賀川豊彦の畏友・村島帰之(169)−村島「本邦労働運動と基督教」(8)

  「雲の柱」昭和14年9月号(第18巻第9号)への寄稿分です。

       本邦労働運動と基督教(8)       関西労働同盟の指導精神
                           村島帰之
   
     社會不安の爆発

 米騒動は越後の漁村の女房達によって火蓋を切られた。しかしそれは只だ火蓋を切られたといふだけであって、表現の形式は兎に角、いづれは爆発しなければならない急迫した情勢にあったのである。米騒動は偶然に起ったものではなく、当然、起るべく、若くは起らざるべからずして起ったものだったのである。といふのは、欧洲戦乱以来、経済界の活況を告げて所謂「成金」の輩出となった。曰く船成金、曰く鉄成金、曰く米成金、曰く炭成金等、等と。彼等は自分一個の力によって巨萬の富を克ち得たものの如く誤信して、傍若無人の振舞をして憚るところがなかった。或者は宮殿の如き大邸宅を新築して貴顯紳士を招き、一夜の宴席に数萬圓を投じて得意がった。又或者は金によって無産階級の子女の貞操を買ふことの出来るのを奇貨とし、いたいけなる舞妓を、一人ならす数人一時に人身供養にし、野獣すらせざる蛮行を敢てして自らの全盛を衿った。(賀川氏の「太陽を射るもの」にはこの事実が小説化して記されてゐる。)彼等はひたすら物質界の全盛を謳歌して、正義も、人道も、義理も、人情も、あらゆる道徳を弊履の如く棄てて顧みなかった。しかも、少数の彼等が全盛を謳ふ影に、栄華を壽く裏に、夥しく多数の民衆が社會悲劇に泣かされてゐた。物價は極度の騰貴を示して戦前に比し七割以上の上騰であった。必需品は五割、梅干の如きは十三割、燐寸は十二割高だった。鉄成金やら炭成金を産んだ北九州などは十三割からの物價高と報ぜられた。しかし、一方、大衆の収入も殖えたでせうと仰しやるのか。然うです。大工さんの六割四分高を筆頭に職工は四割、巡査は一割七分の増収を見た。しかし、これを七割、十割といふ物價高に對比して一体彼等の家計簿がどれだけうるをうたといふのだ。貧民地帯では欠食児童が激増して、体操の時間に卒倒したり、体操を勘忍して下さい。お腹がへって動けません」といふ児が出た。残飯屋が繁昌して、親子四人のお菜代四銭ですます残飯家族が殖えた。勿論、成金職工といふものも出た。しかし、これはホンの少数の請負工や職長級で、それも残業や徹夜作業によって実収が殖えたといふに過ぎない。(これ等の数字は拙著「生活不安」に詳しい)
 極端な富と貧乏、成金と成貧の對立であった。社会は明らかにその平衡を失はんとしてゐた。平衡の破れた時に社會の秩序の紊れるのは当然すぎるほど当然である。米騒動はその現れに過ぎない。
 米騒動の最中、犯罪者をひっくくるのが役目の一人の看守は暴徒と共に拘引された。彼は安米が買へるといふので米袋を下げて群衆のあとから尾いて行ったのだった。安い月給では容易に米が買へないとあって見れば、たとひサーベルを佩く身でも、安米を買ひに行くのに何の不思議があらう。勿論、群衆心理に作用されてどうかしたといふのは後の問題であって、調べる方に廻った警官も涙を以て窃盗罪としての處分を言ひ渡したといふ事だ。
 米騒動は社會不安に全く無関心だった識者に對する一大警鐘となり、叉利きすぎるほどの刺戟剤となったが、一方労働階級も、俄然覚醒してこの不安を除くためにはどうしても労働者自らの力によらねばならぬことを悟り、所謂階級意識の目ざめとなった。現に米騒動による起訴数六千人を数へた八月の同盟罷業件数は僅か一ヶ月で百二件といふ未曾有の増加を示したといふのでも知れやう。
 しかし、だからといって天馬空を行く如き勢ひで労働階級が前進して行ったら一体どうなるだらう。識者たちは既にそれを怖れて早くも労働組合弾圧の必要を説く者すらあった。此處においてか、労働組合としては、ひたむきに前進するよりも此の場合、足場を固める事が必要たった。まづ団結権の公認を獲得することが焦眉の急務であった。友愛會の機関誌「労動及産業」などは、毎号の表紙に「労働組合を公認せよ」といふスローガンを掲げたりした。
 大正七年もあと二日と迫った十二月三十日、鈴木友愛会長はヴェルサイユの平和會議に日本の労働代表として臨むこととなり横濱を出発した。その折、神戸聯合會代表が読み上げた決議文は賀川氏の起草になるもので左の如く記されてあった。


      決   議

 神戸聯合會代議員會ハ鈴木會長ガ世界労働者大會ニ左ノ挨拶セラレンコトヲ要求ス
 我等労働者ハ世界こ於ケル永久平和ヲ要求シソノ為メニ萬國ノ労働者ガ一致協カセンコトヲ希望ス、又皮膚ノ色ニヨリテ人類ヲ区別セズ、各國民族ニ均等ノ労働権及移民権ヲ賦与シ、今日ノ資本家文化ニ代リテ労働者ヲ基礎トセル文化ノ一日モ早ク建設セラレンコトヲ要求ス
  大正七年十二月二十六日
                  神戸聯合會代議員會


 皮膚の色によりて人類を区別せず、各國民族に均等の労働権及移民権――と要求するあたり、賀川氏ならでは書き得ないところである。

     関西労働同盟の結成
 大正八年が来た。その初頭の會合は労働組合公認期成大講演會であった。即ち一月十六日、株屋岩本栄之助氏が百萬圓の巨費で建てて市へ寄附した大阪中央公會堂で開かれ、聴衆二千五百、今井、岡村両博士や賀川氏が出演し、当夜の決議文は賀川氏が携へて上京した。つゞいて三月一日には友愛會関西出張所が音頭をとって治警十七條撤廃請願運動を起し、管下十一支部の會員の調印を求め、東京本部のと合せてこれを今井嘉幸代議士に託し衆議院に請願し、次で十五日には中央公會堂に講演會を開催、賀川氏及松村敏夫氏等が出演した。
 右の二つの運動を手始めとして、大正八年一杯は(年末議會シーズンに入って普選運動を開始するまでは)組合公認と治安警察法撤廃の二目的に向っての集中射撃であった。
 大正八年中、各地で催された演説會に於ける主要目標は殆んどこの二問題に限られた感があった。賀川氏らは引張凧の有様で、筆者の如きでさへ、同じ話をするのが気がひけて、いろいろと草案を作り直すのに苦心したほどだ。
 この二大問題が労働者を吸引した訳ではなかったが、組合は非常な勢ひで膨らんで行った。外では萬國會議が進捗して、労働原則が討議せられた。これが間接に労働階級の刺戟となり、階級意識を高めて行った事は言ふまでもない。
 大阪では八年に這入ってから、三月に傅法(合同紡績)、四月に鯰江(川北電気職工)玉造(製管工)、六月に鶴橋(刷子工)、七月に阪南(合同紡)、八月に市岡(大阪鉄工所職工)北(サンランプ及日本兵器)安治川(安倍川鉄工所)、十月に南(久保田鉄工所)、十二月に鉄友(汽車會社職工)の各支部が出来た。そして大阪聯合會だけで會員は優に三千に近く、これに神戸聯合會の三千、それに京都を合して、関西の友愛會の実勢力は千入になんなんとした。そこでこれ等、開西各地の友愛会員の連絡統一を圖るため、関西同盟會を組織することゝなり、四月十三日その創立大會を豊崎町の相生桜で開いた。そして會長には神戸川崎造船所の木村錠吉氏、副會長には大阪住吉伸銅所の成瀬啓三氏及京都奥村電機の井上末次郎氏、理事長には賀川豊彦氏が夫々当選した。同創立大會の公開演説會には、鈴木會長のヴェルサイユ萬國會議出張中の留守會長北澤新次郎氏(早大教授)及び筆者が出演した。

     開西労働同盟會長木村錠吉氏
 友愛會関西労働同盟會員六千を率ゐて労働運動の第一線に立った労働者――神戸川崎造船所造船部造機工場長木村錠吉氏とは如何なる人物であったか。
 此處に工場長と言っても彼は技師でも社員でもなかった。矢張り、汗と油とで真黒くなって働いてゐる一職工であった。彼は月収約三百圓、官吏ならば三級の知事といふ處、カーキ色の垢付いた工場着を着、頭に古色蒼然たる麦藁帽子を被ってゐる。彼が夕五時工場の笛を聞いて家に戻れば、ソコには今春高等女學校を出た長女を頭に五人の子女が父の帰りを待ってゐた。彼は五人の子女に取巻かれ乍ら打寛いで彼の唯一の道楽なる各種の葉巻煙草を取出して、あれかこれかと賞味する、彼は取って五十歳。
 明治二十年、十七歳で横須賀造船所の見習職工となったのが工場生活の振出しで、先づ横須賀では日本最終の木造軍艦たる武蔵及日本最初の鋼鉄軍艦たる愛宕の建造に掌り、次で各地を渡り歩いて二十八歳の春、初めて職工長となり三池炭坑に入った。現今の萬田炭坑の巻上機械や喞筒の如き彼の据付けたものであった。日露役当時には佐世保に居て、彼の三笠艦引揚の際には一部の職長として主としてその得意の喞方に廻り、引揚成功後は作業振り抜群とあって特に一等賞を輿へられた。
 川崎へ入ったのは明治三十九年。素より學理の蘊奥を極めてゐた訳ではないが、多年の経験と綿密なる研究の結果、種々なる機械の発明をして我國の造船術に多大の貢献をする處があった。彼は二個の専賣特許を持ってゐた。その一つはスチアリング・テレモーターと言って船の舵取装置に関する発明、今一つはテレグラフ・テレモーターで従来船の前進後進を機関部へ通ずる為めに専ら鉄の捧や鎖を使ってゐたが、彼は之を不完全なりとし、之をグリズリン及水の混合液体を管に通じ、その化學的作用に作り完全に前部後部の連絡を執る事と改めた。グリスリンを使用したのは冷気に會っても冷却しない為である。
 又彼は圧搾空気鉄槌に一大改良を加へた。即ち造船の鋲付に使用する鉄槌(俗にいふ鉄砲)の内部の放置を改めたので、従来真空作用でやってゐたのを固形油を用ひてやる事とし、四十八時問油をささなくても可いやうにし、又槌の長さを改めて従来に比しその修繕回数や機械の燃焼を少くして打つ数を増す事の出来るやうにした。大正七年夏川崎が鋲打の驚くべき記録を公表する事が出来たのも、九千五百噸の来福丸の建造日数が世界の記録を破ったのも、間接には彼に俟つ處が多い訳であった。
 彼は又スチーム・ハンマーのヴアルブ其他を根本的に改良して、川崎をしてその石炭の消費量を一日五十斤の節約をなさしめた。尚鍛冶工場では伊木工場長その他の考案に依ってスタンピッグ(型)を多く利用する事となった結果、その工費の節約をも併せ得る事となり、二三年前まで鍛冶工場の仕事が徹夜業を必要としてゐたのが、之れ以来徹夜をせずともこの仕事を問に合せる事となった。
 彼は技師のやうに學理は知らないが、その経験から技師を以て至難とする事を易々と仕上げて技師を驚かす事が屡々であった。嘗て軍艦榛名建造の時、英國から二吋もある鉄を曲げるヘンヂング・ローラーを購入したが、余り巨大なので技師達はその組立が出来るかどうかを危んだが、彼は十人の人夫を督して瞬く間にやり上げて了った事もあった。
 木村氏はその後、久しく神戸の友愛會の長老として重きをなしてゐたが、友愛會の分裂以後は左翼の人々に擁立されて同會を去り、最近の某事件に連坐して囹圄の裡にあると聞いた。しかし、氏が根からの左翼でない事は、氏の昔を知る者の凡べて疑はないところである。

     賀川理事長の指導精神
 関西同盟會は木村氏を正面大将とし、賀川氏を參謀大将として雄々しく立上ったが、同會はどういふ風に針路を定めたであらうか。
 いふまでもなく、同盟のリーダーシップは賀川氏の手中にあった。従って賀川氏の指導精神が即ち関西同盟の方針となるのだった。創立大會についで四月二十日、中央公會堂で記念大會が催されて、賀川氏執筆の宣言が可決された。これこそ、開西労働組合の針路を示すもので、同時に、着実穏健なる賀川氏の指導精神を窺ふ事の出来るものであった。
 この穏健なる指導精神は、その後、永く関西の労働運動を支配した。そして兎もすれば矯激に走らうとする関東のそれに對し、一つの大きなローカル・カラーといふべき特色を示した。
少し長文だが、関西労働運動における賀川氏の影響、従って基督教の影響を伺ふのには何より大切な文献であると信ずるので、その全文を掲げる。太字は筆者が附したもので、賀川氏の面目を伺ふに足ると思った節々を示したつもりである。


     主  張

 我等は聖餐者である。創造者である。労作者である、我等は鋳物師である。我等は世界を鋳直すのだ。又我等は鉄槌を持って居る。我等に内住する聖き理想と、正義と、愛と、信仰の祝福に添はざるものがあれば、我等はその地金がさめざる中にその槌を打ちおろすのだ。我等は意志と、筋肉と鉄槌と、鞴を持って居る。我等は内住の理想を持って宇宙を改造することが出来る。
 我等はこの精神を待って如斯宣言す。努力は一個の商品でないと。資本主義文化は賃銀鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社會の最下層に沈没させてしまった。故に我等は労働組合の自由と、生活権と労働権と、集合契約権と、正義に基く同盟罷業の権利を主張し、治安警察法第十七條の撤廃と現行工場法の改正を要求す。
 我等は八時間労働制の採用と、最低賃銀の制定を凡ての労動組織に要求す。即ち工場作業にも、家庭に於ける内職作業に對しても同様に最低賃銀の制定を要求するのである。殊に今日労働者の家庭に行はれつつある内職工業なるものはその悲惨言語に絶してゐる。
 我等は速かにその改良を要望す。
 我等は労働者の災害に際する賠償法の制定と、労働者に對する廃疾災害、失業、疾病、養老保瞼の確定を要求す。
 又工場の民主的組織と、その立憲的経営を当然の要求と信ずるものである。我等はかくして資本主義文化の疾患である恐慌と失業に備へ労働市場の悪風を打破し、労力の掠奪者と、中間商人の横暴を排し、労働者自身が欺かれて、契約労働の苦役につきつつある今日の惨状より自らを救済せんとするのである。
 更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふ故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃銀を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る。
 我等はまた日本の都市に於ける今日の労働者の住宅は全く人間の住むに適せざることを声明し、その住宅の改良を世界に訴へんとす。
 又我等は労働者自身の向上の為めに補習教育、徒弟教育、また労働者の社會教育を普及せん為めに、政府当局が適置をせられんことを希望し、将来は労働者の子弟と雖も、資本家の子弟の如く経済的束縛なくして、自由に大學に入學し得る設備の与へられんことを要求す。
 斯の如き要求は、生産者がなす可き正常の権であって我等が、一個の人格であり、自主である以上、決して市募に於ける一商品で無いと世界に向って告ぐるに必要なる條件である。
                  
 我等は決して成功を急ぐものでない、我等は凡ての革命と暴動と煽動過激主義思想を否定す。我等はただ自己の生産的能力を理性に信頼して確乎なる建設と創造の道を歩まんとするものである。時代は変わるであろう、流行を追ふことの好きな日本人は昨日は帝國主義を送り、今日デモクラシーを迎へ、明日はまた人種的偏見に煩はされて、我等労働者の自覚に一顧だに与へ無いであろう。然し我等は既に一歩を踏み出した。この道は決して変わるものでは無い。我等は生産者の外に世界に文明を教へ得るものの無いことを知って居るから、消費階級の遊戯的文明と、それによる此度の破産を嗤ひ凡ての迷妄と破壊に反對し、戦後に於ける世界の改造と建設はただ我等生産者のみによって為し得べきことと、かくして叡知の太陽を仰ぐ日の近きを世界に宣言するものである。

  大正八年四月二十日


 「内住する聖き理想」といひ、「愛と信仰」といひ、更らに「内住の理想を以て宇宙を改造することが出来る」と説くところ、そして、「革命と暴動と煽動過激主義思想を否定」するところ、賀川氏の労働運動に望むところが明瞭に窺はれるではないか。
 この指導精神は、軈て一両年を経て、関東側の指導精神と正面衛突を演ぜしめる結果となるのだが、賀川氏はつひに所信を抂げす、やり通した。関西の労働運動者も亦た克く賀川氏の説を支持して、現実的行き方を続けたのであった。
 賀川氏は今や押しも押されもせぬ関西労働運動の名実共なる指導者となった。まだ「死線を越えて」の出版以前とて、一般大衆にまでその名を知られるまでには至らなかったが、苟も組織を持つ労働者で賀川の名を知らぬ者は少かった。
 神戸聯合會の機開誌「新紳戸」は、開西同盟の結成と共に改題して「労働者新聞」となり、賀川氏がその社長となった。
 筆者は大正七年の秋に大毎神戸支局に転勤し、支局長岡崎鴻吉氏の好意と理解の下に公然又は隠然、友愛會の仕事、従って賀川氏の仕事を助けてゐたが、八年三月、神戸尻池支部支部長を引受けてからは尻池のとあるリーダーの二階で、毎週金曜の夜開かれる発働講習會にも訣かさす出席して、「当時流行のギルド社會主義」の講義などをしたもので、行政長蔵氏等が、子供携帯で聴講に来たりしたものだった。
 同盟會へも毎日のやうに出入りしてゐた。一つは記者として二つにはリーダーの一人として――。

     同盟會と友愛婆さん
 同盟會の事務所は湊町四丁目の或る家の二階にあったが、その階下といふのがお妾さんであった。そしてそのお妾さんは非常な労働運動好きで、一ぱしのリーダー気取りで肩入れしてゐたことは当時有名な話であった。筆者なども、いろいろと此のお妾さんの世話になったものであった。その頃、大阪毎日に書いた切抜には、こんな事がのってゐる。

        ♯

 東京の友愛會本部はマッコレー博士の好意に依って創立以来十年以上も三田のユニテリアン教會の一部を借りて其處で同盟罷業の策戦をやったり啓蒙運動の準備をしたりしてゐたが、神戸にある友愛會関西労働同盟會本部は然うした適党の場所のない為めに、處もあらうに湊町四丁目の俗称「お妾横町」の只だ中に妾宅の間に挾ってゐた。否、正直にいふと妾宅の二階を借りてゐたのである。同横町の戸数約十軒の居住者約二十人の中男は僅六人で宛然たる女護区域だがその女護町の中央に労働團体の本部があるといふのだから皮肉である。毎夜十時が過ぎれば森閑とするお妾横町に只だ一軒同盟會の事務所だけは夜業を終へて戻って来た労働者がその時刻からぞろぞろと集まって来て口角泡を飛ばし始めるのだから、この女護町の安寧を乱す事夥しかったものである。当時、その同盟會の事務所に唯一人の女性がゐて、刑事が「変った事はありませんか」と訊きに行けは彼女は幹部に取次ぐまでもなく「ありません」の一言で玄関払いを喰す術を心得、新米の労働者が行けば仮令幹部が不在でも「サアお上り」と愛想好くソレ會則ソレ入會申込書と大に努める外交手腕を持ってゐた。彼女は幹部の奥さんでもなければ事務員でもない。彼は階下に住むお妾さんなのである。尤も、之がうら若い美人であったら年少労動運動家の刺戟になったのだらうが、生憎年は既に四十二の若婆さんであった。彼女の名は黒瀬俊子で九州は國権党の某氏の家に生れた男優りの女で、友愛会の労働者仲間では「友愛婆さん」と呼んで労働運動の話も持込めば家庭の紛議も持込んで来た。それを又親切に相手になる彼女であった。一体労働運動の第一線に立つ労働者は十人が十人まで女房の反對に逢ふのがお定りである。即ち工場のお覚え芽出度からぬ為めに昇給の遅い事、毎夜のやうに寄合がある為めに夜の戻りの遅い事などから屡々夫婦喧嘩を始めるが、その仲裁に出かけるのがこの友愛婆さんだった。彼女は労働運動の如何に男らしき仕事であるかといふ事、夜の戻りの遅い位は二百萬の日本労働者の為めに忍ばねばならぬ事を諄々として説くのである。で労働者達は「ストライキなら友愛會に夫婦喧嘩なら友愛婆さんに持って行け」と言ってゐた。彼女は叉労 働者仲間に有り勝な謀反や排斥運動を偵察するために暗夜夫れと目星を附けた労働者の後を尾行して立話を聴き取って来るといふ様な探偵の役もやれば、素行の修まらぬ者に對しては諄々と訓戒する牧師の役も勤めた。

         ♯

 友愛婆さんはその後そのパトロンとも別れたが(その原因は友愛會に肩を入れすぎたからであった)久留氏らは婆さんの人間味を買って、事務所の台所を手傅せる事となった。そしてまめまめしく立働いてゐるうち病気をして、久留氏の世話で鐘紡病院に入院させて貰ったが、元気な婆さんも病気には勝てず、到頭永眠した。
 労働同盟會時代の一つの挿話ではある。

      (この号はこれで終わり)