賀川豊彦の畏友・村島帰之(172)−村島「普選運動を中心として」
「雲の柱」昭和15年1月号(第19巻第1号)への寄稿分です。
普選運動を中心として
大正九年のわが労働運動
村島帰之
関西中心の普選運動
大正八年がわが労働運動陣営の「勢揃ひ」であったとすれば九年は正にその「出発」である。そして七十一の労働團体はこのスタートにおいて既に遅速の差が見られた。左の方に位地した連中はスタート・ダツシュ見事に利いて、右の方の連中を遥かにリードした。しかし、このスタートにおける順位が必ずしも決勝点の順位ではない事は言ふまでもない。
左翼と呼ばれた出足の早い急進派の連中は主として関東に属し、右翼と呼れて出足の早くないしかし、着実穏健な足取りの連中は主として関西に続した。左翼の人々が、欧洲戦後における外國労働階級の思想的傾向をそのまゝ承け容れて、明治から大正へかけて労働運動の先覚たちが久しく守り続けて来た協調主義をかなぐり棄て、一躍闘争主義へと推移しつゝあったのに反し、右翼の人々は、飽くまで現実に即して、歩一歩づつ地位を確保して行かうとして、まづ従来の経済運動と併行して議會政策を採らうとしてゐた。
大正九年は、後者即ち関西派、現実派の政治運動――普通選挙獲得運動によって幕が開かれた。これより先き、大正八年一月の第四十一議会は衆議院選挙法改正案――廿年以来慣行し来った大選挙区制に復活すると共に、納税額上の制限を十円から三円に引下げたのであるが、興隆し来った労働階級は之に慊らず、多年の要望たる普選を獲得せんとしたのである。関西における普選運動のリーダー賀川豊彦氏作詞の「普選の歌」を見れば、その時の現実派の言はんとするところがいづこにあったかを窺ふに足るであらう。
一、聞かずや君よ 民衆の
闇になげける その声を
金権世界を圧倒し
正義人道 地を彿ひ
貧しき者に 自由なく
民は悲しく 影薄し。
金もて自由を縛らざる
公義の天地見んために
我は叫ばん平等の
選挙の権利輿へよと
選挙の自由を与へよと
二、君よ教へよ 三圓の
貨幣に自由の 差違あるか
自由に金の 多寡あるか
正義は黄金に 劣れるか
金は人より 勝れるか
自由をなみする 國立つか
折返し
この賀川氏作るところの普選の歌は大正八、九、十年の三ヶ年にわたって示威行列の際など、いつも歌はれた。そして「正義人道」といひ、「自由、自由」と連呼するところに、賀川氏の面目の躍如たるを見る。
普選聯盟の結成
さて、賀川氏をリーダーとする友愛會を中心に関西の労働組合十七團体が叫合し、大正八年十二月十五日、議會開會を前にして普選要求運動の火蓋を切った。即ち友愛会を始めとし、向上會、大阪鉄工組合、関西鉄工祖合、日本労働組合関西本部、大阪煉瓦積立工組合、関西電工従業員組合、和歌山労働共益會、友愛會海員部神戸支部、鉄心會、帝国労働者同盟、日本労働者協會、関西屋外労働誠友會、新進會、京都印友會、西陣織友會、神戸暁明會等十三團体が組織した「普通選挙期成関西労働聯盟」なるものがこれである。そして大正八年も押し詰った十二月廿四日、大阪中央公會堂において第一回普選要求労働者演説會を開會、會衆約干、阪本孝三郎氏が聯盟の趣旨を述べた後、賀川豊彦氏が議長席に着き、久留弘三氏宣言及決議文を朗読した。
宣言は賀川氏の起草になるものである。
宣 言
金銭によらず、因襲によらず、自主と自由に目醒めたる労働者は選挙権を要求す、我等は人格者である。人格者たる我等が選挙権を要求するは当然である。我等は生産者ではないか、若し富が唯一の政治の標準だとすれば我等は政治に參輿すべき第一人者であらねばならぬ。然るに今日の選挙権は我等生産者に与ヘられずして所有者と消費者に輿へらる。こは我等の堪へ得る所でない。故に我等は斯く宣言す「人格者たる生産者は須らく選挙権を獲得すべし
決 議
我等労働者は第四十二議會に於て普通選挙法の通過を期す
この聯盟の旗揚が全普選運動開始の狼火となった。翌くれば大正九年一月四十二議會が開會され、憲政會、國民党が別個に普選案を上程するに及んで普選運動は高潮に達した。関東側でも勿論、共同動作を取らなければたらなかった。即ち一月十五日東京の友愛會本部では理事會を開いて「普選実施期を大正十年四月とし丁年以上の男子に凡て選挙権を与ヘよ]と要求することに決し、まづ東京では全國労働同盟の大示威運動及び大演説會が行はれ、関西では京都神戸でも同様の企てがあり、更に普選運動の中心たる大阪では一月十八日普選期成同盟會加盟の前記十数團体約千名の労働者が、乗馬の今井嘉幸氏を先頭に、和服姿の尾崎行雄氏をも擁して大阪堺筋を天王寺へ大行進を行ひ、同夜は中央公會堂で大演説会を開いた。が聴衆無慮五千と註せられた。代表弁士は賀川、今井氏等だった。二月に這入ると二日には友愛會単独の示威行列が行はれる筈だったが雨天でお流れとなり、鈴木文治氏等を迎えて演説會を催した。同五日には前記聯盟の代表者八木信一氏等が上京して各政党に向って直接談判を試み、又十日には芝公園において、十一日には上野において、同じ十一日、大阪でも三ケ所で普選要求演説會が行はれ廿五日の普選大會では「納税資格による制限選挙の撤廃」の外に「婦人參政権を認めよ」との主張をさへ可決した(婦入參政権の要求は政党の進歩分子も未だ公然とは言ひ得ずにゐた)
しかし、かうした労働團体の懸命の運動にも拘らす、政府は選挙法改正後(納税額制限十圓を三圓に改正せるもの)一回も実行せすして再改正をなさんとするは不穏当だとし、二月廿六日四十二議會は解散となり、その努力も一時空に帰した。四月、總選挙が行はれ、普選の神様今井嘉幸氏が大阪市第三区から立候補し、友愛會を始め各労働團体が応援して演説會を開き、叉選挙期日の切迫と共に五月九日、向上會、新進會、鉄工組合、友愛會は印刷物七萬枚を自動車五台で市中に配付したりした。しかし、今井候補は落選し、痛く労働組合員を失望させた。六月、第四十三議會が召集され、七月十二日に至って普選案は上程されたが、憲政會が「独立の生計を営むもの」との條項を固執し、國民党との意見一致を見ず、見す見す少数で否決されて了った。
議會政策への失望
労働階級は議会に對し早くも幻滅をさへ感じた。現に十月三日から三日に亘って大阪で開かれた友愛會八週年大會においては、議会に失望した関東側労働者によってまづ「吾人は断じて今の議会を信任するものにあらす」と叫ばしめるに至った。(これに対し、賀川氏ら、関西側の代表者は議會政策を固守して戦ったことは後に述べる如くである)関東側が今の議會を信任せすといったのは、関西側の意見をも容れての譲歩だった。なぜなら、彼等としては今のではなく、根本的に議会そのものを否認したかったのだからである。
かくする中、又もや議會季節が近づいて、九年十二月、第四十四議會が開かれたが、前二回の議會において普選案がみぢめに否決されたので、関東側たらずとも一般に嫌気が生じてゐるのと、一方、左翼の説く議會政策反對論の影響を受けて向上會を除いた他の各労働團体はいづれも普選運動には気乗薄となってゐたため、殆んど運動が行れず、只だ向上會のみが九年十二月「吾等は飽くまで普選を要求す」と記した三角形の色紙十萬枚を市中に撒布した。(二十年を経た今日、普選運動放棄を行った前記労働團体の指導者の眼星しい人達が殆んど皆代議士になってゐるのに、飽くまで普選要求をつゞけた賀川氏や向上會の八木信一氏等だけが議會に出てゐないのは、当時を顧みて一種の皮肉に思はれるが、しかし、これも時勢のゆゑで、必ずしもその人のせいではない。)
斯うした普選運動に對する失望はわが國の労働運動をして当時、わが國に訪れ来つつあったサンディカリズムへ方向転換を行はしめる事となった。サンディカリストは、まだ政治行動の残夢を追ひつつある労働者の耳に囁いた。――欧米諸國の労働階級が経験した如く、議會政策たるものは畢竟資本階級との一時的妥協に過ぎぬのではないか。一九一〇年の總選挙に四十人の代表者を議會に送った英國の労働党さへ、その年から英國を襲つた産業不安に直面して、果たしてどれだけのことをなし得たか、佛國におけるミルラン、ブリアンの如き、一度議会に現わるや直ちに資本階級に妥協して、労働者の自主的行動の上に圧迫を加へたではなかったか。―−
――労働運動の究極の目的が、資本主義制度の根本的改造にある限り、労動階級それ自身の力と直接経済行動によって、賃銀奴隷の鉄鎖をたち切らねばならぬ、普選運動の如きは労働階級の独立心と戦闘力を減殺するものである。諸君よ、普選要求の如き生ぬるき運動を捨てて経済上の職分と活動とに依頼する直接行動に来れ――と。
このサンディカリストの理論は大勢を動かした。少くとも急進的分子の多い関東の労働階級を動かした。そして普選反對の傾向は先づ関東方面の各労働組合の間を席捲した。これに對し賀川氏をリーダーとする関西は、飽くまで議會政策を固持して對抗した。この東西の二つの流れはどうしても一衝突を免れなかった。果然、大正九年十月二日、大阪天王寺公會堂に開かれた友愛會八週年大會に於て、サンディカリズムに没入してゐた関東同盟と、議會政策主義を堅持してゐた関西同盟會との間に、「議會政策か、直接行動か」の論争を惹起するに至った。
友愛會八週年大會の大論戦
この日、十月三日の友愛會八週年大會は、後二年に見舞った總同盟分裂を招来した十週年大會と共に、わが労働運動史上刮目に値ひする大會であった。大會の前から形勢は頗る険悪で「友愛會の分裂近し」と報づる新聞紙さへあった。果然、三日朝、梅田に着した関東側代議員等約三十名を迎へ、数百名の友愛會員が會場たる天王寺公會堂に向ふ途中の示威行列において既に小衝突が行れた。関西側の代議員は賀川氏作の「目覚めよ日本の労働者」の歌を高唱しつつ行進してゐた。すると、関東側はそれを打消すやうにして「貪婪飽くなき資本家の魔の手は……」の歌を唄った、時には「革命は云々」の國禁の歌をさへ唄って、側面を自動車で併行しつつ赤旗を振る荒畑寒村氏等××會の声援に応へた。先頭にあった賀川氏はそれを聞き咎めて「その歌はやめやう」といへば、関東側のリーダーたる麻生久氏等は「歌って何故悪い」と喰ってかかった。賀川氏は憤慨し、奮然として行列から姿を消して了った。その時、筆者もその行列の先頭にゐたが、賀川氏の姿が見えなくなったといって立ち騒ぐ関西側の代議員達を制し、兎に角、大會場までの行進だけは無事に続けさせることとし、西尾末廣氏と二人は行列から外れて、心当りのところへ人をやったりして捜してゐると、間もなく賀川氏がひょっこり帰って来て「今夜の関東側の宿泊場所が気になったので鳥渡打合せて来たのだ」といってゐたが、多分、激発する感情を抑へるため、暫く瞑想と祈りをして来たものと想像された。でも、関西側の代議員は賀川氏の顔を見てホッとした。それほど皆、この日の衝突を予想し且つ賀川氏を頼みとしてゐたのだった。第一日は開會の辞や祝辞や報告や委員の選挙で終わった。委員長には左の如く選ばれた。
信任状審査委員長棚橋小虎、會計審査委員長木村錠吉、法規委員長賀川豊彦、建議案審査委員長村島帰之、歓迎委員長西尾末廣。
同夜の千日前察天堂食における歓迎懇談會には荒畑寒村氏等の社會主義者も參列し、非常な緊張裡に行れた。筆者が司會者に挙げられ、指名してやって貰った賀川、麻生、荒畑諸氏の五分間演説は熱烈火を吐くが如くで、明日の舌戦のほどが思はれた。
第二日は會場を九條市民殿に移して開會した。他の議案はまづ無事に進んだが、工場法改正実行委員會設置案を上程するに及んで、今更ら政府の施設などに頼るのは愚だとする直接行動派(関東派)と、然らずとする議會政策派(関西派)が對立し、大舌戦を展開し、京都の一代議員は発言を求めて「これは友愛会が議会政策を採るか、直接行動を採るかの根本問題である。故に友愛会がそのいづれを取るかを決定する要がある」と主張した。これに對し、賀川氏はなほも堅く議會政策を主張して動かす、高田和逸氏等の関東派は議會政策を否認して議場は一大討論場と化し、いつ果つべしとも思はれなかったが、結局賀川氏の動議で議事を延期し、同夜の代議員の懇談會で更らに懇談的に討議をつゞけることとして漸く討論を中止した。同夜の懇談會は明かに両派の對立を見せたが何といっても硬論を吐く方が旗色が善く、関西派を率ひて悪戦苦闘をつゞける賀川氏の孤軍奮闘振りはまことに悲壮なものがあった。そして今日までは平穏無事に経過して来たわが労働運動の前途には「風波荒らかるべし」との警報が発せられた如き思ひがした。
労働組合の苦境時代
なほ大正九年の所産としては、わが國最初のメーデーが挙行せられ、ごれを契機として労働組合同盟會が生れた事などもあったが、これは東京での事であった。又争議としては二月一日八幡製鉄所三萬人の大罷業が行はれ、製鉄所御用の反動分子との衝突から遂に罷工は暴動化し、叉四月廿四日、東京市電従業員のサボタージュ(これは前年の神戸川崎のサボタージュに倣ったものである)が行はれ、続いて青山、廣尾、大塚各車庫の罷業となり電車の運転休止を見た、次で十月十五日には昨夏に引続いて各新聞社の罷業が行れたが再度惨敗の悲運を見た。しかし、これ等はみな関東の事で、関西の争議としては二月、解雇問題から大阪鉄工所三千三百名の罷業が行はれたがこれは結束が弱かったため遂に惨敗に帰した。労資戦はどこでも労働軍の旗色が悪かったのだ。
一体に大正九年は四月の恐慌以来、財界不況の影響を承けて失業者の増加来し、労働運動は従来の如く活発ならず、組合の経営も頗る困難で、友愛會大阪連合会の如き一カ月の収入百圓そこそこであった事もあり、その頃主務に就任した許りの西尾末廣氏は自ら有給主務たる事が心苦しいとして、再び工場で働きたいからとて辞任を申出でた事さへあった。西尾氏の辞職は賀川氏と高山義三氏と筆者が極力止めて辞意を翻へさせたが、当時はそれほど労働組合は窮境にあったのである。
斯うした労働運動の沈静時代とて、運動は對内部的の教育運動の方に向って進み、講習會やパンフレットの頒布などが行はれた。大正九年中に関西で発行されたパンフレットは神戸の友愛會において発行した青服叢書と大阪の共益社発行のゼネラル叢書と、大阪の友愛會内より発行した労働問題叢書とがあるが、三叢書を通じ、執筆者は賀川氏、久留弘三氏及び筆者の三人に限られてゐた。
講演會や講座の如きものが隨所で催された。それも大集會場でやるのではなく、支部主催などで、小人数が集るのが多かった。筆者は大正八年から九年へかけて友愛會神戸尻池支部の支部長をしてゐたが、毎週金曜日には尻池の一支部員の二階の四畳半で開かれる講習会に出て、当時流行してゐた「ギルド社會主義」の連続講演をやってゐた。来會者は多い時で十人、雨降りなどで少い日はたった一人といふ夜もあった。
神戸の県會議員になって鳴らした行政長蔵君が、赤ちゃん(その子がもう立派な女医にならうとしてゐる)を抱いて子守旁々やって来て、来会者はその赤ちゃんを加えて三人だったことも覚えてゐる。今は氏の演壇に立つところ、立錐の余地なきを定石とする賀川氏も、葺合支部の小さな講習會に出ては、組合員の寄りの少ないのも意とするところなく、その深い薀蓄を傾けたものである。
斯うして大正九年は暮れて行った。