賀川豊彦の畏友・村島帰之(168)−村島「本邦労働運動と基督教」(7)
「雲の柱」昭和14年8月号(第18巻第8号)への寄稿分です。
本邦労働運動と基督教(7) 村島帰之
神戸の労働運動の飛躍
大正七年の関西の労働運動――といっても友愛会の運動であるが――は、松岡駒吉氏の東京引揚と入替りに一月には久留弘三氏、四月には加藤滋氏を迎へ、常務の陣容を整へると共に、特に神戸葺合新川の熱血詩人賀川豊彦氏の出現によって、一大進歩を約束されるに至った。勿論、友愛會も創立後七年を経過して労働階級の自覚と相俟ち漸次大きくなりつつあったのであるが、賀川氏の加入によって組織的にも、知識的にも著しき進歩を見たことは争へない事実である。就中、神戸市内では、賀川氏の支部長となった葺合支部が約二百の鉄工を擁してゐた外、川崎の本工場を根城とする神戸支部が大正四年二月神戸分會から始まって神戸、相生両分会に分化し、さらに再合同して神戸支部となり、六年四月には會員千名を越える盛会であったし、三菱を根拠として兵庫支部も會員二百をもってゐた。叉市電湊川発電所を中心に大正五年三月葺合支部から分離独立した尻池支部は発電所の若き技師工學士工藤壽男氏を斡事長に頂いて小人数乍ら支部を守ってゐた。
兵庫懸知事は清野長太郎氏だった。氏は炭坑や製鉄所のある福岡県から転任して来た人だけあって、労働問題に對しても当時の官僚としては珍しいはどの理解と同情とをもってゐた。清野知事は賀川氏や久留氏を県廳に招いてその意見を徴した。そして七年五月には、友愛會を通じ、三箇條の事項を調査してほしいと申入れた。
普通なら、敬遠し勝ちな労働団体に對し、知事が直接調査を依較するなんてことは、当時も、叉現在も烏渡類例がない。清野知事といふ男は、確かに一風変ってゐた。(この知事のことは後にも叉出て来るから覚えてゐて貰ひたい)
その時の知事の諮問に對する友愛会の答申なるものを左に掲げる。これは筆者が大正七年九月三日の大毎に掲載したものである。少しく長文であるが、当時の労働者の意向を知るに便と思って全文を掲げることとする。
労働者の資本家に對する希望 清野知事の委嘱により友愛會にて調査したるもの
清野知事は曩に工場主及労働団体代表者を府廳に誘引し雙方の希望を聴取し、資本と労働の調和に就き斡旋する處があったが、知事の此挙は時節柄最もその当を得たるものなりとし、東京、大阪、神奈川各府懸でも兵庫県の顰に慣って夫々工場主及労働者を誘引所見を聴取する處がおり、清野知事は「吾輩に先見の明があったんだよ」と鼻高々である。這度知事の上京に際し、知事は工場主及労働者の意見聴取書を携へて行って、之を中央政府に提出しその參考に資する處があった。知事の提出した聴取書中、労働者の分は、嚢に友愛行に属する川崎造船所、三菱造船所、神戸製鋼所の職工数十名に就き
一、會社の幸福増進設備に對する実感と希望
二、紛擾の原因及其防止策
三、會社に對する一般的希望條項
の三項に関して質問したもので要領は左の如きものがあった。
(第一問) 會社の幸福増進設備に對する実感及希望
會社が職工の利益と信じて苦心経営せる幸福増進設備も、其実行方法及運用者共宜しきを得ざるため、多数職工は之を喜ぶよりも、寧ろ反感を抱けるを見る。資本主の慈恵に依る所謂温情圭義が労働問題解決上極めて効果少きはこの一事に依りても明かなり。
(一)工場医師の職工に對する態度は頗る不遜を極め社員と職工との待遇に大差あり、此の故に職工は不快を感じ金を出しても町医者の診療を受くること多し。
(二)三菱の行へる購買組合に對しても同様なり。
(三)會社は職工に對し諸種の扶助規定其の他社則を定め居れども職工に公表せざる故其の内容不明なり。然も其の認定、適用は凡て會社側の自由なるを以て職工は常に不安の念を抱きつつあり。
(第二問) 紛優の原因と其の防止策
大体に於て賃銀の低廉と中問者に對する反感即ち感情問題が争議の主要原因なるものの如し。殊に其後者に於て甚だしきを見る。
(一)技師或は役付職工(伍長心得、伍長、工場長)に對して袖下を行ひ置く件は歩増或は昇給に際し多大の利益あり。されば賄賂は殆ど公行し時には職工に對し其の請求をほのめかす者あり、而してコレ等に依る昇給の不公平は鬱積して遂に争議となりて爆発す。小紛議の殆ど十中八九分迄はこの昇給の不平に對する不満より来ると言ふも決して過言にあらず。而してこれが改正案としては
(A)技術の試験を行ひて昇給を定むる事
(B)主任技師(今日は主任技師の一存による)以外役付職工の公平なる投票によりて其の標準を決定すべし
(二)紛議の原因は其の賃銀が会社の利益に對して余りに低きことなり。殊に其の昇給率低きが故(神戸製鋼所は大抵二銭なり)今日の如き物價騰貴の率と平均せず(世人より労 働者は戦乱の影響を受けて其の収入莫大なりと云ふが然し賃銀の増加率は左程大ならず。唯戦争のため仕事が多くなり定時間の處が残業となり、残業が夜業となり従って比較的収入以前より多くなりたるのみ)
(三)争議の根本はこれを一言にして尽せば平素職工に会社側(技師、技手の如き中間者に非ず)との意思疏通せざるに依る。故に何等かの機関を設けて両者が一月一回位會見する桂にせば奈何
(第三問) 會社に對する希望
職工が會社に對して有する希望は殆ど際限なきが其の可能見込ある重なるもの左の如し(此外特に工場監督官に對する希望は多々あれども今は略す)
(一)川崎造船所は臨時職工を多く募集す、コレ臨時職工ならば解雇に際し手当を給せずとも宜しきを以てなり
(二)入職の時「試験中」との名義を以て其の受ける賃銀の半額にて約一週間使役せらる。此の期問を短縮せられ度し
(三)會社は業務災厄以外の疾病に對しても工場医に診療せられ得る様規定せられたし
(四)川崎造船所にては造機部と造船部とにて其の規則を異にせるは好ましからず
(五)解雇すれば手当を要す、依って会社は仕事が少ければ解雇せすして或は割増金を減じ或は定時間労働のみとし以て労働者を財政的に苦しめ、遂に自ら他に転ずる様な方法を採る、冷酷たらずや
(六)職工が履歴に嘘を書くは其の実會社が其の範を示すものなり。即ち會社に於て時としては其の工場に於て受けゐたる賃銀よリ余計取り居たる様記入し呉れるなり
(七)職工が技師其の他の人に對し少しにても抗弁或は弁解がましきことを云へば頭より「生意気なり」と称して排斤する風あり。之彼等が常に職工を卑しみ居るが故なり
尚清野知事は前回両者の会見が了解に資する處大なりしに鑑み、近く第二回の招待をなす筈で、工場主に對する意見聴取内容は前回よりも更に具体的且更に微に入りしものを選ぶ 予定だと知事は語ってゐる
知事が友愛會に労働調査を委嘱したといふ事の報道は、一些事のやうではあるが、これが労働者に及ぼした影響は決して小さいものではなかった。組合に加入することも、上役の目を掠めて、恐る恐るやってゐた事だったのが、苟も知事が調査を頼むほどの団体なら、そうビクビクするにも当るまいといふので、會員たちは少しは大胆に振舞ふやうになったからである。
賀川氏はこの情勢を見てとって、大に組合運動の神聖を唱へた。そして、運動を大きくするためには、もっと組合の財政を豊かにする必要があるとして、會費を二十銭に値上する事を神戸支部の代議員會で提唱した。(賀川氏は同支部の評議員であった。)この動議は賛否相半ばし、投票の結果、十八對十三で可決されたが、しかし実施期をどうするといふ段になって、翌々月の七月から実行せよといふ者十五名、延期説を取る者十五名で同数となって、結局、木村議長の発言により八月から実施といふ事になった。何といっても二十銭の會費は当時としては可成りの負担である。さればこそ、賀川評議員の折角の動議ではあったが、おいそれとは賛成出来なかったのである。
賀川氏は、かうした組合の事務上の事にまで好意ある発言をした。組合員が賀川氏の出現を心強く思ったであらうことは想像に難くない。
余興入りの労働問題講演會
五月十九日、兵庫補習校で開かれた神戸支部の社會政策講演會で、賀川氏は「労働組合主義」の講演を試みた。この社會政策講演會も、賀川、鈴木両氏の講演の外に、筑前琵琶、尺八、といふ余興入りであった。尤も、これは神戸だけの現象ではなくその頃は、どこでもそうだった。四月廿七日、大阪西区春日出小學校で開かれた西支部創立一週年祝賀講演會でも、岡村司博士、賀川氏、大朝の高原操氏及び大毎の筆者が出演し、聴衆五百を算したが、これ等の講師が講演した後を承けて、五ツ紋を羽織った堂々たる浪曲師廣澤一右衛門なる先生が、当夜の真打の如く颯爽として登壇して、何かしら一席読上げて御機嫌を伺った。ぞれがやんやの喝釆を博した。
大阪支部でも五月十八日夕支部創立満三週年記念大會を天満の川崎小學校で開いた。講師は鈴本会長や久留主任の外に、岡村司博士及び筆者が出た。此度は余興なしであったが、それでも聴衆五百を越えた。(雑誌には一千有余人とある)二日置いて五月二十日、酉島支部でも傅法小學校で支部発會を開き、鈴木會長、久留主任の外に筆者が出て「工場法と労働運勤」といふ題で何かしら喋舌ってゐる。この夜、来賓として大阪府高等課の警視や傳法の町長、小學校長が出席してゐたといふから面白いではないか。
六月以降、大阪では浦江支部、大阪第一支部、難波支部、島屋支部でも、同様開催したが、もう小學校は貸して貰へず、寺や寄席や個人の宅を會場とした。つまり、労働団体の演説會が必ずしも労働者の修養に資するものでないといふ事を、校長さん達も漸次知って来たのみならす、市の學務課でも警戒し始めたからであった。
しかし、それでもまだ労働組合の運動に對しては寛大なところがあった。
大阪及神戸の友愛會の運動は、殆んど無風帯を行くが如く進展した。そして、どっちかといふと、阪神地方の運動の中心は大阪から神戸へ移動して行かうとする傾向があった。神戸聯合會傘下の四支部は會員干数百を数へる盛況となり、八月にはその機闘紙として「新神戸」といふ新聞紙型のものを出す事となったほどである。新聞紙の保証金が五百圓要るといふので、一株一圓といふ定めで會員がそれぞれ醵出した。主筆は久留氏、編輯顧問賀川氏。初号には賀川氏や筆者らが筆を執った。しかし、九月十五日の第二号は圖らすも安寧秩序紊乱の廉で発売禁止となった。一人の労働者の投書した短文が引っかかったのである。労働団体の機関紙では、明治時代は知らす、大正に這入ってからはこれが最初の筆禍であらう。
此事があって恰度一年後の大正八年八月には、賀川氏の著書「労働者崇拝論」が発禁となった。それから以後、労働団体の機関紙は発禁に絶えず出會ったが、「新神戸」第二号の発禁は、最初の経験であっただけに、みんなのド肝を抜いた。
此頃、賀川氏や久留主任の勧めで、筆者は大阪から神戸へ出かけて来て、演説會の応援に出た。友愛會の雑誌を披いて見ると、九月の神戸聯合會の代議員會の記事に「出席代議員の外、賀川評議員、村島大毎記者」と記してある。叉九月十五日湊川勧業館に開かれた神戸支部と海員支部の合同大講演會にも筆者は古市春彦氏や鈴木會長と一緒に出て喋舌ってゐる。
米 騒 動
九日といへば、あの米騒動の直後である。米騒動は八月三日、富山県滑川の漁村の女房連が群をなして米屋を襲ひ、米の廉賣を強談したことから始まって、まづ富出県各地に波及し、次で遠く四國高松に飛火し其處の漁民の女房たちをして市役所に押しかけさせた。しかし、米の高いのに困苦してゐたのは、必ずしも北陸と四国の漁村に限ったわけではなく、この運動は忽ち燎原の火の如く全國にひろがって行った。賀川氏の住む神戸では、これが応急對策として九日神戸市役所が逸早く三ヶ所の小學校で外米の賣出を開始したが、買人が殺倒して負傷者をさへ出す騒ぎ。各都市でも神戸市同様、外米を廉價供給したが、大勢を喰止める事が出来す、十日には京都、名古屋、岡山の各市に暴動が勃殺した。十一日にはこの騒ぎが拡大し、大阪にまで及んで、十二日に至っては、京都、名古屋、大阪の暴動となり遂ひに軍隊の出動を見るに至った。
筆者はこの夜、大毎の記者として暴動の現場へ出かけて行った。暴動は田舎では貧しき漁村から起されたが、都市では貧民窟が策源地だった。大阪でもそうだった。斯ういふ場合に必す出る流言蜚語がいろいろと行れたが中には真の情報もあった。xxの細民は、今夜米屋を襲撃するために、竹槍を準備し今昼寝をして待機してゐるといふ情報などはそれだった。筆者は夜に這入ると共に出動した。昔の長町の貧民窟――日本橋筋三丁目には既に軍隊が来てゐたが、数町南には早くも暴民が鯨波の声を挙げてゐた。湊町駅の附近で軍服の中の一人が暴民の竹槍で突かれて傷いたと噂する者もあった。時問がたつにつれ、暴民の数も殖えたらしく、暗闇の中から時々あげる喚声が物凄く聞えて来た。そしてワーツといふ声と共に、バラバラと礫が飛んで来初めた。舗装された道路には礫など散在する筈はないのだ。豫ねて拾ひ集めて準備してゐたものと推知された。やがて、礫だけでなく、喚声と共に突撃して来るらしかった。第一線に立ってゐる軍隊は、決してこれに銃剣を突きつけるやうな事をせず、暴民が押寄せると、それだけ後へ退いた。それを知ると、暴民は余計に勇気づいて、駈足で突っかけて来る。すると、軍隊もいくら遠慮してゐても、そうそう退却は出来ないので、附け剣をして、これを十歩五十歩と突っかけた。すると、暴民は狼狽して後退した。そして暫く對峙の姿をつゞけてゐると、間もなく暴民の方から又もやソーツと押しかけて来る。斯うして幾十度、潮の寄せては又引返すやうに、押しつ、戻しつしてゐるうちに、夜は更けて行く。軍隊の方では、いつまでも斯うしては居られぬと思ったか、忽ち銃声が轟いた。まさかと思ってゐた暴民は驚いて一目散に南へ走った。筆者はここまで見届けて、大急ぎで社へ取って返し、軍隊が遂ひに発砲したといふニュースを報じた。新聞社では握飯やビールを用意して、外勤記者の帰りを待ってゐてくれた。翌朝の新聞のトップには筆者の書いた記事がのって、標題も「軍除遂ひに発砲す」とあった。しかし。白状するが、発砲といっても実弾を撃ったのではなく、空へ向けて空砲を放っただけだ。筆者の「軍隊遂に発砲す」といふニュースは、今から考へると、少し大げさ過ぎたやうだ。
十二、十三、十四日は暴動のクライマックスだった。京都、大阪、神戸、名古屋を始め福島、静岡、豊橋、金澤、福井、和歌山、広島、呉に及んだ。外米輸入元といふので鈴木商店が焼かれ、川崎造船所の御用紙だといふので神戸新聞社がやられ、因業家主だといふので兵神館が襲撃された。米屋の襲撃された数は、各都市で幾百か知れなかった。窮民達は待ってましたと許り、風呂敷持參で米を運んだ。力の強いのは米俵をかつぎ出した。政府は十三日、金一千萬圓を支出して米廉賣供給の策に出た。でも、暴動はなほやます、神戸では自昼も暴徒が横行して掠奪を恣にした。そのため、十三日、軍隊が姫路から神戸へ出かけて来た。
兵庫県廳では清野知事が自身音頭をとって、富豪らを説いて金を出させ、叉県から精米所を指定して軍隊警衛の下に玄米を精白し、神戸市内十八ケ所で廉売させた。今國の新聞記事も十四日限り掲載禁止となった。大阪では夜は五人以上、組んで歩く事が許されなくなった。恩賜金が各郡市に配付され、緊急勅令で穀類収用令が公布され、義金が配付され、衛生組合で米の配給が行れ、施米所も開設されて、十七八日頃から各地の騒擾は漸く鎮静に帰した。賀川氏の住む神戸では十二日から廿一日までの十日間に八百十九人の暴民が検挙された。氏の知ってゐる青年もその中に加はってゐた。
この米騒動は、都市社會事業、特に或は公設食堂、公設市場の如き、或は公益質屋、共同宿泊所の如き、或は小住宅供給事業の如き、今日の所謂経済保護事業が主として自治体によって経営せられる風潮を生み、職業紹介所の発展を見、方面委員制度の誕生となった。労働運動方面にもこれが影響を見ないでは済またかった。労働階級の自覚が著しく促進されて生存権、労働権の叫びが俄かに高まって来た。 (未完)
(この号はこれで終わります)