賀川豊彦の畏友・村島帰之(183)−村島「歓楽の墓」(6)

  「雲の柱」大正14年9月号(第4巻第9号)歓楽の墓(6)

            歓楽の墓(六)                          村島帰之

 たとへ或る点において幻滅はあっても、芸者を女王とする歓楽の王國は、若い男にとって、どこよりもなつかしく、慕わしい場所であった。機曾を待ち望む者に、機會はしげしげと来た。私はその一つすら取逃す事をしなかった。
 私は次第に多くの芸者の名を覚えた。爪のやうに小さい名刺の幾枚かが宴會毎に私の名刺入の奥深く仕舞はれた。
 『また近い内に、よんでくれやすやな。きっとだっせ』
 返り際に芸妓からダメを押されて、自分は善い気持になってゐた。そして、私は早くも何人かの馴染芸者を持つやうになった。馴染といってもまだ性的の交際かある詳ではなく、数回の面識と、或程度の友愛を持つに過ぎないのであった。その馴染芸者に對しては、私の名で『合ひ状』が用ひられるやうになった。
 合ひ状といふのは左の如き雛形のものであった。

  △△様(客の名)ゆへに
     一寸なりともお越し待入り候
              何々(貸座敷の名)
  何々席
   何 某(芸者の名)様

 右の合状はお茶やのお茶子によって席(検番の如きもの、各御茶屋からの芸者の招聘をを受付け、各芸者に通づる處)に運ばれ、更に席の男衆(妓丁)によってその芸者の屋形(前者の住所)に齎らされる。然し若しその芸者が既に他の座敷に聘せられてゐた場合には、その合状は更にその座敷へまで運ばれるのである。
 合状を受取った芸者は、差出人の名を見て、さして行きたくもないと思へば、その儘合ひ状を懐中に突込んで黙殺して了ふのである。之に反し、その合ひ状の主が、現在勤めてゐる座敷の客よりも、より望しい客であると考へる場合には、客及びその茶屋の女将なり、仲居なりに頼んで、合ひ状の差出人の方へ行くのである。此場合、さきの客は妓が勝手に早く座を立ったのにも拘らず予め定められた花代は少しも値引されないが、他方、合ひ状を出して他の座敷から妓を奪った客は、花代の外にその女冥加の課税として『貰ひ花』(呼出花)といふ一種の歩増(日本)を課せられるのである。つまり妓は二重の花代を取得する訳である。そこに狡猾な花代制度がある。
 勿論、さきの客は、他の客からの貰ひを許してやらなければならぬといふ法はないが、歓楽の王國の道徳は、そうした場合、目をつぶって妓の要求を聞いてやるのを以てお客の度胸とし、之を無碍に拒むものを野暮として擯斥するのである。内心、野暮で妓を離したくなくても、廓の道徳に従って、怨みを呑んで妓を他の座敷へやるのを承知しなければならぬ事は、大部分の客にとっては何よりの苦痛であらねばならない。
 尤も、その座敷に待べる芸者の教が少くて、今、中座されては座が白けるといふ場合などには、女将や仲居が、そこは巧みに釆配をふるふて、貰ひに応じさせるといふやうな事をしない。そうした場合、「合ひ状」はその効用を発しないが、差出人に對しては『誰さんは耳です』との返答が行く。即ち、『あなたの事はあの芸妓の耳に入れてありります』の意味に外ならない。
 芸妓は酒間を斡旋し、技芸は演じて花代を労働者である。一厘でも多ぐ稼いで、一日も早く借金を返さねばならない身である。従って一日廿四時間を廿四時間として花を賣ってゐては迚ても借金の足が抜けない。茲においてか、廿四時間を三十時間、四十時間にも賣る事を考へるのである。
 大阪附近の花代制度は「仕切り花」制度で、廿四時間を廿四分して平均に一時間を幾許と定める許りでなく、「朝から昼」「昼より暮」「暮よりりん(十一時半)」「書夜通し」「明し(十一時半より翌朝まで)」と、一日を三つ四つに仕切って、それぞれ異った花代をきめてゐるのである。殆んど需要のない朝から昼までの数時間の花代は僅か九本、(一本二本といふのは、昔、花代を線香一本燃える毎に幾許と勘定した名残りで、花代の単価を示す物である。今日一本の花代は十五銭である)に過ぎないが、暮れからりんまでの数時間は、時間としては却って前者より短いが、客の立てこむ時間なので三十本といふ高い花代を払はねばならぬのである。つまり、花代制度は、客の弱点につけこんで需要の多い時間に高き花代を徴し、需要の少い時間に安い花代を徴してゐるのである。
 芸者は此の仕切り制度を巧みに悪用し、甲の座敷で、暮からりんまでの約束で仕切つておいて、中途から「貰ひ」のかゝった乙へ出かける。そして乙から、その時間以後の花代に「貰ひ花」五本を添へてとる。更に乙との約束の時間の尽きない内に、又もや丙へ貰はれて、同様の花代を稼ぐ。かくして一夜五六時間を、狡猾な妓は十数時間に活用するのである。殊に午後十一時半からの明し花といふのは、たとへ三十分でも明し花十四本を徴収する定めになってゐるので、賢い妓は、午後十一時半以後に数軒に明し花を賣って、腕のない妓が十四本の花代を得てゐる時、その妓は之に数倍する花代を稼ぐのである。
 『あたし、今日は明し花を四はい賣ったワ』といふ妓があったらその妓は午後十一時半以後の時間を四倍に活用して五十本近くの花代を稼いだ妓である。こうして二重、三重に花代を取得する事を「おどらす」といって、妓の腕のあるなしは此處でも明かに現れる訳である。
 私は合ひ状を出して馴染の妓が今に来るか来るかと待つてゐた。階下の格子のあく毎に、小胸をとどろかせてゐたが、いつも他の座敷へそれて了った。その時、その妓は屹度他の座敷で淫(ざ)れ唄でも唄ひながら、笑ひさんざめいてゐるのに違ひなかった。私の送った合ひ状は鼻紙と一緒にふところに突込んだまゝ――
 けれども、そこは廓である。心の中では、じれったさに舌鼓の百萬遍を打ってはゐても、表面は、そんな芸者がゐたかしらんといふやうな顔をしてゐなければならなかった。
 終りまで忍ぶものは救はるべし。待ってゐた彼女は遂ひに来た。『早やう来とおましたんやけど、ねえちやんが、いなしてくれやはらしまへんだんねヮ……』
 白々しく弁解し乍ら傍らに座って
 『ながい事来てくれやはらしまへんでしたナ』
 と、さも思ひに耐え兼ねてゐたやうな口吻をもらすのであった。
 『ウン、つい忙しいものだからね』
 私は彼女の言葉の真偽を疑うやうな余裕は毛頭なく、只だ相見る事の出来た悦びに、幸福に酔ふてゐた。
 こうして歓楽王國の住民に、表裏の二枚舌があっても、その國の光と彩りと匂と媚に眩惑されてゐる身には、それを識別する余裕の持合せすらなかった。
 此時分も、私は未だ童貞を保ってゐた。盎惑的な芸妓に直面しても、私はまだ恥しさの方が先行した。妓の視線と私の視線が合ふ時でも、あはてゝ視線を外すのは妓でなくて私であった。
 然るに、私が廿五年間、持ちこたへて来た童貞を破る日が家た。それはホンの機會であった。私が希望したといふよりは、見えぬ手に引づられて行ったのであった。私はいよいよ恥づかしい「遊女行」に筆を移さねばならなくなった。

賀川豊彦の畏友・村島帰之(182)−村島「歓楽の墓」(5)

  「雲の柱」大正14年8月号(第4巻第8号)歓楽の墓(5)

          歓 楽 の 墓(五)
                            村島帰之

 周囲に女の友達を持ってゐなかった当時の私としては、芸著と話が出来るといふ事だけで、お茶屋遊びは、此上もない歓ばしいものに思はれた。その事以外、異性と歓談する機会は、滅多に与へられない自分である事を知ってゐたからである。
 かてゝ加へて、私の目に映った芸者といふ芸者は、凡べて眉目美しく、気高き女性であった。一筋のおくれ毛もないまでに綺麗に結上げた黒髪、手を触るれば、曇るであらうと思はれるほど、クッキリと白いかんばせ、絢爛の晴着、わけても燦然たる金糸のぬいの幅太帯、それに、裾をこぼれる燃えるやうな緋の蹴出し、――若し夫れ膝をにじらせ乍ら、自分の方へ近寄って来るなら、男の官能を狂はせん許りになつかしい指粉の香と、香水の匂が五臓六腑に浸みわたって、若き男の心はなやましさと、やるせなさに溶け出すかと思はれた。
 私は、只だ異性と話を交へる喜びを再び持ちたいといふだけの望みから、ひたすら後の機會を待ち望んでゐた。
 然し、機会の来るのには、余り日数は要らなかった。私の勤務する××新聞社の忘年會が催されて、私は胸に行進序曲を奏し乍ら、大股で料亭堺卯の門を潜った。
 型の如く宴會は初まったが、私を特に喜ばせた事は、さきに北新地の料亭の宴会で見知り越しの芸妓の顔が一人ならす、数人見えた事であった。それで、私は打寛いで、その妓たちから酌を受ける事が出来た。
 舞ひが始まった。老妓の地に合せて、愛らしい二人の舞妓が振袖を翻しつつ、かろがろと舞った。美しい曲線を描いて体を交はす時、脊からながながと垂れた緋のダラリの帯が、夢のやうに揺めいて、金のぬい糸が、電光に反射して光るのだった。あらかじめ配布された宴会のプログラムによって、その中の一人が当時の名妓富田屋八千代の妹芸者小八千代である事が判った。
 一さし舞ひ終へて、再び酒間の斡旋に戻って来た小八千代が、思ひがけなくも私の前へ坐って『どうぞ』と酒瓶を向けた。
『ありがたう……』 私は光栄に胸を躍らせ乍ら盃を出した。そして一息に呑み干した後、何と愛想の言葉を掛けて善いかと思ひ惑ふてゐた。然し、その心配は無用だった。馴染でもない客の前で、一刻も停止してゐる小八千代ではなかった。彼女は光栄に打ちおのゝいてゐる野暮天の前をツと立って、他へ移って行った。私は掌中の玉を失ったやうに暫くは呆然としてゐた。

 宴會が果てたのは、かれこれ十時過ぎであったらう。私の心はまだ宴席の夢を追ふてゐて、只だ独り自分をまってゐてくれるであらう母の居ますわが家へは向かなかった。
 『君! どうです。呑み直しませんか。』
 堺卯の大玄関を離れて、石畳の上を歩いてゐる時、背後から肩をたゝかれたので振向くと、同じ部のT君がニコニコし乍ら立ってゐた。
 『結構ですね。行きませう』
 オスカーワイルドの小説の中に『誘惑に對して私共の探るべき態度は只だ一つしかない。それはその誘惑に応づるといふ事である』とあったのを思ひ出して、言下にその勧誘に応じた。                              
 二人は間もなく、ある家の二階、小ぢんまりとした部屋に丸い煊徳火鉢を中央にして相對坐してゐる二人を見出した。そこは南地の中筋、春の家と呼ばるゝ貸座敷であった。
 貸座敷といふのは、東京の待合と同じやうに、遊客のために座敷を提供し、酒をすゝめその望むところの料理を他から取寄せ、又芸妓を聘して興を添へしむる家であった。二流以下の貸座敷では、娼妓をも聘する事が出来る制度になってゐた。之れは南地(新町の一部にもあるが)の特色で、そこには居稼店制度の娼妓でなぐ、送り込みと呼ばれて、貸座敷からの招聘に応じ、娼妓がその置屋から、貸座敷へ出掛けて行く制度がひかれてゐたのである。(送り込みについては後段に述べる)
 『お馴染さんは?』 仲居が、顔を出した。芸者を招聘するについて、馴染があるなら、その妓を呼ばうといふのである。
 『今日宴會に来た連中は?』
 『イヤ、あれは皆お約束芸者だから、こんな處へは来やしないよ。あれは君、あゝ見えても皆一流株だぜ』
 なるほど、そう言はれて見ると、宴會に出た芸妓の名は、赤新聞の廓通信などで散見する名であった。曩(さき)に北新地の宴會で見た顔が、堺卯の宴會ても見受けたといふのも、畢竟、彼女達が一流芸者で、そうした宴會か、特別の座敷でない限りはザラには出ない優秀な階級に属するものであったからである。
 お約束芸者といふのは、予め何日の何時から何處へ来てくれと、約束されて出て来るもので、臨時に、行き当りばったりに招聘される連中と区別するために、そう呼れるので、花代(招聘した時間に對して支彿ふ金)も普通の花代(線香代ともいふ)以外に、約束花と稀して幾分の割培を出す規則になってゐる。
 私は約束花の制度を聞いて、私達があの美しい芸妓達には、宴會ならでは會へない身である事を知って失望した。
 『資本主義社會の土に芽生えた美しい毒草だ。園主以外、貧乏なプ口レタリヤに手も触れさせぬやうにしてあるのに何の不思議もない!』 私は心でそう思った。
 あくまで華かに、そしてあくまで自由な歓楽王國だと思ってゐた私の幻想は、茲でまづ第一に破れた。
 幻滅の悲哀! それは美人さへも、特権階級が壟断して、一般民衆をして垣間見る事をも許さぬ事であった。
 私はその夜遅くわが家に戻って末て、次のやうな或想文を書いた。

 考へでも見給へ、現代の令夫人、淑女なるものが夫を撰ぶに当って標準とする處は果して何であるかといふ事を。結婚に必要な条件は両者間の愛情の有無であるべきである。然るに愛情の有無の如きは毫も之れを問はず、一に財産、二収入、三に位置を云々するのではないか。一厘でも多くの金を待った男にその身を賣り、その娘を嫁がしめんとするのではないか、愛情を財産に代えて販賣する事は、賣笑婦と何の選ぶところがあらうぞ。
 併し之は絶えず生活の不安に襲はれてゐる現代の男女としては、寔(まこと)に止むを得ざるものとして尚恕すべしとするも、遂に黙するに忍びざるものは、中流以下の家庭に生れた女の婚姻である。
 京都は古来美人の産地として知られてゐる。之れは加茂川の水が京女の肌をなめらかにするにも依るだらうが、夫れよりももっと大きな原因がある。
 夫れは京郁が永く帝都の地となってゐて、日本の権力が此處に集中してゐたといふ一事である。
 凡そ権力の集中する處、天下の鋭才はマグネットに吸引さるる鉄粉の如く此処に集るは自然の理である。求むる者は権勢を振翳して之を求め、求めらるゝ者は栄達を望んで之れに応ずるからである。
 美人とても然うである。京の文武百官は天下の美人を自己の膝下に呼集めんとして努力し、地方の美人は栄達を求めて召に応じて此處に馳せ參するのであった。
 艶麗を京の花と競ふた小野の小町の如きも秋田の在の女であったが、その召に応じて入洛した一人である。
 斯く京には天下の美人が集った。その子孫に眉目美しき女の生れるのも素より当然である。
 換言すれば、京に美人多きは、全く往昔権力に依って美人の集中を行ふた結果である。
 美人を集め得た京は美しさを増するが出来たらうが、みじめなのは美人を引抜かれた地方である。評判娘や小町娘を都に浚はれて、残るは醜い女のみである。
 此の美人集中の傾向は今日においても尚依然として変りがない。
 読者、若し試みに貴顕紳士の家にその妻女を訪れ、更にその足を以て貧民街に山の神の面相を拝見するならば、読者の思ひ、蓋し半に過ぐるものがあるであらう。
 言ふまでもなぐ貧家の娘中眉目美しきものは、或は芸妓となり、或はお妾となって上流の側女として引上げられるが為めに、下層社会は愈々美人の沸底を告げ、上流は美人を独占するに至るのである。
 美人を引抜かれ、その妻として、その母としてしこめのみを残された下層社会の男女こそ惨目である。
 併し悲惨なものは必しも此の青年のみではない。
 上流に引抜かれて行った女とても亦惨目なものなる事を記憶せねばならぬ。彼は身に綺羅を飾り喰ふに好き嫌ひを云為し、出づるにも、ヤレ自働車よヤレ俥よと騒がれるが一歩その裏面に這入って見れば、更に幻滅の悲哀を感せざるを得ないのではあるまいか。
 富の集中のみが、社會問題ではない。

賀川豊彦の畏友・村島帰之(181)−村島「歓楽の墓」(4)

   「雲の柱」大正14年6月号(第4巻第6号)歓楽の墓(4)

           歓 楽 の 墓(四)
                         村島帰之

 たとへば、女湯でも覗くやうな、好奇心から出発した私の「探険」は、浅草界隈から、更に長駆して新吉原にまで延びた。
 大火前で、吉原はまだ「張見世」であった。(張見世といふのは、燃えるやうな緋の長儒絆の上へ、辷り落ちさうに裲襠を軽ぐ羽織った娼妓が、太い格子の篏った青楼の見世先に、ズラリと並んで、腐肉を望んで飛び込んで来る嫖客もがなと待ち受けてゐるものである)
 多くの浮れ男は、あっちの格子、こっちの格子に、いもりの如くくっいて、まるで小女がショーウィンドーの商品に見恍れる時のやうに、あれでもない、これでもないと飢えた獣のやうな瞳を動すのであった。中には娼妓から「吸いつけ烟草」を貰って、柄のながい烟管から烟を輪に吹いて嬉しがってゐる者もあった。
 まだ場慣れもせす、度胸の出来てゐない私は、好奇心が偉駄天の如く先走るに反し、肝腎のからだは妓楼の前に立ちすぐんで、格子近く進む事さへ、ためらはれるのだった。

 大火後、新吉原は「張見世」を廃止した。それは張見世が余りに人権を蹂躙してゐるといふ理由からであった。そして大火直後の一時は、バーの如きものが妓楼の附属として出来て、嫖客はそのバーで酒盃を重ねてゐる内に、酌人(娼妓)の中から敵娼を物色して、登楼するといふ制度を布いた事もあったが、そうした七面倒臭い制度は悦ばれず、間もなぐ廃って、その次には今の「寫真」制度が行れるやうになった。説明するまでもなく、従来の娼妓自身が張見世をする代りに、その寫真を額縁に入れて店頭に飾り、嫖客の敵娼選択に便するものである。
 張見世が寫真に代ってからは、人権蹂躙は緩和されたが、廓の情緒は全く冷えで了った。絢爛目を奪ふやうな、張見世の美しさは、最早見る事が出来なくなった。
 張見世時代には、所謂ぞめきと稀して、男の骨の髄までも溶かせて了ひさうな廓の情緒に惹かされて、素見(ひやかし)に出かける手合も多かったが、寫真になってからは、目的を持つ者以外は、そう多く出かけないやうになった。
 私の「探険」も寫真以後は勢ひその熱心さを減退した。寫真では性の満足と悦びが得られぬからである。私の所謂「探険」は茲で暇面を脱いだ詳である。

 之れより先き、私は大正三年――大學を出て大阪へ来た。その頃、大阪では未だ「張見世」制度が残ってゐた。大阪では「張見世」の事を「てらし」といった。(警察用語では「居稼店」と書いて「てらし」と読まれた)
 然し、最早大道に面して見世を張る事は禁じられてゐて、雛壇の内裏のやうに並んでゐる女を見やうためには、妓楼の暖廉を潜って這入らねばならなくなってゐた。暖廉を潜って中に這入ると、表通りと直角をなして見世が作られてゐて、嫖客は土間のたゝきに立って、格子越して娼妓の顔を見る事が出来た。
 私は屡々「ひやかし」に出かけた。さすがに一人では、暖廉を掲げて中に這入る勇気が出なかったが、友達と一緒の時には、群衆心理に力を得て勇敢に驀進して行った。それでも、多くはよその人の這入って行く尻からついて行く事が多かった。
 暖廉の傍らには引き子がついてゐて、『遊んでおゆきやす』と勧めた。東京では男の妓夫太郎が、『チョイトチョイと先生、いかがです。遊んでゐらっしやい。浩然の気をお養ひなさい』などと勧誘したが、大阪では、月経の閉正した老婆の引子が、執拗く袖を引いた。
 真白く塗った顔を、更らにふところ鏡に寫し乍ら、お白粉をぬってゐる娼妓の肥り肉に、紅い唇に心を惹かされてゐる時、突如引手の婆さんに『マア、上んなはれ!』と袖を引張られて、私はハッと我に返って鉄砲玉のやうに暖廉の外に飛出す事があった。
 或時はそのために袖口を裂かれた事もあった。或時はハズミで婆さんを引倒し、「婆さんをころばす人がおますかい」と怒鳴られた事もあった。
 私は此のひやかしに依って、込み上げて来る情熱を幾分か冷やしてゐた。それは私にとって怖れであると共に、いゝ知れぬ悦びであり、はかなき満足であった。
 何十軒かの遊女屋の暖廉を潜って、名状すべからざる哀成を胸に抱き、華かな回想をつづけ乍ら家に戻って来た私は、可成りの疲れを感ずるのが常であったが、その哀愁と疲れとを歌にして、日記の端に記した。

 すはるるがごと、群衆にまじりて遊女屋を、ひやかしおれどこゝろおそるゝ
遊女屋をのぞきあるきて何を見し、ただあさましき我れを見しかな
遊女屋をぞめきあるきて片袖を裂かれて来しはわれなりしかな
 彼の遊女ひとゝひとしく生きてあり、生きんがためのけものなりしか
斯うした、まづい歌を作ってゐた頃は無事であった。私は間もなくその遊女屋のきだはしを何の躊躇もなく駈け上るやうになった。

 私は大正四年春、大阪xx新聞社の経済部に入社した。その時私は満二十三歳で、編輯局の社員中では最年少者であった。私は入社すると早々、三品市場と、棉花と綿糸と紡績とを受持たせられて、日々、三品取引所と仲買人と、紡績聯合會と、日本棉花と三井物産の棉花部とを廻って、その日その日の市況を聞いて来ては、慣れぬ雑報を書いた。『昨場軟弱の機先、米棉高を入れて気強く立會ひ、何々の煎れに……』などゝ相場の市況も書いた。
 日々言葉を交へるのは、屋外にあっては多くは商人――殊に相場に手を出してゐる人々であった。
 『一辺、一緒に呑みまひょか』とお愛想をいふ仲買人もあった。でも、 『仲買人に余りに個人的に深くなっては、利用されるから』と先輩に教えられてゐた私は、ついに一度もその勧誘に応じなかった。
 その内、毎年恒例の日本棉花の記者招待曾が北新地の某おちややで開れた。私は生れて初めておちややの敷居を股ぐ事になった。
 尤も、芸妓の斡旋する席へ出るのが之が最初といふのではなかった。學校の卒業間際あたり、クラス會などにも芸妓が来た。叉××新聞社に入社する二三日前、同社々長の園遊會に招かれて、当時大阪一の名妓として謳はれた富田屋八千代からビールの酌を受けた事もあった。然しそれ等はクラス會若くは園遊會の余興であって、遊興を主たる目的として併業してゐるおちややの敷居を股ぐ事は、木吶漢で通って来た私としては破天荒の事でなければならなかった。
 眉毛を落した仲居が背後から来て『お羽織を預からして頂きまっさ』と聾をかけたのからしてどぎもを抜かれた。案内されて設けの席へ行くと、緞子の座蒲團と、それと同数の脇息が順序善く配列されてゐて、既に主客の大半は座についてゐた。
 新聞社の格式で定められた席次によって、私は床の間を背にして第二位の上座についた。と待ち兼ねてゐたやうに、配膳が初まった。裾ながに晴着を着た美妓が、黒塗の膳を目七分にさゝげ、紅の裾裏のついた裾を引き乍らしづしづと膳を配んで来る。面映ゆくて女の顔を正視し得ぬ私は、一足ごとにその白い足に右左と調子善くまつはりつく裾の曲線に見とれ、裾さばきの都度、足下にこぽれ出る緋の蹴出しに胸をおどらしてゐるのだった。
 配膳の終ると共に、忽ち十数名の芸妓が、それぞれ自瓶を指先につまんで現れた。言ふまでもない、酒が初まるのだ。
『お酌をさして頂きます』『モウ一杯お干しやすな』・・・・とぼれるやうな愛嬌を見せ乍ら、片手で袂をおさえて、徳利を手にした華奢な片手を延して肉薄して来る。
 私は酒を好まない。只だ酔ふために強いて呑むのだった。私は盃を重ねる事数杯ならすして、顔面は夕焼のやうな血色を呈した。外の客はと見れば感興の頂点にあるものゝ如く宴は正に酣である。某黄色新聞社の社長は、某妓に三味を携へさせ一緒に床の間に登り、脇息を椅子にして、浄瑠璃を唄ってゐる。某記者は一妓を擁して卑狼な話を声高くやってゐる。凡べてが私には初めて展開された未知境であった。
 宴會は軈て終りを告げた。女達に送られ乍ら数名の者と一緒に戸外に出ると、『君行かう。行かなけりや絶交だぞ』 仲の善い某社の記者が私の肩に靠れかゝつていった。『俺の宿坊へ行て呑み直そう』日本棉花の一幹部が合槌を打った『よかろよかろ』と一同は一議に及ばず賛成した。
 二次會は同じ北新地の「平鹿」といふ一流のお茶屋であった。酒豪達は又もや盃の数を重ねた。その時、私は胸に高く波打つ心臓の鼓動を聞き乍ら、柱に靠れて酒豪達の愉快振いを観照してゐるのであった。
 『あなたは、えらいあきまへんねな』 余り酒を嗜まぬらしい一妓が、歓楽の渦巻の中心から離れて私の傍へ寄って来た。私はうれしく彼女を迎へた。そして彼女を少しでも長く傍に置くために、彼女を悦ばす話題もがなと考へた。私は「北新地」にかこつけて、天満屋お初その他の近松心中物の実説について話した。
 『三勝手七酒屋の段といふけれど、半七の商賣は本統は豆腐屋だったんだ。だから、元来なら三勝半七豆腐屋の段といふのが本統なんだぜえ』  『そやかて、豆腐屋やと、あんまり色気がおまへんがなあ――』
 あいては話に乗って来た。『〆めた』と思って私はなほ調子に乗って話しつづけた。
 『そっちではえらいむもしろい話が始まってるやうやな』
 Hが向ふから声をかける。
 『ㇵア、面白いお話だんね。心中の……』
 あいての芸妓が代って返事をした。

 酒は呑まなくても、芸妓を相手に無駄話をしてゐる事によって、私の心は喜びに躍った。女が面白さうに、叉或時は真顔になって話に聞きとれる時、私は幸福の頂点にあった。
 皆が酔ひどれて、平鹿の門口に出た時私も満足と喜びを胸に抱いて、外に立ってゐた。
 『叉お近い内に・・』と仲居の声。
 『叉、面白い話を聞かしとくれやすや……』と芸者の声
 私はうしろを振向き乍ら、軽く帽子を振った。
  

賀川豊彦の畏友・村島帰之(180)−村島「歓楽の墓」(3)

  「雲の柱」大正14年5月号(第4巻第5号)歓楽の墓(3)

          歓 楽 の 墓 (三)
                          村島帰之

    千 束 町 素 見
 今や話題を、周回の人々から、私自身の上に移さねばならなくなった。
 私が遊里に足を踏み入れたのは、後に説ぐ如く、學生生活へ終え、腰辨生活に這入ってから後の事であるが、これ以前、研究的態度(実は好奇心から出発するのだが、それを合理化するために、強いてそうした態度を採ったものである)で、その遊里の輪廓を恐る恐る視察しに行った事は一再にして止まらなかった。
 大正元年頃、未だ學生であった私は、浅草千束町の私娼窟を視察した、その際の視察記がが今も手許に残って居る。それは斯麼な事が記述されてゐる。

 日永の春の一日がとぷり暮れて、六区一帯の活動寫真館のイルミネーションが、往来の人の眼に痛く映る時、二人は喧騒な音、執拠い匂、あくどい彩、夫れ等に咽んだ戦場のやうな世界と、背中合せになった暗い街を歩いてゐた。
 物狂はしう響く活動寫真街の騒音が、街一つ隔てゝ向ふから夢のやうに響いて来る。
 「チョイト、寄ってらっしゃいな」「チョイとチョイと、袴のお方ッてば」
 狭い道を挾んで両側に立並んだ長屋には、屋号を書いた電燈がしょんぼりと軒に光っでゐる許りで、入口と隣合せの竹の格子窓に、硝子障子がはまって、その硝子の向ふに黒く女の顔が見えた。「チュツ」「チュツ」と鼠啼きがその内から聞えて来る。
 「此處は未だ何でもないのさ、十二階下が猛烈なんだ」
 二人は肩を並べて歩いた。
 二千近くの若い女が毎晩毎晩此處で浅猿しい男の醜悪の歓楽の犠牲となって媚を賣り肉を鬻いでゐる。夫れがみんな「冷たい鉱物」を得んとしての努力だ――、私はそう思って歩いた。友は何を考へてゐるのか黙々として歩いてゐた。
 十二階下の路次は、狭いが上に暗くて、入口の格子を開けて半身を外ににぢり出してゐる女さへあった。
 「アラ××大學のお方チョイト、話があるんだからサ、爰までいらっしやいなってば、チョイト」
 白粉の顔が軒燈の灯に映えて四辺の闇の色からくっきりと浮き出た。  「中々美人が居るね」と前に商人風が云って行ぐと「アラ、中折のお二方、入らっしやいな、よをツ」と肉聾が直ぐその後を追ふた。
 紳士も行く、學生も来る、印袢纏が追越して行く、鳥打、中折、山高が暗い中に蠢動してゐる、格子先に突立ッて女と話合ってゐる商人風も居た。
 「お髭の旦那、アラ、チョイㇳ」
 「萬世橋のお方、入らっしゃいな」
 「アラ、やうすの善い方、来てくれれば善いのにねえ」
 「チョイト、すまして行く先生」
 「何時かの方じゃなくって、チョイトお遊びなさいよ、ネ、チョイト、袴のお方ッてば」
 まるで小學校の運動場のやうにかしましい中を縫ふて行った。
 「つけてあげませうよ、ねえ、チョイト」
 友が莨(たばこ)の火を点け悩んでゐるのを見て、をう呼止めたのは十五六位の女の聾だった。
 「仲が善いのねえ、嫉けるヮ」
 二人が肩を並べて行くのを、そういったのもあった。「もろきものよ、女とは汝が綽名じゃ」 ハムレットの詞が遂ひ口に出る。
 「全くだ」 友は力強い調子で之に和した。
 「噫、現実暴露の悲哀!」
 二人が暗い路次から明るい往来へ出ると、不図交番所の赤い電球が眼に映った。
 「−−」 二人は期せずして同時に深い吐息をついた。――

 当時(明治四十五年――大正元年頃)は千束町の全盛時代であった。その頃の浅草の魔窟は、今日ほど北へ移らず、観音堂の周囲を取り巻いてゐた。そして五区の「御堂裏」と六区の「活動裏」は銘酒屋、千束町の「十二階下」は新聞縦覧所といふ看板を掲げて、軒燈影淡きところ、猿臂を延ばしては、漂客を引っぱり込んでゐた。いふまでもなく、軒燈に記した文字に「銘酒屋」と「新聞縦覧所」の差はあっても、いづれも同じ腐肉を賣る淫賣屋に相違はない。
 当時所轄象潟警察署の調査に依ると、ここには左の如く約二千の私娼が巣食ってゐたのであった。

        淫賣屋数        淫賣婦数
  御堂裏   九十軒         百三十五人
  活動裏   百六十三軒       三百五十七人
  千束町   六百二十二軒      千二百人
   計    八百七十五軒      千六百九十二人

 勿論、此の数字は極めて内輪の数で、事実は遥かに多数に上ったであらう事は想像するに難くない。而も此の二千の美人が、夕さり来れば美しく化粧して待受けてゐて、「萬事お手軽」に、餓虎のやうな男の要求を満たしてやるといふのだから、浅草は、夜毎千客萬来押すな押すなの繁昌であった。
 私は今、浅草の私娼窟を形容するに「萬事お手軽」の冠句を以てした。事実、まことに然うであるのだ。
 信ずべき筋の調査では、そこでは「ちょんの間」と「泊込」と「遠出」と「しき」の三方法があって、「ちょんの間」は短い時間に簡便に用を辨じるもので、之に要する金は当時にあって約一圓。「泊り込み」はその名の如く泊り込むもので当時約二圓、「遠出」は向島の安待合あたりへ出かけるもので、夜の十時過ぎから、翌朝までに少くも四圓は取る(待合の席料、酒肴科は別)、「しき」は場末の安宿、素人宿などへ連れ込むもので約二圓といふ相場であった。右の中、「遠出」は収入は多いが、ドンドン(警官の不意の臨検)の懸念から、女には余り歓ばれず、短時間に要領を得る「チョンの間」が却って重宝がられるのである。そして彼等は一夜少くとも三四人の客を取るのだから、私娼二千として、夜毎一萬に近い男が、甘きに寄る蟻のやうに集って来て、憐むべき女を弄ぶ勘定であった。
 その後「浅草」には幾多の変遷が来た。或時は徹底的撲滅策が講じられた。然しそれは俎上の蠅を追ふに均しく、いつかは又元の殷盛を見るのであった。
 私は前にも記した如く、浅草の淫賣屋の外廓を視察した事は屡々であった。然し親しく登楼した経験は一度も持たなかった。只だ一度だけ、友人Tと共に、「お茶を呑んで帰らう」といふ申合せで、淫賣屋のきだはしを登った事があった。淫賣屋の制度の一つに、何等性的行為なしに、只だ女をあいてに、茶を呑み乍ら、暫くの間、浮世話をして、二十銭乃至五十銭のお茶代を置いて帰って来る制度のあるのを知ってゐたからである。
 然るに此の一生一代の私の大冒険は、つひに大團圓を告げる以前に壊れて了った。それは当局の取締だ、一時如何に彼等の上に巌重に及んでゐたかを証明するところの一挿話である。私は当時(大正九年)その際の事を、林歌子さんに宛てゝ某雑誌に次の如く記してゐる。

 林歌子女史――
 ものに戦のく赤い官能、張り裂けさうな胸の鼓動を眤と押へ乍ら、物怖ぢの瞳を四辺に瞠って縫れあう群衆の中を縫ふて行くと、光明と音楽、匂と媚のハーモニカをなした六区の活動寫真街の裏手あたりから、所謂曖昧屋の街燈がチラホラと見へるのでした。
 そうです、全くくチラホラと見える許りでした。数年前に視察した経験を持ってゐる私は、今度もその時同様に、数十軒、数百軒の曖昧屋が軒を並べ、数千の白首が、まるで雀の囀るやうに呼立てる事を期待して居たのです。それが什うした事でせう。成るほど曖昧屋は昔通り軒を並べては居りますが、その大部分はガラン堂の空家で、軒燈の灯のなまめかしさも見えず、宛るで死骸のやうな姿を見せてゐやうとは、そしてその間に一二軒の曖昧屋がチラホラと灯をつけてゐるのでした。
 夫れも勤工場あたりを歩いてゐる時のやうに、両側の硝子窓に女の居るのが見えますが、呼声一り立てはしないのです。外からからかう人があっても、女は黙々として端座してゐるのであります。或者は俯向いて雑誌の小説を読んでゐました。又或者は火鉢にひじをかけ乍ら物思はしげに灰に字を書いてゐました。斯くして彼等は腐肉の需用者もがなと待ってゐるのです。

 林歌子女史――
 私はその日帝國議曾の記者溜りで斯麼話を聞いたのでした。六区裏へ行って茶だけを飲んで戻って来れば二十銭の茶代で済むといふ事を。私は勇気を鼓舞して、どこか一軒曖昧屋に這入る事に決心したのであります。
 私は成るべく初心らしい女もがなと物色しました。夫れは海千山千の女に引っかゝればどんな事になる知れやしないと思ったからです。
 私の希望してゐたやうな女が約一時間の視察に依って、漸と一人見出す事が出来ました。そこには年の頃は未だ十六七の少女が、面羞ゆげに俯向いてゐるのが、小さな硝子障子の間から見えたのでした。私は華巌の瀧へでも飛込むやうな気持でその家の中へ這入って行きました。

 林歌子女史――
 華厳の瀧に飛込む人は凡べて絶望の淵に立った人許りであります。此處に『華厳の瀧に飛込むやうな気持で』と記しましたものゝ、私は絶望して飛込むのではありませんでした。そこには私の嘗て見た事のない未知境が錦檜のやうに私の前に展開されるのだ。――そういふ希望と期待と及びロマンチックな想像を持って飛込むだのであります。謂はば希望に満ちた冒険であったのであります。
 『お茶を飲まして下さいね』
 私は道々考へた未、漸と考へ出した冒頭の言葉を切出しました。私の胸では行進序曲が鳴り出してゐます。
 『どうぞお二階へ』
 少女は少しも燥いだやうな調子はひく、極めて沈痛な句調で申しました。私はやをら下駄をぬいで階段を上らうとしたのであります。恰度その時……

 婦人矯風會長林歌子女史
 茲まで筆を運ばせて来て、私は不図之をお読み下さるあなたの心中に思ひ至るのでありました。
 私が私娼の敷居を跨いだ、その次の瞬間に現はれて来る場景を、あなたは現はれぬ先から忌み嫌ってゐらっしゃるに違ひございますまい。私が夫れを描寫するのを喜んでは居られまいかとも考へられます。然るに事は意外にもあなたの御希望を裏切る事なしに進んだのであります。私は胸に抱いてゐた希望を滅茶滅茶に粉砕されて、華巌の巌頭に立つ青年のやうに絶望して了ったのであります。

 林歌子女史−―
 私が階段を上らうとした恰度その時、私に続いて上って来やうとした女は突如として私を引止めました。
 『お気の毒ですがおりて下さいまし』
 私は怪冴な顔をして女の顔を見ました。怪冴な眼と、驚怖の眼とがピッタリと視線を結び付けました。私は階段の半に立った儘、反問致しました。
 『どうしたってんだ』
 『警察がやかましいものですから』
 女の言ふ只だ夫れ丈けの言葉では私には少しも事情が了解されませんでした。で善く女に反問して見ました。そして夫れに對する女の答へは私を失望させました。叉喜ばせもしました。女の答は斯ういふのでありました。
 此頃は警察では私娼撲滅の方針を執ってゐて隨分と過酷な布令を出します。併し如何に過酷でも之に反抗する事は出来ないので小さくなってゐるのですが、最近に至っては更に斯ういふ達示を出しました。制帽を破った學生を登楼させてはならぬ事苟も袴をはいてゐる者は一切登らせてはならぬ事、――
 『若し之れに叛かうものなら、直ぐさま営業停止になんですよ。』
 『でも内々あげりや分かりやしまい』
 『どうしまして、刑事さんがしよっちう巡回してるですもの……』

 林歌子女史
 私は斯くして折角の冒険もその一歩を踏出した許りで挫折して了ったのであります。私はその時、マントの下に袴をはいてゐたのでありました。戸外に立ってゐた時には、夜隠で女の気付かなかった袴が、階段へ上りかけて、あわてゝ断りを言ったのでありました。
 何といふ物堅い娼婦達でせう。いいえさうではありません、物堅いといふのは警察の取締の事です。
 実際象潟暑が斯かる英断を執るやうになってから、六区は滅ッきりと寂びれて、以前は一夜五六人の客を取った流行妓が、今ではお茶を引く事も珍しくないといふ事です。淫賣屋の老舗料なぞも以前は五百圓、千圓といふ箆棒な値段を呼んでゐたのに、今日では二百圓に下って買手は皆無だと申すのです。象潟署の取締は茲に成功したと申さねばなりません。

 かくて、私の大冒険は木ッ葉微塵となった。私はその後、その失敗を取り返す機會を持たなかった。今後も永久にそれを持たぬであらう。

賀川豊彦の畏友・村島帰之(179)−村島「歓楽の墓」(2)

  「雲の柱」大正14年4月号(第4巻第4号)歓楽の墓(前承)

          歓 楽 の 墓(承前)
                         村島帰之

 斯うして、周園の人々は、いづれも土曜の夜の安息所を持ってゐたが、その中に、只だ一人私は土曜の夜を下宿の部屋で守ってゐた。
 廓下に出ると、いつも各部屋の障子際に一足づゝの上草履の脱いであるのが、その夜に限って一足も見当らぬ時など、何となくうらかなしい心地がするのであった。そうした時、鬱散じに、友を訪ねやうとして外出すると、友も居らす、二三の友の宿を訪ね廻っても、いづれも留守で、ガッカリして宿に婦って家る時もあった。
 吉原の大火はその頃であった。私はその夜、神田青年曾館で三宅雪嶺博士の太平洋問題の講演を聞いてゐた。博士は『昔、彰義隊の、戦争、の時、福沢諭吉、先生は、静に、論語を、講じた。今、吉原、の、大火を、よそに、三宅は、太平洋問題の、講演を、する』と、吶り乍ら講演した。
 恰度その時刻であったらう。△大學の寄宿舎へ、焼出された娼妓が、馴染の學生を訪ねて避難して来たのは。
 素より大學寄宿舎に、暇令一時でも娼妓を匿う事出来ぬ事は知れた事だが、無智な女は、そんな事を考へずに、ただ一番頼み甲斐ある『大學の書生さん』を頼って来たのであらう。
學生の「もてる」事は非常なものであったらしく、なじみ女が立替へてくれる事を予想して、空財布の儘、出かけて行く者も少くなかった。        ’
 そうした男が、女から受取る手紙には、きまったやうに『早く泥足を洗って、あなたの妻になりたい』と記してあった。彼女達の此の儚い望みの何パーセントが叶ふた事であらう。
 芸者遊びをする者は、遊女買をするものほど多くはなかった。某文豪の甥に当るMは、始終神楽坂に通ふた。試験中、待合から通ふてゐた事もあった。
 支那留學生の李は赤坂芸者にあつくなってゐた。私の下宿の隣りが、李の下宿であったが、その芸者が李を誘ひ出しに来たのを見受けた事もあった。
 李は金持の倅であった。彼はNの下宿で、私達と一緒に呑んだ時(私はその頃から少しく酒を呑み出してゐた)李は「磯ぶし」を踊った。
 「日本の歌の中で、私は磯ぶしが一番よいと思ひます」 李は仲々の芸人であった。
 その後、李は赤坂芸者を落籍し、一戸を借り受けて同棲してゐた。李は、女をまるで狆でも飼ってゐるかのやうに愛した。来客の前で、女の頬をついて見たり、あごを撫ぜて見たりした。
 「およしなさいよ、見っともない!」 女に叱られると、李は笑ひ乍ら頭を敲れた猫のやうに、ぢいっと手を引いた。同胞の女がそうした翫弄品扱ひされるのを見ると、堅い一方の私は、一種異様な國民主義が台頭して、鉄拳でも見舞ひたい昂奮を覚えるのであった。
 然し、李の妾は、永くは、李の翫弄品になってはゐなかった。或日、李は悲しさうに私に語った。
 『女逃げました。自分のキモノと私の貴重品を持って……』
 私は彼をあはれむと共に、それが当然の帰結のやうにも思はれ、叉、ざまア見ろといふ気持さへ心の底に湧いた。
 こうして外、娼妓なり、芸妓なりをあいてとする以外に、下宿屋の娘、下女、ビャホールの女及び他家の妻と私通する者もあった。
 私の最も親しい級友であったHは、中學時代から既に或る未亡人と関係を結び、ゴーチン(後家さんの稚児の謂)といふ綽名さへあったほどの天才であったが、下宿を移る毎に、そこの娘なり、女中なりと通じた。そして最後に一下宿の娘から「懐妊したがどうしてくれる」と持ち込まれた時、「私一人が、對手ではない」とて、膠なく謝絶して了った。
 娘はその後、Hと同宿の或る文科學生に引取られて宿の妻になった。
 私の下宿にゐた八重ちゃんといふ女中は、一支那留學生と恋に陥ったが、男が転居した時、半日、その空間になった男の元の部屋で泣いてゐた。
 そうした果報な支那留學生がゐるかと思へば、或る留學生は、夜陰、女中部屋に忍び込んで木枕で欧られたといふ話もあった。
 私はモウ之れ以上書く事をやめる。兎に角、こうした中に、私が童貞をつづけ得た事が、私自身においてさへ、不思議だとする事を、首肯して貰へば善いのだ。
 百人内外のタラスメートの中で、童貞のものは一割にも足りなかったであらう事を、読者も同感してくれられると思ふ。                  
 或友と友とは『村島を引っぱり出さうじやないか。若し引ぱり出せたら遊興費は俺が出す』とさへ言ったそうである。その友などは、忌しい病ひさへ罹ってゐた。
 女にもしまほしい柔しい顔をしたAは『痔が悪いので入院してゐる』といってゐたが、あとから同じ病院へ、花柳病の治療に入院したKによって、それが痔でなかった事が曝露された事もあった。
 Kは再度睪丸炎を患って、最早妻帯しても、こどもを作る可能性を奪れてゐるのである。Kは九州の或地主の息であった。彼は卒業して帰ってから結婚したが、Kの妻は今も、それを知らす、母となる日を待ってゐるのかも知れない。
 それはKに限った事ではなかった。私は花柳病の病院に何人の友人を見舞ったか知れない。
 今は△爵として羽振をきかしてゐるSも、鶏姦から麻毒を受けて入院してゐた。前におこなった者が、有毒者であったためである。
 試験場にびっこを引き乍ら来る學生も見受けた。平常なら休んで療養するのだが試験のためそれもならす、押して出かけて来るのであった。
 之等の級友から見れば、清浄無垢な私達は愚かな、ホンのこどもに見えた事であらう。
 私は彼等が、遊廓に、待合に遊ぶ時、おでん屋あたりへ出かけるのが関の山であった。私は大正二年の「世界之日本」に、こんな事を書いてゐる。


     江戸名物 おでんの趣味

 師走は来りぬ。新春踵いで来らんとす。吾れに一銭の借銭も無ければ鬼、門に来らず。一厘の貸金もあらざれば懸取りの面倒無し。炬燵して発句するも可なり。側に美酒あらば更に妙也。
 雖然、吾れに酒温むる妻君なく、肴買ひに行く下女なし。まして況んや読書三昧夜二更に及び腹に空虚を覚ゆるあるに至りては、豈夫れ啻だ徒らに唾液を嘸下するのみにして之れを怺ゆるを得べけんや。
 寒月雲より出で、行人の影法師地に印して明かに、下駄の音高く寒室に冴え返る大路の夜、吾れは四辻のおでん屋に立つの趣味を解す。
 熱き爛酒あり須らく飲むべし。酒の肴を求めんか。おでんあり、豆腐あり、半平あり、すじも甘し、しんじよ亦た更らに妙也。而して空腹の良薬に茶飯ありて、そのうまきことうまきこと、蓋し紳士淑女の夢寐にだも味ひ得ざるところなるべし。
 山盛りにもった茶腕の威勢の善き、温きめしの煙の快さ、更に、煮出したる茶の匂のかんばしさよ。山の巓辺におでんを添へて掻込めは、腹の蟲の立所に鎮まること、寧ろ事の奇蹟に属す。
 おでんのその舌触りの善さ、がんもどきに浸みたる汁のうまさ、ほんのりと焦げたる豆腐の香しさ、之れに添ふる山葵あらば、風味蒋に宇内に冠絶せん乎。
 おでん屋は、纔(わず)かに残されたる江戸名物のなごりなり。吉原のおでん屋の盛んなること、昔も今も変わる事無し、遊冶郎は茲に燗酒をあふり蹣跚蹌跟として妓楼を階段を登る。
 本郷の一高屋は、各の如く夜毎に集う白線帽の一高生多ぐ、彼等は茲に酒抜きのおでんを喰うて腹を作り、デカンションを高唱して本郷街に横行闊歩す。城北早稲田の近在にも多くのおでん屋あり。就中神楽坂上のおでん屋は最も美味也。されど独り三田には多くのレストランととカッフェーあれど未だ一軒のおでん屋を見ず。可惜三田の健児、此の美味なる御芋の煮えたをお存じ無き也。
 おでんと記したる行燈は、出来得る限り古きが善し、新しき紙に彩あるが如きは以ての外也。箸も右手につまむ二本棒より、左右何れなりとも青竹の一本棒が善し。要は技巧を加へざるにあり、あらけづりなるにある也。主人は若きよりも年老えるがよし、問はるればぼつりぼつりと若かりりし頃のお惚気を話すやうならば愈々出でて愈々可也。
 お芝居の戻りさ、偖ては風呂からの帰途、暗く燻れる行燈の下、大いなる銅鍋に沸々とおでんの煮立てるを目堵する時は、吾れは遂ひに之れを看過するを得ざる也。
 冬は愈々寒からんとし、おでんは愈々そのうまきを加へんとす。吁、世に不幸なる事、此の趣味を解せざるより甚だしきはあらざるべし。


 茲には記されてゐないが、八幡屋には桑ちゃんと呼ぶ愛らしい十五六の娘がゐた。桑ちゃんは私達が、障子をあけて這入って行くと、『アラまあ』と嬉しさうに、細い目を更らに細くして迎へてくれた。それが一年たっかたゝぬ内に向ひの天ぷらの親爺に誘惑されてすっかり様子が変わって了った。                
 私達が幾月ぶりかで行ぐと、安物の香水を匂はせ乍ら、迫るやうに接近しで来るのだった。
 然しそれも暫し、彼女の姿はいつか八幡屋の店先から消えて了った。
 私も軈て學校を出て、金釦を背廣に代える日が来た。誘惑の日が近づいて来た。

賀川豊彦の畏友・村島帰之(178)−村島「歓楽の墓」(1)

  「雲の柱」大正14年3月号(第4巻第3号)への寄稿分です。

          歓 楽 の 墓 (一)                        村島帰之 

    は し が き
 或人は、これを一つの『小説』として読むかも知れない。叉或人は、これを一つの『懺悔録』として見るかも知れない。更らに或人は、これを一人の遊蕩児について、縦断的に研究した社會問題の『報告書』として受取るかも知れない。然し、読み方、受取り方は、読者の心に委せる。筆者は啻だ純なる心持をもって、あからさまに、あるがまゝの事実を、あるがまゝに記すまでの事である。
 小説にしては、余りに「筋」の変化がなさすぎるであらう。懺悔録にしては、余りに敬虔さが乏しいでもらう。叉報告書としては、余りに記述が散漫に過ぎるであう。然し、筆者の態度は、最初から、小説の「誇張」と、懺悔録の「詠嘆」と、報告書の「生硬」を避けて、専ら、偽らず、一人の遊蕩見の経て来った淫蕩なる生活を、描き出さうとしたまでである。
筆者は今、過去の生活を悔いてゐる。その心持から言へば、この一巻は懺悔録ともなるであらう。叉、筆者が今、茲に筆を執るに当って、女の唇から唇へと渡って行ぐ遊蕩児の生活と、ブルジュアー社會の産物として生れた買淫の実相を、能ふ限り、正直に、詳細に、そして適切に記述するに努めた。その態度から言へば、この一巻は、社會問題の報告書として受取らるべきものであるかも知れない。
  然し、そうした詮索は姑く措筆者は、人生報告者としての立場と、報告者的良心に基いて、この一巻を成すと共に、空の空なる過去の淫蕩生活に、今、最期のサヨナラを告げる。
 これは、脱ぎ捨つるところの古き破衣である、と同時に、過去の自分を葬る墓表である。筆者は白き墓碑を茲に建てて、一切の過去の私にサヨナラを告げ、新しき生命に這入る。
 この一巷は、筆者が地球の一角に、のこすところの、我楽の墓である。

     一 學生時代

 『性的衝動は、野生の象を馴す突針よりも鋭く、焔よりも熱い。それは、恰度、人間の魂に射込まれた矢に似て居る』――
 その強烈は、性的衝動を、臆病の上に立った自制心と、冷たい智慧に依って、辛くも節制し得た學生時代を顧みる時、私は今において、寧ろ、それを不思議とする。それほど、当時の私の周囲には誘惑が満ち、淫蕩な空気が漲って居たからである。
 後に述ぶる如く、後年、私が加速度を以て、驀地に、歓楽の世界へ突進して行ったのも、畢竟、此の淫蕩な學生生活の中にあって、終始、性的節制を保つを得た、その反動とも解すべきである。
 当時――大正二年頃――某雑誌は、學生堕落の実情を報告する為めに、特別号を発行したが、その中に於て、△大學々生中、全く異性を知らざる者の極めて少きを指摘し、更に進んで、未だ花柳病に罹らざる者の数が、罹れる者よりも遥かに少数である事を記して世人を驚かした。然し、迂遠な世人は兎も角、実情を知悉する者にとっては、それは決して単なるヂャーナリストの誇張とは思はれなかった。
 思ひを、十数年前の、金釦と角帽の自分及びその周囲に運ぶ。――
 中學校を卒へて、△大學に入學すると共に、私は、生れて始めて雨親の膝下を離れ、下宿生活に這入った。それは戸塚の穴八幡から戸山ヶ原に通づる並木道に面した古い二階建の下宿で、三十名近くの大學生が止宿して居た。私がその止宿者中の最年少者であった事は言ふまでもない。その時、私は十九歳、まだ筒つぽを着て學校へ通ってゐた。「筒つぼの大學生」は△大學でも、廣島から家てゐた△と、そして私の、僅か二名であった。
 下宿の客は全部△大學の學生であった。
 ○といふ梅暦の丹治郎を思はせるやうな、にやけた文科生は、『太陽』の懸賞小説に当選して百圓の賞金を得たが、『俺が当選してゐるのを知って、一人位ひは女が訪ねて来さうなものだが。――女子大の奴等は一体何をしてるんだらう』と、まじめに冴かってゐた。
 今は××座の名優として、舞台にも、叉スクリーンにも、その名を謳れてゐるA君も当時、私の向側の部屋に陣取って、アントニオの台詞などを坪内博士の口吻を真似て喋舌ってゐたかと思ふと、折柄廊下を歩いて来た稲公――十四歳位の少女――を掴へて、いたづらをし始めたらしく、稲公がキャッキャッと廊下を逃げ廻ってゐるのを聞ぐ事などが屡々あった。
 叉、Eと呼ぶ眉のキリッとした理工科生の部屋には、下宿の娘の花ちゃんが、たへずいりひたってゐた。花ちゃんは、今ならば、キネマの女優にしたらと思はれるやうな、顔の道具が大きくて、輪廓の極めてはっきりした美人であった。Eと花ちゃんの特別な友情は、両親を始め下宿人、雇人の公認するところであった。下女の話では、Eが物持の忰なので、胴慾な親爺やおかみが、寧ろ花子の尻を押してゐるのだともいはれてゐた。
 然し、此の『公認』は程度問題で、花ちゃんが他の客から言ひつかった用事や、お膳の運搬を半途にして、Eの部屋へ這入って了った時など、嫉妬まじりで、憤激する、衣肝に至り、袖腕に至る政治科生もあった。Eはそのために、下宿でも全く無援孤立の有様であったが、花ちゃんが懐妊したのを動機に、程遠からぬところへ別の世帯を持って了った。
 女中は二三人づゝゐたが、絶えず顔がかわってゐた。多くは桂庵から送られて来た、下宿向きの「海千山千」であった。彼女達は、家庭離れて始めて下宿生活に這った私には、傍で見開きしてゐてさへ面映ゆい事を、平気でしたり、言ったりしてゐた。それが叉下宿人たちにば歓ばれてゐる様子であった。
 或る女中は、夜、用事に来たついでに、ランプの下で予習をしてゐる私の傍らへ、すれすれに坐り込んで話かけた。そうした時、当時未だホンのこどもであった私は、ギョツとして思はず此方から体を引いたものだ。すると女は『あなたはまじめね』とあざけるやうな言葉を残して、そそくさと、出て行くのだった。
 私がその下宿に這入って、半年もたった頃であった。おみつといふ盎惑的の女中が雇はれて来た。下宿人の眼は、おみつの前に異様に光った。彼女はいつも白いものを塗ってゐた。そして、各所の部屋で、彼女と學生とがいたづらをしては、金切聾をあげたり、どたばたと暴れる音の聞える事が多くなった。
 或日、此の下宿に来てから最初に友人になったSが、私の部屋へ来て、出しぬけに
 『――君。君の机の曳出しに、おみつの寫真か這入ってやしないか』
 『いーや、なんにも』
 私は怪訝な顔をしてSの顔を見た。
 『フーン、可笑しいなア』 Sは首をかしげ乍ら、
 『実はね、おみつが僕の机の曳出しへ寫真を入れて置きあがったんだよ。』
 『それは素敵だね』 私は半ば嘲笑的に、半ばはねたましく言った。Sは笑ひ乍ら
 『ところがネ、僕んとこだけじゃないんだ。Aのとこへも、Oのとこへも、それからNところへも……』
 『フーン』 私は自分一人除外された事の当然さを思ひ乍らも、なほ、取残された淡  いかあさと、妬ましさを感せずにはゐられなかった。
 『彼奴は淫賣じゃないかい』 私は皮肉な調子で訊いた。
 『どうも、そうらしいんだ。一番のTの部屋なんぞには、時々泊り込むらしい』
 Tといふのは商科の學生で、モウ三十近くの髭の濃い肥えた男であった。私などが全くの小僧ッ児扱ひをされてゐたは勿論、AもSもOも、皆Tの前には存在を認められず、誰れ一人口をきいたものもなかった。只だ彼の部屋へ三日にあげず、あだつぼい酌婦風の女が訪ねて来ては、泊って行く時もあるらしい事が、若い下宿人のロの端にのぼってゐた許りである。
 おみつは下宿人からクヰーンの如く持囃されるやうになった。
 然し、そのクヰーンの在る日は極ぐ僅かで、間もなく、彼女のその白い顔が、卒然として消えて了った。
 『思はしい獲物にぶつからなかったからだらう』とSはそう解釈を下した。
 私は、こうした中で約一年を過した。芝属の立見などに行って、十二時過ぎに戻って来る事はあっても、外泊する事はついぞなかった。
 『――さんは全くまじめだ。交際するならあゝいふ風な人としなさい』と、下宿の親爺はSにそういった事もあったさうだ。
 然し、それは私がまじめであるといふよりも、寧ろ私の周囲があまりに不真面目すぎたのであった。
 その頃早稲田界隈には多くの淫賣屋があった。學校の東手、目白へ通づる道の両側に並んだ曖昧屋――「料理」などと看板はかけてあっても、内側に料理屋らしき何物を認める事の出来ない家――がそれであった。鶴巻町の横町にもあった。戸塚村にもあった。そこに「淫賣屋」の暖廉がなくとも、あぐどい色彩に包まれた、それでゐてどことなく抜けたやうなところのある女性が、時間遅れに朝風呂?へ行くのを、見受けたりなどする事によって、明かにそれと感付かれるのであった。
 芝居の立見の戻りに『ちょいと』と闇の中から囁かれて、仰天して大跨で歩いて帰った事もあった。
 友人Tと、ダラウンドヘ野球を見に行って帰途、學校裏門前のしもたやから出て家た女が、Tの顔を見るや『アラ』と声をかけやうとして、Tから目くばせをされ、あわてゝロを被ふた光景なとが――Tは今もって、私がそれに気付いた事を知らぬであらうが――思ひ出される。
 淫賣屋に馴染のあったのはT許りではない。聖人らしい顔をしてゐるクラスメートの中にも、ひそかに通ふ者があるらしかった。その事は、恰度はその頃起った「淫賣退治」運動で判明した。私は勿論、淫賣退治の勇士の、その幕下の一人であった。『どこの淫賣屋の瓦斯燈を壊した』などと前夜の快挙を教室で手柄顔に物語ってゐる時、『おすこは此頃始めた許りさ』とか『あすこは二人しか女がゐない』などと、淫賣屋の内容を知悉してゐる事を、問はず語りに白状して了ったからである。
 淫賣退治運動は効を奏して、数百の白首が、一時早稲田界隈から姿を消した。然し淫賣屋の絶滅は、決して學生の風紀を革新するには至らなかった。なぜならば、淫賣屋の客となる學生の数は、全遊蕩學生の凡べてでなく、寧しろその一小部分であったからである。
 遊蕩学生の多くは新宿、洲崎、吉原の遊郭に通ふた。そして少数の者が、神楽坂、富士見町の待合に通ふた。
 『今日は土曜日だが、生憎五圓がねえや』――と呟くのは、遊廓行を志しても、金の持合せのないために、怨みを呑む學生である。五圓といふのは、大正二年頃の一回の登桜費であった。
 『いきなり敵娼(あいかた)に五圓札を渡しとくと、その中から帰りの電車賃だけを引いて、残り丈けで遊ばしてくれるんだ。學生さんは大持てさ。』と、得意に話して聞かしたのは、私が最初の下宿から、グラウンド前の三層楼に引越した頃、その下宿の前の素人家にゐたNであった。Nは土曜の夜は殆んど宿にゐなかった。言ふまでもない。五圓札を握って洲崎へ走ったのである。
 その頃、私はまだ遊廓へ足一歩も踏入れた事はなかったが、柳浪の「今戸心中」を始め紅葉、眉山、風葉及び梢々新しいところでは荷風、泡鳴などの小説から、遊廓の輪廓丈けは教えられてゐたので、Nの話も最早遠い夢の國の物語ほどには思はなかつた。
 私はNに頼まれて、得意の美文まじりで、女への手紙の代筆をしてやった事もあった。叉敵娼から、古い和歌を贈られて返歌に因ってゐるNのために『君がり行くに羽根なからずや』などゝいふ歌を書き与へた事もあった。
 Nとその敵娼とは深い馴染らしく、Nと彼女の定紋を金で焼き込んだ湯呑茶椀が贈られて来たのを見せられた事もあった。Nが秋のボートレースで獲ち得たメタルを、簪(かんざし)の頭に作りかへてやるのだといって家の主婦さんに頼んでゐるのを聞いた事もあった。
 Nの同宿のTも、屡々Nと行を共にするらしかった。或時Tの國元から、父親が来るといふので、TとNが私のとこへ書物を借りに来た事があった。
 『どうして本が要るんだい』と訊くと
 『親爺には度々本代を無心してあるんで、少し本を並べて置く必要があるんだ。それでなるべぐ偉らそうに見える本を十冊許り貸してくれ給へ。親爺が帰ったら直ぐ返すから』
 言ふまでもない、Tの本代は、洲崎で費消されたのである。
 同じくクラスメートのFの處へは『妹よ』といふ手紙が屡々来た。 
 『妹はいくつだい』
 『フフ、十六だ、七だ』
 Fの答へは曖昧だった。私の第六感はその頃、モクそれに對して疑ひを狭み得るほどまで、発達してゐた。表を返して見ると、消印はFの郷里の大阪ではなくて、「新宿」としてあった。
 『妹に會ふのは五圓札がいるんたろ』
 私は誇らしげに皮肉った。
                (つづく)

賀川豊彦の畏友・村島帰之(177)−村島「バラックの留守番から」

  「雲の柱」大正14年新年号(第4巻第1号)への寄稿分です。

        バラックの留守番から
                           村島帰之

 バラックのあるじ、賀川先生は十一月廿五日、横浜解纜の春洋丸で『世界舌栗毛』の旅に出発されました。之れより先き、イエスにある兄弟姉妹は、是非、先生の鹿島立ちをお祝ひするために送別會を催すんだと言って敦圍いて居ましたが、先生は「仕事の範囲を、鳥渡、太平洋の向ふまで延長するだけの事だから、送別會などと、事改った催しはして貰ひたくない」と辞退されました。叉廿三日の日曜の早天礼拝に、石田友治氏の司會で、先生の送別祈祷會を開きました時も、先生は「私のために祈る事をやめで下さい。それよりも、私の行く先き先きの国とその国民のために祈って下さい。アメリカのために、独逸のために、印度のために………」と申されました。読者諸兄姉もどうぞ祈りの末に、先生の言葉を覚えて居て下さい。

 先生の御不在中も、先生がおいでになると同様、凡べてのプログラムは運ばれて行って居ます。本所基督教青年會は木立義道兄や山本牧師などで、華美ではなく、しっくりと、落ちつきのある善い働きをして下さってゐますし、麹町教會は山田牧師が王となって働かれてゐる外に、時々は賀川先生の学友中山昌樹氏(ダンテ研究家として有名な)が応援説教をして下さってゐます。神田基督教青年會における毎日曜の早天礼拝も、賀川先生御出発後、集りが少くなりましたけれど「聞くだけ」の基督者が淘汰されて、ロの言葉、心の思ひ、身体の行ひ凡てが神の前に悦ばるる、真の基督者のみの集りになったので、却って恵まれてゐます。イエスの友會の後藤安太郎兄や馬淵康彦兄や、菊地千歳姉、それに石田友治先生がその集りの中心である事は申すまでもありません。

 賀川先生からの通信は、十二月四日ホノルル発、十九日内地着で第一信があリましたが、お元気のやうでうれしく思ひます。『今日から五日間の講演が始まります』と、お元気な先生の御様子が偲ばれます。大阪毎日新聞へ「太平洋の唄」といふ通信を送られたそうで、之から続々同紙を通じて、先生の御便りが聞けると思ひます。

 「雲の柱」は、先生不在中も決して休刊は致しません。先生が書き残して行かれたものや、御講演を筆記したものが沢山ありますので、それで十分やって行ける確信があります。

 『雲の柱』は従来、発効日が定まらなかったのと、廣告をしないのとで、発行部数が二千に達せず、「天下の賀川」の雑誌としては余り少な過ぎます。然し、今仮に現在の読者が、三人宛の読者を新たに作って下さるとすれば忽ち六千部出る事になります。『雲の柱』の読者を殖す事は、決して書肆を賑はすといふだけではなく、霊の糧を、より多くの人に頒つ事になるのてすから、此際みなさんに御協力を願って、先生の御帰朝の頃までには、一萬以上の発行数を持ちたいと願って居ります。尚近頃は一般の書店に出さないやうになってゐますから、御購読の御註文は直接警醒社へして頂ければ幸ひであります。

 歳末の忙しい中を、本務の傍ら編輯しましたので、本号は頗る貧弱なもになりましたが、二月からは屹度立派なものをお目にかけます。では二月をお待ち下さいませ。「村島」


 (次回より、大正14年3月号より「雲の柱」で連載になる村島帰之の懺悔録「歓楽の墓」を収める予定です。)