賀川豊彦の畏友・村島帰之(175)−村島「賀川豊彦氏の社会事業とその特異性」

  「雲の柱」昭和15年6月号(第19巻第6号)への寄稿分です。

       賀川豊彦氏の社會事業とその特異性                           村島帰之

 アメリカで或る米國人と話した時、その人は言った。「賀川博士は世界的大指導者だが、しかし、日本へ行って彼の事業を見ると失望する」と。この言葉は、賀川豊彦氏を「大なる事業家」と見ることから起った失望であり、且つ叉その米人が賀川氏の世界的声價から、その人のみならすその事業の上に余りにも大なる期待をかけ過ぎた事から起った幻滅であったのだ。賀川氏は偉大なる「指導者」であるが、決して偉大たる事業家でないことを、その外人は知らなかったのだ。

 しかし、そうだからといって筆者は賀川氏の事業をその米國人の言ふ如く貧弱取るに足らずといふのではない。只だ賀川氏のその声望に比べて貧弱だといふだけである。

 その時、筆者はその米國人に反問した。「あなたは賀川氏のどこの、どの事業を見られたか」と。すると、彼は神戸と大阪のをと答へた。彼としてはそれは当然な選び方だった。なぜなら彼が賀川氏の名によって想起したのは賀川氏が十年の久しきに亘って苦闘した新川のスラムの所在地神戸と賀川氏の労働運動の中心地大阪とであったに相違ないからである。又少年時代の徳島を除けば、名著「死線を越えて」にも神戸と大阪が最も重なる舞台となって出てゐるからである。けれども、「死線を越えて」からは既に二十年の星霜を経てゐる事を思はねばならない。賀川氏はいつまでも新川のスラムの英雄ではないのだ。現に賀川氏がスラムから飛躍して世界的英雄となってゐればこそ、その米國人も彼の名を知り得たのではなかったか。

 賀川氏は「スラムの英雄」から、日本の「社會運動の母」となり、さらに外國人の言葉を借れば「世界の活けるキリスト」にまでせり上ってゐるのである。そして賀川氏が偉大になればなるほど、たとへその事業に絶へざる進歩があったにしても、その比較に於て、その事業は愈々貧弱となり、小さくなって行くのは算術の示す当然さである。特に、その米國人の見たといふ神戸、大阪の事業は、歴史の古いだけに新鮮さに乏しく、精彩がなくなってゐる。賀川氏の事業の中心は、今は彼の出身地たる関西になくて、東京にあるのだ。せめては東京の賀川氏の事業をその米國人が見てくれたらと思ったのは、必ずしも筆者だけではなかったと思ふ。

 最近、こんな話がある。
 賀川氏がスラムに這入ったのは、明治四十四年十二月廿四日で、奮臘を以て満三十年になった。そこで、賀川氏の同志はこれを機として「賀川記念館」を建てることとした。賀川氏が「死線を越えて」を書いた――といふよりも、むしろ、それを実演した處の神戸新川のあばら家、賀川氏の住む前に人殺しがあった、幽霊の出ると言はれた家、そして賀川氏が十年間住った家――が、不良住宅改善事業のため取払ひになったのを請ひ受け、これを再建して記念館とし、永く保存しやうといふのであった。抑もの言ひ出しべーである筆者と、武内勝氏とは、勿論これを神戸に再建する意圖であった。そして出来る事なら竣工後は神戸市に寄附して、永く神戸の一名所として保存して貰はうと考へてゐたのだが、愈々金が集まって見ると、大阪や東京の同志が異論を唱へ出した。他にも理由はあったが、神戸は最早賀川氏の事業の中心地ではないといふのが主で、大阪の同志は西宮にある賀川氏の農民道場「一麦寮」の脇へ持って行かうといひ、東京の同志は現在の賀川氏の居住する東京郊外松澤の教會の附近か、若くは事業の中枢をなしてゐる本所附近のそのいづれかへ移せと主張し、結局東京が多数で押切って近く「神戸の貧民窟の家」が東京に建つ事となった。その再建場所の当否は姑く措いて、賀川氏の事業の中心が関西から東京へ移って来てゐる事を物語るのに最も相応しい挿話だと思ふ。

 神戸の貧民窟から発足した賀川氏の事業ではあるが、今日では、氏の事業は一新川、一神戸に跼蹐してゐないで、東京を中心に、廣く目本全國に及んでゐる。まづ西部から順々に数へ挙げて見ると、瀬戸内海の孤島豊島には、結核療養所が地元民の反對で解散の己むなきに立至ったが、農民道場として再生することゝなって目下改装中だし、播州曾根には農村セッルメントがあり、紀州南部にも特色ある農漁村セッルメントがある。神戸には「死線を越えて」の生れた新川部落にイエス團及び友愛救済所があり、叉西神戸の長田部落にも友愛救済所があって春子夫人の令妹芝八重子さん(女医)が十年一日の如く貧しい病者のために聴診器をとってゐる。この二箇所のスラムの救済事業の外に、司法保護を目的とする神戸愛隣館が故村松浅四郎氏から託されて賀川氏の事業の一つに加へられてゐることを、社會事業関係者でも知らぬ人が多い。氏が創業の苦心を嘗めた神戸消費組合は今は同志の手に渡して氏は殆んど関係してゐないが、それは独立自営が出来るからで、まだ自立の出来ない大阪の消費組合共益社は今日も物心双方の面倒を氏に見て貰ってゐる。大阪では西大阪の煤烟の下にイエス團と四貫島セツルメン卜があり、東大阪家内工業地域には生野聖浄會館(隣保事業)、南大阪の釜ケ崎にはその一ブランチがある。神戸と大阪との中間、西宮には「一麦寮」が小説「一粒の妻」の印税で建てられて農民福音學校のために使用される外託児所なども経営されてゐる。

 さらに東部へ来て箱根を越えると、御殿場に農民道場「高根學園」の藁葺きの大屋根が見られ、養豚加工組合の牧舎も見える。東京へ這入ると、本所には震災直後創立した本所基督教産業青年會を中心に、江東消費組合、同栄養配給所、中之郷質庫信用組合等が堂々と門戸を張り、中野には東京醤療利用組合の組合病院等がある。又賀川氏の住む世田谷区松澤には松澤教會を中心にフレーベル館、ペスタロッチ館、リンネ植物園などの小さくはあるが、賀川氏の嗜好の窺れる幼稚園や標本室(勿論未完成のもの)もある。又少し離れては府中町には府中教會があり、又武蔵野農民福音學校もある。そしてこれ等の事業の中心が現在、氏の居住する東京にあることは言ふまでもない。

 右によっても知ることの出来るやうに、賀川氏の事業が各地に散在するのみならす、その業態が多種多様であることに一驚を喫しない人が少いであらう。若し神戸と大阪の事業のみを見て賀川氏の事業の全部と誤認して帰った米國人に、その悉くを見せたら、恐らくは足を捧にして途中で逃げ出したに違ひない。そして失望したといふ代りに「ワンダフル」といったに違ひないだらう。

 世間には多くの偉大な事業家はゐる。が、しかし、その事業は地理的にも廣くはなく、その業態も狭い。アダムス女史の偉大を以てしても、シカゴの一地区に限られてゐる。狭く深く行くのが真の事業の行き方だとすれば、賀川氏の行き方は邪道なのかも知れない。賀川氏の事業は徐りに間口が廣過ぎて、奥行が浅いからである。

 だが、此處で筆者は再び賀川氏の本質を繰返して指摘したい。賀川氏は「事業家」であるよりも偉大なる指導者であると。

 或人は賀川氏を大なる説教者、秀れた宗教家と見る。又或る人は賀川氏を社會事業の先覚者として認めやうとする。又或者は賀川氏を協同組合運動者と見、基督教者會主義者と見る。多分そのいづれも誤ってはゐないだらう。そして賀川氏はその全部なのである。現に前に掲げた氏の事業を見ても、その中には社會事業があり、協同組合運動があり、農民運動があり、教會の働きがある。それは一つの範疇に入れることが出来ないものである。が、しかし、少くも賀川氏に取っては全く一に還元することの出来る「隣人愛」の事業なのである。或はこれを「精神運動」と社會運動の二つに分類するのが至当なのかも知れない。しかし、その「社會運動」として分類される事業すらも、賀川氏の態度から言へば、矢張り一つ精神運動なのである。神戸、大阪、東京の氏のセツルメント事業は政府の社會事業台帳には隣保事業として立派に登録されてゐやうが、しかし、賀川氏にあっては、それは神戸、大阪、東京のイエス團の事業なのである。神が人々を愛して下さる如く、人々が互に相愛しやうとしてする精神運動なのである。

 教會がセツルメントであり、セツルメントが教會である。そこでは宗教の礼拝やら聖書研究會やら日曜學校やらが行はれると共に、幼稚園や託児所が常設され、乳幼児健康相談や牛乳配給も行はれ、消費組合の事務所にも用ひられ、時には労働争議の本部にさへ充てられる。間口の廣い賀川氏がそのまま此處に表現され、その多種多様の仕事が何の矛盾も衝突もなく運行されて行ってゐるのだ。

 近頃、一部のバルト神學の喝仰者は、この賀川氏の行方を指して基督教の邪道であるとする。神を街頭へ担ぎ出すやうなやり方は神を涜すといふのであらう。神聖な教会で社會事業をやる事などは以ての外といふのであらう。然ういふ手合のまだ多い宗教界に、賀川氏の如き人格の存在することを深く喜びとせねばならぬ。

 左に賀川氏の経営する教會と社會事業(及ぴその他の事業)の関係を表別して見やう(しかし、これは教會が社會事業を直接経営してゐるといふのではなく、賀川氏の事業のある處、必ず教會があり、氏の教會のある處必ず事業の存在することを示すものである)。



 右の表を一瞥した人は、何人も余りに賀川氏の事業の廣範園に亘ってゐるのに驚くであらう。そしてこれだけの多種多様の、そして各地に亘る事業をよく氏が独力で経営して行けるものだと呆れるであらう。しかし此處でも賀川氏が「事業家」であるよりも「指導者」であることを指摘しなければならない。賀川氏はこれ等の大小十数ヶ所の事業の悉くを自ら経営し指揮してはゐるが、自ら手を下してゐるのではないのである。偉大たるオーケストラの指揮者はそのタクト一つで何千人の大管絃楽團をも自由に繰ることが出来る。そして指揮者はその多くの管絃楽の一つさへ担当するのではない。賀川氏は全國に散在する事業をタクト一つで指揮してゐる大コンダクターなのである。

 では、この賀川氏のタクトに依って動く管弦楽団の組織はどうかといふと、それは言はば「無組織の組織」なのである。只だ賀川氏を中心に組織されてゐるといふだけの組織であって、これを綜合した祖織は存しない。以前はこれがあった。震災直後東京(といっても本所の産業青年會一つであったが)及び神戸・大阪(四貫島セツルメントだけ)の三箇所の事業を總括して「労働者傅道會社」なるものを組織し、賀川氏がその理事長、筆者など四五名が理事といふことになってゐたが、これは只だ名前だけで殆んど実際の仕事をする事なく有耶無耶となり、各事業所が夫々独立して事業を営んで今日に至ってゐる。

 賀川氏の事業は殆んどその凡てが賀川氏の創意によって生れた。そして、その創業の苦しみを賀川氏は殆んど独りで嘗めて来たのである。勿論、協同者もあったが、主として賀川氏が頭を悩ましその費用も賀川氏の文筆労働から生じた浄財によって支辨されて来た。例へば中野の医療組合の如き、今日では全科及び産院を併置し三百以上の病床を持つ堂々たる大病院となってゐるが、それまでには欠損叉欠損で賀川氏がその穴埋めに苦労して来たもので、未だ賀川氏の立替金が七萬圓もあると聞いてゐる。

 又今日では理事長に田川大吉郎氏を推し、実務を木立義道氏に一任して自らは平理事に納ってゐる中之郷質庫信用組合の如きも、賀川氏の意見で氏を中心にして創始したのだが、監督官庁が氏を恒産なしと認めてか理事長賀川では許してくれないので、遂に田川氏を担ぎ出したものであると聞いてゐる。

 しかし、組合病院にしても、質庫信用組合にしても、これは協同組合であって、組合発會式と共にもう賀川氏一個の事業とは言へなくなってゐるのだが、それでも何か困った事があると賀川氏が第一に相談にあづからされるのである。金の足りない時、官廳へ談判する時、人事その他のごたごたがあった時などなど。

 賀川氏の事業には、別に基本金といふ如きものがなく(協同組合は別)賀川氏が日本銀行なのである。しかもこの銀行にも準備金はなく、必要に応じて或は出版業者から、或は篤志家から借入れたり、貰ったりするのである。隨分不安のやうであるが賀川氏は一向平気でゐる。「あなたはどうして金を作られるのです」と訊く者があると、氏は瞑目合掌して見せて「所るばかりです」と答へる。叉事実「祈り」求めて与へられて来てゐるのである。
 賀川氏は今日までにどんなに多くの金を事業に注ぎ込んで来たか。これは賀川氏一家の秘事であるが、試みに「死線を越えて」の印税についてその費途を筆者の知ってゐるだけを記して見ると、ざっと次の如くである。

 ○「死線を越へて」印税十萬圓の内
  三五、〇〇〇円 神戸労働争議後始末費用
  二〇、〇〇〇圓 日本農民組合費用
   五、○○○圓 鉱山労働運動費用
  一五、〇〇〇圓 友愛救済所基本金
  一〇、〇〇〇圓 消費組合設立費用
   五、〇〇〇圓 労働學校基金
  一〇、〇〇〇圓 その他社會事業費
計一〇〇、〇〇〇圓

 此の外「星より星への通路」(二百二十版)「一粒の麦」(二百九十版)等の印税も「死線」と大同小異で、社會運動・社會事業方面に使はれた。

 これは特定の著書の印税の費途を記したに止つて百冊に近い爾余の出版物や、月々氏が書く雑誌の稿料は含まれてゐないが、これ等からする収入の大部分も亦た全國の氏の事業に注ぎ込まれるのである(賀川家の費用の如きは殆んど言ふに足りない)。

 しかし、如何に賀川氏の印税収入や原稿料が沢山這入るといつても、おのづから限度がある。殊に「死線」や一粒のやうなヒットのない今日、往年の如き収人は望めない。とすると一体氏の事業所はどうしてやってゐるのであらうか。

 第一の財源を賀川氏自身の労作から生する浄財とすれば第二の財源はアメリカに在る賀川後援會の送金であり、第三は或る事業所を指定した特定の寄附であり、第四はその事業所の後援會の献金である。

 アメリカの「賀川後援會」といふのは、賀川氏の事業を助けるために米國人(大學教授等が中心である)の組織した團体であって、浄財を賀川氏の許へ送って来て、諸種の同氏の事業を後援しやうといふのである。なほ金だけではなく、嘗てはタッピング女史といふ學者を日本に送って、その事業を直接助けしめると同時に、フレンド・オブ・ジーザスと題する賀川氏の事業報告書を作らしめて全米の同志に配布したりした事もあった。賀川氏の事業がアメリカのハイスクールの教科書にまで紹介され、ロサンゼルスには「賀川街」といふのさへ出来てゐるのは、一つには氏の賀川後援會の紹介が預って力あるといへやう。

 それはさてをき、この賀川後援會は多い時には何千弗、少い時でも何百弗といふ送金をして来てゐたが、日支事使以来、殆んど杜絶して了った。

 外人の組織する賀川後援會の外に、ロサンゼルスにある同志によって「一弗献金」といふのが行はれた時があった。つまり會員が月に一弗づつ、賀川氏の事業のため献金するのであって大阪の四貫島セツルメントも最初の数年はこの献金で支えられ、且つその會堂をさへ輿へられた(その會堂の名を天使館と呼ぶのは、ロサンゼルスのエンゼルスに因んだものである)。その後氏の一弗献金は武蔵野の傅道のために捧げられて来たが、これも最近は暫く杜絶してゐるやうだ。

 これは事業所を特に指定して寄附して来てゐる点で、第三の特定寄附の中に加へるのが適当かも知れないが、その指定先が恒久的でないために、アメリカ人の後援會に準じて第二の賀川後援會の送金の中に一緒に考へるが正しいと思ふ。

 第三の或る事業所を規定した寄附といふのは、今日では南部セツルメントだけで、これは南部出身の加州の一農業者古谷福松氏が月々送金して来てゐるのがそれである。しかし、彼地の豊凶その他の都合で送金の来ない時もあって、そういふ時は賀川氏がその補ひをしなければならない。

 第四は地方後援會の存在で、今のところ、大阪四貫島セツルメントだけにこれが組織されてゐる。即ち大阪にある賀川氏の友人が、氏を支援する意味で、此の大阪にある事業――主として四貫島セツルメント――のために後援會を組織し、月々若干づつをその事業に献金しつつあるのである。かういふ組織が出来れば賀川氏の財政的負複も大に軽減されるのだらうが、まだ大阪だけで他には及んでゐたい。

 賀川氏が神戸の貧民窟に這入って満三十年、その中の前十五年間は、四五人の例外を除いて全く他人の寄附を仰がすに来た。あとの十五年のうちでも、初めの七年間はアメリカの後援會以外の支援は受けなかった。しかし、氏の事業は余りに膨張しして来たために、今日では昔のやうな鎖國政策はとってゐないが、そうかといって寄附の勧誘には廻ってゐない。

 然るに最近になって、周囲の同志の中に将来を慮って確実なる財團を作らうとする者が出て来た。そして財界の有力者の後援を得て、富豪たちから何萬圓、何千圓の寄附を得、たとへ明日、賀川氏が訃れても、その事業は継続出来るやうにしやうとして画策してゐるやうだ。今日までの氏の事業が、前にも記した如く無組織の組織で、基本金といふものもなく、必要の時は祈れば与へられるといふ信仰の上に立ってやって来たその不安定な状態から救はれやうとして、こうした計画の生れるのは当然ではあるが、しかし、事業家であるよりも指導者であるところの賀川氏の事業としては、いつまでも形骸そのままを残さうとして工作するよりも、その精紳を廣く傅へて、むしろ工作せす、賀川氏の百年後亡びるものは亡びるに委せ、亡びないもののみが残るといふ事にした方が善くはないのかとも思ふ(従業員の失業問題は別に考慮するとして)。

 それよりも、賀川氏の健在する間に、もっと廣く浄財を集めて氏をして思ふ存分、その独創力を発揮し、多くの意義のある事業を創始せしめることが必要なのではあるまいか。一つの事業に固執するのは尋常一様の事業家のする事である。賀川氏の如き不世出の指導者は、常に時勢に一歩前んじて、事業の上においても開拓者的態度を以て他を率ゐて行って貰ひたいものと思ふ。

 賀川氏の事業の特異性を述べやうとして、未だその人的要素の特異性――イエスの友と呼ばれる同志や義勇奉仕者の事に及ばずして予定の頁を越えて了った。これについては又他日稿を改めて述べて見たいと思ふ。