賀川豊彦の畏友・村島帰之(174)−村島「労働不安の絶頂・大正十年」

  「雲の柱」昭和15年3月号(第19巻第3号)への寄稿分です。

         労働不安の絶頂・大正十年
                           村島帰之

     休戦! 恐慌来!
 欧洲戦乱の影響を承け、好景気の波に乗って宇頂天となってゐたわが経済界も、休戦成立と共に情勢が一変し、大正九年四月、突然として起った恐慌は惨憺たる打撃を経済界に輿へ、次で労働界にまで及んだ。即ち三月に大阪府で六箇所の休業工場しかなかったものが四月には百七十の工場が休業又は閉鎖を行った。最も早く打撃を受けたものは織物で泉州織物、播州織物が将棋倒しに倒れて了った。次で京都の西陣織、友禅が休業札を掲げて数干の熟練職工が路頭に迷ふ事となった。織物に次では造船、窯業、燐寸が職工を解雇し大阪府下のみでも三月初旬から八月末までの閉鎖工場五十、休業工場八百、縮少工場三百計千百、解雇職工累計三萬二千を数へた。又仮令閉鎖せず休業しない工場でも勤務時間の短縮、休日の増加、歩増手当の廃減、受取仕事の廃止を行って只管営業費の節約を圖った。労働者は仮令誠首の厄から免れても尚且収入減に依る生活不安を感ぜざるを得なかった。今主なる工場における解雇を示すと左の如くである。

 五月、大阪では二千の友禅職工が解雇され泉南の織物職工男女二千が失業した。兵庫県では多可、加東、加西三郡の木綿織物業者が全部休業し職工は一日十五銭の休業手当を貰って遊ばせられた。
 六月、神戸では燐寸工場が全部一日から休業する事となり、之が為め解雇職工千名、同じく一日室蘭製鋼所では職工七百名を馘首した。満鉄では六月中に二千三百の労働者を解雇した。十四日関門窯業が職工八百名を馘首した。西陣職工中の失業者は七千人と計上された。
 七月、解雇者の数は此月に入ってレコードを作った。大阪府下丈けで七月一箇月に二萬千三百人の解雇職工を見た。主なるものとしては五日大阪川北電気の四百名、九日大阪電燈の四百名等で大阪以外では日本郵船が海員二千名の馘首を決定し釜石鉱山でも六百の抗夫を解雇した。
 八月、古河では百三十名、三井物産では五百名、三井鉱山では百五十名、其他神戸の鈴木、茂木、伊藤忠等で社員店員の淘汰が相ついで行はれた。門司鉄道局でも雇員傭員千名を馘首した、職工では日本毛織が六百名を、原田造船が二百名を解雇した。一体に各工場共大束の解雇を差控へて小刻みに十人二十人と解雇する風が出来て来た。東西の労働團体は相呼応して起って其筋に失業問題に関する建言書を提出した。
 斯くて、九月以降となるや解雇處分も一段落着いたと見え、大正九年の労働界は不安な雰圃気の中に暮れて行った。そして、大正十年は来た。

     相つぐ工場閉鎖と解雇
 大正十年! この年こそ、肇國以来初めての大労働不安の年であり、わが労働運動史上、劃期的の大労働争議の年であったのだ。前年の後半期から頻々として行れた各工場鉱山における工場閉鎖、大量解雇は引続いて行れると共に、これに對応して争議が至るところに続発されたからである。
 まづ前年に引続いた工場閉鎖、解雇、減給、の主なるものを列記して見やう。

 一月、世間では正月といって遊び興じてゐるのに愛知県岡崎三龍舎信州山十組米子製糸場等では四千人近い製糸女工が解雇されて郷里へ陥った。二十二日、祠岡顛高陽炭坑では従業員七百名全部が解雇された。東京王子の東洋紡績では解雇されないが物價が高くてやり切れぬとあって米高当時の手当を復活させてくれと女工八百名が願出た。それでも正月はさすがに解雇も少かった。
 二月に入るや今まで持こたへてゐた大きな造船所や炭坑が背に腹は替へられずとあって、遂に職工の解雇を決行した。即ち二日には大阪鉄工所桜島工場の九百名、八日には鳥羽造船の千二百名、八日には旭及極東両硝子の各二百名、十日には日立鉱山の五百名、十七日には筑豊井田川炭坑の四百名、二十六日には神戸製鋼所の百名が何れも馘首された。恐慌以後今日まで造船界の解雇者既に四萬に達すといはれた。而し仮令解雇はされずとも収入の激減に蛇の生殺しの有様に居る労働者は寧ろ相当の解雇手当を支給して馘首してくれろと要求するに至った。大阪郊外の京都工商刷子工場では一般職工の減給をなす代りに不用職工を解雇せよと叫び、結局男女五百名の職工が解雇された。
 三月、尼崎森永製菓工場、浅野造船、伊予松山住友鉱業(一千名)、別子銅山、石川島造船(四百名)で多数の職工を解雇し又住友経営の大阪の三工場(伸銅、製鋼、電線製造)では米價手当の全廃を発表した。九州地方の炭坑では炭價暴落のため解雇相継ぎ四月に這ってから貝島炭坑に於て千五百名解雇し福岡県七福炭坑の如きは二月以来給料不払(此總額一萬四千圓)のため従業員四百名及家族一千名は飢餓に瀕し紛擾を極めた。海上では大阪商船が船員の減給を発表した。鉄道省では判任官以下五千名の尣員淘汰の大斧銊を下した。
 五月、世人の注意は労働祭以後各所に勃発する労働争議に集中されてゐたが労働不安は依然として進行してゐた。川崎の日本鋼管や横浜船渠や鶴見の浅野造船所で馘首が行はれ、九州小松炭坑では炭坑浸水のため一時千名の坑夫を馘首した。
 六月、後に記す如く各地に於ける罷業の頻発で工場主側も警戒して大口の解雇を差控へ五人十人小刻みの解雇をするか、思ひきて工場閉鎖を行ふ向が多くなった。これに對し労働者側は解雇を命ぜらるゝに先立って先づ解雇手当の設定を要求する傾向が現れて来た。これが為め住友の如きは急遽退職手当給与規定を発した。従来から数回に亘って馘首を行って来た横演の内田造船所でも遂に二十日に至り全職工の解雇を宣言し解雇手当の件に関して紛糾を生じ結局内田社長が旅費として金三萬七千圓を投出して息がついた。
 七月、資本家の方もだんだん狡くなって来て、争議最中は事の紛糾するを惧れて手控へて、争議解決と同時に馘首を断行する向が多くなった。藤永田造船、相澤造船所等の場合がそれである。甚しきに至っては東京瓦斯電気大森工場の職工が同僚の解雇に怖気づいて仕事が手につかぬと見るや忽ち休業を宣言せるが如きものもあった。
 八月、各工場に於ける解雇は今日までに一巡済んだのと、下記の神戸の争議に驚かされてこれを躊躇するのとで、これといふ纏った解雇を聞かないやうになった。その中に神戸の争議で解雇された職工の始末のみが世上の問題とされた。川崎造船所、三菱造船所、台湾製糖、神戸製鋼所、東神ゴムの五工場の争議において解雇された職工總数八百四十二名、その八月十日までに就業せるものは僅か三百十名に過ぎなかった。
 九月、満洲本渓湖煤鉄公司では大整理の結果遂に溶鉱炉の火を消して三百名の日本人職工及一千の支那苦力は解雇された。

     労働團結の試金石

 斯うして九年春以来、経済界を襲ふた不景気は、或は労働者を工場から閉出し、或は一斉解雇の厄に逢はせ、或は減給によって生活不安のドン底に突き落して行った。これが若し数年前の労働者であったら、恐らく泣き寝入りでゐたかも知れない。なぜなら、彼等は未だ目覚めて居らず、従って資本家に対抗すべき何等の組織をも持っては居らなかったからである。然るに大正も十年となって、わが國の労働者も既に十年の團体訓練を経て来てゐた。もういつまでも「泣く子と地頭には勝たれぬ」といったやうな諦めや泣寝入をしてはゐなかった。彼等は猛然として立ち上った。そして彼等の團結力を以て資本家に反撃して行った。大正十年は、この労働者の團体の力を最も効果あらしめた最初の年であり、従って資本家をして労働者の團結の力を今更らの如く畏怖せしめた最初の年であったのである。

 前年来押詰ってからの三越呉服店洋服技工の争議が片付いたと思ふと、明ぐれば大正十年一月の三日早くも東京府下吾嬬町足立機械製作所に初争議が惹起された。事の起りは解職者の復職運動に在ったが、會社側の態度強硬のため、遂に友愛會鉄工組合の蹶起となり、更に十三日に至り解雇職工の一隊は工場に乱入し工場主及事務員を殴打し機械器具を破壊し工場内に放火した。十年度の争議はその初頭に於て既に穏かならぬ気色を見せたのであった。又三目、南河内郡凍豆腐職人七百名は豆糟代價の低下を理由として手当を要求し罷業を決行し、続いて函館造船組合職工、徳島撫養塩田職工、大崎日本鉄工も亦罷業を決行した。神戸では工場閉鎖を喰った橋本汽船の造船職工三百名が解雇手当を要求し「吾等は飢えつつあり、吾等は帰るに旅費なし」と大書した長旗を翻し、示威運動を試み遂にその要求の半を貫徹した。(江東消費組合の木立義道氏はこの争議のリーダーであった)労働者以外では京都新京極反對派落語家が罷業を企てゝ常連をびっくりさせた。

 二月一日北海道炭坑汽船経営の夕張其他十三炭坑一萬の坑夫は賃銀値下に反對して罷業を断行し、會社側は重要書類を金庫に納め、外廓に鉄条網を張って警戒した。これに對し坑夫同盟から麻生久氏等が応援に出かけ争った結果、支店長に一任といふ事で解決した。東京では大崎の國池鉄工所職工が歩増の増加を要求して罷業を行ひ、罷業職工は日用品販賣などをして持久戦を続けたが成功しなかった。大阪では摂津製油が歩増廃止に反對して盟休し成功した。

 三月、甲府矢島組上梓製糸工場では、本人に無断で工賃を減額支払して女工さんの激怒を買った。尼崎東西セメントでは一時縮少した作業を復活したのにも拘らず賃銀を据置いた為め、又東京大崎の國池製作所では受取仕事を日給制度に改めた為め、又大阪東洋ヤスリでは賃銀二割の値下を行った為め、小田原石炭運搬夫三百名は賃銀五分下げの為め、何れも罷業を惹起した。凡て不景気の反映たらざるはない。

 四月、足尾銅山では前月末日最低賃銀(一圓八十銭)制定、固結椎の承認を要求したが容るるところとならず、三千人の坑夫は六日から怠業に入った。これに對し會社は八日、三百八十名の坑夫を馘首したので問題は全山の坑夫に波及し、十日大示威行列を行った後、十一日から罷業状態に入り、さしもの大銅山も一個の溶鉱炉を除く外、全山は死の山と化した。十六日罷業職工の女房連は上京して、古河男爵夫人に面會を求めたが、夫人は姿を見せなかった。そして十八日に至り団体の存在を認むる事、最低賃銀は決定せざるも賃銀は現在より低下せしめざる事等の回答を得て一先づ解決を見た。又十八日工夫の生埋椿事を惹起した熱海線丹那山大隧道東口桂組輩下の工夫は、崩壊箇所掘削工事中労働時間短縮を要求し、埋没死体を前にして全部入坑せず紛紜を醸したが、結局要求を貫徹して入坑作業を開始した。この外二十四日には九州七福炭坑が賃銀不彿を憤り、叉二十八日には大阪合同紡績住吉工場女工百五十名が日給一割減に反對して何れも罷業を行った。同じく二十八日大阪電燈會社職工中、電業員組合所属従業員は、団体交渉権の確認外十三箇條の要求を會社に提出した。これが関西に於ける驚天動地の大争議の火元にならうとは神ならぬ身の誰一人知らう筈はなかった。

     大阪に大罷業続発す
 五月、大電の争議は八日に至り純然たる罷業状態に這入った。この時から従来交渉の矢面に立ってゐた電業員組合幹部が退いて友愛會幹部がこれに代った。一方會社は罷業職工八百八十八名全部を解雇する旨を発表し、一部軟派職工を國粋會員其他の巌重なる護衛の下に就業せしめて辛うじて作業を続けた。罷工團幹部は演説會に示威行列に必死の奮闘を試みた。果然争議は白熱し十四日夜、九條に開かれた大電馘首職工演舌會の崩れは會社所在地の中の島へと殺到し、遂にその途上端建蔵橋上に二百余名の警官隊と大衝突を演じ、検束者十八名、負傷者三十五名を出した。かくて形勢日に険悪となるや、田中大阪府警察部長は最も労働問題に理解を有する加々美特別高等課長(後の大阪市長)の獻策を容れ、五箇條の裁定案を以て雙方に交渉した結果、十八日に至り大部分の要求を容るゝ事となり解決した。大電の争議は茲に解決した。併しそれは関西における争議の振出しであった。大電に次いで阪部刷子、田中製作、川崎鉄工、摂津製油等が大電に慣ふて罷業し、更に二十九日に至り藤永田造船所職工二千名が起つに及んで、争議は愈々深刻且つ大規模となった。

 六月、藤永田は新進の製鉄工組合員の蟠居する處である。彼等は團体交渉権の確認、解雇手当の規定、二割増給を要求したが容れられず、六月二日から怠業に入り、演説會に示威行列に運動會に殆ど寧日なき有様であった。そしてその勢は余って警官との小競合となり、四日には実行委員全部四十名の検束を見た。

六日永田社長と賀川豊彦氏等の會見に曙光が見えたが、尚意見の一致を見るに至らず、形勢再び逆転し関西労働組合聯合會は応援を決議し、神戸の労働者大會亦同様の決議を可決して職工側の気勢を添えた。右の応援に際し友愛會幹部西尾末廣、東忠続、島種吉、常石國益、早川由之助等は宣傅ビラを撒布し同情罷業を煽動したとの廉で拘引された。會社は屡々休業を宣言し期満ちて開門したが出勤者は僅少であった。而も藤永田の争議の尚解決を見ざるに住友伸銅、村尾造船、合同紡績、旭鉄工場、増田伸銅、相澤造船、芦田鉄工、住友電線、同鋳鋼等に於ても亦、藤永田と同様に團体交渉権、解雇手当の要求を提出した。斯くて関西の労働界は鼎の湧くが如き騒ぎを演出し、更に十八日に至るや俄然藤永田罷工團の前野氏邸(藤永田造船所顧問)襲撃となり、警官との大格闘の後十数名の労働者が拘引された。併し藤永田の争議はこの衝突が絶頂点であった。そして二十一日に至り日野國明氏の調停に依り、藤永田の争議は遂に解決を見た。労働者は團体交渉権の確認を得、その他略要求を貫徹することが出来たのである、藤永田は落着した。而し尚多くの争議は依然として継続され、至る處に示威行列を見、叉罷工職工の行商隊を見た。今、いちいちこれを列記するの煩を避けて、その主なるものを左に表にして見やう。


 右の調査は絶對に信をおくことは出来ぬとしても大勢を看取するを得ると思ふ。
 即ち五、六、七の僅か三箇月における阪神地方の罷業件数二十六、參加人員四萬二千五百人、一件平均人員千二百人、継続日数平均十四日、これを大正九年中(一年間)における大阪府下の罷業件数二十四、人員三千三百人、一件平均人員百三十八人に比すれば、件数において十二件、參加人員において約十倍、一件平均人員においてこれ亦約十倍の増加である。実に驚くべき数である。わが國開闢以来の事である。資本家の驚愕は言ふまでもない。官憲も識者も今更らのやうに労働團結の力強さに眼を瞠ったのであった。

 然るに、この驚くべき情勢は大阪を中心にして漸次各地に波及して行った。そして神戸の大労働罷業となるに及んでクライマックスに到達した。次には神戸の大罷業について記さう。