賀川豊彦の畏友・村島帰之(22)−『賀川豊彦病中闘史』(21)


      賀川豊彦病中闘史(第21回)

      一二 小説「死線を越えて

          「死線を越えて」の出るまで

 賀川はアメリカ留学前、既に「基督傅論争史」を著し、また「貧民心理の研究」という大著を刊行していたが、一部識者以外には知られてはいなかった。それが大正五年、帰朝すると、大阪毎日新聞が最ッ先に賀川を天下に紹介した。しかし、世間はまだ賀川豊彦の真價を知らす、現に同新聞社内ですら、「村島はあまりに賀川のことを書きすぎる」といって筆者を非難する者があった。こんなこともあった。

 大正七年、友愛会(現在の労働總同盟)の全国大会が大阪天王寺公会堂で催された。大阪毎日は部長岡崎鴻吉の英断で、本版と称する四段の紙面全部を、これに割愛し、筆者は全文を独りで書いた。その翌朝の新聞大会記事のあとに「左の名士の講演ありたり」として関一、今井嘉幸、両博士らと共に賀川の当夜の講演の概要が掲載された。それを見て社の幹部の中から非難が出た。当夜の弁士の中には大毎主筆高石真五郎もいたのに、村島は高石主筆を無視し、無名の賀川を名士として紹介したのは怪しからんというのだ。しかし筆者は平気だった。そして心で思っていた。今に見ろ、きっと賀川の真価を認める日が来るだろから――と。

 筆者の予想通り、日を経るに従って賀川の真価は次第に世間に認識されて行った。そして「死線を越えて」が出るに及んで「賀川豊彦」の名は津々浦々にまで轟きわたった。新聞社の幹部はもう何も言わなくなった。筆者との交遊もこの頃に始まって三十数年の長きに及ぶのみならす、二十七年前、導かれてキリスト信仰に入り、嘗ての日の労働運動の「同志」が、今は信仰上の師弟関係にある。

         大正時代のベストセラー

 「死線を越えて」はさきに記した如く、蒲郡の療養生活中書き始めた賀川の自傅小説で「改造」編集長横関愛造が筆者のすすめで「改造」にのせ、その後大正八年に出版の運びとなったもの。

 小説のことだから彼の五才の時に死んだ父を永く生存させたり、徳島支廳長で公職を去った父を徳島市長にして見たり、姉はあっても妹はなかったのに、可憐な妹を登場させて悲恋に泣かせたり、美しい芸妓と主人公とのロマンスをでっちあげたりして、多分に潤色してあり、また事実を歪曲した点もあるが、大体の筋は事実通りだった。初恋の人鶴子も実在の人物のようである。特に貧民窟の生活や労働運動の経過などは事実そのままで、筆者も「新聞記者島村信之」という名で、ところどころに仕出し役として登場している。

 この「死線を越えて」の初版は大正九年十月の発行で、その時、発行者の改造牡から著者へ原稿料千円也が支払われた。発行者も著者もそんなに売れようとは予期しなかったので、印税契約をしなかったのである。ところが意外の売れ行きで三ヶ月に三万部を売り尽くし、十年夏、筆者が神戸の川崎三菱両造船所職工四万六千人の大罷業を指導し、大示威運動――乱闘――警官の抜剣−−憲兵の出動―−死者を出すという騒ぎの後、賀川ら幹部が投獄せらるるにおよんで「賀川豊彦」の名が天下に喧傅せられ「死線を越えて」の売行に拍軍をかけた。発行者も続編を書いて貰う必要から改めて印税契約をした。「死線」はおもしろいように売れて、ついに二百八十版を売りつくし、続いて出た中篇「太陽を射るもの」も二百版、下篇「壁の声きく時」も百版、以上三篇を合せて約六百版を出した。仮に一版を干部と見ても六十万部、二千部とすれば百二十万部、明治のベストセラー「不如帰」を遥かに凌駕する日本有史以来の最高記録であった。

 その頃、福引で「死線を越えて」というくじが当った。伺だろうと思っていると「四銭を越えたのだから五銭です」といって、五銭の白銅一枚を渡されたこともあった。それほど「死線」は廣く読まれ、一般に知れ渡っていた。

 この素晴しい売行で、賀川のふところには、印税として数十万円の金が這入ったが、賀川はこの収入を惜しげもなく散じて社会運動を助け、社会事業を興した。

           印税全部を社会運動に

 筆者の知っているところだけをあげても、一番大きいのは川崎、三菱の大争議の後始末や百二十名にのぼった入監者の差入費用に三万五千円。(首魁として長期下獄した野倉萬治の家族に對しては、出獄の日まで毎月百円づつ仕送りをした。)次は神戸の争議のあとで賀川が創立した日本農民組合の費用に二万円、その他九州の鉱山鍍山労働運動のため五千円、大阪労働学校のために五千円―−西尾末広と筆者とが、これを貰いに行った。賀川は銀行残高をそっくり、端数までつけて渡してくれた――。また社会事業方面では神戸葺合新川部落の救療施設として賀川宅にある友愛救済所を財團法人にするため一万五千円。以上で既に八万円を越える。これにイエス團の費用や小口の補助金や救護金を加えたら二十万円を遥かに越している。

 「死線を越えて」は沢田正二郎や伊井蓉峰によって舞台の脚光を浴びると共に、神戸クロニクル紙に訳載され、同社から出版された。(これが賀川の小説の最初の翻訳書である。)その後ニューヨークでも出版されフランス、ドイツ、スエーデシ、フインランド語等に訳され。

 こうして「死線を越えて」の印税は私用にはほとんど費さなかったが、しかし世間はそうとは知らす、彼が成金にでもなっているかのように誤解して、或は高圧的に、或は哀れっぽくゆすりに来た。貧民窟のゴロツキたちも、もちろんその御他聞にもれなかった。前に記した酒乱のゴロツキ―一日々ゆするのは面倒だから月給にしてくれと要求した松井――の如き、しつこくまといついて或日、酒に勢いをかりて日本刀で賀川に斬りつけようとしたが、傍に居た春子夫人が勇敢にもその手に飛びついて刀を奪い取り、その日は幸に事無きを得た。

 しかし、酒乱の彼は、ともすれば恩人の上に暴力をふるおうとし、ついに或日、賀川の顔面にボクシングもどきの拳骨を正面から喰らわせた。そのため賀川の上顎骨は折れ、上下四枚の門歯は失われた。

 こうして、さながらだにの如く、くっついて離れないゴロツキをも賀川夫妻は愛してこれを警察に渡すこともせす世話をした。たゞ夫人の分娩が近づくにつれ、胎教のことも考えねばならなくなって、大正十一年暮に、貧民窟から数丁離れた日暮通の夫人の母の家に居を移し、賀川はそこから貧民窟の事務所へ通った。

         「不如帰」から「死線を越えて

 さて「死線を越えて」はこうして社会運動や社会事業の兵糧となり、また貧民窟のゴロツキのゆすりのタネとなったが、これらの物質的な影響のほかに、精神的な影響のあったことも勿論である。天下の年若き男女に与えた感動は特に大きく、また結核を病む人々に對しては従来の結核不治の迷信を破って、結核おそるるに足らずとの観念を植えつけた。

 明治の小説で最も廣く読まれたのは、徳富蘆花の「不如帰」だった。これは今から五十年前、明治三十一年十一月に出版され、百九十版――一版千部として二十萬部二千部として約四十万部−−を重版し、明治小説のベストセラーであった。

 女主人公浪子は川島武男の許にとついだが、間もなく肺患にかかって、良人の出征中に姑から離縁され、ついに死ぬ――これが「不如帰」のあら筋である。明治に育った者は誰しも一度はこの小説をランプの灯の下でひもといて、薄倖な浪子の身の上に涙を流して同情したものだった。そして同時に肺病とはかくもおそろしい、不治の病気であるという概念をも植えつけたものである。

 しかし、「不如帰」時代は去った。そしてこれに代って大正時代のベスト・セラーとして登場した「死線を越えて」が、ふしぎにもこれまた肺病小説であった。主人公新見栄一(すなわち賀川自身)は肺患のため余命いくばくもないと宣告され、どうせ死ぬなら、人のために働いて死のうと、神戸の貧民窟に自ら住み込み、貧しい人たちのために身を犠牲にして奉仕し、また社会改造のために、労働運動に挺身し、「日本の労働者の母」として全国の労働者から敬慕されるという規模雄大なる社会小説である。そして「不如帰」とは違って、主人公新見は肺患のため幾度か死にかけるが、いつも死線を突破し、肺病を征服してしまうのである。

  
            病者への希望の書

 明治の「不如帰」は肺病不治を宣伝したが、大正の「死線を越えて」は「肺病恐るるに足らず」と教えた。「死線を越えて」は実に呼吸器病者の勝利の小説であった。たとえ、両の肺がむしばまれても、強き精紳力と敬虔な信仰をもっていれば、死線をも突破し得ることを教えた病者の「希望の書」であった。

 落胆するな、病友よ! 望みはある! 自然良能の力による治癒を信じ、あせらす、気落ちせず、療養の一途をたどれ――と「死線を越えて」の一巻は、声なき声を病友に呼びかけるのである。

 神は病友の肺臓の中に君臨し、内在して、壊された細胞の一つひとつを修繕して下さっている。神の補修工事を信ぜよ、病友よ! 医者が安静をすすめるのも、その自然の治癒――内在の神の補修工作を前提とするからではないか。

 肺病は癒る。神がきっと癒して下さる。その活ける証人として、此處に「死線を越え」だ新見栄一――賀川豊彦が実在するのである。

            過労から来た眼疾
 「死線を越えて」が出て以来、賀川を憧れて来る年若い男女が多かったが、中には貧民窟の生活を体験したいといって休暇を利用して来る学生たちもあった。(さきに商工大臣となった水谷長三郎や評論家大宅壮一のごときもその一人で、賀川から洗礼をさえ受領した)その他訪問客や視察者は日々引きもきらす、その上、バートランド・ラッセルや、アインシュタインや、シド二ー・ギューリツクの如き世界の名士が或は来訪し、或は会見を申し込んで来たり、労働團体などからの講演以来や、新聞雑誌からの寄稿依頼が殺到して、彼のからだは幾つあっても足りそうもなかった。国際労働会議が聞かれて労働代表に推薦されたがこれも辞退した。

 賀川は殺人的多忙の中に置かれた。この多忙と過労は、またしても彼を病床に追い込むこととなった。もう肺病ではたかった。過労から来た眼疾だった。

 その前から、彼の硯力は弱っていて、読書を困難としていたが、大正十二年の春に至って眼疾はいよいよ悪化し新聞をよむことさえむつかしくなり、大阪北浜の有沢眼科医院に入院し、左眼のペリフェリンの手術をうけた。その結果、視力を回復して七ヵ月ぶりに書斎に帰ることができたが、固疾のトラホームは根治に至らす、腎臓炎の持病もあることとて、少し無理をすると直ぐ眼やにが出、視力の阻碍が来た。彼は聖書も特に四号活字のものを愛用し、その頃、読みはじめた大蔵経も夫人に読んでもらった。

 すると、突如、関東大震災が起った。彼は眼疾など忘れて救援のために上京した。そして彼の活動舞台が神戸から東京へ移ることとなった。

      (つづく)