賀川豊彦の畏友・村島帰之(29)−「病みて益ありき」(3)


            病みて益ありき

                         村島帰之
       (前承)
 
          綱島梁川の場合

 「綱島梁川も、しっかりした精神力をもっていたらしいね。病間録や回光録を読むと頭がさがる」
 「そうだよ。梁川は早稲田専門学校を出た翌年はじめて喀血して、それから病気の消長はあったが、しばしば喀血をくりかえして明治四十年に三十五才で永眠するまで十二年間、おかかた病床にいて、たくさんの著作をした。そのあいだ、彼はしっかりした信仰をもっていたので、病床にあっても少しもあせらず、歎かず、むしろ、病気になったことを神に感謝していた」
 「梁川は『見神の経験』をしたが、結核にかかってからだったね」
 「そうだよ。そんな信仰の人だったから、病気に対しても、ゆるぎなき信念をもって対処していたようだ。有名な『病友に与うる書』は結核にかかって苦悶している友へ贈ったものだが、当時はまだ結核は不治の病いとされていたので、梁川もそれを前提としながらなお『病苦を克服する道は、無窮の生命を体得し、不断の法悦の境に三昧することだ』といって、精神療法を説いたのだ。その一節を抜いて読んでみよう。」

 ≪不治の病というに、一しおの御力落しもさることながら、おくれ先だつ露のいのちいずれを同じ運命にあわで果つべき。ひっきよう、人はみな不治の病者と申すべき先天の重荷をになえる者、ただこれを明瞭なる自覚の対象となしつつ、しかも不断の法悦てう無窮の生命を内にたたえて、他とともにこれをくみかわしつつ、悠々として人生の大路を潤歩するわねらが幸福は、何人にもゆずらざるものあっで存するにはあらざるか、貴意如何≫

          苦難は意地悪の犬だ
 「人はみな不治の病者と申すべし――なるほどね」
 「人生五十年と相場がきまっている、その意味からすると、人間はすべて有限の生命を宣言されている不治の病者だ。この自覚に立って、しかも梁川は無窮の生命を把握し、不断の法悦に浸り――つまり神を信じて悠々と人生の大路を闊歩しようというのだ。この有限の生から無限の生へ進む梁川のそのおおらかな、生死を超えた態度には結核も魔手をのばす余地がなかったのだ。彼は三十五才で早世したが、発病してから十二年も生きのびたのだから、発病わずか二年で苦悶の裡に死んだ国木田独歩などに比べると長生をしたことになる」              
 「うむやみと結核を恐れたり、苦悶したりするから、結核は得たり賢こしとその魔手をふるうのだな」
 「ショーペンハウエルは『苦難は意地の悪い犬のようなもので、もし人が苦難に直面し恐れて逃げだそうとすれば、苦難の犬は、こいつ御し易しと見てとって、吼え立ねながらどこまでも迫っかけてくるだろう。だが、もしその人が毅然として苦難をにらみかえすだけの元気をもっていたら、苦難の犬は尻ッぽをまいて逃げて行くだろう――』といっている。結核に直面した場合も、これと同じことがいえるのではないだろうか」
 「適切だれ。僕たちが結核という意地悪犬に出あった場合の心得は、まさにその通りでなくではならないと思う。そういえば、『逆境の恩寵』の著者徳永規矩も、それによく似たことをいっていたようじやないか」

         徳水規矩の場合

 「そうだよ、徳永氏は徳富蘇峯氏の従兄で年少政治運動に没頭したが、中途、志をひるがえして基督教の信仰に入り、ミッションスクールを熊本に建て、家財を傾けて英才の育英事業を始めた時、心身の過労から突然喀血して危篤を伝えられた。しかし彼は熱心な信仰の持主だったので、病苦と貧苦の中に呻吟しながら、不幸一ついわないで、神の聖名をほめたたえ、梁川と同じように病になったことを、かえって神に感謝した。自分がもし病気にならなかったら、きっと傲慢不遜で、功名心に駆られ、堕落していたに違いない。今日幸いにして、自らの弱さをかえりみ、神を仰ぎ、献身の誓をたてて、法悦の生涯を送れるのも、全く病気をしたからだ、といって神に感謝した」
 「そのことは僕も『逆境の恩寵』を涙を流しながら読んで覚えている。賀川豊彦氏は、あの本はあまりにも悲しいので、二度と読みかえず勇気が出ない、といっていられたっけ」
 「その徳永氏がショーペンハウエルと似たことをいっていた。死についての感想を述べた一節で、死は誰よりも、しげしげと自分の寝床を訪れてくれる友人だ。そしてその友は、決して怖しいものではない。もしこっちがこころよく彼を迎えてやると、彼もまた心安くそのまま立ち去って行ってくれる――というのだ。つまり死というものを、徒らに怖れる者には、ショーペンハウエルの苦難の犬と同じように、しつッこくまつわりついて離れず、従って死期を早めるが、反対に死を怖れず、虚心坦懐でいる者には、死の方で彼を回避し、自然と生をのばすことになる、というのだ。現に徳永氏は医者から死を宣告されてから、病臥生活実に十六年の久しきにおよんだというのだ」

         何よりも心の落ちつき

 「梁川にしでも、規矩にしても、大病に直面しで、少しもおそれず、あわてず従容自若としていられたその澄みきった心境が美しいよ。全く神に委せきっていたんだね」
 「何よりも心の落ちつきが肝じんだよ」
 「しかし、落ちつけといっても結核を宣告されたり、喀血したりしている時は、なかなか落ちつけないものじやないかね。そういう時は、君ならどうする」
 「どうするもないものだ。神におすがりするばかりさ。神さまはいつも、僕らと一しょに居て下さるのだから心強い限りだ。そして神さまに一さいおまかせするのだ。聖書にももろもろの心労を神に委ねよ。神、なんじらのためにおもんぱかり給えばなり」(ペテロ前五ノ七)とあるではないか。神は僕らのために心配して下さるというのだ。なまじ、人間の浅い智慧で、とやかく、技巧をめぐらすのがいけないのだ。塩尻公明氏の『病苦について』をよむと、氏は『病気は避けたり、何かしないで、そのまま受け取れ』といっているのはそれだ。神sまの前に一切を投げ出して、どうかよろしいようにといえば、神は、よし来た! とばかり、修繕工事をして下さるのだ。詩篇にも『神はわずらいの床にあるものを助け、その衾(しとね)をしきかえ給わん』(四一)とあるほどで、病床の蒲団まで敷き替えて下さるのだ。僕も喀血の時は、ぢたばたしないで、寝床に仰臥したまま、目をつぶって神に祈るのだ。神よ、あなたの御手をもって、この血管の破れを縫いあわせ給え――とね。いや、そんなことはいわなくても神にお委せすればそれでいいんだ。すると神は、やさしい母親のように、よしよしとおっしゃって、針箱から糸と針とをとり出し、夜なべにほころびをつくろって下さるのだ」
 「そういうように考えて来ると、しぜん心も落ちつくわけだ」

         一切を神に委せよ

 「心を落ちつける方法は、神に一切をお委せすることだよ。賀川氏は母の胎盤に吸いついているようだと詩人らしい言葉でこの事を表現して居られる。氏が三河豊橋の伝道先で喀血された時の様子を拙著『賀川豊彦闘病一五十年』の中から抜いて来て読むことにしよう。(実際に刊行された書名は『賀川豊彦病中闘史』出合った―注記)

 ≪十日あまり経過した。熱も下らず、血痰も止まらず、その上呼吸もしだいに苦しくなってきた。彼は絶対安静を守った。それはまるで母の胎盤に吸いついているようだった。手も足も、首も、眸も動かさず、ただ静かに息を吸い、そして静かに息を吐いているだけだった。……彼は化石のように動かずにいたが、いつの間にかまどろんだのだろう。ふと眠りからさめると夕方になっていた。西日が赤々と部屋を染めていた。彼はふしぎなほど落ちついていた。彼は目を細めて夕日に染った茜雲を疑視した。静かな夕方だ。身内をめぐる血液のめぐるのがわかるほどだ。やがて夕日は沈んだ。その間約一時間半、身動き一つせず、恍惚として凝視しつづけていたのだが、その恍惚境の中にいて、全身がしびれたような、そして光明が全身を包んで地上にいながら寝床の上から起き上り、ふわりふわり、天の方へ飛んで行くようなうれしい感じがした。
 彼は呼吸の困難を忘れて、その喜びの中に浸っていた。全身がしびれて感覚を失っているので、ちょっとからだをひねらせてみたいが、そうすると、そのうれしい気持が消えてしまうように思えるので、じっとしたままその空へ浮き上がるような、気持を守るつづけた。≫

         達観せよ、馬鹿になれ

 こうして、賀川氏は絶対者に委せきった気持でいるうちに、死線を越えてしまったのだった。この時の事を、賀川氏自らがこう書いていられる。

 ≪肺を病む者の一ばんいけないのは、小さい病状を気にすることだ。それなくすには思いきって馬鹿になることだ。それは己れをすてて宇宙の力に同化することだ。天地を創造し、われわれの運命を左右する神の力に比べたら、われわれのあくせくした考えなど、とるに足らぬものであることを知ることだ。つまり人間の子としでは馬鹿になり、神の子として賢くなることだ。そうなって、はじめて達観ができ、無用の心配をしなくなり、従って血行を増すことにもなる。つまり、精神の安静が大切である。わたしが頻死の肺病をきりぬけた秘訣も、要するにこれだったのだ。≫

 まことにその通りだと思う。結核患者の療養には、安静が第一といわれるが、からだの安静だけでは不十分だ。心の安静こそ何より大切である。賀川氏は、このことを力強く病友に求めているのだ」
 「神は常にわれらと共にいらっしゃるのだから、安心して、心身を安静にしていればいいんだ」

           恩恵汝に足れり
 「ウェスレーは臨終の床で『一ばんよいことは、神がわれらと共におわすということだ』といったというが、われわれ病者にとって一ばんありがたいことも、神が常にわれわれと一しょに居て下さって、たえず、慰め、励まし、そして苦しみ悩みを御自身も一しょに背負って下さることだよ。この恩寵を感謝することが、また心の安静をはかることになる。」
 「恩寵は全くあふるるばかりなんだからね」
 「そうだよ、僕らは、数えきれないほどの恩寵をうけているね。きょうもこうして生かしていただいている喜び、傷ついた内臓が、知らぬうちに修理されているふしぎ、そればかりか、周囲の人々の親切も、その人の意志によるというよりは、何か大きな手が動いているとしか思えない神秘も、病床でのみ感得できる恩寵だ。僕は病床ではじめて聖書を読んだ時、『神の恩恵汝に足れり』という聖句を発見し、その意味がわかってから、不平不満をいうことがなくなった。いや、全然いわぬとはいえないが、たとえ出ても、すぐ心をとり直し反省するようになった」
 「全く不平をいうどころじゃないね。感謝しても感謝しきれない恩恵をうけている」
 「こうして病気のためとはいいながら、仕事を休んでいるのに、三度三度の食事も与えられ、親切な先輩、友人、同僚、教え子および家人に慰められて、のびのびと病床に横になって安静していられるなんて、全く冥加につきると思うよ」
 「感謝だね」

          感謝だ、感謝だ
 「本とうに感謝だ。わたしが二十数年前、アメリカヘ旅立とうとした時、キリスト教界の聖者といわれた今は亡き吉田清太郎先生が、見送りに来てくれてわたしの手をこういわれた。

 ≪あなたは病後のからだで旅行をされるのだから、きっと心細いことでしょう。ですから行くさきざきで神に祈ることを忘れてはなりません。だが、神に祈り求めるだけではさびしいものです。で、祈り求める前に、まず感謝をなさい。そうすればあなたの心は暖められてさびしさが薄れて行くことでしょう。≫

 「わたしは先生のこの言葉を肝に銘じて、朝夕祈りをずる時には必ず、まず、神に支えられて無事に今まで旅行のできたことを感謝し、至るところ、米人といわず、日本人といわず、親切にしてくれられる喜びを心から感謝した。そうすると、ふしぎに心がひらけて、うれしくてたまらぬといった気持になった。神さまが一しょに旅行していて下さるんだ。少しも心配はいらない、といった確信が湧いできて、旅の前途に少しの不安も感じないようになって、たのしく放行をつづけることができた」
 「全地よ、神に向い喜しき声をあげよ、喜びをいだきて神に仕え、うたいつつその御前に来れ――という詩篇の喜びの心持がわかって来で、不平不満なんかいうのがおかしくさえ感ぜられて来る」
 「病の床に慰めがある。病気になったことば悲しむに足りない。むしろ、病気になったことを喜びとし、感謝せねばならない。こうして神の大愛を知ることができたのも病気になったからなんだから」                  j
 「病気になっで益があったんだね。病気になったおかけで、天国への門にたどりつくことができたんだから」
 「感謝だね、ありがたいね」
 「ありがたいよ、感謝だよ、まったく!」  

             (完)