賀川豊彦の畏友・村島帰之(190)−村島「賀川豊彦入門」

  「読書展望」第2巻第6号(昭和22年8月1日)22頁

         


      賀川豊彦入門      −著作を透して見た人と事業−
                         村島帰之

   世界の人カガワ

 多くの指導者がいる。しかし多くは紙の上や壇上の指導者で実践に乏しい。彼等が如何に巧みに笛吹けばとて、巷の民衆は踊るものではない。指導者としての賀川豊彦氏の偉人さはその実践性にある。賀川氏が外国で人気があるというのもこのためだと思う。西洋人は実践を尊ぶからだ。筆者は十数年前、賀川氏と一結にカナダのトロンㇳ市で開かれたYMCAの萬国大会に臨んだが、その開会式で大会会長モット博士は、「現代において基督に最も近き人を求めるなら、私はまず賀川豊彦博士を推すであろう」といって氏を各国代表の前に紹介した。賀川氏こそ基督を現代に実践する人、基督を受肉せる十字架の行者といった意味だと思う。

 基督の信仰を説くのはやさしい。聖書を暗唱することも六ヶしくはない。だが真に基督を実践するということは生易しい業ではない。賀川氏の十数年の久しきに亘る貧民窟の生活。その後における資本家及び極右、極左を向うに廻しての社会運動。その両期間を通じての精神運動。臨機応変の救急救護事業。各種の常設社会事業、教育事業。協同組合運動。軍閥弾圧下の平和運動等、等、それは人間の自由を戦ひとるための不断の十字架の道だったといえよう。そしてこれあるゆえに、民族的優越感を持つ白人たちも、賀川氏を高く評価し、氏や迎えるに当っては「光東方より来る」とさえ提言して恥ぢとしない。
 アメリカの青年たちはカガワの名をみな知らでいる。ハイスクールの教科書に「カガワ・イン・スラム」と題する一文がのっているからで、青年たちは賀川氏を現代の聖フランシスとして尊敬している。そんな訳だから賀川氏の著書は多くの国語に翻訳されていて―― Love―Law of the Life(「愛の科學」)の如き、戦時中、アメリカにおいて敵国人の著書のベスト・セラーであったという。(Before the down(「死線を越えて」)のよく読まれたのは一昔前までだ)この本は米国語だけではなくスカンヂナビアの言葉にも訳されいる。これは市河彦太郎氏が公使として同地に使いしていた頃、日本を紹介するのに最も恰好な書物として一連の賀川氏のものを選んだからだ。そのためだろう、戦争直前、近衛内閣が各国へ親善使節を派遣しようということになって、出先外交官の希望を徴したところ、スカンヂナビア諸国は賀川氏を、といって来た。だが賀川氏はアメリカヘ送らねばならぬとあって、氏のスカンヂナビア特派は実現を見ずに終った。

   憲兵見落しの不穏文書
 Love―Law of the Lifeの原著「愛の科學」は関東震災の翌年の発行で、非戦論を公然主張し、軍部に対し随分手きびしい非難を浴びせているが、目こぼしなのだろう、発禁にもならず版を重ねた。序文をひもとくと、次のような不穏?な文字が見出される。

 「剣が社会を作っていた時はもう過ぎた。刃が日本魂だなどと考えている時はもう過ぎた! 愛の外に日本の精紳はもってはならない。(中略)愛は最後の帝王だ、愛の外に世界を征服するものはない。世界帝国の夢想者は凡て失敗した。刀剣の征服は一瞬であって、その効力は止針にも価しない。(中略)彼等は人間ではない! あゞ彼等は人問機械だ! 魂なき野獣だ! 野獣にはまだ魂がある。然し彼等は肉慾のために魂を売り、貨幣のために人の子を大砲の前にくゝりつけた。(中略)人類の于品師よ、咒女よ、世界の凡ての剣刄の上を、幾箇師團が並んで通れるか計算してくれ! 剣の刃の上に建てられた共産主義を見よ、銃丸の上に据えられたクラウンを見よ、それはあまりにも醜いものである。されば銃剣の代りに貨幣もて魂を買うか、肉を売る女、梅毒薬を売る男、政治の中の不良少年、それを取り締まる警官、橋の袂に立っ憲兵――これをしも国家というなら、今日の国家は地獄の隣に位する。悲しき日よ、去れよ。剣銃の手品師よ往け! 私は神と共に愛の王国を地上に建てねばならぬ。(中略) 愛は私の一切である。」

 これは軍閥崩壊、戦争放棄の昭和廿年の文章ではない。軍閥尚ほ華やかなりし大正十三年五月某日、筆者の大森の寓居に一泊した賀川氏が翌朝起きると直ぐ一気呵成に書きなぐった文章なのである。


 補記 
 この文章はこのあとに23〜25頁があるようであるがいま手元にはない。
 なお、村島の論稿はこの「読書展望」ではほかにも他に数本、そして「世界国家」「湖畔の声」「ニューエイジ」「政界往来」などにも数多く寄稿しているが、いまわたしの手元にはないので、今後入手できれば補っておきたい。

 このブログでの連載も今回で190回、長くなってしまったが、一応ここで打ち止めにしておく。賀川記念館の機関誌「ボランテァイ」で連載中の次回には「村島帰之」を短く取り上げる予定である。

 今回最後に附録として、手元に取り出している村島関連の写真を数枚収めて置きたい。


1922年(大正11年) 大阪労働学校第一回の講師


1923年(大正12年) 第一回イエスの友夏季修養会(東山荘)


1927年(昭和2年)7月24日 第5回イエスの友夏期修養会(東山荘)


1931年(昭和6年)5月31日 村島帰之上京歓迎懇談会(イエスの友会)


1931年(昭和6年)7月10日 カナダ・トロントで開催の世界YMCA大会の招きで日本代表として賀川豊彦・小川清澄・村島帰之、横浜より平安丸で出帆 埠頭で見送る


平安丸船上


賀川豊彦の畏友・村島帰之(189)−村島「交友四十四年を顧みて」

「神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業」(1960年、イエスの友大阪支部)所収

         交友四十四年を顧みて                           村島帰之

    社会運動の開拓者
 大正六年夏、大阪府知事官邸の社会事業の集会で私は始めて賀川先生と相知った。それから四十四年。交友は絶えることなく、私の人生コースはこの人を知った事により大きな影響をうけた。
 私は四十四年前の初対面の日の事を忘れない。先生はアメリカ留学から帰朝されたばかりで、洋行帰りらしいパリッとした服装をしていた。
 「村島さんですか。あなたのお書きになった『ドン底生活』を図書館で読ませてもらしましたよ」とアメリカ仕込みの、人をそらさぬ態度でまるで百年の知己のような話しぶりだった。先生は二十八才、私は二十三才の若き新聞記者であった。私は招かれて神戸の貧民窟に先生を訪ねて行った。便所の戸も誰かがタキギがわりにもやしたのか、その影さえなく、悪臭鼻をつく貧民窟を、先生はまるで花園でも案内するかのように先に立った。
 その頃から約三年間は労働組合のリーダーとして行動を共にした。まだインテリの指導者の少なかった時代とて、どこの組合の演説会でも二人は顔を並べて出演した。今日では男も女も成年に達すると選挙権を与えられるが、四十年前は女は全然その権利がなく、男も一定の直接国税を納めていないと選挙権はなかった。先生は普通選挙権獲得のために活躍し、デモの折には必ず先頭に立った。労働者の団結権を獲得するためにも何十ぺん演壇に立ったか知れない。
 今日のように選挙権や労働者の諸権利が認められるようになった陰には開拓者としての先生の努力のあったことを世間の人たちは忘れている。

   闘争主義に反対
 先生は人道主義の立場をとった。従って今日の労働運動のような闘争的、革命的な運動には反対で、大正十年頃からサンディカリズムやボルシェビズム(共産主義)の影響で日本の労働運動の左傾に伴い先生は次第に労働運動から遠ざかって行った。
 そしてその秋まだ誰も手をつけてしなかった農民組合運動に着手し、私も先生と行動を共にした。同じ十一年に私や西尾末広氏が大阪労働学校を設立した時も、先生は喜んで校長を引受け学校の費用を全部出してくれた。この労働学校からは大臣や大ぜいの代議士が出ている。
 そこへ突然、大正十二年九月一日の関東大震災が起った。先生は急遽神戸から上京し本所の焼跡に天幕を張り、東京の救護と精神的復興のために一身を忘れて奔走した。先日の青山学院での葬儀の時合唱した「わがたましいを愛するイエスよ……」は東京市の市中を伝道して廻った時、トラックの上や、路傍説教の人だかりの中でイエスの友の人たちが声をからして合唱したものだった。この天幕生活は先生の健康を害して腎臓炎を発病し、少年時代からの肺患や、貧民窟時代に長屋の子供たちから感染したトラホームと共に、先生の生涯の痼疾となった。ことにトラホームは春子夫人の片眼を失明させたが、夫人は「まだ片眼が残っていますから、賀川がたとえ失明しても二人一眼で結構働けます」と笑っておられた。先生夫妻は正に全生全霊を神と人とにささげつくした人たちといえるであろう。
                    (筆者は平和学園々長)

賀川豊彦の畏友・村島帰之(188)−村島「砕けたる魂」

  「百三人の賀川伝」(昭和35年、キリスト新聞社)所収

           砕けたる魂
                        村島帰之

 大正十年、関西の労働争議の頻発するまっさいちゅう、わたしは過労のため肋膜炎にかかって寝ていました。すると或る日、賀川先生が見えて、「肋膜炎の治療には湿布療法が一ばんいいから」といって、前に入院したことのある神戸の衛生病院という水治療法専門の病院へ入院するよう、熱心にすすめて下さいました。聞くとその病院はキリスト教の経営だということです。わたしはなおさら気が進まないので、「入院料もないし……」といって渋っていますと、「その点なら心配はいらない、ぼくに委せてくれたまえ」といって、その頃出版された「死線を越えて」の印税の中から立替えて払って下さいました。
 また西宮の家から神戸の病院まで蒲団を運ぶ者がいないというと、賀川先生の労働運動の同志、西尾末広君が「よっしや、わしがかついで行ったげる」といって、大きな蒲団包を肩にかついで運んでくれました。西尾君は後に社会党内閲の大臣になった人です。
 病院では聖日毎に礼拝が行われました。枕元にきこえてくる讃美歌は、母の子守唄のように、甘美でした。でもキリスト教に近づいて行こうという気持は起こりませんでした。
 すると或る目、突然、一人の外国人が見舞に来てくれました。賀川先生のところで、一、二度会ったことのあるマヤス博士です。博士は「少し聖書のお話をいたしましょう」といいながら聖書を開いて、「ダビデは放蕩者でしたが、神様により救われました」と説きはじめました。わたしは「さては」と思って苦笑しました。わたしが放蕩者だということを賀川先生から聞いて来たにちがいない。そう思いながら、マヤス博士の話しに聞き入りました。わたしは聖書の知識を少しももっていなかったので、十分判ったとはいえませんが、要するに、「神は供え物を喜び給わず、神の喜び給う献げ物は、悔い改めた人間の『砕けたるたましい』である。君も放蕩三昧をやめて早く悔い改めよ、そうしたならダビデが救われたように、君も救われるだろう」という意味にとれました。
 反抗心の強いわたしでしたが、この博士の言葉に反撥する心も起こらず、かえって聖書というものを一度読んでみたいという気特になって、電話で賀川先生に頼みました。すると春子夫人がすぐ旧新約聖書に讃美歌まで添えて、持って来て下さいました。聖書の扉には夫人の達筆で「わが口の言葉、わが心の思い、エホバの前に喜ばるるを得しめ給え」と記してありました。
 わたしは聖書を読み始めました。さきの日、マヤス博士の話したのは詩篇五十一篇であったことも判りました。賀川先生を知って数年、新川の家へは絶えずうかがいながら、説教所には一度も足踏みしたことのなかったわたしでしたが、聖書を読んだために、一度集会へ出て見ようかしら、と思うようになって、先生に話しますと、「朝六時から始まるんですよ。起きられますか」と笑って、「どうかいらっしゃい」といって下さいました。
 病気も快方に向かい、外出できるようになりましたので、私は意を決して、賀川先生の説教をききに出かけました。説教所は葺合新川の先生の住居から数丁離れた路地の奥にありました。ブラシ工場の跡を改造して、畳を敷いたさむざむとしたバラックで、来会者は貧民窟の人たちを中心に二十人あまり。冬の朝の六時はまだ薄暗く、正面のテーブルの上と会衆の頭上にだけ、電燈がともっていました。わたしの姿を見つけて、賀川先生は「よく来ましたね」とニコニコして一番前の席へ坐らせてくれました。
 礼拝がすんだ時、外を見ると、いつか夜は明けはなれて、さわやかな朝の気がわたしたちを快く包みました。
 「いい気分ですね」とわたしがいうと、先生は、「気分かいいだけでは困りますよ」と、にが笑いしました。
 それから毎日曜日わたしは病院から説教所に出かけて、早天礼拝に列しました。すると突然、思いがけない事件がもちあがりました。わたしたちといっしょに労働運動のリーダーをしていた某の夫人が、魔がさしたのでしょう、ちょっとした事件を起こして、拘引されたのです。夫人は美しい人で、病院へもたびたび私を見舞ってくれました。夕刊でそのことを知り驚いているところへ、賀川先生が見えたので、いっしょに某の家へ出かけました。ちょうど警察から家へ連れ戻されたばかりで、夫人は申しわけないから死ぬといったりして、泣きわめいているところでした。賀川先生は「いっしょに祈りましょう」といい、夫人を中にして四人が坐りました。夫人は崩折れるように泣き伏して、肩や背中が嗚咽で波うっています。某もすすり泣きしています。わたしたちも鼻をすすっていました。ややあって先生はいいました。「祈りましょう、はじめに村島君に祈っていただきます。」
 わたしはハッとしました。わたしは新川の説教所の礼拝に何回か出ただけで、まだ口に出して祈ったことはないのです。心臓が早鐘のように打ちます。しかし三人は首をたれて、わたしの祈るのを待っているのです。
天の神さま――そういっただけで、あとが出ません。わたしは幾たびも心の中で、「天の神さま」をくりかえしつつ、祈りの言柴をさがしていました。するとその時、さっと心にひらめくものがありました。さきの日、マヤス博士からうけたまわった詩篇の言葉でした。
 「……神さま、あなたの喜びたもうのは、くだけたるたましいでございました。」
 ここまでくると、あとは自分でもふしぎなほどすらすらと言葉が湧いて出てきました。「今、み前にうなだるる夫妻の、くだけたるたましいを嘉納したまえ……」
 そういっているうちに、涙が胸をついて出て、聖浄な感激がわたしを包みました。そしてようやく祈りが終わった時、耳近く大きな声で「アーメン」をいう賀川先生の声に、はじめてわれに帰りました。
 「僕の愛が足りなかったのだ。ゆるしてくれ!」
 某は夫人の方を向いて頭を下げました。賀川先生は、「奥さん涙をおおふきなさい」といって、つづけました。
 「今、村鳥君が祈ってくれたように、神はあなたの心からの悔い改めを喜んで受け入れ て下さいました。今日を機会に生まれ変わって、よき妻となり、またおおぜいの労働者諸君の親切な母となって、再出発して下さい。」
 わたしも押し出されるようにして言いました。
 「僕も今までの放らつな生活を清算して、真人間に帰ります。いっしょに生まれ変わりましょう、奥さん!」
 夫人は泣き伏したまま、顔もあげ得ず、うなずくのみでした。
 その家を出ると、そとには月光が暗い家並の瓦の上に水のように流れていました。
 「某と夫人はきっと救われますよ。」
 先生は確信ある語調でいいました。わたしはそれには答えず、心の中で言いました。
 ――救われねばならぬたましいが、もう一つここにある。このたましいも救われるだろう。いいや、必ず救われねばならないのだ――
 わたしは賀川先生と肩を並べて、黙々と歩いていました。中空の寒月は、わたしたちといっしょに、どこまでもついて来ました。
 わたしが賀川先生から洗礼を受けたのは、その翌年のことでした。
                           

賀川豊彦の畏友・村島帰之(187)−村島「わが友の人間愛」

   掲載紙、年月日不明

         

   現代の聖者・賀川豊彦   わが友の人間愛―死後50日、初公開の秘話
     44年間の親友・平和學園園長   村島帰之

 去る四月二十三日、賀川豊彦氏は心筋コウソクのため七二歳の生涯をおえた。氏は世界的な宗教家として、博い人類愛はだれからも尊敬されており、その遺志は死後もなお生きている。集まった香典をもとに、賀川基金をつくって貧しい学生に奨学金を与える遺志がそれだが、生前四十四年間にわたって親交をかわした村島帰之氏が、知られざる賀川豊彦氏の人間愛を語るエピソードを本紙によせた。

 聖書には「あなたのあだを愛しなさい。あなたをにくむ者を愛しなさい。あたたをのろう者を祝しなさい」ということばがある。しかし、自分をかわいがってくれる人を愛することができても、自分をのろい、にくんでいるものをかわいがるなどということは、とてもできるものではない。
この敵をも愛する愛を実行した、一人の日本人を私は知っている。それは、四月二十三日になくなった賀川豊彦先生である。
 賀川先生は今から七十一年前、神戸に生まれた。五歳のとき両親を失い、徳島の義理の母のもとにひきとられたが、少年時代から多感で涙もろいたちだった。
 十四歳の秋、徳島の町にあったアノリカの宣教師マヤス博士のもとで英語の勉強を始めたが、ある夕方、急に悲しくなっですすり泣きをはじめた。と、マヤス博士は黙って賀川先生を戸外へつれだし夕日にむいて立たせていった。「あなたの涙を夕日でかわかしなさい。涙がかわいたら、また勉強をはじめましょう」
 両親のない賀川少年には、このマヤス博士が父のようになつかしく思われた。バイブルクラスにも出席するようになったが、マヤス博士は、少年に聖書の一節(ルカ伝十二章)を英語で暗記させた。「野の花のことを考えてみるがよい。紡ぎもせず、織もしない。しかし栄華をきわめたソロモンでさえこの花ひとつほどにもきかざっていなかった。きょうは野にあって、くださるなら、あなた方にそれ以上よくしてくださらないはずはない」
 賀川少年はこの聖句を暗唱してゆくうち、希望の光がサッと心の中にさしこんでくる思いがした。
 十五歳の年の二月二十一日、賀川少年は洗礼を受け、マヤス博士の指導で神戸の神学校に進んだ。
 貧しい人の友となるには、自分も貧しさの中で生きねばならない――賀川先生がこう語ってこじきやよっぱらい、不良少年やゴロツキの住む街にひっこしていかれたのは、明治四十二年十二月のクリスマス前夜のことだった。
 松井という沖仲仕がいた。松井はあるとき、酒のいきおいで仲間を一人殺した。松井はあるとき、酒のいきおいで仲間を一人殺した。その仲間がゆうれいになって出るといって、松井は昼間から酒をのんでは乱暴を働いたので、だれも相手にしない。しかたなく松井のころがりこんだ先が、賀川先生のところだった。
 先生に接するうち気もおちついたのか、松井は酒をのまないときはしごくまじめになった。先生が夜説教に出るときなどいつも提灯をもって先導し、説教をじゃまするものにはムキになってしかりつけた。ところが、一度酒がはいると手がつけられない。
 松井は、酒がのみたくなると先生や春子夫人にウソをいって金をせびった。しかしそれが酒代になるとわかると先生も夫人も金を与えない。すると松井はあばれだした。ある晩など、笑ってとりあわない懐妊中の夫人の顔をいきなりゲンコツでなぐりつけ、夫人はひたいから血を流した。
 ちょうどいあわせた長谷川という牧師が“もうがまんならん”といって松井をとりおさえ、警察につれていゆうとした。
 それを見ると春子夫人は、長谷川牧師の手をおさえ、血を流しながらもどうかカンニンしてやってと頼んだ。
 「いいえ、いけません。こんな恩知らずは・・・」
 といって長谷川牧師がむりに松井をつれだそうとしていると、奥でこのさわぎをききつけた賀川先生が長谷川牧師にひきとめた。
 「長谷川君、聖書にはなんて書いてある。汝のあだを愛し、のろうものを説し・・とあるのを君は忘れたか」
 そういって牧師の手から松井をひきはなしてやった。
 しかし松井は、その後もいっこうに改心しないで乱暴をつづけていた。しかし先生のところの新ちゃんという看護婦にはけっして手を出さなかった。かつて、背負い投げでイヤというほどたたきつけられたからだ。松井は、弱い人やめったに警察などつきださないとわかっている先生だけにいやがらせをやり、金をせびった。
 あるとき、松井は先生にむかってこんなことをいいだした。
 「毎日二十銭、三十銭とこずかいをせびるのはめんどうだから、まとめて日給にしてくれ」
 なにも働かず、せわになりながら日給をくれ、というのである。先生もさすがにあきれて口をきかずにいると、松井はおこって先生の口のあたりをボクシングの手でなぐった。先生が生前発音がはっきりしなかったのは、このときの松井の一撃で前歯を四枚おられたためであった。
 隠しもったナイフできりつけられたこともあった。
 それでも先生や夫人は、
 「追い出せばよそで乱暴するだろうから」といってそのまませわをつづけられた。まったくキリストの“あだを愛せよ”という愛をそのまま実践したものといえる。
 しかし、そんな松井でも、いつか先生のやさしさがしみこんでいったらしい。
 先生が神戸の労働争議で警察に留置されたとき、留置場のへいの外で暗くなるまで泣きながら「センセイ、センセイ」と賀川先生の名を呼ぶものがいたがそれがほかならぬ松井だった。 


記事の中に収められている賀川豊彦最晩年の写真を再掲して置きます。


            

賀川豊彦の畏友・村島帰之(186)−村島「愛の使徒:賀川豊彦の生涯」

   昭和26年7月15日「世の光」第4号



   病苦をひっさげて神と人類のために今も闘う

   愛の使徒 賀川豊彦の生涯
                        村島帰之


 キリストに近い人

 一九三一年八月カナダのトロント市に聞かれた基督教青年会万国大会の晴れの開会式の式場で六尺豊かな議長ジョン・Rモットは一人の丈の低い東洋人を壇上に紹介してこう叫んだ。世界の四十数か国の代表を前にしでである。
 『現代の世界においで基督に最も近い人を求めよといわれるなら、わたしはこの人を推薦するであろう。日本代表賀川豊彦博士!』
 世界には無数の指導者が存在する。しかもその多くは自身が象牙の塔に居り、もしくは安全地帯を一歩と出ないでいて、巷の民衆を筆先と口先とで指導しようとする。こうした中にすぐれた理論を持ち同時に逞しい実践性を備えて挺身街頭に立って、大衆を率いる指導者賀川博士の存在は、世界の基督者の誇りである。賀川博士こそは、基督を受肉して現代に実践する贖罪愛の行者というべきである。モット博士の言葉はそういった意味に聞かれて式場の一隅に小さくかたまっていた私達、賀川の国―日本の代表は、急に肩身の広くなった様な思いがしたことを覚えている。賀川の十数年にわたる貧民窟での働き、資本家および極右極左労働者を向うに廻しての社会運動、震災その他の非常時における臨機の救急救護事業、軍閥弾圧下の平和運動、そして年久しきにわたって続けられて来た精神運動と社会事業と教育事業等、それらはみな不断の十字架の道であった。この十字架の実践があったればこそ、民族的優越感を持つ外人さえもが「現代における最も基督に近き人」として、この一小島国の指導者を世界の代表者の前に推奨して敢えて憚らなかったのである。ただにモット博士だけではない。世界至る所賀川礼賛の声が聞える。これは内地の人々の予想以上のものがある。特にアメリカでそれが甚だしく彼を迎えて新聞は『光東方より来る!』と大標題をかかげ「ガンジーかカガワか」を論じる。筆者の誇張と思う人があろうが事実はあくまでも事実である。アメリカのハイスクールのテキストには「カガワ、イン、スラム」の一章がのって居り、ロサンゼルスの山手には「カガワ、ストリート」と呼ぶ街さえあるのを筆者は実地に見て来た。今日のアメリカでの声価は往年のトーゴ―、ハヤカワ、ノグチの比ではない。私は一九三一年夏大阪毎日新聞特派員としで、賀川と同道アメリカ各地を歩いた。彼は来る日も来る日も壇上に立ったが、一日に四回、五回の講演が普通になっていた。しかも毎回立錐の余地なき盛会であった。「カガワというのは、一体どんな男だろう」そう思ってアメリカの老若男女は、彼の出演会場や教会へ自動車でかけつける。やがて壇上にあらわれた賀川を見ると、五尺二三寸の倭躯、これは日本人である限り当然だとしても、顔の色も青白く、トラホームの眼をまぶしげにまたたいて、くたびれた流行遅れの服を身にまとう貧しげな肉体の持主、これが世界に喧伝せられるカガワなのか? 彼らは小首をかしげる。だがそれは一瞬間で、やがて賀川はおもむろに口を開き、口ごもりつつも語り進むうち、カガワの倭躯はいつか巨人の姿と変わり、聴衆は恍惚として彼の言葉の虜となる。そして賀川が語り終わった時、聴衆はホッとして異口同音に叫ぶ。「オーワンダフル」

  結核休火山

 外国人は前記の様に屡々「光は当方より来る」の対句としで「賀川かガンジーか」というが、この東方の光が二人ともに旧来の偉人の型を破って、少しもエネルギッシュな所もなく寒々とした貧しき肉体の持主であるのも一奇だ。賀川は、十二才の少年時代から幾度か結核のため死線を彷徨し、その都度ふしぎに癒された、否癒されたと過去のものにしてしまってはならない。彼は還暦を過ざた今日でもひどい無理をすれば病気の再燃を見るのだから、過去完了の「死火山」ではなく、また進行形の「活火山」でもなく、いわば、いつ爆発しないとも限らぬ「休火山」である。
 発病以来今日まで五十年、ふしぎにささえられて来たのは何によるのか。今日の様に結核医学も発達していなかったのだから、治療法がよかったとは偽にもいえない。では病のたちがよかったのだろうか。環境がよかったのだろうか。それもある。又彼が貧民窟で行った自然療法は確かに結核治療に役立ったに違いない。それだけでは決してなかった。私は敢えていう。賀川が「死線を越えた」のは彼の逞しい精神力の賜物であった。彼の信仰が彼の結核を征服したのだ。或る人はいう。『賀川さんの様な人は特別だ、例外だ。賀川さんの病気の癒されたのはあの異常な信仰があったからのことだ』と、確かにその通りである。仮に賀川の足跡を慕って貧民窟に植民する結核青年があったとしても、その病気が賀川と同じ様に貧民窟で軽快するものとはきまっていない。彼の過去五十年採り来った闘病法そのものは、だから誰でもがそのまま踏襲して、それで効果があるというものではない。ただの強き精神力と信仰とが、医薬だけでは癒し難かったので、彼の痼疾を癒したという活きた事実を賀川豊彦闘病五十年の足跡から学び取り、聖書の「汝の信仰汝を癒せり」という言葉の真実な事を悟って各自の闘病の心構えとして身につくべきである。

 <三べん主義> 汽車の窓から人のアタマをふんずけて乗るのが、戦後のエチケットであった。その頃各地の招きに応じて、賀川豊彦の講演行脚がつづけられた。彼はいつも弁当と一緒に携帯用の布製ベンチと便器をもって旅した。それを自分で「三べん主義」と呼んだ。

 筆者は元毎日新聞記者。信仰者として社会運動の闘士として、三十有余年賀川豊彦氏の身辺にある人。近くその快著「賀川豊彦病中闘記」がともしび社より出版される。

(この紙面には「ともしびシリーズ5」として「7月末発刊!」「世紀の人・賀川豊彦先生の血みどろな五十年にわたる闘病記録ついになる! これは正に全世界の病者・弱者に贈る希望と慰励の書である。御期待乞う!」とあって、書名は前記と同じく「賀川豊彦病中闘記」とあるが、実際の書名は「賀川豊彦病中闘史」となって世に出た。)


「カガワ街の標柱の下に立つ賀川氏(右)と村島氏」の写真をもう一度スキャンしておきます。


賀川豊彦の畏友・村島帰之(185)−村島「歓楽の墓」

    

         村島帰之著「歓楽の墓」
        (大正14年、文化生活研究会)

           
          

 
          賀川豊彦の「跋」

 今から、八年前であった。私は、初めて、大阪府知事官邸で村島兄に會った。そして、そのはっきりした句調で、色々面白い貧民窟研究の話をしたのであった。
 その時、村島兄は、既に「ドン底生活」や「生活不安」の著作を次から次へ、新聞に発表して居られてゐた。その筆の冴えた、人間愛に燃えた美しい文章に、私は心より尊敬を払うてゐたが、大正八年頃から、一緒に色々な労働組合の問題に携はるようになって、私は村島兄が、美しい性格の持主であることを知って、宗教の開係を越えて、互に親しくしたのであった。
 然し、その当時、村島兄には、一つの悩みがあった。それはこの美しい文章で書かれてある『歓楽の墓』に記されてある通り、多くの青年の持つ悲しみと、同じ誘惑の手にかかってゐられたのであった。
 元来蒲柳の質である、村島兄は度々病床につかれた。そして、之がまた同兄に取って、福祉のよすがとなった。病床に臥す日が永いだけ、君は神に對する自覚を明瞭に持たるるようになった。そして殆ど半年近くも病床に親しんでゐられる中に、君は全く生れ変わった人となられたのであった。村島兄は嘗て人の悪口なぞ書いたことの無い人である。だから、生れ変わったと云っても、彼の親切とか、同情の点に於て大きな変化を見たと云ふのではない。彼の神と人間に對する態度が、全く変わって来られたのであった。それから後は、私は、同兄の親切を受けるばかりであった。私は兄の親切を御礼云ふ機會のないのを悲しむ位である。私は著作の筆記でもお世話になれば、校正から、事業の経営、曰く何、曰く、何、それは一口では云へない。元来親切な同兄のことだから、神と人間に對する態度の明確になって来られた同兄は、徹底的に私の小さい事業の中心人物のひとりとなってくれられたのであった。私達の事業は小さい仕事である。然し毎月何千圓かなければやって行けない。それ等は凡て私達の出版物の印税と原稿料から来るのである。それをよく知ってゐられる村島兄は、私の病んでゐる日などは、わざわざ私の枕元に来て、私の云ふのを筆記して、一冊に纒めて出して下さったのであった。私の著作『愛の科學』はかうした、村島兄の愛の所産であった。
 村島兄は、その後、今迄の過去を凡て世界に告白して、自分のような低迷の世界に迷うてゐるものに読ませたいと私に告げられて、この『歓楽の募』に筆を染められたのであった。
 だから、この書は村島兄の懺悔録である。それはルソーのそれにも比すべき、何をも欺かざる告白録である。私はこの大謄な告白に對して、村島兄を一層尊敬するものである。君は勇躍して、過去を一蹴し、未来に對する希望と勝利に燃えてゐられる。
 私は、この書物を読んで、魂の勝利を思ふ。これは罪悪よりも救の力の強いことを教へてくれる恩寵の記録である。ビュリタンはこんな告白録を書かないと人は云ふであらう。
 然し、時代は進む。新しい時代には新しい告白がある。そして君は新しい告白を以って新しい神の寶座を贏ち得んとしてゐられるのである。私はその勇ましい姿を見て、同兄の勝利を祈らざるを得ない。
 罪悪に目を蔽ふな! それは現実である。寧ろ、凡ての罪悪を曝け出して、神の日光消毒を受けよう。そして、村島兄はその曝日の勇気を今、示しつつあるのである。
 私達は恭しく、同兄に對して、帽子を取らねばならぬ。

  一九二五・一一・ 一八      
                         賀川豊彦

賀川豊彦の畏友・村島帰之(184)−村島「歓楽の墓」(7)

 「雲の柱」大正14年10月号(第4巻第10号)歓楽の墓(7)

         歓 楽 の 墓 (七)                         村島帰之

 それは私の廿五六才の春の事であった。当時、私は既に約一年間の新聞記者生活を送り、光の巷に出入する事も多かったが、尚辛くも童貞を保ってゐた。それは自分一箇としては潜かに矜りのやうにも感じてゐた。叉友人達にも、その淡い矜りを打ち毀してやらうと企てる好事家はなかった。うぶな男といふよりも、野暮な男として、悪友からは見放されてゐたのであった。
 どうせ一度は、童貞を破る日が来るであらうが、その場合對象となる女は、是非、容貌品格共に卑しからぬ婦人であるやうに。――仮染にも、先輩達が経て来たやうな遊女達によって、尊きものを失ふやうな事のないやうに。――のみならす、更に望しきは、そこには緋鹿の子のやうな彩りのあるローマンスが織りなされて、二つの異性がつひに相寄って一つに混融し、恍惚境に入る事の出来るやうに――。
 かうした願ひを持ち乍ら二十五の春まで辛くも冷たき理性によって持ちつづけて来た私の純潔が、もろくも地上に踏みにじられ、あまつさへ、その瞬間まで持ちつづけて来た對象の女の資格や、ローマンチックな要素の殆んど一つさへ叶へられずに終らうとは、神ならぬ身の、全く思ひもよらぬ事であった。

 ×××大學の先輩Y氏は、当時大隈伯爵が主宰する雑誌『新日本』の大阪支局主任を務めてゐたが、私が彼の依頼で同誌のため寄稿した経済論文に対するお礼をしたいからといって私を誘ひ出しに来た。それは私が新聞記者生活に這入った翌年の春の夕方であった。
 『心斎橋か道頓堀を散歩して、サッパリしたものでも食べませうか』
 さういった後、二人は間もなぐ肩を並べて、帯のやうに細い心斎橋筋の光の中を歩いてゐた。
 私達は鰻谷の角に、古ばけた行燈を出した、汁ばかしを食べさせる家に這入って、一廉の道らしく、幾種類かの汁をすゝった後、道頓堀へ出て、川に臨んだ、生洋菓子のやうな恰好をしたキャバレーズ・パノンに這入った。そこは主として画家の出入するところで、私は見知り越しの頭髪を長く伸した人々を、階段の脇で見掛けたが、お互に路傍の人のやうな顔をして通り過ぎて了った。                              
 『いらつしやいまし』
 胸高に掛けた白いエプロンの下にふっくらともれ上った乳のあたりから上を、心もち斜に曲げて会釈し乍ら、一人の美しい女給が来た。Yが金口を口へもって行くのを見ると、長い振りの袂からマッチを取り出し、無言のまゝ火をすって、Yの口元へ持つて来るのであった。註文を聞いて女が去った跡を見送りつつ、Yは、
 『素敵な美人だね。あんな連中をものにしようとするには暇と根がなくちや駄目だよ。マア少ぐとも一月位は日參するんだね。』
 『そして、それから?』
 『ウン、それから、まァ宝塚あたりへ連れ出すんだね。運動費が可成り要るから、算盤をもってはやれる仕事じゃない』
 『つまり、ものにするまでのプロセスを享楽するんですかネ?』
 『まめ、そんなもんだ』
 短い間ではあるが、その時までに経過して来た私の亨楽の経験は、プロセスを楽しむために、恋を漁る人の心持に或る程度まで同感出来るやうに思はれた。そしてその頃読んだ或る雑誌に、当時の名妓春本萬龍の言葉として『男は口説き落すまでが恋で、女は口説き落されてからが恋だ』とあったのを思ひ出して、彼岸へ達するまでの興味と努力に引きかへ、彼岸へ達した後の興ざめを覚ゆゐ移気な男心にも多少同感する事が出来た。                                
 『つまり、男は気が多いんですね。一生に何遍も恋をして行かうといふんでせう』
 『まあそんなもんだ。若し恋が出来なかったら毎日とっかへ、ひっかへ違った玄人を漁って行くんだね。』
 『変化性の満足ですか。あなたは浮気者ですなア』
 『ハハハさうかも知れない』
 『森田草平の「煤煙」に女が男に向って「ピアノのキーからキーヘと移るやうに、唇から唇へと絶えず動いて行くのが恋か、それとも一つのキーを押へて、たえ入るばかり、その音に聞き恍れるやうに一人の恋人を守るのが恋か、どっちでせう」といふのがあったと記憶しますが、あなたは唇から唇への組ですね』
 『君だってさうでせう』
 『いや、僕にはまだ体験がありませんから・・』
 『では体験に出かけるか』
 『体験ですか、探検ですか、どっちです』
 『両方だらう』
 『ㇵヽヽヽ』

 二人はやがて数杯の洋酒をあふって、善い加減にほてった顔を外気で冷し乍ら、陶然として道頓堀の裏町を歩いてゐた。Yがこれから私を連れて行かうとするのはどこの何といふ家かは判らないが、そこに美しい女の居る家である事は想像に難くなかった。いや、事によると、さっきの冗談を本統にして、『唇から唇へ』の体験をさせてくれようといふのかも知れない――さうも考へられたが、その場合不思議な事には、大なる危険が忍び足で近よって来る事を、はっきりと意識し乍ら、しかもさうした危険から逃れようといふ考への少しも動いて来ない事であった。二十五年の童貞を捧げるのだもの、少くもかうあってほしいといふ條件が、日頃は私の頭に浮んでゐたのに・・・それは余りにイージイゴーイングな気持であった。
どうとでもなれ! どうせ一度はある事だ! 童貞のほこり、そんなものが何だい! ・・・さうした投げやりの心さへ湧くのだった。
 私は不可抗な或る大きな力に引きづられて居るかのやうに、Yのうしろからすなほについて行った。
 今から思ふなら、二人は道頓堀から戎橋筋へ出て、中筋を西へ折れ、所謂芝居裏のお茶屋街を歩いてゐたのであった。
 Yは私がうしろがらついて来るのを知って何の躊躇もなく、ずんずんと大股で先へ進んで、その速度のまま、とある家――貸座敷と書いた軒燈のある――へ這入って行った。私もそれにつづいた。然し、さすがに私の心臓はあわただしぐ鼓動を打ち始めた。恐怖と、好奇心と、そして歎楽の未知境に對する憧憬が、三つ巴になって私のからだ中をのた打ち廻った。
 どうとでもなれ! 断崖に立ったやうな心持が、外面だけの平静を装はせた。
 螺旋形になった梯子――場所を少しでも多く取らせまいためであらう――をトントンと登って行くと、うしろから仲居らしい女が続いて上って来た。
 二階は四つ位の部屋に仕切ってあるらしく、私達が通されたといふよりもズカズカと上り込んだ部屋はその内の一番廣い部屋であった。今から思へばそれは散財部屋であった。                       
 このあたり一帯の茶屋は芸者も這入れば、娼妓も這入る事が出来た。散財部屋といふのは、主として芸者をあげて呑めや唄へやと騒ぐ場合に使用されるもので、無数の小さく仕切った部屋は、専ら娼妓と宿泊する場合に使用せらるゝのであった。
 『別嬪さんをよんまひよか』
 『ウン』
 『お馴染は』
 Yは仲居の言葉を取って、
 『君は此處の娼妓に馴染はないのか』
 果然、予期通り我等は今、娼妓を呼ばうといふのである。私は生れて始めてたほやめの柔肌にふれようといふのである。
 『どうとでもなれ!』といふあきらめの心よりも、最早、その時は、一体どんな女が現れるのだらうとの好奇心の方が先行してゐた。芝居の花道に揚幕の開く音がして、今まさに役者が現れようとしてゐる、それにも似た心のときめきが全身を支配した。
 『そんなら、まかしとくれやすか』
 『ウン委す』
 仲居は女の選定を一任されて階下へ降りて行った。
 『君は未だこんな處へ来た事はなかったんかね』
 『全く始めてです』
 『一概に娼妓といっても、此處のは「まんた」又は「送り込み」といってね、吉原や松島のやうに身賣りしたが最後、落籍されるまでは金輪際、廓の外は愚か、その女郎屋の外へも、検査の時以外は外出の出来ない所謂「寵の鳥」とは違って、一定区画内の往家は自由だし、区画外でも目立たぬ風をすれば滅多な事露見する事もないし、可成り自由なんだ。そしてお茶屋からおへんじが来ると、妓丁に這られて屋形から茶屋へやってぐるんだ。玉もてらしよりは大分上だよ』
 Yの説明を聞いてゐる間も、階下から聞えて来るであらう女の足音に注意して、全身が耳になったかと思へた。

 ああ、女は遂ひに来た。不思議、私の心は却って平静に帰った。遂に来るところまで来たんだ。何、構ふものか、行くところまで行かう。――さうは思ふが、私の顔はほてって、私の前に並んだ筈の女の方には向かなかった。
 『どちらさんをどっちに』
 仲居は、二人来た女のいづれいづれに割り当てるかも迷ふてゐるらしかった。            
 『君、どっちなりと、先に選び給へ』
 『いいえ、あなたが先に』
 私は先輩に譲るといふ意味ではなく、どっちが善いなどと選定する余裕が迚てもの事なかったのでさういった。
 『そんならクジ引きにしまひよ』
 『ざうだ、それが善い』
 仲居はさうした事には馴れてゐるらしぐ、忽ち袂から塵紙を出して二つのクジを作った。女もそれを手傅ってゐるらしかった。
 私は始めてその時、チラと女の横顔を盗み見た。一入は肉体の、百姓くさい女であった。そして一人は梢垢ぬけのした、酌婦タイプの女であった。
 『どうぞ、おひきやしとくれやす』
 仲居が差出した茶ぼんの上のクジを取らうとした私の手はふるへた。
どっちでもいゝとはいった私だったが、どっちかといへば、酌婦型の方に魅力を感じた私だったのに――                      
 『あんたはんは、紫さん』
 私が引きあてたのはお百姓型の方であった。

 読者よ。ゆるして下さい。私は遂にかうした場景を描かねばならぬ順序に立ち至ったのです。今の私にとって、之等の事を追懐する事は如何に忍びがたき苦しみであり、恥辱であるかは大体御想像下さる事と思ひます。然し、歓楽の墓を立てるためには、醜いものをも一度は白日の下に曝さねばならぬのです。いつはらず、あるがまゝの事実を、あるがままに記すためには茲暫く皆さんの御寛恕を願はねばならぬのです。
 ああ、私の筆は渋ります。 

 『君、もう帰らうか』
 突然、壁隣りからYの聾が聞えた。此處へ来てから、最早二時間はたったであらう。
 二つの部屋を仕切った壁の中央上部に圓形の窓を抜いて、そこに五燭光位の電燈が両方の部屋を照してゐる。部屋は三畳敷であるが、それでも置床があって、その上に花鳥の軸がかゝってゐる。
 『まだ、よろしうおますがな』
 女は押し止めるやうにいった。そして蒲團の上に寝そべったまゝで、枕許の煙草盆の火を移して、さもうまさうに巻煙草を吸ふた。紫の煙が、暗い狭い部屋に立ち舞ふて、電燈の光の中を陽炎の如くかすめる。
 嘗て芝居で見、ものゝ本で見た遊女屋のロマンチツクなムードがどこにあらう。だらしなく腹這ひになった女の肩から足へかけて、なだらかな曲線が流れてはゐても、それは美しいといふよりも、淫らなものだった。只、びらうどのやうな肌の触感だけが、甘ぐ快いものとしていつまでも私の官能に残ってゐた。それとモウ一つは、
 『今どきの書生さんで、二十五の年までおなごはんを知らん人がおまっかいな』
 と、私の童貞を信じなかった女の言葉と――。あとは凡べて地獄の鬼にくれてやりたいやうな、はづかしい事のみであった。それどころか、あいての女それ自身に對して言ふべからざる嫌悪の情が湧いた。
 『こんな女に、俺の真珠をくれてやったのか』
 先刻、惜しくもないと思った童貞が、今更になって惜しく思はれ出した。
 『どうでしたね』
 Yが皮肉に訊くのに對し、『予期したやうな感激と歓喜がなかった』といはうとしたが、笑はれさうに思へて、引込めて了つた。
自分も到頭男になったのか、ナアーンだ、つまらない。恐れと喜びとの中に待ち設けたものが、永い間、少しでも遅くと延して来たものが、ああこんな没趣味な中に済んで了ったのか――
 期待が大きかったためであらうが、それはどっちかといへば幻滅に近かつた。
 やっぱし僕等はプロセスを楽しんでゐる方が善いんだ。彼岸に泳ぎついて得たものは只だ疲労があるのみだ――
 宵にパノンでYと話した言葉が、また思ひ返されるのだった。
 私達二人は、互ひに違った事を考へ乍ら、道頓堀の人ごみの中を、涼しい顔をして歩いて行った。まるで教会の戻りのやうな態度で。


        ♯          ♯


「雲の柱」大正14年11月号の巻末には、以下の言葉が収めれた。

       「歓楽の墓」 打切の言葉
 恥づかしい思ひをし乍ら、前号まで告白を続けて来た時、わが「歓楽の墓」は思はざる障碍に打突かった。それは私の告白が、「あるがまゝの事実をあるがまゝに」と願ひつつ筆を進ませたために、その描寫が余りに露骨に過ぎ、その筋から御注意を受けた事である。それで賀川主筆および福永重勝氏と協議の結果、本稿は前回限りで打切る事に決した。
然し、歓楽の墓は土台石だけ出来てそれで放棄すべきものではない。私が新しい第一歩を踏み出すためにも、此の墓だけは完成したい願ひに満たされゐる。賀川主筆及び福永重勝兄もロを揃へて「今茲で筆を折るのは惜しい。此種のものは嘗て誰も試みた事のないものだ。是非完成するが善い。そして単行本にして出すが善い。』と勧めてくれるのであった。
 私は今、娼婦研究の稿を起こしているのだが、それは横断的の研究であるに反し、「歓楽の墓」は、一人の遊蕩児が経験して来た倫落の世界を、縦断的に研究したものである。横断的研究を発表する前に、まづ一人の放蕩児を解剖台に乗せて研究した結果を世の中に送って置く事も穴勝無意義ではない――そう考へた私は一度打折らうとした歓楽の墓の建築を継続する事に決心した。福永大兄は是非このクリスマスまでに世の中へ送り出したいと言はれる。私もそのつもりで、今セッセと筆を運ばせてゐる。自省心のない男が魔道へ陥ちて行く経路、頽廃の倫落世界の模様を引統き愛読してやらうといふ篤志家は、どうかそれを見て頂きたい。私は祈りの中に、今も筆を運ばせてゐる。
                    村 島 帰 之