賀川豊彦の畏友・村島帰之(23)−『賀川豊彦病中闘史』(22)


       賀川豊彦病中闘史(第22回)


       一三 灰燼の東京へ

          震災救護に、焦土の東京へ

 大正十二年九月一日、関東大震災の報が傅わると、賀川は直ぐ立ちあがった。陸路は杜絶しているので、リュックサックを背負い、海路を東京に向った。彼は惨害状況を視察すると、直ぐ神戸にとってかえし、阪神地方の諸團体に訴えて蒲團、衣類などを集め、再び上京し、本所東駒形四丁目の焼跡に神戸から連れて来た木立義道、深田種嗣、田井国政ら数人の青年と協力して数張りの天幕を張り、大地の上にアンぺラを敷いて、そこを事務所とも、寝所ともし、在京の石田友治、後藤安太郎らイエスの友の助力を得て、物質および精神両方面の救護を開始した。

 終日、東京をかけずり廻って、疲れて戻って来ると、天幕の下の、アンペラの上にすえた粗末なカンバスベッドにごろりとなって寝た。緊張していた彼は、それが慢性腎臓炎の原因となっているとは気がつかなかった。間もなく天幕が取り払われて、バラックが建った。賀川は夫人や赤ちゃんの純基を神戸から呼びよせてそこに一しょに住み、毎日オートバイで市内の各教会を廻って説教をした。筆者もそのオートの尻に同乗して行った。

 十三年二月には帝国経済会議の委員に勅選されて、帝都再興のための働きはいよいよふえるばかり!

 處が四月の初め、突然、両眼共パンヌスがかかり、両手の指先さえ見えなくなってしまった。震災救護に着手する前から眼が悪く、毎夜奄法をつづけていたのだが、過労のため悪化したのである。そこで医師に診てもらうと、眼病も悪いけれど、それよりも腎臓炎が急性に来ているという。そこで友人たちがすすめて、本所のバラックから武蔵野の林の中――北豊多摩郡松沢村の小さい借家に引越して休養をとった。

 じっと寝ていることをよろこばない彼は、かねてから考えていた「愛」の体系をまとめようと思い立った。折柄、筆者は震災後東京日日新聞に転勤していたので、喜んで彼のこの仕事の手助けをした。これが後に出版され、諸外国語に翻訳された「愛の科学」である。

 賀川は松沢で十数日ゆっくり養生していると、不思議にパンヌスは去り、尿に蛋白が下りなくなった。そこでまたもや元通り激しく活動し出した。しかしそれは無理だった。果然、春に至って失明一歩前の處まで行くこととなった。

           失明状態の一週間
 大正十五年四月の最後の日曜目のことだった。朝早く本所基督教産業青年会の早天礼拝に出て聖書講義をし、十時から麹町紀尾井町の日基教会で説教をし、夜は八時から労働者傅道の講演をして松沢の家へ戻ったのは十二時過ぎ。

 「どうもからだの調子がよくない、しかし、眠ったらあしたは快くなるだろう」

 そういって就寝したが、翌朝起床して便所へ行こうとすると、両眼とも薄絹をかぶったようで視力が利かない。自分の手を眼の前へやってながめるのだが、五本の指さえハッキリとわからない。二三日経過を見ようといって温湿布をして貰ったが一向によくならない。朗らかな女奉仕者廣本久代は
 「先生がめくらになったら、わたしが手をひっぱって歩いてあげますがな」           ・
 「本当にたのむよ。手引がないと、乞食にも出られないからね」
 みんなは、声をあげて笑った。

 三日目の朝は少し視力を回復したかと思えたが、四日目にはまた悪くなって、全く視力がなくなった。その上、今までにない疼痛が来た。錐で眼球をもむような痛さである。

 もう、このままでは捨て置けない、というので、小石川区春日町の須田病院に入院した。須田病院は春日局の屋敷跡にあった。須田博士は
 「痛む筈ですよ、右眼の角膜の中央が鱗形に飛んでいます。左眼は混濁が甚しいからこれはちょっとには洽りませんな」

 賀川はパウロが眼疾で三日三夜、ものが見えなかった時、鱗のようたものが落ちて眼が見え出したという話を思い返していた。

 失明状態が一週間もつづいた。が、ふしぎにも、十日目頃からは絶望と思われた右眼に、庭の景色が見えるではないか。

 「あッ、見える見える、庭の景色が」
 「まあ本当ですの」

 盲の手引きをする筈だった広本久代がまず声をあげた。院長も
 「こんなに早くよくなる筈はないんだが、やっぱり、精神のしっかりした人は病気の治りが早いかなあ。角膜の穴もふさがったようです。角膜の滋養になるように、せいぜい林檎をたべるんですな」

 賀川は眼疾の癒ったのは奇蹟に近かった。そしてこの奇蹟を敢えてしたのは眼科医の医術ではなくて、当の患者の信仰ゆえであったのである。

 十五年五月七日、賀川は四十四日振りで眼科病院を退院して松沢村のわが家へ帰って来た。たった一ヵ月半、留守にしていただけなのに、武蔵野の大自然はすっかり新緑に包まれて新しい姿を見せていた。野辺の雑草も美しく出揃った。裏の楓も伸びて、日の光を透き通らせている。彼はその自然の美しい姿を、まだ十分恢復していない網膜にうつして、うっとりとした心地になった。

 眼科病院は退院したが、まだ視力は十分ではなく、辛うじて二号活字が見える程度なので、人に手をひかれながら、電車にのって春日町の病院へ通って行った。自身で本を読むことができぬので夫人に読んでもらった。聖書はマルコ傅を毎日のように繰返し繰り返し読ませて、イエスの宗教の立場を深く瞑想し、またイザヤ書の四十章から終りまでの部分をよんでもらっては、眼に涙をにじませながら凝っと聞き入った。そしてイザヤ書ほど、弱者への慰めの言葉はあるまいとさえ思った。

           一寸ちがえぱ轢死 !
 視力が回復すると、もう暫くもじっとしては居れない賀川である。しかし、まだ健康も全く旧に復したとはいえないので、保養旁々かねてから訪ねたいと思っていた上州草津癩病者部落へ出かけることとした。

 賀川が来るというので、草津で鈴蘭村を経営し癩者に奉仕していた三上千代子がすっかり準備をしてくれた。賀川は千代子の家族として約二ヵ月を過した。その間に、千代子からカルシュームの注射もして貰ったりして、右眼の視力もよほど回復し、おまけに高原生活が体力をも回復させて体重一貫目ほど殖えて、九月の初めに草津を下りて東京へ戻って来た。

 元気は回復した。数ヵ月冬眠していたのだから、うんと馬力をかけて働こう――そう思っていると、思いがけない事故が賀川を待ち受けていた。

 九月九日、粟の節句の日だった。いつもの通り、秋田県の青年富樫の運転してくれるオートバイに乗って松沢から東京の方へ出ようとして玉川電車の宮の阪の踏切に差しかかった時、電車が突然、オートバイの進む方向と直角に進んで来るではないか。あぶない!と思った時は電車もオートバイも速力を出していた。

 踏切には番人もいず、殊に、角は寺の土塀になっていて視野が利かなかったため、踏切りのそばへ来るまで、双方共に、あいての車の存在を認めることができすに進んでいたのだった。

 オートバイはとっさに右ヘハンドルを曲げた。その瞬間、電車はオートバイを蹴飛ばした。賀川は車もろともレールとどぶの間に飛ばされた。そして、脊椎をしたたかレールで打って、身動きさえできなかった。電車は賀川の頬骨とすれすれのところを通過して急停車した。オートバイと一しょに溝の中に落ちた富樫運転手は自分は助かったが、先生は轢き殺されたに違いないと思いつつ、急いでかけつけると、うれしや彼のからだは車輪をわずかはずれていて無事であった。

 この自動車事故のため、賀川は再び病床に臥す身となった。腰骨から上に数えて三番目の椎骨をレールにぶっつけたため、一時は両足とも麻痺して動けなかったが、幸いそれも動くようになった。

 余病が出なければいいがと気ずかっていると、二日目には腎臓出血のため血尿が出た。しかし、これも間もなく癒った。

 賀川はこれまで何度死線を越えたのだろう。病気のため死生の間を彷徨しただけではなく、今はまたもう二三寸のところで車輪の下になろうとしたのである。それに、失明を宣言されたことも既に一再ではなかったのを考えれば、賀川は不死身でなかったら、何かしら超自然の力が守護しているのだとしか考えられない。

 賀川は信仰の力で生き抜いているのである。神は容易に賀川を死なしめ給わぬのである。

    (つづく)