賀川豊彦の畏友・村島帰之(26)−『賀川豊彦病中闘史』(25)


      賀川豊彦病中闘史(第25回)
         一六 たましいの凱歌

            的中しなかった預言

 賀川は昭和二十三年七月十日をもって満六十才を迎えた。その日、友人門下によって還暦祝が催された。春子夫人を始め長男純基(バッハ音楽研究家)長女千代子(女医)次女梅子(関西学院大学神学部学生)も出席した。席上友人を代表して杉山元治郎と村島帰之、イエスの友を代表して萱沼孝文、そして松沢教会を代表して医学博士平田篤次がそれぞれ祝辞を述べた。平田は前章に記した北米ロサンゼルスで賀川の余命五年を出でずと診断し、彼の強行軍を諌止した平田ドクトルで、その後帰朝して、尊敬する賀川の傍に医院を開き、松沢教会の長老をもつとめているのであった。

 博士は祝辞を述べた後、
 「賀川先生の病気は現代の医学では診断がつき兼ねます。わたしは十七年前、先生に向って「余命五年を出です」と診断を下しました。にも拘らず、十二年前に死なれる筈の先生はなお今日、こうして巌然として生きて居られます。わたしは前の診断をここにハッキリと取消します。ですから、先生は、これから先き、五十年でも、百年でも、勝手に生き延びて下さって、少しも差支えはございません」

 博士の諧謔に、賀川夫妻は素より来会者一同、腹を抱えて笑った。
 博士のいうごとく、賀川の健康は現代医学では考えられないところである。たしかに昭和日本の奇蹟である。しかし、そうだからといって、賀川がかくしゃくとして壮者を凌ぐ概があるとは、いかにひいき目にもいいきれない。六十才は、やはり六十才である。ことに、早くからひびのはいったからだである。あまり無理がつづけば、安全辨はふツ飛ぶのである。

 こうして本文を草しつつある時も賀川はキリスト運動のため、全国を廻っている。キリスト運動というのはこれまで「全国傅道」もしくは「神の国運動」と称していたのを改めたもの。キリスト教運動といわないのは単にキリスト教の教を弘めようというのではなく、キリストそのものを地上に実践しようというのだからである。

               三ベン主義
 しかし、都市の集会所も教会も最近まではみな焼け、交通機関も復活しないので、会衆は焼野原をとぼとぼと歩いて集って来た。会衆が然うであるように、講師の賀川も、満員の列車に、いつも窓から乗車し、窓から下車した。車内は身動きもならぬ混雑で、座席のないのみか、便所へも行けたい。それで彼は折たたみベンチと、携帯便器を、辨当と一しょに持ち歩かねばならなかった。彼はこれを「三ベン主義」と呼んだ。車中はもちろん立ったままである。

 賀川のキリスト運動は今も行われているが、昭和二十一年一月から二十三年六月までの間の成績だけを見ても、四百二十七日間に、千十七回の集会をもち、五十八万名の会衆に福音を説き、決心者十五万三千四百四十一名が与えられたという。しかも、この成果は、ひとえに、賀川が病躯をひっさげ、いのちをかけての、十字架の賜物であることを忘れてはならない。

 芭蕉は「野ざらしをこころに風のしむみかな」とよんだが、賀川もまた、神と人への奉仕の旅に野ざらしとなるのを覚悟して、仆れるところまで働きぬくのであろう。

 賀川豊彦を持つことは日本の誇りである。モット博士をして各国代表を前に、「現代においてキリストに最も近き人」と評せしめた賀川を持つことは、われら日本人の誇りである。

 世界を舞台とする賀川の輝かしき働きは、全く、彼の病いの重圧下に闘いとられたものであった。彼の血涙のにじむ病中の死闘なくして、今日の賀川はない。そして、これを可能ならしめたものは、実に彼の信仰の力にほかならない。

 賀川豊彦の、五十年にわたる病中闘史の中に、われらは彼のたくましい凱歌を聞くのである。

 賀川は病苦を征服し、同時に「世」をも征服した。彼は実に世に勝てる人である。そうだ。賀川の勝利は、たましいの勝利だ。たましいの凱歌だ。われらも、賀川とともに歌おう、声たからかに、たましいの凱歌を!



         あ と が き
 賀川豊彦氏の病中五十年の体験は、結核病が、昔からいわれて来たような「不治の病」ではなく十分なおる可能性のある病気であることを、最も雄辨に物語ってくれた。しかも、賀川氏の闘病精神を別とすれば、その療病法は、今日から見て、決して完全なものではなく、むしろ、乱暴すぎ、幼稚すぎるともいえよう。にもかかわらず、氏は立派に結核を征服した。

 その頃――賀川氏が発病した頃――から、既に半世紀を経て、結核の療法はその頃に比べて格段の進歩である。半世紀前には治癒したかった重症の患者でも、今日の進歩せる気胸術や成形手術の如き外科手術やストレプトマイシンや合理的な自然療法をもってすれば治る公算は大となった。結核に對する「恐れ」は日を経るに従って薄れて行っている。「わたしの病気、治るでしょうか」と、徳富蘆花は小説「不如帰」の中で、浪子にいわせているが、それはもう半世紀前の昔語りとなった。結核病はなおる。浪子のように、相当進んだ結核であっても、科学的、合理的な療法を講ずれば、きっとなおる。少くとも軽快する。ただ、療養に相当、時開がかかることを覚悟して、他の一切を犠牲にするくらいの熱意と忍耐とをもって、合理的な療法を適切に、忠実に行うなら、結核は必すなおるのである。

 「病中闘史」は、賀川豊彦氏の、すぐれた精神力による病魔征服の活きた実歴を書いた。しかし、それは決して新しき医学や合理的な療法を無視していいというのでは決してない。進歩した医学や、合理的療法のみに頼って、精神力を無視してはならぬと同様に、精神力さえあれば、医学も療法も不用だとする如き非科学的な痴言にまどわされてはならぬのである。賀川氏は現に、貧民窟で無料診療所を、東京中野では都下屈指の組合病院を、浜松郊外の三方ヶ原に聖隷保養農園――結核療養所――を経営し、また虚弱児の養護施設として相州茅ケ崎海岸に林間学校を経営していて、新しい医学と治療法による結核診療および予防事業に関与しているほどだ。

 ただ、自身、医薬にはあまり重きを置かないだけである。氏はいっている。
「わだしは咳をとめるために、最初は杏仁水のようなものを呑んだ。しかし腎臓炎に罹ってからあまり剌戟の強い薬を呑むと、尿のとまることを知って、薬があまり吞めなくなってしまった。睡眠剤なども、数回用いたことがあったが、あまり効果がないので、全然よしてしまった。その代りに、絶對静止法を案出し、それによって眠れるようになった」

 医薬のみを過信して、精神を忘れてはならぬというのであって、科学的な新しき結核治療法や、合理的な療養法を斥けるものでないことを知らねばならない。

 不幸にして結核に罹ったことが判れば恐れず、あわてず、無智蒙昧の言に動かされず、まっしぐらに、合理的、科学的な療養法の大道を進むことが肝要だ。現代医学の公認しない非科学的ないろいろの療法や、愚にもつかないまじないや、いわゆる肺病特効薬にまどわされて、早期治療のチャンスを逸し、病気を悪化させてはならない。

 いかがわしい民間療法や、インチキ宗教を、盲信してはならない。自ら肺病特効薬といい、若しくは無責任な新聞記事が推賞する新薬を警戒せよ。親切なる家人や隣人の言葉でも非科学的なものは拒否しなければならぬ。

 熱海の大火の折、女の湯文字を屋上にひるがえして、それで延焼を免れることができると信じていた人々もあったという。そうした世迷い言にまどわされていてボヤで消せるものを大火にしてしまわないことが必要である。

 本書において療病における精神の重要性を説いたのを読み、科学信ずるに足らす、と誤信する人があってはならぬので、特に附言する次第である。


       (完)