五回繰返して、ついに予定通りやってのけた。その結果は判っている。賀川はそれから五日間、身動きもならす、その儘綾部で臥床するのほかはなかった。

 西宮へ帰ってからも、中耳炎は容易く治らなかった。その病床で、彼は夫人などの読んで聞かせるペスタロッチ傅に聞こえにくい耳を傾けて「己れのためにせす、凡べてを人のために」したペスタロッチの至誠に涙をこぼした。

 夏になると、中耳炎も全く癒った。そこで、賀川は、アメリカの賀川後援会から特派されて来たミス・タッピンダを伴い、上海に催されたキリスト教経済会議に、日本代表として出席するため渡支した。

 これよりさき、賀川はイエスの友会の決議――といっても賀川の発起であるが――に基いて「百万の霊を神に捧ぐ」という標語をかかげて、全国に大傅道を始めることとなり、昭和二年七月から開始した。それで、中国から帰ると、休憩する暇もたく中部地方を振り出しに全国行脚に出かけて行った。この運動は始めは賀川を中心とする奉仕者の群であるイエスの友の運動だったのを基督教協議会からの申入れで協議会の運動という事に変わったが、事実は依然たる賀川の独舞台であった。そして全国傅道が、昭和三年六月から一ヶ年間つづけられ、賀川は北は北海道、西は遠く満洲まで出かけて、集会を開くこと六百回、聴取二十五万人によびかけて、一万二千名の決心者を出した。

 この全国伝道の中途、幾度か賀川は仆れそうになった。でもよく頑張った。若松の中学での講演中、彼は急に目がくらんで、生徒の顔が見えなくなったが、そのまま話しつづけて講演を終った。そして降壇する時、手さぐりで自分の席へ着席しようとしているのを見て、教師や生徒は、はじめてそれと気づいて騒ぎ出したが、賀川はニコニコ笑いながら手を引かれて着席したということもあった。

 全国傅道が一段落を見た時、東京市長堀切善次郎から東京市社会局長に就任方の交渉があったが、賀川は固辞して受けなかった。しかし市長がたって頼むので、無給でなら、と答え、結局、名誉職の社会技師嘱託ということで承諾した。

 市の嘱託は十ヵ月続き、昭和五年五月堀切市長の辞任と共に退職した。この市嘱託時代にも、傅道の方は継続し、そこへ衆議院議員の選挙が重なって、賀川のからだぱ幾つあっても足りなかった。というよりは、彼のからだが鉄ででも作られていない限り、到底耐えられるとは思われなかった。

 果然、昭和五年一月、開西地方の講演行脚から帰ると仆れてしまった。医師は急性気管支炎に急性腎臓炎を併発していると診断した。検温器は三十九度七分を示し、それに久しぶりの血痰である。

 こうして一ヵ月間は己むなく寝ていたが、少しよくなると「選挙の応援に出かける」という。同志の杉山元治郎が危いからであった。

       血をはきつつ伝道行

気管支炎がまだ十分癒っていないのに、病臥一箇月にしびれをきらして早くも選挙応援演説に出かけるというようなことは、賀川としては日常茶飯事だが無茶である。果して病気はぶり返したらしかった。だが、一度、床を出てしまえば、選挙が済んだからといって、再び寝床に還る賀川ではない。ひきつづいて全国をかけまわって、神の国伝道をつゞけているうち、三月七日、まだ春雨にはほど遠い冷雨の夜、横浜の教会で説教をしていると、色のついた痰が出た。でも、血痰くらいに驚く賀川ではない。ひとにも知らせす、翌日は昼は横浜各教会聯盟神の国婦人大会に、夜は海岸教会の説教に出て平常通り、元気一杯で話した。

 横浜の伝道が済むと次は岡山県倉敷の傅道である。プログラムが決っているので、賀川は、まだ血痰が止らなかったが、三月十二日の夜汽車の三等のクッションにもたれて西下の途についた。そして翌日、倉敷に着くと直ぐ説教である。しかもこの日は左翼の連中が正面に陣取ってさかんに野次を飛した。賀川は負けないで却ってピッチをあげた。その元気な姿を見て聴衆の誰一人、賀川が血を吐きながら説教しているのだとは知る由もなく、うっとりと聴き入っていた。賀川もそのことを誰にも語らないで、却って大原孫三郎夫人の病床を見舞って祈ったりした。この岡山県下での五日間の傅道で約千名の決心者が与えられたが、賀川の健康は痛めつけられた。血痰はいつの間にかもうとまっていた。

       日本のアンナ夫人

 こうして賀川は腎臓の疾患のため、水気のついた重いからだを汽車、電車に託し、時には自転車の尻に便乗して、津々浦々を、今日は西、明日は東とはせめぐって、神の福音を説いた。

 昭和六年の春、北海道へ旅立つ時には、またしても腎臓から来たむくみで、気分は重く、脈がたかまって息苦しく、どうやら血尿でも出そうな予感がした。しかしそれだからといって北海道行を躊躇ずるようなことはしなかった。血尿が出て仆れればそれもよかろう。いずれは天に帰らねばならないのだ。その終焉の地が西宮のわが家であろうと、北海道の荒野の中であろうと、そんなことは問題ではない。ただ、自分としては、最後の息の止まるまで、神の福音を一人でも多くの人にのべ傅えたいという願いがあるだけである。

 賀川は腎臓炎でふくれたからだを起して玄関に立った。見送る夫人の眼の中に何か不安な影が動いていたが、夫人は何もいわなかった。やがて靴の紐を結び終った賀川は夫人の方を一瞥して、ささやくようにいった。

「こんどは、事によると、骨になって帰るかも知れないが、どんな事があっても、神を信じて心をみだすことのないようにね。……」

 夫人は大きくうなずいて、ただ一こと「はい、よくわかりました」と答えて、じっとうつ向いた。

 そんな危険を冒してまで、出かけなくても、からだが快くなってから出かけたら――と、言いたいところであろう。が、夫人はそれをいわなかった。いったとて思い返す良人ではない。使命のためなら喜んで死のうとしている良人ではないか。そして自分もまたかりそめにも賀川豊彦の妻である。たとえどんな苦難が前途に待っていようと、笑顔で良人を送り出さねばならない。そう思うと、夫人は強いて笑顔を作っていった。

「あとのことは少しも御心配下さいませんように。どうかおからだにお気をつけになって……」

春子夫人をペスタロッチの夫人アンナに比較したとて、誰か異議をさしはさむ者があろうか。
 アビコン城に住むよりも、百姓小屋に住むことを望んだ純情の娘アンナ!

『お前はパンと水とで満足せねばならぬが、それでもペスタロッチの許へ嫁ぎたいのか』と詰問されて『わたしは女ですもの、どんな不幸にも従います。たとえ、困難がわたしの上に堆積して一時に攻めて来ても大丈夫』と揚言して憚らなかった健気な娘アンナ!

 そして、われから進んで貧しいペスタロッチの妻となり、文字通り乾いたパンを涙をもってわかちあった糟糠の妻アンナ!
 愛の熱にかられて人を信用しては、失敗する。ペスタロッチを、静かな涙で眺めた美き天使アンナ!
 一見識をもって、良人を信頼し、一日として不満に暮したことのなかった虔ましき妻アンナ!
勇気と強さの泉をバイブルの中から汲んで五十年、良人と共に重荷をわかちあった良妻アンナ!
知らるるところなき内助者アンナ……それらのアンナ夫人を、筆者はそのまま春子夫人に見出すのである。胡桃の木の下に建てられたアンナ夫人の墓碑に刻まれた文字

  貧者の友
  下層民の救済者
  教育の改革者
    たるペスタロッチに相応しき妻                          
  四十年の間、己れを尽くした
  彼の献身的事業の伴侶

 この讃辞をそのまま春子夫人の上に冠したとして、どこに不都合の点を見出し得るだろうか。
 ペスタロッチはアンナを追慕して「わたしの妻は無比の妻だった」といったというが、春子夫人もまた賀川にとって、天下無比の妻であると思う。

 賀川が五十年の久しきにわたって、人間苦と戦い、社会悪と戦い、そして病苦と戦って来たそのかげに、春子夫人の忍苦の生涯の賭けられていることを無視しては、未だ賀川を知り得たとはいえないと信ずる。

     (つづき)