賀川豊彦の畏友・村島帰之(30)−「病床を道場として」の「解説」


 これまで村島の名著『賀川豊彦病中闘史』と共著『病の床にも慰めあり』の村島の小品「病み益ありき」を収まました。

 今回は賀川豊彦の『病床を道場として―私の体験した精神療法』(福書房、1959年)から、賀川豊彦の「序」と村島の「解説」を収めておきます。

 この著作の初出は、昭和16年に『病床を道場として―闘病精神の修養』の書名で、村島も関与していた財団法人・白十字会の発行で世に出ています。松沢資料館の資料をネットで見ると、その本の写真入りで次のコメントも附された記述があります。
 
 「賀川 昭和十六年七月十八日 横山春一様」と書く。序 昭和十六年二月二十四日 摂津武庫川にて 賀川豊彦」 装丁 賀川豊彦

 本書は翌年増刷され、ニュー・モラル出版社より刊行されているようです。

 ここには本書の賀川の書いた表紙と扉並びに賀川の写真も収めます。



          病床を道場として

             序

 単細胞動物に死はない。地球の矢面に生物が生じて約四億年、海藻類やアミーバはその間も連綿たる生命か持続して味わうことを知らない。

 生命の神秘に触れた者は、生命の永遠性に気付くであろう。死は複細胞にあらわれた現象である。それは、地球の表面の変化に適応するための新しい試みとして地上に現れた。しかし、その場合でも種は決してほろびない。

 殊に霊魂を「記憶」の方面より探りを入れると、生理的の死が、霊魂の死でないことを我々は直ぐ発見する。

 肉体は、七年目毎に替っている。かわる肉体に、かわらざる記憶が残って行くふしぎな原理を、唯物論者は何と見るか。

 いや、それにもまして神秘なのは、変動せる物質を貫いて、不滅の法則が存在することである。不滅の法則は宇宙に智慧のあることを意味している。何百億年、宇宙の変化を貫いて、不滅の法則は不変である。さらに不変の法則には時間、空間を超越する宇宙の目的が盛られて居る。この宇宙の法則の把持者こそ、宇宙の神であると、わたしは信じている。

 すべての災厄を越え、すべての病魔を越えて、宇宙の神は厳然として宇宙を支配し給う。この普遍不動の絶対者に、三つの力が備えられている。即ち、創造の力と、保存の経綸と、修繕の神秘とである。

 宇宙に修繕の神秘があればこそ、病気もいやされ、疲労も恢復するのである。病人は須くこの宇宙の修繕の原理にすべてを委ぬべきである。この宇宙修繕の原理をギリシア人はクリストと言った。即ち血液が病気を治すのも、この修繕の原理の現われである。精神上の疲労の恢復するのも、この修繕の原理のあらわれである。

 しかし、人間は道徳的存在であるだけに、そして精神的動物であるだけに、道徳的に、又精神的に剛健でなければ病気を征服することはできない。

 精神の剛健なる者にとっては、悲哀も戯曲の一齣とかわらぬ。

 喀血しても恐怖すな。神は修繕の原理を持ちたまう故に。

 宇宙の神にすべてを委ねよ。すべてを宇宙の神の御手に委ねることによって、病床は一つの道場と化する。そこは法悦の道場であり、歓喜の泉と変化する。

 雨に、嵐に、晴れに、曇りに、わたしは宇宙の神の胎盤に吸い付いたような気持で、病床に、幾日も幾日も横たわった。壁を凝視する瞬間、それは神の掌の如く感じられ、窓を洩れくる光線は、神の御殿のイルミネーションの如くに輝く。何物をも読まないけれども、静思の世界に神の脈博も感じられ、無為の世界に、地軸を中心として、地球の自転が感じられるではないか。

 あせるなよ! 病床に嘆く若き魂よ! すべてを神に委ねてしまえ。

 春が来れば、若芽はふくものを、猿蟹合戦の蟹のように、生えねばつみ切ろうといらだつな!

 病床は道場である。五尺のベットは必ずしも広くはない。しかし、至高至愛の神が病床を下より捧げていて下さると思えば、五尺のべットは神の王座そのものであると考えられよう。

 絶対安静は先ず精神より始めよ。病床に苦悶するものは野球のグラウンドに疾走する選手より疲労を感ずる。

 安静は霊魂の消毒より始まる。すべてを神に委ねてしまえ。悩める魂
よ! お前の体が自分の自由になると思う間は、お前は我儘を云うだろう。我儘を云う間、お前の病気は治りはしない。お前の体が、神の体であって、粗末にできないと云うことが自覚された瞬間に、精進か始まるだろう。その瞬間に病床は道場と化し、病苦そのものが他日の健闘への準備と化すであろう。

 東に太陽は昇る。病床の憂欝を追払って、そこを天の道場と化すべきである。

                       賀川豊彦


        解説
        ――賀川豊彦氏について――

                       村島帰之

 「日本人の生活は、大戦後の世界的激変に刺戟されて最も喜ぶべき本質的の動揺を起し、この動揺の中から、破天荒な道徳的秩序と経済的改革とを生み出そうとしている。こういう時代に必要なのは、聡慧な指導者であると同時に、熱誠な実行家を兼ねた人才である。この意味において、俊秀な人才を数えて、今は何人も、その先頭に立つ少数の人々の中から、賀川豊彦氏の名を第一に挙げることに躍躇しないだろう。」

 これは今から約三十年前、与謝野晶子氏が賀川豊彦氏を評した言葉である。そして晶子氏の指摘した「聡慧な指導者」として、また同時に「熱誠な実行家」を兼ねた人才として賀川氏が世間から大きな期待と尊敬をよせられていることは、三十年後の今も変りがないのみか、いまいよその大を加えつつある。

 彼の一タの演舌を聞こうとして、日本内地のみならず、支那、印度、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ等からさえ招聘状が舞いこむが、連日連夜、まったく席あたたまる暇もなく、世界を家として活動しつづけている氏は、その依頼の半分も果たすことができずにいる。講演依額芳江、半年も前から申込まねばならぬといわれる。

 晶子氏のいった通り、氏は指導者であると共に実行家である。霊肉の救いを説き、キリストの隣人愛を説く氏は、貧民窟に自ら住んで貧しき者の友となり、労働組合や農民組合を組織し、労働学校を創設して労働者の自由のために戦う氏であった。関東震災などの変事があると、逸早く焦土の中に踏み入って、傷き病み、または飢え震う人々を、あたたかく抱く氏でもあった。氏の言論には影の形に添うように、必ず実践が伴った。指導者は多いが、氏ほどの熱誠な実行家がどこにいるだろう。嘗てYMCAの父・モット博士が、万国会議の席上で、各国の代表者を前に「賀川博士ほど現代の世界においてキリストに近き人格は発見できない」と叫んだのを、わたしは親しく聞いたが、そうした評価も決して偶然ではないと思う。

 賀川豊彦氏は明洽二十一年七月十日神戸市島上町に生れた。本年は六十四才である。賀川家は代々阿波で十九ヵ村の庄屋を勤めた家柄で、父純一氏は元老院徳島県庁に仕官したが、中途から実業界に転向した。豊彦氏が生れたのは、純一氏が官を辞し、前記神戸で回漕問屋を営んでいた頃で、彼は当時の弊風であった妾を囲い、妻は郷里に、妾は神戸に置いていた。賀川豊彦氏はその妾腹の子として生れ、五才にして早くも父と実母とを相前後して失い、その後は義母――父の本妻――の許に、日蔭者、妾の子として育てられねばならなかったのである。

 こうした生立ちである上に、人一倍、繊細な心を持った少年豊彦は、物ごころがつくと共に不幸な身の上を思うて、よく泣く子であった。こんなことがあった。氏が中学の二年のころ、英語を習うため、宣教師マヤスの許へ通っていたが、リーダ−を教わりながら、また涙がこみあげて来た。氏かうつ向いたまま泣いていると、マヤス博士は黙って氏を戸外へ連れ出した。夕暮れだった。マヤス博士はいった。『夕日に顔を向けてあなたの涙を蒸発させなさい。乾いたらまたリーダーを教えてあげます。』

 その頃、氏はマヤス博士から英語の勉強のために、バイブルを習っていたが、ルカ伝の一節を暗誦しでいるうち、非常に大きな感動をうけて、人生を見直すようにたった。

 「百合はいかにして育つかをおもえ。つとめず、紡かざるなり。われ汝らに告げん。ソロモンの栄華の極みの時だにも、その装い、この花の一つにしかざりき。神は今日、野にありて、明目炉に投げ入れらるる草をも、かく装わせ給えば、まして汝らおや。」

 この一節をよんで彼は思った。       

 「神は野の百合をさえ、あんなに美しく装って下さるのだもの、神は、わたしのような者でも、きっと祝福して愛して下さるに違いない。そうだ。わたしは孤独ではない。神が一しょにいて下さるのだ。」

 こうして氏は神の存在を認識し、神を信ずるようになった。氏は熱心に神に祈った。それも家の者が反対するので、頭から夜具をかぶったまま祈った。氏はその蒲団をかぶって祈った時のうれしかったことを、今も忘れられないと語っている。

 賀川氏が貧しい人々のために一身をささけようと決心したのもその頃であった。氏は中学時代、マヤス博士の書斎に自由に入ることを許されていたが、或日、ある進化論の書籍を取り出して読んでいるうち、ふと、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一しょに、東ロンドンの貧民窟に住みこんで、貧しい人たちのよき隣人として働いたという記述を読んで思わず膝をたたいて叫んだ。「自分の行く道は此処にある!」と。その後、東京や神戸の貧民窟には二畳敷に住んでいる貧しい一家のあることか聞いて「自分の住む家は二畳敷より広くてはならぬ。」と独りで決めこんだ。

 賀川氏は明治二十八年三月、徳島中学を卒業すると共に、上京して明治学院高等部に学んだが、その頃から、級友の間にあっても一きわ異彩を放っていた。氏は寄宿舎にいたが、或時は病んで棄てられていた犬を拾って帰って、自分の部屋の押入の中で飼った。そればかりか、次には、人間を拾って帰って来て世話をした。飢えている乞食が可哀そうだといって連れて帰り、自分の飯の半分を割いて与えたのだった。氏の救済事業は明治学院の寄宿舎時代にその第一歩を踏み出したわけである。

 賀川氏はその頃、肺患にかかっていた。氏は中学の二年当時、既にその発病を見ていたのだったが、なさぬ仲の母やその縁者のもとに世話となっている身は、十分に療養もさせて貰えず病気は慢性となっていた。が、氏の信仰と人道主義的情熱は病苦を忘れさせた。しかし、病魔は時々あぼれ出して、氏を病床に押したおし、重患に陥れて、氏のいわゆる「死線を越える」体験を嘗めさせたことも屡々だった。このことは、本文の随所で読者は読まれることである。

 その後、明治学院の神学部が一部神戸に移されることとなったが、氏には生れ故郷であるばかりか、そこには大きな貧民窟があって、氏の多年の宿望を達成するに便利があろうと考えて、思いきって神戸へ転学することを決意した。

 賀川氏は神戸神学校の寄宿舎に入ったが、学校へ通う傍ら、葺合新川と呼ばれる東部地区の貧民窟へ出かけて行って路傍説教をした。その時、氏は一人の侠客と知り合い、その世話で、貧民窟の中にあるその持家を借りてそこに住むこととたった。この日、明治四十二年十二月二十四日、クリスマスの前夜、二十一才の賀川豊彦は、机や蒲団や本などの荷物を車につみ、自らこれを曳き、神学校の寄宿舎を出て、誰一人知る人もない貧民窟の路次の奥の長屋へ引越して行った。当時、世間は不景気のドン底で、貧民窟には飢えに瀕した人が多く、賀川氏の貧民窟入りを聞いて、或は一椀の飯を乞い、或は一夜の宿を乞うた。氏にはわずか三畳一間の家、一組の蒲団しかなかったが、宿を乞う者には快く蒲団の半分を割愛した。最初に同衾を頼んで来たのは、ヒゼンの患者であった。さすがの氏もゾッとしたが、これも神が自分を試練し給うのであろうと考え、そのヒゼン患者と一しょに寝たが、翌日、氏はりっぱにそれに感染していた。氏の貧民窟生活の最初の収獲は、このヒゼンであったのである。このヒゼン患者を第一号として、氏の三畳敷ホテルヘは、毎日、立替り入れ替り、いろいろの人種がとびこんで来て、いつしか十何人という宿無しや病人を収容するようになり、場所が狭くなったため、両隣り二軒を借り入れ、壁をぶちぬいて三軒を一軒とした。蒲団は貸ぶとん屋から借りてたたが、その貸ぶとんを持ち出して質屋に入れる者さえあった。寄食者は多種多様で、乞食も居れば、不良少年も居り、行き処のない病人も居れば、別室には梅毒で局部のくずれた売春婦もいた。何のことはない。ゴリキーの「夜の宿」であった。

 その頃、貧民窟は不景気のために人殺しや、貰い子殺しが絶えなかった。氏の住んだ家も、わずか二十銭の祝儀のことから斬られた男が帰って来て死んだ家で、幽霊が出ると噂された家であった。

 氏は始終ピストルや白刃を手にした命知らずの男から脅迫を受けた。氏はキリストにならって一着の洋服しか持っていなかったが、或時、西洋ゴロから要求されて、寒空にチョッキを脱いで与えたこともあった。

 氏の無抵抗を知った貧民窟のゴロッキたちは、よいむく鳥とばかり、次から次へと氏をせびった。

 氏は毎晩貧民窟の路傍に立って神を説き「善に立帰れ!」と叫んでいたが、その説教の中で、淫売を攻撃したからといってゆすりに来て、火の這入った火鉢をなげつけた男もあった。また或る博徒は、氏が要求通りの金を出さぬといってピストルを乱射し、あまつさえ氏の家の障子や飯櫃を強奪して去った。その他、酔って来てはオルガンやガラス障子を破壊する者、祈り会の最中に大きな石を投げ込む者等等、氏はまるで弾丸雨飛の戦場に立っているのと、何等選ぶところがなかった。

 また一人の気の狂った酒呑みが居た。氏が可哀相に思って特別に目をかけてやるのをよいことにして、常に無理難題をもちかけた。或時、春子夫人が貧民窟生活の手記をわたしの依願で新聞に発表したのを聞いて、けしがらんと言って夫人の前額部を殴打して傷を負わせた。しかし夫妻ともにそれを赦してやった。すると彼はさらに図に乗って「俺に毎月二十五円づつ手当を出せ」と要求し、氏が笑ってこれに応じないのを見て激昂し、なぐりかかって顔面を傷つけ、前歯数本を折った。周囲の人たちは、「この儘置けば賀川先生や奥さんは殺される。警察へ突出せ!」と叫んで暴漢を取押えようとした。その時である。賀川氏は毅然として叫んだ。

 「君たちは、仇を赦せ、敵を愛せよというキリストの言葉を何と聞いてしるんだ!」

 この一言に暴漢は警察に突き出されずに済んだ。そして間もなく却って賀川氏自らが、神戸の大労働争議の指揮者たる責を負うて警察の留置場に引かれて行った。その際、留置場の外から、壁を敲いて「先生! 先生!」といって号泣している一人の男があった。それは誰あろか、さきの日、賀川氏を傷つけた暴漢であった。

 このように、白刃やピストルは少しも氏を怖しがらせはしなかったが、彼を一番悲しませたのは、貰い子殺しであった。その子に添えた僅か五円内外の金が欲しいばかりに、子供を貧って来ては、それを栄養不良で死に致すのである。氏は瀕死の貰い子を警察から貰いうけて来て、男子一つでその児を養ったことさえあった。また或時は、寄るべのない半身不随の女を養って、氏および新婚早々の春子夫人がそのししばばの世話までしてやったこともあった。梅毒で情夫から見放された淫売婦を収容してやったこともあった。その他多くの病者を始め狂人、不良少年、出獄人など、氏の暖いふところに抱かれた者の数は枚挙にいとまのないほどである。

 こうして氏の貧民窟における働きは、多くの寄るべなき無産者を慰め、助けたが、これで能事おわれりとする氏ではなかった。氏はあらゆる人間苦、社会苦が、人間性の裏にひそむ人間悪と、社会組織の誤謬から来る社会悪の所産なりと知って、これに向って徹底的の抗争を続けるのであった。

 氏は無産者運動の陣頭に立って、労働者、農民のために気を吐いた。大正十年の神戸川崎、三菱両造船所の争議に三万の労働者を指揮し、また翌十一年には自ら画策し、杉山元治郎氏やわたしたちを引具して、日本農民組合を創立し、今も労働者から「無産運動の父」として尊敬されていることは世人周知の事実である。

 また大正十二年九月、関東の震災は、江東の無楽者街を焦土と化し、多くの人々が飢えにふるえていると聞いて、単身、罹災地に急行し、同志を糾合し、罹災者の肉体的及び精神的の救いに従事した事も、人々のなお記憶に新たなるところである。

 氏は大正十年以降に、自伝小説「死線を越えて」及びその続篇を公けにし、一挙十数万部を売尽し、数十万円の印税を取得したが、その中の、びた一文といえどもわたくしの栄華のためには費さなかった。この浄財によって労働学校が設立され、(これはわたしの要請で即刻五千余金が渡された。)農民組合が運営された。また貧民窟伝道はもとより、転漁村伝道、台湾生蕃伝道までが行われ、癩患者慰安事業が企てられた。また神戸、大阪、東京にセツルメント事業が開始されて貧しき人々のための善隣運動が今も熱心に行われている。

 氏は最近、社会運動方面は若き人々に委せて、自らはその影の人として、これを助けるだけで、専ら精神運動方面に精進し、日本仝国に伝道旅行を続けつつあるのみか、遠くヨーロッパやアメリカに使いしてキリストの福音を世界の人々に宣べ伝えている。

 壇上に、紙上に、街頭に、名論卓説を吐く人は多い。しかし、その言うところと、行うところが一致して矛盾するところのない人に至っては、殆んど稀である。壇上に愛を説き乍ら、飢餓に瀕して一椀の飯を乞う者に顔をそむける宗教家や、正義人道を高唱しながら、ひそかに惇徳行為を行って恥じない社会運動家の多い現代に、言行一致、口に言うところをそのまま実行しつつあるわが賀川豊彦氏を持つことは、われらの誇りでなければならない。

 賀川氏の過去及び現在における超人的活動はまことに驚くべきものがある。しかもこの活動が、氏の病躯をひっさげての活動であることを知らぬ人が多い。氏は十二才の少年時代から肺患に悩ませられて来たが、貧民窟での働きを始めたのも、何度目かの大患の後であった。氏は血を吐きながら、九年八ヵ月の長きにわたって、貧民窟の真ツ只だ中に住み、ゴロツキの白刃の下にも立ち、全身不随の女や、狂人や、不良児や、淫売婦の世話をし、貰い子殺し常習者の手から救い出して来た嬰児のめんどうまで見た。そうした献身的の働きが、却って氏の病身を忘れさせ、軽快に向わせさえした。そのかわり貧民窟のこどもから感染して、氏ばかりか夫人までが、ひどいトラホームにかかった。夫人のごときは片眼を失明した。

 氏は、労働運動の陣頭に立ち、大正十年の神戸の大争議の際のごとき、二万余の争議団を指導し、ついに収監されたが、その間、争議の事や収監された幹部の家族の事を心配して体重も十貫そこそこに減り、あとで判ったことであるが、シャツには血の汗がにじみ出ていたとさえいわれる。だが、ふしぎにも氏の健康は支えられた。

 十二年の関東震災には焦土の上に天幕を張って救護事業に挺身したが、地べたに寝たのが因で腎臓炎を発病し、これが生涯の固疾となった。その上、貧民窟のこどもから感染したトラホームが悪化し、一時は失明を気づかわれたほどだったが、氏は百七十日間ほとんど休まず東京の精神復興のため病躯を鞭うって奔走をつづけた。

 昭和に入ると共に氏は日本的存在から世界的存在となり、世界を舞台として南船北馬席暖まる暇もない有様で、その結果、腎臓から血尿さえ出るようになった。或時アメリカ伝道旅行中、ロサンゼルスで同志の平田ドクトルが診察して「この調子でおつづけなさったら余命は五年を出てません。」と診断し、切に自重を要望したほどだった。けれども、氏は一向に休もうとはせず、そのまま伝道をつづけた。或年などは一年間に九回も血痰を出したが、予定の日程は変更しなかった。この命知らずの伝道は今もつづいているが、腎臓炎のほかに近頃は心臓狭心症の発作もあり、貧血して冬は懐炉を背と腹に二つづつ入れて歩くが、それでも安眠のできぬ夜がつづくという。しかもこうした活動にも拘らず、氏はふしぎに支えられ、さきの日の平田ドクトルの「余命五年」の診断を裏切って、それから二十年、今も活動の手をやめず、神の御用にわが身を忘れ、病を忘れている。

 賀川氏は拙著「賀川豊彦病中闘史」の序文でこういっている。「われ弱き時に最も強し、と、聖書にもある通り、わたしは自分を頼まないでキリストの父に凡てをまかせている、すべては感謝である。わたしは病気に対し不平を言わない。神よりの鞭として感謝してこれを受ける。」――と。

 病気は神の愛の鞭だ。これを感謝して受ける時、弱き病者は最強者となることができるのだ。賀川豊彦氏の存在はその生ける証拠としえよう。

 本書はわたしが社団法人白十字会(日本最古の結核予防及治療事業団体)の専務理事をしていた時、わたしの懇請を容れて、その機関誌「療養知識」に毎号執筆され、多くの病者から感激をもって迎えられたものである。

 落胆するな、悲しむな、病友よ!                 

 望みはある! 救いは来る!

 自然良能の力を信じ、医者の指図に従って正しき療養をせよ、「病床を道場として」の一巻を通じ、賀川豊彦はその体験を通して、こう病友に呼びかける。

 結核のごとき、きっと治る。その活ける証人としてここに賀川豊彦が存在する。

 病友よ、強き精神力が、信仰が、医薬だけは十分癒し競い疾患をも癒すという教訓を、この「病床を道場とし」てにおいて学ばれよ。聖書の「汝の信仰、汝を癒せり」という言葉の真実なることを知覚せられよ。そしてよく病苦に耐え、見事に疾患を征服し給え、斯くして、病床道場は、医薬の与えないものを、あなたの上にもたらすであろう。

 なお本書は、病者のほか、病者の周囲にある人々、さらに、病気でない健康者が、たましいの糧として一読せられても大に得るところのあることを解説者は確信して疑わない。