賀川豊彦の畏友・村島帰之(177)−村島「バラックの留守番から」

  「雲の柱」大正14年新年号(第4巻第1号)への寄稿分です。

        バラックの留守番から
                           村島帰之

 バラックのあるじ、賀川先生は十一月廿五日、横浜解纜の春洋丸で『世界舌栗毛』の旅に出発されました。之れより先き、イエスにある兄弟姉妹は、是非、先生の鹿島立ちをお祝ひするために送別會を催すんだと言って敦圍いて居ましたが、先生は「仕事の範囲を、鳥渡、太平洋の向ふまで延長するだけの事だから、送別會などと、事改った催しはして貰ひたくない」と辞退されました。叉廿三日の日曜の早天礼拝に、石田友治氏の司會で、先生の送別祈祷會を開きました時も、先生は「私のために祈る事をやめで下さい。それよりも、私の行く先き先きの国とその国民のために祈って下さい。アメリカのために、独逸のために、印度のために………」と申されました。読者諸兄姉もどうぞ祈りの末に、先生の言葉を覚えて居て下さい。

 先生の御不在中も、先生がおいでになると同様、凡べてのプログラムは運ばれて行って居ます。本所基督教青年會は木立義道兄や山本牧師などで、華美ではなく、しっくりと、落ちつきのある善い働きをして下さってゐますし、麹町教會は山田牧師が王となって働かれてゐる外に、時々は賀川先生の学友中山昌樹氏(ダンテ研究家として有名な)が応援説教をして下さってゐます。神田基督教青年會における毎日曜の早天礼拝も、賀川先生御出発後、集りが少くなりましたけれど「聞くだけ」の基督者が淘汰されて、ロの言葉、心の思ひ、身体の行ひ凡てが神の前に悦ばるる、真の基督者のみの集りになったので、却って恵まれてゐます。イエスの友會の後藤安太郎兄や馬淵康彦兄や、菊地千歳姉、それに石田友治先生がその集りの中心である事は申すまでもありません。

 賀川先生からの通信は、十二月四日ホノルル発、十九日内地着で第一信があリましたが、お元気のやうでうれしく思ひます。『今日から五日間の講演が始まります』と、お元気な先生の御様子が偲ばれます。大阪毎日新聞へ「太平洋の唄」といふ通信を送られたそうで、之から続々同紙を通じて、先生の御便りが聞けると思ひます。

 「雲の柱」は、先生不在中も決して休刊は致しません。先生が書き残して行かれたものや、御講演を筆記したものが沢山ありますので、それで十分やって行ける確信があります。

 『雲の柱』は従来、発効日が定まらなかったのと、廣告をしないのとで、発行部数が二千に達せず、「天下の賀川」の雑誌としては余り少な過ぎます。然し、今仮に現在の読者が、三人宛の読者を新たに作って下さるとすれば忽ち六千部出る事になります。『雲の柱』の読者を殖す事は、決して書肆を賑はすといふだけではなく、霊の糧を、より多くの人に頒つ事になるのてすから、此際みなさんに御協力を願って、先生の御帰朝の頃までには、一萬以上の発行数を持ちたいと願って居ります。尚近頃は一般の書店に出さないやうになってゐますから、御購読の御註文は直接警醒社へして頂ければ幸ひであります。

 歳末の忙しい中を、本務の傍ら編輯しましたので、本号は頗る貧弱なもになりましたが、二月からは屹度立派なものをお目にかけます。では二月をお待ち下さいませ。「村島」


 (次回より、大正14年3月号より「雲の柱」で連載になる村島帰之の懺悔録「歓楽の墓」を収める予定です。)