賀川豊彦の畏友・村島帰之(25)−『賀川豊彦病中闘史』(24)


      賀川豊彦病中闘史(第24回)

       一五 世界を家として

           世界の人カガワ

 賀川は日本の名士というよりは、世界の名士である。外国、特にアメリカにおける彼の人気は大したもので、内地の人々の想像以上である。ロサンゼルスにカガワ・ストリートという街のあることは、冒頭に記した通りだが、一九三一年、筆者が賀川に同行してアメリカ各地を歩いた時、或る市などでは全市の自動車という自動車ことごとくが、その前面のガラスに「ウエルカム・カガワ」と大書した紙を貼っていたほどだ。その市主催の演説会があったわけでもなく、ただ賀川がその町へ講演に出かけたというだけなのに――。

 そうしたわけで、賀川は世界各地から招聘をうけて、全く引張凧である。
 賀川の海外渡航を列記して見ると次の通りである。

 大正三年 八月 (第一回渡米)プリンストン大学留学、同六年五月帰朝
 同十三年十一月 (第二回渡米)アメリカ大学連盟の招聘――欧洲経由、十四年七月帰朝
 昭和二年 八月  基督教傅道のため中南支へ
 同 六年 一月  同右再び中支
 同  年 七月 (第三回渡米)アメリカ大学連盟の招聘及YMCA世界大会へ
 同年十二月帰朝
 同 九年 二月  基督教傅道のためヒリッピンヘ          
 同 十年 二月  同濠洲及ニュージーランド
 同  年十二月 (第四回渡米)協同組合運動のため
 同十一年 七月  米国よりの帰途、ノルウエー・オスロー市における
世界日曜学校連盟大会へ 十月帰朝
 同十三年十一月  世界宜教大会のためインドヘ、十四年三月中国を経て帰朝
 同十六年 四月 (第五回渡米)日米親善のため 同八月最終船にて帰朝
 同十九年 十月  宗教使節として中国へ
 同廿四年十二月  世界キリスト運動のため英国の招聘により渡欧
 同廿五年六 月  基督教傅道のためカナダ及び米国へ

 世界を家としての賀川の国際的活動の委細については此處では述べないことにする。たゞ読者に告げたいことは、この世界を舞台とする賀川の活動が、常に賀川の闘病生活と併行して行われて来たという一事である。健康そのもののような人間ならとも角、前述するように、常に病気に悩みながら、なお屈するところなく、病苦を克服して、人一倍の活動をつづけて行く賀川のその逞しき精神力に對し、われらは敬服せざるを得ないのである。

       世界的トラホーム

 前にも少し触れておいたが、賀川眼疾は貧民窟で貰ったものでは有るが、終生、彼につきまとって、「世界の眼疾」になってしまった。

 アメリカの瞼疫は、寄生虫とトラホームに主眼を置いているので、眼にきずを持つ賀川は一等船客に對する検疫が寛大だというので渡米の際は一等を選ぶことにしているのだが、それでも、毎回、上陸の際にはこれが問題になった。検疫医は賀川の瞼をひっくりかえして見て、小首をかしげる。前記、昭和六年、第三次渡米の際のごときには、ついに桑港々外のエンゼル島へ一時留置となった。あわてたのは当の賀川ではなくて、彼の上陸を待ちうけている日米の市民たちであった。上陸前後からギッシリとつまったスケージュールが組まれて、賀川の来着を今や遅しと待っていたからである。そこで、米人の幹事の一人が飛行機でワシントンヘ飛んで大統領ルーズベルトを煩わすこととした。

 賀川の上陸は、米国の大衆の鶴首するところであったが、アメリカの在郷軍入團や賀川の協同組合運動を嫌う小売商組合は上陸に反對していた。そんなわけで、尋常手段では上陸はむつかしかったが、大統領の鶴の一声で無事上陸が許可されることとなった。ただし、一つの条件があった。それは、上陸後、握手をしてはならぬという一事であった。トラホームの伝染を怖れたのであろう。しかしこの条件は賀川を喜ばせた。というのは、入気者の彼は、どこへ行っても握手攻めで、殊に米人は賀川への尊敬と信愛を表現しようとして大きな手に力をこめて握るので、数十名、時には百数十名もの手に握られると、二の腕が痛むことさえあった。此度はその握手攻めからまぬがれることができる。賀川にとっては、これは歓迎すべき条件であった。これに引きかえ、賀川と握手したいと望んでいた米人たちは失望した。何とかならぬかと考えた末、握手に替うるに握腕をもってすることとなった。腕をからみあわせて握手代用にしようというのであった。

 このように、賀川のトラホームは病膏盲に入っていて、最早治療の方法がないのみか、腎臓炎を併発していて、難治の業病となっている。それで、ひどく疲れると、眼球にパンヌスが出て脱力を失わせるばかりか、腎臓からガラス体が折れて出る惧れさえあった。大正十三年第二次渡米の際にはニューヨークの講演中、パンヌスが出たためカナダの講演旅行を中止して、一ヶ月間を同地の教会で臥床した事もあったし、次いで、昭和六年七月、第四次渡米の際は、メキシコ境のカレキシコで講演直前に血尿を出して主催者や同行者を驚かせた。後者の時には筆者は賀川と同行していたので、少しくその時の模様を書いて見よう。

        「余命五年を出でず」と宣言さる

 その時も、例によって、スケジュールは殺人的で、毎日少くも三四回の講演会や説教が彼を待ちうけていた。それも同じ町でではなく、百哩も、或はそれ以上も離れた場所へ自動車で運ばれて行くのである。講演や面会者への接見で寸暇もない賀川にとって、この甲地から乙地へ運ばれて行く自動車内の時間だけが休憩時間であった。彼は車に揺られながら、うつらうつらと眠ることによって疲れを癒し、元気を取戻すごとができた。ところが、賀川と話をしたいと願うのは、みんな同じで、自動車を操縦する紳士や、乙地からわざわざ出迎えに来た淑女は、折角のこの休息時間をさえ彼に許すまいとして話しかけて、マネージャーの小川清澄を当惑させた。

 芭蕉翁は旅の心得とて「俳諧の外、雑話すべからず、雑話出でなば、居眠りして労を養うべし」と書きのこしたが、賀川は、自分に語りたいと望んでいるあいての心を察すると、眠りをとることも忘れて、問われるままに話をするのである。同行の者は、そうした人の質問を封じようとして気をつかうが、肝腎の賀川が一向意に介することなく、声高に語るのである。

 七月の末の盛夏、世界で有名な酷暑の地インピリアル・バレーの講演を終り、メキシコ境のカレキシコに着いて、これから、白人および邦人に對し講演を始めようとしていた時、控室の手洗所から出て来た賀川は、筆者に向って               
「とうとう腎臓から出血しましたよ」                   
 といった。かねてから、あまり無理をすると、腎臓から出血するぞ、そうなれば、中風患者のようになって、生涯、動けなくなる――といわれていたが、その懸念していた出血が、場所もあろうに、メキシコ境へ来てついに出現したのだ。隨行の徳憲義をばじめ、ロサンゼルスから同行して来たイエスの友会代表高橋常次郎らが心配し協議の末、賀川の登壇に先立ち、筆者が登壇して会衆にこの突発の出来事を説明して予め諒解を求め、賀川は単に挨拶をするにとどめるということになった。ところが、筆者と入替って登壇した彼は、挨拶を述べているうち、インスピレーションが湧いて来たと見え、いつか出血のことをも忘れて、とうとう一時間近くも話をつづけてしまった。メキシコ境まで来て働いている邦人や、その邦人の善き理解者であるこの付近の白人の顔を見ると、挨拶だけで降壇する気にはなれなかったというのだ。

 しかし、収まらぬのは同行のわれわれの心持だった。これから先、まだ日程はつづく。それを此処で無理をして仆れては、講演旅行は中止するより外はない。そう思って相談の上、降壇して来た賀川に、いつもの例の会衆との握手をさせず、そのまま引浚うようにして裏口から連れ出し、自動車でホテルへ運んでしまった。そのホテルも、予定していたホテルでは訪問客の詰めかける惧れがあるので他を選び、医者は翌朝来て貰うこととし、とに角、安静のため一室へ閉じ込め、外から鍵を下してしまった。賀川はこの事を回想して、いつも冗談のようにいうのである。

 「村島君らが僕を一室に檻禁して誰とも会わさす、また一歩も外へ出してくれなかったのだ。全く人権蹂躙、不法檻禁だ!」

 しかし、この檻禁により、賀川は一夜を祈りと瞑想と睡眠とに過すことができて、翌朝心配して行くと、
 「おかけで疲労も回復したし、出血も止まったようです。もう大丈夫です。医者も呼ぶにはおよびません。さあ、次の講演のある處へ出かけましよう」

 こうして、講演旅行はつづけられた。ふりかえって見て、その乱暴さに驚く。だが本人が休憩や静養を許さないのだから同行者としては如何ともしがたいのであった。

 ロサンゼルスヘ到着して、同地に開業中のイエスの友の医師平田篤次に診て貰うと、ドクトルは巌粛な調子でいった。

 「いかに神さまがお守り下さるからとはいえ、人間の働きには限りがあります。まして、この病症は普通ではありません、日程を思いきってカットして、お話ももう少しピッチをさげて下さい。それでないと、この調子で進まれたら、先生の余命はあと五年です」

 だが、折角の平田ドクトルの忠言も、死の宣告も、ほとんど「馬耳東風」だった。使命のためなら死んでもいい、使命のある間は死ぬものではない……と確信している賀川の耳には。

 西郷南洲は、世の中で一番始末に困るのは金も名誉もいのちも要らぬ人間だといったが、賀川もその意味で、一番の困り者であった。

 こんな風で、賀川の腎臓は虐使されつづけて、少しも快方に赴かなかったのみか、その後も腎臓の硝子体が折れて尿に出て来るので、冬になると、血液の循環が悪くなり、皮膚の色が変り、腰が冷えた。それで、新聞を腰に巻いたり、厚着をしたり、毛皮を腰にあてたり、いろいろして見るが、結局、四廻りぐらい胴を布で巻くのが一番いいといって、冬になると、それをやっている。

 しかし腎臓はそれでいいとしても、眼球のパンヌスが、冬になると甚しくなって、視力が衰え、書物の読めなくなるのが何よりも不自由だといっているのである。それに一九五一年、英米に使いして帰ってからは、心臓狭心症さえ加った。

 「世界の賀川」の盛名のうしろに、こうした病苦のひそむことを、世界の賀川崇拝者は少しも知らない。

    (つづく)