賀川豊彦の畏友・村島帰之(176)−村島「雲の柱十九年私史」

  「雲の柱」昭和15年10月号終刊号(第19巻第10号)への寄稿分です。

           雲の柱十九年私史                          村島帰之

 小生は「雲の柱」の嘗ての乳母―と申すよりは、寧ろ子守の一人でありました。それだけに、雲のその雲隠れを悲しむ点において敢て人後に落ちるものではございません。白隠禅師は五歳の夏、浜辺に立って水天髣髴の一線の上に、忽ち湧いたと見れば忽ち消える雲の変幻極りなきさまを見て「無常観」を悟ったと申します。五十歳の小生はけふ永の歳月、馴染み来った雲が今日忽然として青春十九歳の姿を消すと聞いてつらつら無常を観じ「有為転変の火宅の巷に、夢幻空革の身を宿して、本の露、末の雫にも劣り乍ら、萬戸の富も何かせん」と悟ればいいのですが・・・。

 偖て「雲」の創刊号以来の愛読者の一人として、その十九年史を書くやうにとの御言葉に従ひ、書斎にこもって古い「雲」を翻読して行くと、なつかしさが一杯で、筆を執るより読みたい方の衝動が先行します。何しろ創刊は大正十一年一月ですから、正に十八年。巻を重ぬる事十九巻。その間、警醒社の破産のため一時休刊してゐた事もありましたが、号数は二百号になんなんとする訳で、隨分長らく私たちを教導し、啓発して下さった「雲」でした。

 創刊号の表紙はゴチックで大きく「雲の柱」と書き「宗致、自然、社會、芸術」と榜註を施して、雑誌の内容を表現してゐます。その標題の下には現在と同じやうに賀川先生の筆になるデッサソ。創刊号は雑誌の名に因んで、雲の柱に導かれてゐる圖が描かれてゐるのもなつかしいです。

 創刊号に限らず初め一二年の間の「雲」は、巻頭に先生の長文の散文詩がのってゐます。今と違って眼もお悪くはなかったし、年も三十二三歳で、芸術的情熱が豊かだしするので、散文詩の傑作が毎号のやうにのってゐます。創刊号の「神に溶け行く心」の如きは堂々十二頁に亘る雄篇で「私の心が神に溶ける神は私を妁熱の愛の中に溶かして下さる。溶けよ、溶けよ、私の心よ。愛の中に蒸発して了ふまで神に溶けて了へ!」と叫ぶ若かりし日の詩人の息吹が今も浸み入るやうに深い感銘を与へてくれます。最初の詩集「涙の二等分」が出て間も無い頃ですから、短いエッセイものってゐます。

 先生の宗教の論文は大体一篇位づつのってゐます。第二号には「神の表現と人間の表現」と題して「人生芸術としての宗教」について書いてゐられます。先生以外では、奥様が「自傅」や「日記」を書いて居られます。これが軈てまとめられて「女中奉公と女工生活」の一冊になったのだと思ひまず。私がおすすめして大毎に書いて頂いた「貧民窟物語」はこの時既に一本になってゐた筈です。

 外部の人では中山昌樹氏が十八番のダンテを、遊佐敏彦氏がザビエーその他の小傅を書き、日高善一氏が創作をものしてゐるのも面白いです。その他小野村林蔵、吉田源治郎、山室軍平、山本秀煌、別所梅之助、渡辺善太、木村清松、村田勤等々、宗教界のオールスターキャストと申したいほどです。殊に山室先生は「感恩の記」と題して自傅を書いてゐられるのは尊い文献だと思ひます。此處で思ひ出すのは、第二号にのってゐる女子大學生の「貧民窟のクリスマス」と題する日記です。彼女たちは大正十年冬の休暇を貧民窟に泊り込み、具さにドン底生活を研究して行ったのですが、この折の感想を書いて雲の二号にのせたところ、余りに先生を英雄扱ひしてゐるので、先生が怒って了ったのでした。それが恰度、私が訪問してゐた時でした。先生は秘書の植村龍世さん(現在は回々教の幹部になってゐる)を呼んで「全部回収して破って下さい」と厳命してゐました。尤も既に全部発送したあとだったので、その儘になりましたけど。

 先生のイエス團やその他の教會での説教の筆記は、第三号あたりからのってゐて、これは十八年間継続しました。創刊号から一年間余りは吉田源治郎氏が専ら筆記してゐられます。二年後のイエスの友會第一回修養會で自己紹介の際、自分は「賀川萬年筆」だと申した事がありますが、それは申すまでもなく、この「雲」にのった聖書講演の筆記者たるの故を以てさう申したのです。私のあとでは吉本健子氏も自ら賀川萬年筆として名乗って居られましたが、第一世は吉田氏で、私や吉本さん以外に、黒田四郎氏今井よね氏等から今の高山郁乎氏に至る迄みな萬年筆の一本一本なのです。

 第四号には先生の台湾紀行がのってゐます。さうです。此の台湾紀行が、先生夫妻に天よりの最大の恩物――長男純基君の出生――を賜る機會となったのでした。奥様は御同行の予定ではなかったのが、ゴロツキMの脅迫から、身辺の危険が感ぜられて、先生の出発間際に急に同行と決ったのでした。もしあの出来事がなかったら、純ちゃんの出生はもっと遅れてゐた事でせう。

  十八里み山の奥にわけ入ればわれは生けるを奇しく思ひぬ

 これはその時の先生の歌でした。
 第六号には留置場の歌が巻頭にのってゐる外、先生は短篇小説「四月の馬鹿日」を書いてゐられます。

 この頃、独逸の外相ラテナウが殺されて、先生は八月号に彼の反唯物思想に同感の一文を草してゐます。この八月に、萬年筆第一世吉田氏が渡米の途に上りました。

 十月号は「イエス研究号」といふ特輯親で、この号から標題の上に「賀川豊彦主筆」といふサブタイトルが這入りました。即ち創刊当時の普通雑誌の形式がこの月から改って、賀川先生の個人雑誌となり、その内容も殆んど先生独りの創作や講演筆記で全巻を覆ふやうになったのです。創作をのせるのは発行所の注文で、「死線を越えて」の殺人的賣行にあやからうといふのでした。「闇の力の近づく時」「一人残された女」などといふ戯曲や、「焼餅泥棒」などの短篇がそれです。

 この頃の先生は神戸の労働争議の後始末や、労働學校、農民學校の世話、貧児の面倒、そして原稿書きと目の廻るやうな忙しさで、創刊号当時のやうに、落ちついて力作を雲にのせるといふ暇はありませんでした。力作は改造や解放や日本評論などにのりました。

 大正十二年−―。私は吉田第一世からバントならぬ萬年筆を引継いで、一月号から先生の講演筆記を連載してゐます。後になって「イエスの日常生活」「イエスの内部生活」の二冊にまとめられたもので、イエス團での毎日曜の礼拝説教を筆記したものです。私は当時肋膜炎を患ひ先生のおすすめで、神戸の衛生病院に入院、水治療法を受けてゐましたが、毎日曜日に朝六時前から新川へ出かけて行っては筆記したものです。別に先生から頼まれた訳ではなかったが、吉田氏の例に倣ってやって見たに過ぎないのです。筆記に誤謬の多いのは、私の宗教知識の浅いためです。その頃の礼拝には東京から後藤安太郎氏などが夜行で来て夜行で帰京したりしましたっけ。

 この年の一月から表紙が変って、先生の描れたお面−―多分奈良あたりのお寺のものの模寫であらう――が大きく出てゐましたが、七月号からは先生のベン画に代わりました。「自然の誘惑」と題する水辺に彳む青年に鳥や蛙や花や蜻蛉を点綴したユーモアたっぷりのものでした。あれは先生の描れた書の中でも傑作と申すべきでせう。

 七月号からは矢張りイエス團の早天礼拝で私の筆記した旧約人物の信仰が連載されました。私としては一番力の這入った筆記で、「ルツの信仰」などは泣き乍ら浄書をした事を覚えてゐます。

 先生は忙しいので雲は殆んど筆記許り、読者も、イエスの友の同志に限定されたので、創刊号以来、書店の店頭に出してゐたのを此の月から中止して了って、個人雑誌の色彩が愈々はっきりしました。

 斯うして十二年八月下旬、御殿場東山荘でイエスの友會第一回修養會が開かれて、熱心な同志が全國から集りました。めぐまれた集會だったが、それが終って三日目、九月一日、大震災が見舞ひました。私も講師の一人として新明正道氏と一緒に出席してゐて、帰途東京で震災に會ひました。雲も災害を蒙って九、十月号は休刊、十一月号が辛うじて出ました。発行所の警醒社は三十六年来の蔵版書干数百種の紙型を烏有にしましたが、しかし、信仰の上に立って経営する同社はこれに臆する事なく立上って、復興版の最初のものとして先生の「苦難に對する態度」が出版されました。前記、イエスの友修養會での「ヨブ記の研究」の講演を、私が一瀉千里に書き上げて大急ぎで刊行したものでした。

 十二年十二月号と十三年一月号とは合併で出ました。震災の彩りも深く先生は自ら巻頭に「苦難の芸術」を書き、私の筆記した「災厄は天罰なりや」などもあり、なほ小説「人間以上」を出しましたがこれは途中でやめて了はれました。

 本所の焦土における先生の働きが始まって、雲には六号雑記「松倉町のバラックより」がのり出しました。講演筆記の萬年筆陣には菊池千歳姉なども飛入で加はれました。

 先生は帝國経済會議の議員に勅任されたり、各教會その他の引張凧で疲労困憊の極、到頭腎臓炎で臥床の己むなきに立至りました。その病床で、「愛の科學」が出来上りました。あれをまとめるため私は幾度も大森から松澤へ通ひました。私はこの年の二月から東京日日へ転勤して来たので、先生のお手傅が十分に出来るやうになって、萬年筆の能率は大にあがったのでした。

 五月号は「ぺテロ研究」、六月号は「テモテ研究号」、八月号は「イエスの姿研究号」、九月号は「三マリア研究号」、十一月廿五日、先生はアメリカの學生大會に講演のため渡米されることとなり、雲の柱の編輯が私一人の肩にかかって来ました。私は殆んど一人で一冊分の原稿を書き、編輯しました。苦しくなって先生が取引所や、貴族院議長官舎などで講演された速記録に手を入れて使ったり、大阪毎日にのせた欧米通信を転載したり、自分のものをのせたりして、兎に角約一年間、先生の留守中も雲を休刊することなく持ちこたへたのは我乍ら天晴れでした。斯うしてあえぎあえぎして編輯してゐましたけれど、この年の読売の投票では雲は個人雑誌の中では九十何点といふ最高点をとりました。先生の人気がそうさせたことは申すまでもありません。先生は欧洲を経て七月二十二日に帰朝されました。私は再び大毎に帰ってゐて、神戸に先生をお迎えしました。

 先生と相前後して帰朝された吉田源治郎氏によって四貫島セツルメントが創設されました。先生が理事長、古田氏と私とが理事、外に十数名の評議員が選任されました。私は殆んど常任のやうに引っ張り出されて話をしたり、挨拶をしたり、金を集めたりしました。(その後、役に立たたくなると、いつの間にか理事の職名も取り上げられました。呵々)

 大正十五年−―昭和元年からの雲の表紙は「荒海をも打開き主はみ心なし給はん」と説明付の書に変りました。筆記は今井よね氏、黒田四郎氏、古田源治郎氏と、多種多様になりました。私も時々「三つの紛失物」や「室手空拳の戦」などを筆記した。

 先生は武庫のほとりに戻られて、雲には「武庫川たより」が「バラックだより」に代りました。

 昭和二年からは農民福音學校が開校し、神の國運動が始まって、先生は愈々忙しさを増したが、雲は影が薄くなりました。といふのは、発行所の警醒社が左前となり、編輯者土居客郎氏等の苦心にも拘らす、昭和三年は殆んど雲の姿を見せなかったからです。そこで昭和四年となると共に、創刊号以来の発行所警醒社から独立して神戸イエス團内に雲の柱発行所なるものを新設し、杉山健一郎氏が編輯を担当して一月から甦生号を出しました。杉山氏は初めての経験なので、毎号私の宅で相談して編輯しました。聖書講演の筆記は吉本健子さんが大部分を占めました。先生は主観経済原理概論などを雲に発表されました。先生の伝道日誌が黒田四郎氏によって事細かに書かれて、読者はどんなにか親しみをもって読んだ事だったでせう。私も杉山氏のすすめで毎号、社會問題の原稿をのせました。吉田氏のツュワイチェル研究も出初めました。

 先生の主観経済論は論壇を騒がせました。佐野學などは物質一元論をとり、唯物弁証法を用ひて絶對唯物論を真ツ向ふに振りかざして来ましたが、先生は飽くまで唯心論の立場をとって勇敢に応戦されました。マルクス主義に正面から突撃して行ったのは、実に賀川豊彦であったのです。時勢の流れに従って或は右し、或は左して、定見を持たない人々の多い中に、終始一貫、唯心論的立場をとり、唯物論と戦って来た賀川豊彦の存在は確かに偉大であると申して過言ではありますまい。

 この頃から杉山元治郎氏が時評を書き始めました。先生の「創世記研究」「ヨハネ伝研究」「使徒行傅研究」などがのりました。

 先生は東京市の社會局長として堀切市長から懇望されましたが一技師として就任を諾しました。昭和五年、先生の協同組合に関する主張がぼつぼつ雲にのり出しました。私は一年間に亘って賣淫問題の研究をのせました。岡成志のラスキンの宗教思想も連載されました。議會は解散となり、總選挙に先生は東京第四区から推されたが遂に出馬されず、辞退の新聞廣告さへ出しました。七月は渡支。

 十月号には先生の「立体農業論」がのり、つゞいて「土と親しむ精神」も出ました。「一粒の麦」が本になりました。

 六年二月に十字架特輯号が出てから三、四月にも続十字架号、続々十字架が出ました。この頃から編輯者が金田弘義氏に交替し、先生の物理學への関心が昂って、ジーンス博士の新論の紹介なども出ました。

 五月号には「基督傅の再吟味」といふ新しく見直した大研究が発表されました。シカゴ大學でされる講演の下準備と思はれました。

 七月十日、先生は愈々三度目のアメリカ訪問の旅に上られ、小川牧師及び私も同行することになりました。先生留守中も萬年筆陣は精鋭揃ひなので、以前の外遊の時のやうな事はなく、余裕綽々たるものがありました。私は彼地からアメリカ通信を送りましたが、最初の分などは六号活字で三十頁ギッシリのりました。われ乍らよく書いたものと思ひます。

 帰朝した足で東日や大毎等の講演會に臨むと、そのあとは直ぐ神の國傅道で先生は寸暇もありません。

 昭和七年から表紙も色刷の美しいのと代って、藤崎氏等の農業指導記事も出るやうになり、先生の農村の救ひに関する大文字が屡々雲を飾るやうになりました。

 中山真多良氏の「蠻人の愛母」、小川清澄氏の翻訳「地のはてまで」が連載され、私のアメリカ紀行も一年半に亘って連載されました。その間に先生のコロサイ書や、パウロ研究が特輯されました。

 昭和八年は預言者研究の年。パウロ、ホゼア、アモス、ゼカリヤ等の研究がのせられました。

 九年は、先生の協同組合の提唱が実を結んで、医療組合も遂に、モノになり、さうした新説ものった外に独特の幼児自然教案などものせられました。

 この年二月、先生はフヰリッピンに飛んで「空とべばあまりに早く行くためか比島と日本の区別つきかぬ」などゝいふ散文的短歌も出来ました。

 九月、関西風水害、先生は私の大毎社會事業部の救護事業、特に罹災地の臨時托児所及給食所の仕事を手傅って下さいました。私はその救護にピッチをあげすぎて遂に病ひに倒れて廿二年住みなれた大毎を去る事となりました。十一月にのってゐる「風水害地の人間愛」は私の大毎記者としての最後のラヂオ放送の原稿で忘れがたい思ひ出です。

 この年の終わり頃から編輯が再び東京へ帰って松澤で高山郁乎氏が専任で之に当ること となりました。その高山氏は廿年前大毎で机を並べて仕事をした私の旧友であったのは奇遇でした。

 昭和十年二月十八日、先生は濠洲伝道の途に上られました。この年の雲は最初の二三篇を除いては、協同組合に関するので被はれた感があります。只だ十月号から連載された「ドン底の社會心理」は往年の名著「貧民心理の研究」を書直されるのかと楽しみにしてゐましたが、四五回で終ったのは先生多忙のためとは申し乍ら惜しい事でした。

 この年の十二月、先生は四度、アメリカの旅に上られました。

 昭和十一年三月号から十月号へかけて、その驚くべき大傅道旅行の模様が、主として在米の深田種嗣氏や久保田憲三氏の筆によって詳しく紹介されてゐます。

 三月――六月に連載の「基督教兄弟愛と経済改造」の大論文はアメリカの大學で講演されたものの草稿で、唯心的経済史観と基督教的兄弟愛とを調和させた驚くべき卓見です。

 ネストリアン東漸史の翻訳が連載され、奥様の神戸時代の回顧が時々短文となって現れました。

 十月十二日、先生帰朝。

 昭和十二年は「純潔日本を築け」の巻頭言から始りました。先生の活動が教會のみならす、協同組合や社會事業やその他多方面に亘るので、その筆記の集成である雲はバラエテーの多いものとなりましたが、その代りドッシリとした研究物が少くなりました。

 六月号には「純潔金庫」の提唱があり、矯風會の人たちは小躍りして喜びました。先生のもものの外には山崎勉治氏の協同組合の研究と藤崎盛一氏等の農芸研究と深田種嗣氏の信仰偉人紹介など。

 十三年、先生の巻頭言は、創刊当時の雲の巻頭を飾った散文詩を短くしたやうな美しいものが毎号のるやうになりました。

 五月、満洲傅道行、隨行は深田氏。「あめつちを抱く平野の満蒙よここに死ぬべきよき郷土あり」例により先生の無技巧の歌です。満洲移民の将来の研究も出ました。

 七月、神戸の水害、「天譴とは何ぞや」といふ巻頭語。「霊性維新の秋」といふ獅子吼。

 十一月十二日、印度旅行。その途中の船中でものにされたキリスト教と社會的及経済的変転の関係や、マドラスでの大雄弁、「偉大たる贖ひの血潮」はほんのエツセンスであるが示唆するところは深く且つ大です。

 ガンヂーは期待ほどではなかったらしく、十四年六月号所載の「ガンヂーに會ふ」がそれを物語ってゐます。七月号の印度宗教史私論は印度土産の雄なるものです。私は関西の労働運動における先生の功蹟を記述して十数回に亘りましたが、その筋の注意で筆を擱きました。たとへ昔の物語であっても、斯ういふ非常時には避けた方がいいからです。

 十、十一月号にはイエス傅の再吟味。十年前のシカゴ大學での講演とは叉違った研究です。
 十五年五月、満洲傅道旅行。六月号には西尾大将の訓諭を読み、楠正成が非理天の旗幟を掲けて天に則する精神的反省を旨とし天に忠実なる事を以て七生報國の範を垂れたことを回想し「西尾大将の文章を読んで正成の精神の今も日本に生きてゐることを喜んでゐる」と書かれてゐます。七月号には満洲基督教開拓村の創設を喜び、八月号にはフランス滅亡が國民道徳の頽廃に起因することを挙げて日本國民の反省を促して、愛國的熱情を昂揚させてゐられます。先生は実に日本を心から愛する「愛國詩人」の一人なのです。

 かくて「雲の柱」は十九年を勇敢に叫びつゞけて来ました。真っ直ぐに、脇目もふらずに正道を歩んで来ました。これで雑誌としての使命を果たしたとは決して考へませんが、少くとも使命の一部は果たし得たといふべきでせう。なぜたら、賀川先生の周囲の者が、彼のサンディカリズムの急潮にも押し流されず、マルキシズムの渦巻にも捲き込まれず、真理を把持して、真っ直ぐに此處まで辿って来たのは、雲の柱の導きがあったればこそだともいへるからです。今や國策に順応して茲に春秋十九年の巻を閉づるに当り十九歳のこの春まで生長させて貰った雲の柱に對し、心からなる感謝を捧げます。