賀川豊彦の畏友・村島帰之(171)−村島「本邦労働運動と基督教」(10)

 「雲の柱」昭和14年12月号(第18巻第12号)への寄稿分です。

       本邦労働運動と基督教(10)       二昔前の労働運動挿話
                          村島帰之

     組織労働者は嘆く

 本号は、一つ趣きを替へて、大正八九年頃、筆者が大毎紙上に書いた労働運動の記事の中から当時の労働界の事情を窺ふに足るやうな挿話を拾って書いて見ることにする。
 大正八年の神戸川崎造船所の怠業事件は天下の耳目を驚かしたが、その結果は八時間労働の実施となり、賃銀の増加となって労働者が少からす利益を納めた。と共に一面會社側も従来の奨励歩増を廃して時間歩増のみとした為め給料支出の減少した。一方、八時間労働が従来の十時間労働に劣らぬ成績を挙げたので、結局給料支出の減少と時間短縮に依る石炭代の節約とが會社の儲けとなって、怠業の大芝居はめでたしめでたしで幕となった 訳であった。
 ついでだが、怠業事件の余聞ともいふべき一つの挿話を記さう。それは斯うだ。怠業事件の最初の要求條項中には「食堂洗面場共他衛生設備を完備する事」といふのがあった。以前は馬尻の水を工場の中へ持ち込んで飛沫の飛ばぬやうに、シカも一杯の水で幾十人かゞ顔を洗ったものだった。會社でもその要求の至当なるを認め、最初から之を容れ食堂は工場内に余地のない為拡張後の事とし、その代り洗面所を設備する事となった。造船所の職工門を這入って行くと通路の左右に、台所のみづやのやうな洗面所が設けられて、會社は最初一箇所に金蓋三十個を用意して職工の洗面の用に供したが、夫れを備へてから十日経つか経たぬ間にその内の八個は何時の間にやら紛失し、剰え之を繋いた鎖までが殆ど全部取り去られてゐるのであった。
 目覚めた労働者のある一面にはそういふ手合もゐたのであり組合運動者を嘆かせたものである。

     手を焼いた松方社長
 もう一つ、資本家側の挿話を書かう。川崎造船所の社長松方幸次郎氏の事である。氏は当時の日本の資本家中にあっては推しも推されもせぬ「新しき資本家」であった。他に卒先して八時間労働実施を発表して天下をアッと云はせた一事でも解るだらう。併し彼は決して世間の想像するやうな太ッツ腹な男ではなく寧ろ極めて細心なそして涙脆い男であった。彼は毎朝几帳面に六時の始業時問までに御自慢の二頭馬車を駆って出勤した。ところが途中で始業の笛が鳴り初めて遅れて来た労働者が息せき切って走って行くのなどに會ふと彼は自ら馬車の扉を開けて「遅れるぞ。サア乗れ、一緒に行かう」と脂肪によごれた労働者を車中に迎へて職工門まで送り届けてやるやうな事もあった。彼は叉書類の署名が済んで手が空くと工場の中をブラブラと巡視する。そして工場内に石炭や鉱石の屑や鋲などが落ちてゐると早速拾ひ上げて「石炭にしろ鉱石にしろ最初は皆労働者が熱い思ひをして掘出したものだ、粗末に取扱ってはならぬぞ」と言ひ乍ら一定の箱へ入れる。彼はその箱を自ら「宝箱」と称したが悪戯好きの職工は之を黙っては見て居なかった。
 或日何時もの通り工場内を屑拾のやうに何か拾物もかなと捜して歩いて行くと、あるはあるは而も大きな立派な鋲が通路の中央に落ちてゐる。彼は鉱脈を発見した鉱山師のやうに悦んで早速手を伸ばしてその鋲を拾はうとした。その時四辺の機械の影からはクスクスといふ職工の笑声が聞えた。彼は「何だ笑ひ事ぢゃないぞ此の鋲も労働者が……」と呟きながら鋲を掴まうとした。と彼の手はバネ仕掛のやうに元へ返って行った。彼の指は無残にも火傷をしたのであった。云ふまでもない。職工仲間の茶目が予め火の中で熱して置いた鋲を社長の通路へ故意と放って置いたのである。彼は宝箱の為めに自らの手を焼いたのであった。
 右の挿話は左翼の作家貴司山治氏が筆者から話を聞いて小説にした。「社長の馬車」といふ題であった。

     洋行職工の失敗談
 当時−−大正八九年頃−―の川崎造船所にはI萬六干人許りの職工が居たがそれ等の職工は居住常なく宛るで浮草のやうに今日は西、明日は東と動いてゐて勤続年数は平均一年位であった。即ち一萬六千の職工中九千人(五割強)は勤続一年未満で更に三年未満の者はといへば実に一萬三千五百人即ち總人員の八割五分に当ってゐた。こんなに職工の移動が激しいので會社が若し職工を減らさうと思へば新規の募集を差控へさへすれば一年も経てば職工は半数に減って了ふ勘定であった。
 斯うした職工の移動の激しい中に勤続数十年の長きに亘って栄進してゐる人もあった。当時の川崎造船所造機製罐両工作部長たる藤井氏の如きは最初日給五銭の圖工から這入ったのだし、叉造機設計部長である小川氏は初め日給四十銭の圖工であった。會社では斯うした生粋の川崎ッ児の栄進するのを希望して優秀な職工は海外に送って親しく彼地の造船工場を視察せしめたがその数数百名の多きに上る。斯うした連中は素より語學の素養もたい為めに彼地へ行っては至る所で失敗を演じた。Kといふ某工場長――彼は友愛会の幹部だった−―は英吉利にゐた時或る外人の家庭の音楽會に聘れた。Kは勿論音楽の素養も無いので只美しい金髪美人が朱唇を尖らせて歌ふのや白魚のやうな指のピヤノのキーからキーヘ稲妻のやうに走るのに見恍れてゐたが梢あってその家の娘さんから「ミストル、K、日本の歌を唄ってきかして頂戴な、ね、是非」とせがまれて、彼は機械のタイヤーが外れた時のやうに吃驚仰天した。彼は歌らしい歌を一つも知らなかった。彼は今更に都々逸の一つ位は教わって置けば善かったと後悔した。併し夫れはその場の間には合はない。令嬢の要求は焦急である。彼は致し方なしにピアノの前に立たされた。彼は仕方なしに唄ひ出した。勿論外人にはその歌の何たるやが解る筈はない。歌の了ると共にヤンヤといふ拍手が送られた。彼は真ッ赤になって椅子に帰って恥しさうに俯向いた儘暫くは顔も上げなかった。彼の唄った歌は「モシモシお竹さん」といふ猥褻な歌であった。

     八時間労働は看板
 それはさておき、松方社長の投じた一石「八時間労働制」は当時の労働界の合言葉の如くになって、爾後、頻発した大小の争議は、悉くその要求事項の中に此の「八時間労働制の実施」の一項を挿入する事を忘れなかった。
 尤も、八時間労働とはいっても、名目だけで、実際はそれ以上を課した。賃銀は一日八時間労働を単位として支払はれ、それ以上は残業として歩増を支給するのだった。
 大概の工場の始業時間は六時であった。職工労働者はそれに遅れぬやうに起きるのだが住宅難のために遠隔の地から通うてゐる者などになると朝四時には既に床を離れねばならない。彼等の愛児は未だスヤスヤと眠ってゐる。その枕許を忍び足で通って工場へ行く。そして油−汗―埃―響−さうした中に八時間乃至十時間といふものを蟻の如くになって働くのだが、当時兵庫県下千三百有余の工場法適用工場中労働時間九時間以下のものは五十とはなかった。尚一家をして飢ゑざらしめんためには更にその上二時間乃至四時間の残業、時には徹夜作業に従はねばならない。斯くて一日の業を了へて綿の如く疲れた身体を家へ運んで婦っても迎ふる者は眠む相な妻の顔とそして愛児の寝顔である。彼等は遂に寝顔以外愛児の顔を見る事が出来ないのだ。一家団欒の楽しみも労働者には之を享受すべくもない。三度の食事を一家揃うて喰べるといふやうな事も殆ど稀であった。
 ところが此處に一つ例外的な美しい挿話がある。夫は神戸から程遠からぬ播州相生にある播磨造船所の職工の身の上に就てから渡船で通ふやうになってゐるが、早朝夜勤の職工が家路に就いて渡船に乗って来ると、其處に職工を待受けてゐる女かおる。読者よ、彼を借金取や情婦と速断してはならない。彼女は職工の愛妻であった。之が西洋物の活動寫真なら必ずや渾身の力をこめた抱擁と燃ゆる如き熱き接吻が其處になされるのだらうが、生憎彼等は日本人であった。努めて感情を殺すやうに教育されて来た彼等は、朝の挨拶をするのにも人を憚るのであった。彼等は相携へて家へ戻って楽しき朝餐を取るのかと思ふと然うではなかった。二人は海端へ共に腰を下した。そして軈て妻は携へて来た風呂敷を披いた。中からは辨当が出た。併し夫れは夫の分丈けではなく夫婦二人の分であった。彼女はセセコマしい我家で朝飯を取る不愉快を避け、尚空腹の夫をして一刻も早く飯に有付かしめん為めに態々朝の食卓を此處まで運んで来たのである。
 海辺の一家団欒! 彼等の前に展開された海の景色よりも二人の睦じい朝餐の場景こそ世にも美しきものと言はねばならない。

     女工募集の看板として

 「八時間労働制」は、叉、職工募集の道具に使はれた。特に彿底を告げる女工の募集には、これが善い廣告となった。その頃阪神電車沿線には牢獄風の赤煉瓦の工場の壁へ「八時間労働実施女工募集」と時節柄人目を惹くやうな廣告をしてゐる紡績工場さへあった。斯うなっては八時間労働も所詮は職工募集の一手段に過ぎない。夫れほど女工は払底だからである。
 読者が試みに紡績工場へ職を求めて行ったとして、若し読者が黒髪長い女であったら會社は勿論待ってましたと許り夷顔で歓迎しただらうが、叉若し誤って男だったら對手は屹度眉を顰め乍ら問ふだらう「お母さん一人かい。おかみさんか姉妹でもないのかい」と。之に對し若し「私一人限りだ」と答へたら「ぢや気の毒だが男工は今の處要らない」と膠なく断られるにきまってゐる。叉反對に女房−−夫れは必ずしも戸籍上の女房でなくても善い、女でさへあれば――仮令人の女房でも善いのだ――を連れてゐると答へたら「今男工は格別要らないが、おかみと別れさすのは気の毒だからまあ一緒に勤めさせて上げやう」と女のお蔭で入社が叶ふだらう。そうまでして會紅は女工の募集に努めてゐるのだ。紡績工場許りではない。女手を必要とする工場は皆同一だ。一日、筆者が武庫川のリバー・ブラザー石鹸工場へ行ってゐた時、女工が必要な許っかりに要もない亭主をも一緒に雇入れて、工場の主任は「サア、何部へ行って貰はうかナ」と改めて男工の使ひ口を考へてゐるのを聞いた事もあった。斯うなってはさなきだに下り勝ちな宿六の権威は愈々地を彿ふに至るは必定だ。
 尚前記紡績工場が独身男工の雇入を拒んだ理由は、尚一つ別な原因がある。夫れは何分紡績工場は女護ケ島だから若い男の珍重される事は甚しいもので、夫を目当に紡績工場へ這入る不埓な男工もないではない。彼等は工場へ這入って色情関係で女工を唆かし絞れるだけ絞った上誘き出して他の工場へ箝め込むのである。女工一人を周旋すれば周旋料が入る。工場は女工一人を募るのに少からぬ募集費を使ってゐるのだから、ムザムザ奪ひ去られては耐ったものではない。工場が独身男工を忌む事蛇蝎の如くなのも已むを得ない。繊維工業の多い関西では女工は宝である。男工は屑である。

     救世軍もどきの路傍演説

 右に挙げた数種の挿話によって、その頃の労働者の様子が多少窺はれるだらうか。労働者の中でも組織労働者は、非組織の連中に比べると格段の差違があった。明治末期頃の組織労働者に比べても亦非常なる進歩であった。
 今から四五十年も前の労働者運動は指導者許りが熱心で肝腎の労働者は至って不真面目であった。同盟進工組の創立当時の如き同團体の主なる労働者が協議會に託つけて女郎買に出かけた為め妻君の逆鱗に触れ、次回からは協議會と云へば妻君が外出禁止を命ずるので、同會は遂に成立に至らずして闇から闇に葬られたと云ふ実例さへある。然るに今日はどうだらう。協議會に託つけて女郎買に行く者のないのは勿論、協議會へ来ても會議前後の休息時間には智識階級の人々を取巻いて「一体唯物史観ってどんな事です」「ギルド社會主義と工場民主との関係は」などと疑問を浴せかけるといふ真面目さである。叉昔日の労働者の演説會と云へば余興に浪花節や琵琶のあるのがお決まりだったが、此頃では浪花節なんぞをやらうものならそれこそ大向から「簡単簡単」「演説をやるべし」などと半丁が掛る。労働者諸君が演説に興味を持つ事は吾人の想像以上である。彼等は演説を聴く事を好むのみならす自らも之を試みる事を悦ぶ。近頃頻りに聞かれる友愛會の演説會などには出演希望の労働者が多過ぎて、之が為め真打の名士の演説が時間が切れてやれず終ひになる場合が少くない。労働者の熱心は之れ丈けではない。彼等は自分達の演説を一人でも多くの聴衆に聞かせたい為めに彼等中の雄弁家が會場の前へ立って「労働者問題は二十世紀の大問題である。経國の志ある人は来って我等筋肉労働者の血の叫びを聞き給ヘ!」と大いに示威運動をやるのが常である。
 そのため大正八年頃、京阪神の友愛會の支部には、會旗と共に必す友愛會の徽章入の提灯があって、路傍演説の時に使はれた。これはしかし、賀川氏の傅道のやり方に倣ったといふ点もないではない。叉、大正九年、久留弘三氏が結婚した時には、結婚祝ひの「返し」として、神戸友愛会へ大太鼓が寄附され、これを路傍演説に使って救世軍の向ふを張ったことさへあった。

     友愛會の入會式
 その頃の友愛會には、今日では殆んど見られない入会式なるものが行はれた。夫れはその労働団体の代表者と新人会員が手を握り合って生死を共にする事を誓ふ儀式である。握手は言ふまでもなく右の手ですべきもので如何に無智な労働者でも夫れを知らない筈はないのだが、イザ握手といふ段取りとなって此方が右の手を出してゐるのに先方では左の手を出す者が少くなかった。夫れは右手と右手を間違へたのではない。皆は右指が無いため故意と左手を差出すのであった。彼等は或は歯車に挟まれ或は截断器で大切な指を切られたのである。当時の友愛會神戸聯合會長颯波(さつは)光三氏の如きも人差指が中途から失はれてゐた。鉄道院の調査に依ると工場内の負傷率は千人の労働者に對し一箇年千五百五十一人といふ比率になってゐる。即ち一人が必ず一度以上負傷する訳である。而して之に對して支払はるる扶助料は工場法に依ると死亡及永久労働不能者、日給百七十日分を最高とし片眼をなくしても六十五日分、指一本落した位では四十五日分が相場である。即ち職工の指一本の相場は三十圓乃至五十圓で五百圓も出せば十本の指全部が買はれる勘定である。夫れ處か工場法適用外にある某工廠などでは不可抗力に起因する負傷で小指一本右なら七圓、左なら六圓、更に一般負傷では小指一本五圓均一といふのさへあった。何といふ安い指だらう。死亡の場合も同断である。日本の工場法は死亡の場合賃金百七十日分以上を支給せよと定めてゐる。即ち日給一圓の者で百七十圓にしか過ぎたい。之を米國の九千日分(日給一圓の者で九千円)に比べて余りの懸隔である。尤も川崎三菱両造船所の如きは比較的多くを支払ってゐた。大正八年八月中に支払はれた川崎造船所の死亡職工に對する扶助料は左の如くであった。

多額に呉れるといっても人間一匹の潰し値段が平均四五百円とは畜犬のも劣るものである。労働団体としては之等の殉職者に對しては二十圓位の香奠を贈り葬儀当日には會旗を押立てゝ野辺の送りに立つ丈けの事であった。そして之が演説會雑誌頒布に次ぐ團体の仕事の主要な部分をなしてゐるのだ。

       (この連載はこの号で終わる)