賀川豊彦の畏友・村島帰之(173)−村島「労働組合の産業自営試験」

  「雲の柱」昭和15年2月号(第19巻第2号)への寄稿分です。

        労働組合の産業自営試験        賀川氏を組合長の二組合
                          村島帰之

     御用組合に反對して
 労働組合運動の発達に驚いた工場主の中には、狼狽してこれを圧迫し、組合員を解雇する向もあったが、かうした連中は組合の反撃に逢って散々な眼を見た。そこで賢明な工場主、といっても大工場主であるが――は、なまじ断圧して藪蛇となるのを避け、自家の労働者のみで組合を作らせ、工場主も會長か何ぞに就任し、専ら會員相互の親睦融和を圖るのを目的として進んで、階級的運動の発生を防止しやうとした。階級的な労働組合を横断組合と呼ぴ、これ等、工場御用の組合は縦断組合と呼ばれた。

 大阪住友伸銅所には、伸銅所長を會長とする親友會と呼ぶ縦断組合が存在し、伸銅所職工全員がこれに加入してゐた。然るに大正八年十一月に至り、伸銅所の職工安藤國松君によってこれが反對運動の口火が切られた。安藤君等は親友會の労資協調主義を排し、独立した組合を組織することを宣明した。即ち「所謂労働問題に對する労働運勤なるものは我々筋肉労働者の運動であって、我々以外の者の參輿は絶對に許すべきものでない。故に労働運動に必要な労働組合は我々筋肉労働者のみを以て組織すべきものである」と、安藤君らしい三段論法を以て、所長を會長に仰ぐ親友會の急所を衝き「住友伸銅所内筋肉労働者を以て組織」(會則第二條)する「伸銅所新進會」を創立した。その趣旨目的は左の如くであった。

 一、本會は國家的観念の上に立脚し労資の関係を一般に普及せしめんことを期す
 二、本會は會員相互の知識の開発、精神修養技術の進歩を圖らんことを期す
 三、本會は共同の力により着実なる方法を以て我等の地位の向上改善を図らんことを期す
 四、本會は事業として図書を無料にて貸与す
なほ適富なる期日を選び図書の内容説明講演を開會し又茶話會等を催し會員相互の意見の交換を圖る
 五、労働問題に関する一般の調査及協定

 一見して判る如く、これは決して住友王國に隷属する御用団体ではない。しかし、さうかといって明瞭たる階級意識の上に立つ左傾團体では素よリなく、言はば、中庸を行くものであった。そして夫れは叉安藤國松その人の人柄を現してゐた。

     大阪伸銅工新進會
 しかし、安藤君が組合運動を始めて見ると、一伸銅所内に組合活動の範囲の限定するといふことは労働總同盟などの組合運動と比べて、肩巾狭い思ひがし出した。そこで九年五月二十三日、總會を開いて伸銅工の職業組合たることには変りはないが、住友伸銅所内に限らず、弘く伸銅工を糾合し得るものに改め、同時に名称も「大阪伸銅工組合新進會」と変更し、改めて左の如き宣言主張を宣明した。

      宣 言
 吾人労働者が人類の一員として生命を享受せる以上は生命を保全すべき当然の椎利を有す、故に吾人は自由と平等を叫び人問らしき生活の保証を確保せんことを熱望す
      主 張
 一、我等は團法を固くし地位の向上、知識の開発技術の進歩を計らん事を期す
 二、我等は労資の関係に對して団体運動の基礎を確立し時勢の進運に遅れざらんことを期す
 三、我等は普通選挙の即時実行を期し併せて治安警察法第十七條の撤廃を期す

 さきの主張と比べて、確かに進歩が認められる。かうして改造された新進會は、組合長として賀川豊彦氏を迎へた。賀川氏は労働總同盟の大リーダーではあるが、関西同盟會理事長であるだけで、自分の意の儘になる手兵を持ってゐなかった。安藤君はその手兵として自分の組合を氏に提供した。そこにも安藤君らしい率直さと、飽くまで賀川氏に信頼する純一な態度が見られる。安藤君は賀川組合長の下にあって總務理事となり、極力會勢の拡張に努めた結果、住友伸銅所及東洋鑢會社において組合員約八百名を獲得し、住友伸銅所工作、小板、大板、カービン、管棒、鋳物、鋼管各工場に十個の支部と東洋鑢會社機械部伸銅部及鑢工場に二支部と、増田伸銅所に一支部を設立する外、更らに電線工にまで手を延して、住友電線製造所、日本電線尼ヶ崎工場に夫々支部を樹立するといふ盛況を見せた。そして大正十年三月、東洋伸鑢銅会社で争議が起った際には(僅か六七十名の小罷業であったが)新進会が応援した。安藤君は機智に富んだ男であったので、同工場の重要な機械の一部(確か或る機械の締め具のやうなものと記憶する)を争議解決の日まで保管して渡さないと頑張った。

 これは東京の博文館の争議の際、植字中の原稿を争議団で「保管」したのに倣ったものであった。工場では大に弱り警察に泣付いた。安藤君はあの持ち前の酒々磊々たる態度で「解決したら出すがな」の一点張りなので、警察では窃盗罪で引っ張ると脅して見たが、安藤君には盗む意志がないと言ひ張るのだから手の施しやうがなく、ついに争議團の言分を通した。すると安藤君は工場の前の溝の中からその器具を取り出して来て「大事に仕舞ふといたんや」と大威張りで返却に及んだ。安藤君が例の吃々たる口調でこの話を筆者に話してくれた日の事がきのふの事のやうに思ひかへされる。

     労働總同盟へ加盟
 この東洋鑢の争議の少し以前、即ち大正九年十二月東京三越で技工の解雇から争議が起ったが、大阪の労働總同盟ではその争議を応援するため、新進會及び友染工組合の協力を得て、大晦日で客の立ち込んでゐる大阪の三越へ出かけて行き、「三越の冷酷なる行為を呪ふ」と印刷したビラ二于枚を撒き散らし、労働歌を高唱して各階を練り歩いて客の肝を冷やさせた。この時、そのデモのリーダーをつとめてゐた西尾末廣君及び安藤國松君は警察へ検束された。これは小さな争議であったが、處を相隔てた組合が協同動作に出て効果を収めることを示唆したものとして、識者の注目を惹いた。同時に、安藤君の如き、他の組合の幹部の応援のあったことも当時としては珍しく見られたのであった。

 この争議での安藤君の応援に酬ひるため、前記の東洋鑢の争議には總同盟の幹部が応援した。そしてこの両組合の互助協同は、両組合を接近させて、總同盟が大正十年六月、従来の機械工場関係の各支部を打って一丸として大阪機械労働組合をその一単位組合として組織したのを契機とし、總同盟加盟の話が進捗し、つひに同六月廿六日、大會を天王寺公會堂に開いて正式に日本労働總同盟加盟を決議し、加盟直後起った住友の争議においては西尾君等を扶けて安藤君等の活躍を見たのであった。

 新進會は十一年五月に、組合名新進會の三字を削り、単に總同盟伸銅工組合と呼ぶやうになり、又賀川組合長の直接指導はなくなつたが、賀川氏と安藤君の関係は却って一層緊密の度を加へ、消費組合運動及び農民運動に継続されたことは前号で賀川氏が本誌に記した如くである。

 なほ大正九年に賀川氏を組合長に戴いて創立した組合が新進會の外にもう一つある。それは大阪の印刷工の組合であった。

     大阪最初の印刷工組合
「文明は印刷工を通じて来る。その印刷工は、先づ自ら救はれねばならぬ。文明の創造者である我等は文明に捨去りにせられる事を悲しむ。此意味に於て我等は進んで團結し文化の中心となり、魁として一大組合を組織せねばならぬ。」

 斯く叫んで大阪において最初の印刷工組合たる「大阪印刷工革新同志會」の起ったのは大正九年六月一日の事であった。そしてこれが指導者は賀川豊彦氏であった。尤も十数名の同志に依って組織された印刷職工は両三年前から有った。併し千名近くの印刷職工が同一傘下に團結するといふのは「印刷工革新同志會」が大阪においては初めてであった。大阪印刷工革新同志会の発會式は六月一日夜南区松の座に於て挙行され、筆者も祝辞演説をさせられたが、当夜決った役員は左の如くで、賀川會長以外は凡べて印刷職工である。

 會長 賀川豊彦 副會長 三宅春次郎(法令館職工) 理事長 松盛録郎(三有社職工) 主事 幸松一雄(山田印刷所職工) 理事(全部印刷工)矢野準三郎(毎夕) 安芸盛(大阪日々)外十数名。

 発會常時は會員三百名に過ぎなかったのが逐次堵加して十一月には千名の會員を擁するに至り、北、西、東、土佐堀の四支部を持つやうになり、更らに北支部は四個の支部に分化した。

 右の内、北区第四支部は新聞社従業員を以て組織されてゐたが、大朝、大毎の如き大新聞社には一二名を数ふるに過ぎず、大阪日々 二十五名(文選植字工の全部)、新日報 十五名(同上)毎夕 八名等で、總勢は六七十名を出でなかったのも是非がない。

 賀川氏は当時友愛會のリーダーとして東奔西走席温る暇もなかったが、印刷工のためには喜んで時間を割愛し、その機関誌へも毎号筆を執って、啓蒙に努めた。會報第四号には左の如き一文がのってゐる。

    印刷工組合の組織
 之から印刷工組合はどう発展すべきかの問題は隨分大きな問題である。米國の印刷工組合などでは。べンヂヤミン・フランクリン以来の歴史を持って居る為めに頗る目醒しいものを持って居るが先づ全國的に統一された全國印刷工組合があり、それに全地方別の組合があり、全く工場は組合員のみが就業するやうになって居って、組合に属せざるものは市内に於て就職口を見付けることが困難となって居る、之は全く印刷工組合員の生活程度を高める為めには必要なことであって、他の地方から猥りに技術の劣等な職工が、安い賃銀で流入しないやうに防止する為めにはこの種類の有力なる手段を取る必要がある。(中略)
 大阪の印刷工組合が完仝に発達するならば我等は更に進んで、京都と結び、神戸と結び、三つを聯合させて、開西印刷工聯盟を作る必要がある。そして之を全國的に見ては信友會その他の有力なる東京の團体と連絡を取り、全國的の一大聯盟を作る必要があるのである(中略)
 更に、組合の訓練である。大阪の如き五千以上の印刷工の全市に散布せられて居る所では殆ど組合員の訓練を充分に得ることは困難であるが我等の希望する所は、組合の團結力が一層強固となり、猥りなるストライキをなさず、よく能率を上げざる場合は、全組合員の行動が同一歩調であり得る様にせねばならぬ。
 かうして印刷工組合に一つの秩序が与へられ、訓練が出来るならば我等は更に各種の事業に着手し組合員の相互扶助に努力せねばならないのである。或は疾病、失業、癈疾等の保険も必要であらう、消費組合に努力することも必要であらう。我等は全力を尽くして自己解放と日本文化に對する貢献に努力せねばならぬ。(賀川豊彦

 賀川氏の印刷工に對する抱負のほどが知れやう。

     賀川會長の抱負
 そこで賀川氏はまづ革新會を中心として純粋の印刷労働組合を組織せしめやうとした。革新會は賀川氏の主唱に基き、十一月廿一日臨會大會を開會、一挙に「関西印刷工同盟」結成の決議をした。まだ革新會そのものの基礎さへ薄弱なのに、直ちに関西を一丸とする聯合体を組織せんとするが如きは、今日から見れば稍行き過ぎのやうにも思へるが、当時の組合幹部はさうした段階などを考へる余裕を持たず、賀川氏の新説をその儘鵜呑みにして、驀地に同盟結成へと乗出したのであった。

 関西印刷工同盟――それは説明するまでもなく、従来、大阪、神戸、徳島、松山等に分散存立してゐる印刷工の小群團を打って以て一丸とせんとするもので大阪印刷工革新同志會之が盟首となり、神戸活版印刷職工組合を副盟首として関西の印刷工を一傘下に集めんとする者であった。そして関西印刷工同盟の總長としては賀川豊彦氏が選ばれる事となった。

 なほこれと同時に、革新同志會もハッキリと、労働組合らしく會名を変更することゝなった。即ち「関西印刷工同盟」の結成と共に「大阪印刷工革新同志會」は之を「大阪印刷工組合」と改称する事にし、「大阪印刷工組合」の新しき宣言、綱領、政綱が可決された。之れを記すと左の通りである。

      宣 言
 我等印刷工は文明の創始者である。故に我等は文化の指導と擁護の為めに先づ自らを救はねばならぬ。然るに我等は今日尚その生活賃銀すら得る能はず、労働時間は長く疾病率高く印刷工の壽命は我國労働者の中に於ても最も短きものとせられてゐる。故に我等は團結して今日の不正不義と戦はねばならぬ。印刷工よ固結せよ。然して汝の光明の為めに戦へ!
      綱 領
 一、我等は労働組合の確立に依る新社會の建設を期す
 ニ、我等は労働條件の改善と労働者の向上を期す
 三、我等は會員相互の親睦と結性の涵養技術の進歩と識見の開発を期す
      政 綱
 一、労働組合の確立
 二、八時間労働
 三、生活賃銀の設定
 四、一週一日の休日
 五、集合契約の確立

 綱領、政綱共に友愛會のそれに倣ったものである。そして印刷工組合の誕生と共に従来発行してゐた「印刷工革新同志會々報」を廃し「印刷工新聞」を発行することとしたが、以前は新聞紙法に依らざる出版物であった為め時事問題に亘る記事を掲載する事の出来なんだのを、改めて千円の保証金を納付して出版法に依る新聞紙として発刊することに申合せた。

 斯うして組織された大阪印刷工組合は賀川氏の指揮の下に再出発することとなったが、思ふやうに會員を獲得することが出来ず、叉「関西印刷工同盟」も肝腎の単位となるべき各地の印刷工團体が未だハッキリした階級意識を持たす、聯合に気乗薄のところから、つひにこれは机上の計書に終って了った。それに、組合幹部の中の知識分子が、曩に記した普選運動の失敗を契機として漸次左傾化し、社会主義運動に投じたりする者も出て、印刷工組合は基だ生温い存在となった。

     産業自治の一の試み
 そこで賀川氏は持論である「産業自治」の一つの試みとして印刷工組合自ら印刷工場を経営するやう提唱するところがあった。労働組合としては大きくなり得ないでも、産業自営運動において一つのエポックを作るならばそれだけでも意義はあると賀川氏は考へたのであらう。

 そこで大正十年三月十八日に至り、二干圓の資金を集め、南区高岸町の一小活版工場を買収して印刷事業を開始した。資金は賀川氏の助言で一種の株式とし、筆者らも若干株を持たせられた。そこはお手前物の印刷で、美麗な株券も発行された。仕事は労働組合の印刷物を貰ったので相当にあった。筆者は幾度か自分の書いたパンフレットの校正にその工場へ出かけて行って知ってゐるが、ちっぽけな工場で、それでも四五名の印刷工が働いてゐた。しかし、何といっても資本も小さく、お得意も労働組合――それも今日の如く大きくなく――ぐらゐだから、採算は六ヶしく、九月には南区難波柳川町二丁目一〇八五番地に工場を移して事業を継続してゐたが、業績の不振と組合の衰微のため、持ち切れすに大正十一年末に至って工場閉鎖の已むなきに立至った。

 しかし、この産業自営運動は失敗には違ひなかったが、労働運動に一つの試みを果したといふ点では記憶さるべきであらう。その後、大正十年末には大阪鉄工組合が融通資本一萬圓を以て機械工場を設立し(これも不成績で間もたく閉鎖した)叉大日本美術友禅工組合が十年八月中旬から失職者の救済のため資本金五萬圓の友禅工場を兵庫県川辺郡北中島村に建設して十数名の失業者を使用した(これも事業不振で大正十二年十月には遂に一資本家の手に移った)が、印刷工のそれは兎も角それに先んじてゐたのである。

 資本もなく、叉信用にも乏しく且つ商才のない労働組合が産業を自営することの困難を、身を以て表明してくれた印刷工組合の存在を、今の労働運動関係者は殆んど忘れてゐるやうだ。