賀川豊彦の畏友・村島帰之(167)−村島「本邦労働運動と基督教」(6)

  「雲の柱」昭和14年7月号(第18巻第7号)への寄稿分です。

        本邦労働運動と基督教(6)
                          村島帰之

     高山氏神戸を去る
 大正六年の友愛會神戸聯合會は、熱心な基督教信者である高山豊三氏の指導によって漸次内容の充実を見た。何しろ、神戸は川崎、三菱両造船所、神戸製鋼所の如き大工場を持ってゐてそこに働く労働者の大部分は熟練工であるため、組合運動の発達も他の都市より早かった。會員の変動といふものも少く、幹部の如きは殆んど動かなかった。現に高山主務時代の幹部はその後四年後の大正十年に惹起された大争議のリーダーと殆んど変わりがないのでも知れやう。そしてその組合の幹部が大造船所の職長(職工仲間では工場長と俗称してゐた)や伍長、伍長心得といった人達だったため、組合は余計、まじめに発達して行くことが出来た。大正七年一月の友愛会の機闘誌「労働及産業」に出てゐる「神戸聯合會消息」を見ると、神戸支部川崎造船所本工場)では颯波(職長)須々木(伍長)野倉(伍長)の諸君の名が出てゐる。野倉といふのは大正八年の川崎のサボタージュに大正十年の大争議の總指揮官であった野倉萬治君であり、須々木といふのは野倉君の女房役――といふよりも姑役として、終始影の大立物であった須々木純一君である。
 これより先き、神戸の主務として、唯一人の神戸の智識分子として、指導に当ってゐた高山豊三君は、教會の牧師としてアメリカヘ出かけることとなり、在ること九ヶ月で神戸の労働者にサヨナラを告げることとなった。高山氏としては、別に労働運動に失望した訳ではないが、矢張り牧師として身を立てやうと考へたのであらう。未だ組合運動の重要性の一般に認識されてゐない時だったから、これも致し方がない。で、十一月五日高山君の送別會が開かれてお銭別として金十圓が贈られた。
 高山主務を失った神戸は、リーダーがゐなくなった。この時みんなの頭に浮んだのは、これまでに高山主務の依頼によって二三回、演説會に出てくれた新川の貧民窟の先生賀川豊彦氏の名たった。

     賀川豊彦氏の出現

 この頃、神戸聯合會傘下には神戸、兵庫支部の外に葺合、尻池にも支部が出来てゐた。葺合支部では、賀川氏の住む新川がその部内にあるだけに、余計に熱心に賀川氏に期待するところがあって、大正七年の新年幹部懇話會に特に賀川氏の出席を求めたのも、そのためだった。即ち一月十三日、神戸聯合會新年茶話會は湊川実業補習學校で開かれた。湊川及兵庫の実業補習學校には、川崎造船所から多くの年少熟練工が夜間就學してゐた。これは松方社長の新しき親分主義の現れであって、組合幹部中にはその通學生が少くなかった。學校長の岸田軒造氏(現在佐藤新興生活改善會理事)や寺崎九一郎氏は、組合運動の同情者で、辨士の少い折には演説會にも出演してくれさへした。
 茶話會で賀川氏は「英國における戦時労働組織について」約一時間に渉る雄弁を奮った。さきに山縣憲一氏を喪ひ、近くは高山主務を失って寂しく思ってゐた神戸の労働者たちは、賀川氏の出現をどんなにか喜んだ事だらう。
 此の茶話會が済んで間もなく、詳しくいへば一月二十六日、高山主務の後任として久留弘三氏が来神した。久留氏はさきに記した如く、新設の関西出張所主任に新任されたもので、神戸主務はその兼務であった。
 賀川氏の出現と久留氏の赴任によって、神戸聯合會は俄然元気を盛り返して来た。そして二人は永く最も善きコンビを作った。
 久留弘三氏は大正五年の早大政治経済科の出身、大阪天王寺中學にゐた頃は大錦や宇野浩二と同窓たった。岩橋武夫氏は下級生であったが、勿論、失明前で、その美少年振りに、久留氏等は善く追っかけたものだといふ。
 久留氏はその早大にある頃から労働運動に興味を持って、友愛會に出入してゐた。今はロシアに逃げてゐる共産党の野阪鐡氏も当時は慶応の學生で、久留氏と一緒に友愛會に出入してゐたもので、卒業と共に、二人はその儘、友愛會に這入った。久留氏は高山氏の如き基督教信者ではなかった。けれども、後年、組合陣営を去って基督教界の変り種である斎藤信吉氏と共に、人格主義の上に立った独特の労働者文化運動を始めたぐらゐだから、極めて真摯な人道主義者であった。
 此の久留氏の関西出張所主任就任と共に、京阪神の労働運動は俄然一進展を来した。
 此處で京都の労働運動について一言する要があるが、これは後で一括して語ることとして、再び大阪に帰らう。

     松岡氏の悪戦苦闘
 大正六年における大阪の運動は、未だ機熟せずといふのか、前に記す如く松岡主務の涙ぐましき精進と努力のあったのにも拘らす大した発展を見ず、特に、真の階級的自覚から組合運動に従事するといふよりは、なほ一部に残存してゐた自己の「顔」又は「賣出し」のために世話を焼くといふ程度の者もあって、鈴木會長の命令なら聞くが、同じ労働者である松岡主務の言ふ事なんか聞かれるかい!――といふ手合さへ少くなく、松岡主務の苦心ははたの見る目にも余った。
 大正六年中に行れた大阪での友愛會の公開演説會は十回とは出てゐなかった。そしてその全部が鈴木會長の下阪を迎へての演説會だった。つまり、鈴木會長が出演するのでなければ公開演説會は開かれないのであった。弁士も勿論鈴木會長の独演會ともいふべきもので、その前坐として一人二人の労働者が立ち、たまには住友の技師で友愛會の支部長であった鈴木文吉氏や筆者らが応援弁士の格で出た。會場は三軒屋、下福島等の小學校が主で、學校でも労働者の修養會だといふ訳で喜んで貸してくれた。小學校を借りられぬ場合は恩貴島などでは寺を借りた。豊崎町では朝妻桜といふ貸席を借りた。たゞ一度、大阪聯合會主催の會勢拡張のための講演會だけは天王寺の公會堂を借りたが、足場が労働者街から大分隔ってゐるので、四百名とは入場者がなかった。
 かうして、宣傅に努める一方、大正六年の八月には、最初の政治的運動が行れた。それはアメリカの鉄類輸出禁止が公布されたため、わが國の労働者殊に機械工の生活が危殆に頻するといふところから、友愛會大阪聯合會が解禁運動を起したのである。しかし、まだ勢力の微弱な友愛會として如何ほどの効果をも挙げ得る筈はなく、只會議所を訪問したり、鉄屋の岸本吉左衛門氏を訪問した程度で終ったのは是非もない。
 斯うして大正六年が暮れ、七年を迎へると共に、久留氏が来た。関西としては珍しいインテリだといふので、みんなは喜んでこれに師事した。松岡主務は真ツ正直な、曲った事はこれっぽっちも許さない人だった。會議上の事でも隨分やかましく、一厘一銭と雖も苟もしない人だった。清濁併せ吞むといふ東洋豪傑の風ではなかった。そのために、その当時居た吞んだくれの組合員やズボラな手合からは烟たがられてゐた事は確かであった。その時、本部で、會計の使ひ込み事件があった。鈴木會長は本部の會計を粛清するために、松岡氏に本部へ帰って會計を担当して貰はふと考へた。だが松岡氏として見れば、大阪へ来てまだ二年とはたたず、そして運動もこれからといふ時、殊に貧しい組合のために、自ら生活費を他から仰いでまでしてゐる矢先、東京へ引戻させられるといふ事は、遺憾至極だった。松岡氏及び夫人が東京行を零して筆者に語ってゐたのを昨日の事のやうに思ひ出す。かくて松岡氏は寂しく東京へ帰って行った。大正七年四月十三日の事だった。

     救世軍出の加藤滋氏
 松岡主務は名残りを惜しみつつ大阪を去った。松岡主務の助手をしてゐた福田龍雄君も去った。そして久留氏の赴任より遅るる三月、七年四月、大阪聯合會主務として加藤滋氏(現在はリー嬢の経営する草津の癩院で働いてゐる)が赴任した。
 加藤滋氏は古い救世軍の士官であった。若し最初から救世軍に踏止ってゐたら、今頃は山室、植村両将官に次ぐ古參として重要な位置にゐる事だらう。初め専賣局にゐて、職工の転還問題に関心を持ち、鈴木會長を訪問してその所見を敲いた事から鈴木氏に勧められ友愛會入りをした人である。氏は大阪赴任に先立ち、油谷次郎七の媒酌、山室軍平大佐補の司式で結婚式を挙げた。奥さんは「ハナ子」といふその名す如く、敬虔な信者で、よく労働者諸君の面倒を見た。
 加藤氏は善く演説會に出た。山室軍平張りの仰揚のある演説振りだったが、その内容は労働者の人格の向上一点張りなので筆者は氏に安部磯雄先生著「社會問題解釈法」――当時一般向の労働問題の書物としてはこれ位で、あと桑田博士や関博士の學究的のものがあったぐらゐだった――を貸してあげたこともあった。

    友愛會六週年大會
 久留、加藤両氏を迎へて大正七年中に、大阪では浦江、九條島屋、酉島、硝子工の五支部の殖えた事は前回に記した通りである。そして同四月には友愛會六週年大會が大阪で開かれることとなった。大會経費予算二百圓の内、本部が六十圓を負担し残り百何十圓は関西で負担しやうといふので、関西側の鼻息の荒さが窺はれる。実際それだけの実力が出来かかってゐたのである。
 四月三日、友愛會六週年大會は天王寺公園前の公徳社(今は宿屋になってゐる)の二階で開れた。出席代議員七十七名、東京、名古屋、京都、舞鶴廣島、呉、門司、八幡からも代表者が出席した。この大會でバッチを代議員章として交付したが、恐らくはわが國における此種の大會でバッチを出した最初であらう。叉議事の裁決にギャベルを使用したのも此の大會が最初であらう。共に鈴本會長が前年アメリカの労働組合大會に出席して斎したものである。来賓の祝辞の中には林大阪府知事代理小川地方課長のものもあった。賀川氏や古市春彦氏などの顔も来賓席に見えたこと勿論である。筆者は會員の五分間演説の後を承けて「産業社會の悲劇」について二十分許り喋舌った。来賓演説としては筆者だけであった。
 つゞいて同夜、天王寺公會堂で開かれた公開講演會−―「友愛會六週年大會記念社會政策講演會」は天王寺公會堂を埋めつくす盛況だった。その筈である。講師は高石真五郎、賀川豊彦、今井嘉幸、関一といふ顔触れだったからだ。当時、筆者は大阪毎日新聞の内國通信部に属した。課長は岡崎鴻吉氏(前東日主幹)で労働問題に非常に興味を持ってゐて、当日、大阪版全部を友愛會の大會のために割愛し、筆者に独りで五頁の記事を書くやう命ぜられた。講演は議會の記事のそれのやうに、話を聞き乍らずんずん書いて行って、出来ただけ自動車で本社へ運んだ。無論、こんな事をしたのは大毎だけで、他紙は十行の記事も書かなかった。
 当夜、演壇の下の机に、友愛會本部から来阪した野坂鐵氏と向ひあって筆記をしてゐたが、大毎の肩の入れ方とそして筆者が即坐に記事を仕上げて行くやり方にひどく感心して「素晴しいなあ」を繰返してゐたことを思ひ出す。
 恐らくこれほど大新聞が大々的に組合の大会の記事を取扱ったのはこれが最初でそして最後ではなかったらうか。これは全く岡崎氏の好意の賜物である。
 なほ面白いことには、当夜の弁士の中に大毎の幹部である高石真五郎氏も加ってゐたが、筆者は自社の人の演説の梗概をのせるのは如何かと思って一切省略した。ところが、翌日になって社中の問題になった。それは「今井博士や関博士の梗概をのせるのはいいとして、賀川某の如き無名の男を名士として扱ひ乍ら、高石氏を略するのはいけない」といふのだ。筆者は只だ腹の中で笑ってゐた。今に見ろ、お前たちは賀川の名を拝む時が来るから――と。
 賀川氏の講演は「労働者は何故貧民になるか」といふのだった。そして氏の名の上にはバチェラー・オブ・デビニテーといふ称号が麗々しく記されてゐた。それほど、まだ賀川の存在は一部識者以外には全く知られてゐなかった。いいや労働組合員でも神戸以外の諸君は、当夜の熱弁を聞いて初めて氏を認識した者が大部分だったのである。

     賀川葺合支部
 大正七年に這入ると共に賀川氏は神戸の友愛會のためグンと乗り出して、自分のみならす、友人たちをもつれて来て演説會に出た。新年初頭の茶話會に次で、二月三日には兵庫の実業補習學校で大講演會を催した際には、賀川氏が「相互扶助論」をやった外、恩師マヤス博士をも拉して来て「労働者と人格」といふ題で一席やって貰ってゐる。叉四月十七日の幹部修養會でも賀川氏は鈴木會長らと共に講演をしてゐるのだ。そして七年五月に、氏は推されて葺谷支部長となった。当時、同支部加盟の組合員は神戸製鋼所職工その他約二百名であった。それから神戸聯合會としても、氏を評議員に推薦した。友愛會―−従って労働運動との正式のつながりが氏の時から始まった。これは友愛會としても大収穫であったのみならず、わが労働運動の一大エポックをなした。いふまでもない、賀川氏をリーダーとして迎へたことによって、友愛會の、従って少くも関西の労働運動は、人道主義の上に立って正しい歩みをつづけることが出来たのであった。サンデイカリズムの狂瀾怒濤の渦巻く時も、ボリセビズムの嵐の吹きまくる時も、賀川氏が指揮刀を執るところだけは常に低気圧の圏外にあった。換言すれば、賀川氏を通して基督教が、わが労働運動に影響して、大勢がエキセントリックなろうとする時も、いつもこれによって手綱を引き締める事が出来たのである。

     (この号はこれで終わります)