賀川豊彦の畏友・村島帰之(170)−村島「本邦労働運動と基督教」(9)

  「雲の柱」昭和14年10月号(第18巻第10号)への寄稿分です。

        本邦労働運動と基督歌(9)
        労働運動の花一時に開く
                          村島帰之

     記憶すべき大正八年

 大正八年といふ年は、単に欧洲戦乱が終息して世界に平和が訪れた最初の年として記憶せらるべきではない。この年こそはわが無産階級運動が飛躍的進歩を遂げた年として後年の史家が特筆大書すべき年なのである。
 これより先き海外ではロシア革命の成就があり、英米炭坑夫のゼネストがあり、又わが国では米騒動があったりして、無産階級を刺激することのみ多く、加ふるにデモクラシー思想の浸入によって、彼等は潔よく封建思想を揚棄し、階級意識に目覚めて来た。彼等は競ふて労働組合の傘下にに集った。大正元年には五つしかなく、同五年に殖えたといっても十三しかなかった労働組合が八年には一躍七十一に激増した。組合の活動による罷業も従って殖えて、大正元年には四十九件(參加人員五千七百)だったのが、五年には殖えて百八件(參加人員八千五百)となり、資本家を驚かせたのが、それから僅か三年後の大正八年には驚くべし、四百九十七件、六萬三千人といふ激増を示し、わが国の歴史あって初めての「労働不安の時代」を劃したのである。
 まづ大正元年――大正八年間に設立された労働組合及び惹起された争議の数を左に示さう。


 
 
     驚くべき組合の勃興
 以上の数字によっても窺はれる如く、大正七年までは、その醍酸期とも称すべく極めて徐々として発達の歩調を辿ってゐたのが、大正八年に至って俄然迸出し、わが労働運動史上の一紀元を劃したのである。特に労働組合の興隆は驚くべきものがあって、百花の一時に綻ぴた感があった。試みにこの年に組織された労働組合の中、その重なるものを挙げると、東京方面では東京市内十五新聞の活版職工による正進會、東京砲兵工廠内に芳川哲、安達和氏等を中心とした小石川労働會、中西伊之助氏等を中心とする東京市電従業員より成る交通労働組合、主として足尾銅山、釜石鉱山の坑夫から成る大日本鉱山労働同盟會、東京芝浦製作所内の芝浦技友會、築地海軍造兵廠の職工より或る築地工人會、大日本機械技工組合等。叉大阪方面に於ては、八木信一氏を會長として大阪砲兵工廠内に生れた向上會、職工組合期成同盟會の後身である阪本幸三郎氏等の大阪鉄工組合、安藤國松氏を幹部として、住友伸銅工組合、その他大阪刷子工組合、郊外電車従業員の関西電鉄従業員組合等、等、神戸方面は、さきに記した如く賀川豊彦、久留弘三氏等を中心に友愛會の関西労働同盟會が新しく結成され、三谷幸吉氏を幹部として神戸印刷工組合が生れた。
 京都方面では高山義三、東忠績氏を幹部として友愛會京都聯合會を始め、京都市電同盟會、西陣織友會(辻井民之助、佐々木隆太郎氏等を幹部として生れた)、中國方面には、呉海軍職工の呉市労働組合が組織され、九州方面では、粕谷炭田方面に坑夫協會、浅原健三氏を幹部として八幡製鉄所の職工をもって日本労友會が組織され、又友愛會の八幡支部、戸畑支部、長崎支部、門司支部、後藤寺支部、幸袋の支部を統轄する為めに木村錠吉氏を主任にして友愛會九州出張所が設けられた。
 かくの如く大正元年友愛會が創設され、漸次に勃興の機運動にはあったが、巌密な意味に於て、大正八年までは、近代的な労働運動と見るべき程のものもなく、八年に至って、初めて無産階級運動らしき運動が始ったといっても過言ではないのである。
 大正八年中に起った争議の中でも、最も世の注目を惹いたのは、東京砲兵工廠の罷業、東京市電の怠業、印刷工信友會の八時間労働要求の罷業、つゞいて新聞社印刷職工の罷業、足尾銅山、釜石鉱山、日立鉱山の大罷業と、そして神戸に起った川崎造船所職工のサボタージュである。これ等の一つ一つが悉く資本家を戦慄せしめ、世人を驚倒せしめたものである。

     日本最初の大サボタージユ

 神戸川崎造船所職工のサボタージュは、二年後に惹起される大罷業――賀川氏の指揮した――の前哨戦と見るべきもので、わが國最初の大サボタージュであった。このサボタージュの事は、賀川氏の「壁の聴く時」の中にも出てゐて、斯く申す筆者の名をもじった「島村信之」中なる新聞記者が、戦術としてのサボタージュを組合の幹部に教へるところが書いてあるが、大体間違ひはない。思ひ起す、その日、労資代表の會見が決裂した時、各新聞記者は談判決裂のニュースを夕刊に間に合せるために俥を走らせて帰って行ったが、筆者だけは期する處があったので、独り踏止って工場内を見て廻った。果して、談判破裂と聞くや、一萬六千の職工は一斉に怠業状態に這入った。ストライキではないのだから、彼等は職場を離れない。機械は空廻りをしてゐる。石炭は燃やされてゐる。電気クレーンは徒らに動いてゐるだけである。煙突からは日頃よりも更らに威勢よく黒煙が立ち昇ってゐる。それがサボタージュなのだ。筆者はそれを見届けて悠々と引揚げた。川崎一萬六千の職工の大サボタージュが、その日の大阪毎日の夕刊だけに堂々と報ぜられた。同盟怠業と書いてサボタージュと振り仮名をつけて――。
 恐らく二十二年の筆者の記者生活中、それほど愉快だった事はない。失敗の経験ばかりの昔語りの中で、これが筆者の手柄話の唯だ一つのものである。
 賀川氏はどっちかといふとサンヂカリストの慣用するサボタージュを好まないらしかった。川崎の怠業事件の起きるより半年ほど前の友愛會機関紙新神戸に「暴動の安全弁」と題する小論文を載せてゐるが、その中で「或種の労働運動関係者はサボテーヂと称して暴動は労働運動に必要なりと説く者がある。然し私等はその教理と実際を笑ふものである」と記して、サンヂカリストに挑戦してゐたほどだ。しかし、「暴動」とまでは行かない「安からう、悪からう」の怠業程度のサボテーヂには必ずしも反對ではなく、直接、策戦に加はりこそしなかったが、心配になると見えて、サボに這入った何日目かに、工場占拠をやってゐる争議團幹部を工場に見舊に来て、幹事を激励して行った。
 このサボタージュで、川崎造船所の職工は初めて八時間労働制を獲得し、これが動機となって各工場で八時間制を実施するやうになったのである。(詳しい事は拙稿「サボタージュ」參照)
 川崎のサボタージュのみならす、大正八年中、関西方面で沢山の争議が行はれた。そしてその悉くが労働組合の指揮下に行はれて相当以上の成果を収めた。組合はどんどん大きくならざるを得なかった。友愛會の如きは、大正八年秋、萬國労働會議から帰朝した會長鈴木文治氏を迎へた時には、全國に五萬の組合員を擁してゐた。神戸だけでも優に三千はゐたらう。巴里戻りの鈴本會長を三宮駅頭に迎へた神戸の労働者は、鈴木氏を二頭馬車に乗せ、楽隊を先頭にして市中を練り歩いた。筆者の勤務する大阪毎日神戸支局からは花輪を附ったりしたもので、鈴木氏の馬車には今の會長松岡駒吉氏(当時本部會計)と久留弘三氏と筆者が同乗し、馭者台には山高帽をかぶった濱田國太郎氏(後の海員組合長)が馭者と一緒に乗った。この時の姿がエハガキになって今も残ってゐて、見る毎に薇苦笑を禁じ得ないものがある。兎に角、幹部たちは、労働組合の黄金時代来れと許り、宇頂天になってゐたことだけは間違ひがない。

     智識階級の排斥
 労働組合運動は軌道に乗り出した。友愛會ではその組織を拡大し、関東、関西に同盟會を置く外、各地に地方的聯合會を組織して多くの支部を指導して行った。その指導の任に当る者は労働者出身者ではなく、知識分子だった。まだその頃までは、労働者自身が、労働者出身者よりも知識分子を尊敬して、今から考へると嘘のやうだが、同じ労働者をリーダーに頂く事を潔しとしない風潮さへただ残ってゐたのであった。それで友愛會本部には鈴木氏を援助する帝大出身の麻生久、棚橋小虎氏等、知識階級が參加し、その他の地方でも、京都に京大出身高山義三氏、同志社大學出身東忠績氏、神戸に賀川豊彦氏及び早大出身の久留弘三氏と筆者の如き知識分子が筆に口に示威運動に、リーダー・シップを採ってゐたものである。然るに八年半頃に至り、突如、これ等の知識分子のリーダー・シップに對し純労働者の間から排斥運動か起って来た。中心は東京であったが、神戸にも波及して、前記木村氏を中心にして寄々協議がなされ、八年六月十五日と二十一日の同盟會の理事會では、一つの地理的綜合組合に跼蹐せず、職業別組合を単位として地方聯合會を作り、その上に全國的の聯盟を組織して戦闘体形を強化すること、叉知識分子の専断を抑へて労働者より多数の理事を選出しその指導権を握ること、そのために會長のみならす、理事も大會で選挙することなどを申合せた。これは労働者の中に立派な人物が出て来たためでもあるが、実はロシアのコミンテルンが日本の労働者に働きかけた最初の工作であったともいはれる。そしてその標榜するところは、知識階級全体の排斥でもあるが、主として狙はれる人物は鈴木會長であった。つまりこの運動は一面、鈴木會長の追ひ出し運動でもあった。筆者は大正八年の秋に、大毎神戸支局勤務から大阪本社勤務に復したが、帰社すると早々、東京電話で友愛會の會長更迭後任には西尾末廣氏か松岡駒吉氏かがなるだらうといふセンセーショナルな記事が送られて来て、社會部長からその真偽を質問された。その時、筆者はそうした気運はあるにはあるが、まだそこまでは行ってゐない。西尾、松岡両氏のいづれかが會長に納る時期は必ず来るが、しかし茲二三年のうちに来るとは思はない――と確言した、しかし筆者の証言にも拘らす、社會部長は翌日の社會面のトップに麗々しく写真人で、此記事をのせた。しかし、筆者の確言の通り、その時も、叉それから数年間はそうした事は実現せす、約十年を経て漸く鈴木會長の勇退となり、松岡駒吉氏の會長就任とたった事は世人の知る通りである。
 知識階級排斥は、ホンの一時の現象だった。勿論、感情としてはずっと後までも残されたけれど、運動としてはいつの間にか表面立たなくなった。コミンテルンの手先ではないにしても、その思想に動かされてゐると見れば見られぬ事もない一部の労働者出身リーダーの、此種の運動の手が止まると共に、排斥運動も立消えになった。そして、好ましい傾向である、ないは兎も角として、依然として知識分子尊重の風があった。その活きた実例として一つの挿話を語らう。
 今は松岡駒吉氏と並んで、労働運動の大立物として押しも押されもしない西尾末廣氏であるが、大正八年の末頃、友愛會関西同盟會の總務にして大阪聯合會の主務を兼ねる久留弘三氏が神戸の同盟會の仕事の忙しいために、大阪の主務を西尾氏に譲らうとした處、真っ先に反對を唱へたのは、同じ労働者出身のリーダーであった。「西尾君は何ぼエラうても労働者やからなア」といふのだ。それを押切って、主務に据えたのは、後年、西尾氏と仇敵の如き開係になった久留氏だったのである。此事は誰よりも筆者が知ってゐる。筆者は当時、久留氏からその相談に預って賛意を表したのだったからだ。
 西尾氏は大阪の主務となった。しかし、西尾氏は今でも然うであるやうに、賀川氏を始め多くの知識分子に對して謙遜な態度を持してゐた。特に賀川氏に對しては常に尊敬を払ひ、慇懃な態度をとってゐた。知識階級排斥運動がなされたからといって、その尊敬の態度に毫末の変りはなかった。鑓田研一氏著「賀川豊彦」の中に、西尾末廣氏が賀川氏に向って「賀川君、けふは刑事が沢山来てるよ」と、ぞんざいな言葉を使ってゐるが、西尾氏は過去二十年間の賀川氏との交遊において「賀川君」と呼んだ事は嘗て一度もない。叉、「刑事が来てるよ」といった風な言葉も使った事がない。用ったって少しも構はないのだが、使った事がないのである。これは小説の價値に影響するやうな誤りでも何でもないのだが、当時の開西の労働運動に於ての賀川氏が如何に労働者から尊敬されてゐたか、否、賀川氏に限らず、知識分子が尊敬されてゐた事実を明らかにして置くために一言しただけである。
 知識階級偏重は決して望しき事ではない。筆者が言はうとするのはその可否でなく、只だ当時の事情がそうであったと語らうとしたのに過ぎない。

     (この号はこれで終わりです)