賀川豊彦の畏友・村島帰之(166)−村島「本邦労働運動と基督教」(5)

  「雲の柱」昭和14年6月号(第18巻第6号)への寄稿分です。

        本邦労働運動と基督教(5)                          村島帰之

   大正三〜六年の友愛會

 大正六年五月、アメリカから無事帰朝した賀川豊彦氏はその足で二年八ヶ月間留守をした神戸の貧民窟葺合新川へ這入り、再びセツラーとしての働きを始めた。「再び」とはいふが、その働き場所なり、その善意は前と変りはないけれども、氏の社會観には非常な差違があった。当直の救護といふものが無産階級の解放に些して役立たないこと、真に無産者を救はんとせば、まづ彼等に組織を輿へなければならぬこと、組織によって、彼等は自らを救ふべきであること等々を、実際目のあたりに見た米國の民衆運動から泌々教へられて帰って来たからである。
 賀川氏がアメリカに向け出発した大正三年九月には、まだ日本には工場法さへ施行されては居らす、労働組合も、友愛會が呱々の声を挙げてから一箇月とはたってゐなかった。ところがわづか二年八ヶ月ではあったが、氏の留守した間に、日本の社會運動には、東雲の瞼がまばたき始めた。
 友愛會の運動は既に東京から発足して遠く大連にまで及び、内地では幌別、磐城、川口、掛川、浜松を席捲し、京阪神に及んだ。即ち賀川氏の膝元の神戸では氏の渡米後、間もなく桂謙吉氏が神戸分會を起し、それが成長して神戸高商教授山頭憲一氏を支部長とする神戸支部となり、さらに分化して神戸支部及び葺合支部の二支部を生んだ。前者は主として川崎、三菱両造船所の職工、後者は川崎造船所葺合工場及び神戸製鋼所の職工の固結であった。
 叉大阪では、さきにも記した如く大正四年三月、東京市深川区江東支部幹事たった河野芳太郎氏が北区天満のローヤル刷子会社工場へ転じて来て宣傅を始めたところから、一ヶ月足らすにして二三百名の會員を獲得してまづ大阪北支部を組織し、五年四月にはこれが大阪支部と改称され、砲兵工廠や奥田ゴムの職工約五百名がその傘下に加った。翌五年十月、日本兵器製造會社職工約百五十名で別に関西支部が組織された(この支部の集會(中津の下三番に支部があった)には筆者も出席した事がある)。これ等の支部は大阪も北部及東部の工場を根拠とするものであったが、一方、大阪の重工業の淵叢ともいふべき西部では少しく遅れて大正五年五月、初めて大阪第一支部が生まれた。これは住友伸銅所や汽車曾社の職工が主で支部長には住友伸銅所技師工學士鈴木文吉氏(会長鈴木文治氏とは僅か一字違ひだが姻戚でも何でもない。温厚な紳士で、筆者も善く知ってゐる)が推されてゐた。第一支部はその後、安藤国松君をリーダーとする新進会の独立を見るまで、一時、会員数千二百と称せられ非常な勢力を示した。
 その頃(大正六年一月)住友家では時局の好影響を受けて得た莫大な収益の中から百二十萬圓を割いて職工扶助基金に当てやうとしたが、これが発表を遅らせた處から、職工の間に疑惑を抱く者が出て、争議をオッ初めさうな形勢をさへ見せた。当時、住友鋳鋼所の一職工だった西尾末広君(職工組合期成同志會の幹部で、未だ友愛會には入会してゐない)からの依頼で、筆者は住友鋳銅所に萩尾支配人を訪れ、真相を質した。支配人は秘密主義を執って発表を肯んじなかったが、筆者から「愚図愚図してゐると争議が起りますぞ」といはれて不承不精、草案を発表し、これを翌日の大阪毎日新問(一月三十日)に掲載したので漸く事無きを得た。その時、西尾君が「カチョウコウ」といふ言葉を繰返すので何の事かと思ったら、「家長公」即ち住友男を指すのだと判ったなどの挿話もある。
 大阪第一支部や関西支部は隆々と栄えて行った。第一支部では医療部、購買部、紹介部、慰問(慶弔)部のほか、美髪部などといふ部さへ設けられ、特約理髪店があって會員は優待するといふやうな事さへやってゐたし、叉購買部の持約店の中には壽司屋、料理屋さへ加ってゐるといふ状態だった。

     大阪聯合會主務松岡駒吉
 大正六年五月には恩貴島方面の住友電線その他の職工によって大阪西支部、又同九月、木津川方面の造船職工によって木津川支部が生れた。そして既設の関西、大阪第一各支部と合して数千の會員を擁することとなったので、同六月、大阪聯合會を組織し、本部から松岡駒吉君が聯合會主務として赴任して来た。
 松岡氏は温泉の里として知られた烏取県岩井の産、北海道室蘭製鋼所の旋盤工であった。大正二年、三木治郎氏(現在の総同盟神奈川聯合會長)が東京池貝鉄工所から室蘭製鋼所へ転じて友愛曾の支部を作るや、氏も誘はれて入會し、その會計を担当した。氏の才能は忽ち顕れて、全國に率先して「労働会館」の設立を見た。今でこそ労働會館は各地に建てられて左程珍しくはないが、三十年前、まだ労働運動の頗る幼稚だった頃、早くもここに着眼し、労働組合の乏しき財政の中からこれを創立したところ、氏の只だ者でなかったことが知れやう。この才能を見出し得ないほど鈴木會長は愚かではなかった。松岡氏は室蘭製鋼所の争議にリーダーとして活動したところから型の如く馘首された。おっと、待ってましたと許り、氏は抜かれて本部員となり、上京して友愛會の事務を執ってゐた。その松岡氏を主務として大阪へ送って来たのであった。今でこそ、日本労働總同盟の會長として堂々あたりを圧する同君ではあるが、当時は粗野な、而し今もさうであるやうに親しみのある青年労働者であった。筆者はその大阪赴任と共に昵懇になった。氏によって、恐らく関西では筆者等が最も古い友人だらうと思ふ。
 松岡主務の来阪した翌月、即ち大正六年七月に、大阪の友愛會としては最初の争議が惹起された。大阪府阿波郡豊崎町(現在の西淀川区豊崎町)の日本兵器製造會社工場ではロシヤ政府からの注文で、信管の製造をやってゐたが、その製作の一段落を告げると共に職工七百余名の一斉解雇を断行した。その際、會牡から職工に支払ふ共済積立金に對する疑義から敢然争議が起った。松岡主務は會社に談判に出かけた。その頃、まだ大阪に幾台とはなかった自動車に乗って――といふと豪勢だが、筆者が乗る大阪毎日新聞社の自動車に同乗してである。しかし、この争議は結局法律問題だけを後に残して不首尾に終わった。罷工に這入らうにも、一斉解雇の後だから何とも仕方がなかったのである。
 この争議の結果、関西支部は事実上消滅した。みんな解雇になったからである。
 此頃から、当局の友愛會に對する眼も急に変って来た。遠くロシアに革命が勃発し近くでは室蘭の大罷業が行れたりしたことが直接の動機ではあったが、労働階級の自覚がその根本の原因であった。場末の町工場などでは、刑事が工場に出張し、組合員を重役室に呼出して退會を慫慂した處さへあった。
 こんな有様とて、友愛會の運動は仲々至難だった。會員は月十五銭を徴してゐたが、本部費――主として雑誌代――に大部分をとられて、支部の経費を賄ふことは六ケしく、そのため生真面目な松岡主務は、夫人と申し合せて三度の食事を二度にしその二度の食事も減食したり、香の物ばかりにしたりした。筆者は「それではからだが持たぬから」といって反對した事もあった。その結果、松岡君は或る保険會社の外交員をして、組合の負担を軽くした。夕方、疲れて戻って来ても一息入れると直ぐ友愛會の事務をとる。支部を訪ねる。演説会に出かける。といふ六面八臂の活動振りであった。
 この松岡君の努力の結果、華々しくはなかったが、しかし着実に會の勢力は拡がって行った。七年になって浦江、九條、島屋、酉島、硝子工の五支部が出来た。九條支部には野田律太君がゐた。島屋支部には大矢省三君がゐた。西尾末廣君も職工組合期成會が消滅して、友愛會に転じ、どこかの支部へ這入ってゐた筈である。

     神戸聯合會主務高山豊三君

 神戸では、神戸支部が次第に拡大して行くと共に、川崎、三菱両造船所職工中、兵庫工場に属する人々は別に兵庫支部を作った。そして川崎の葺合工場及び鈴木製鋼所の職工によって組織する葺合支部と三支部を併せて神戸聯合會が大正六年二月に開設され、その主務として高山豊三君が就任した。高山君は鈴木會長と同じ基督教信者で、同會創立後間もない頃、常務幹事として鈴木會長を援けてゐたが、その後暫く會を退いてゐたのを、同三月、神戸の探題として再び呼び迎へたのであった。
 高山豊三君を、高山啓二君と混同する人が少なくない。たった一字違ひであるが、全くの別人である。豊三君も義三君も共に基督教信者であり、同じ友愛會のリーダーであったが、前者は神戸の主務、後者は京都の支部長であった。(義三君については後に記す)
 高山豊三君が友愛會に関係するやうになったのは、友愛會が創立されて間も無い大正二年の始めの事だった。前に記した如く、友愛會はユニテリアン教會の一室から生れたものだけに、物心双方の支持者も、又鈴木氏の事務の手傅をしてくれた者もみな信者だった。最初、暫くの間ではあったが、当時、統一教會の傅道師であった加藤一夫氏が、鈴木氏の手傅をしてくれた。
 (加藤氏は人も知る如く一頃は大杉栄氏等と共に無政府主義陣営にあった思想家だ。今は再び基督教に還って、「皇道基督道」を唱道してゐる。)それから間もなく、加藤氏も本職の方が忙しいので、代りにといって推薦してくれたのが、高山豊三君だったのである。
 当時、高山氏は神學校を出た許りで、まだ遊んでゐたのだったが、加藤氏の紹介で友愛會入りをして約半歳の間、善く鈴木氏を扶けて創業時代の友愛會を守り立てた。さうこうしてゐる内に、牧師として静岡県小山町に赴任する事となって、友愛會を去った。氏の赴任した小山には有名な紡績工場があって、早くから友愛會の支部が設立されてあった。氏はそこへ牧師として赴任した。氏が牧師の仕事の傍ら小山支部の顧間として、その面倒を見たことはいふまでもない。氏ばかりではない。氏の夫人も、支部に属してゐる女工さん達の姉となったつもりでその面倒を見た。何でも、或る朝、高山夫人が町の風呂へ出かけたところ、徹夜明けの女工が、まるで雪の中から出て来たかのやうに、真っ白な綿埃を頭にかぶって来てゐるのに、まづ胸を打たれ、さらに、流し場で洗ってゐると、子供連れの女工さん(通勤女工の中には多くの母親がゐる)が、わが子の垢を流し乍ら、徹夜工事の疲れから、われ知らす居眠りし、とんでもないところを洗って子供に泣出され、ハッと眼をきます有様を見て、言ひ知れぬ感情に襲はれ、それ以来は夫君を扶けて、一生懸命に女工さん達の世話をしたといふ事である。
 此の高山豊三君が神戸に主務として赴任して来た。
 賀川氏は未だ帰っては来ない。その頃は、帰朝しやうとしてソルトレーキ辺まで来てゐたのである。
 その上、神戸として一つ遺憾だったのは、久しく神戸支部長として指導してくれてゐた神戸高商教授山縣憲一氏の訃であった。知識階級の指揮者は神戸では高山主務以外一人もなかった。今と違って啓蒙時代である。知識分子のリーダーは何よりも必要だった。そこで、鈴木會長は大正七年一月、大阪、神戸両聯合會の上に関西出張所を開設し、その主任として本部副主事久留弘三君を任命し、松岡主務と協力して関酉全体に亘って拡張運動を進めしめる事となった。

     関西出張所主任久留弘三君
 今でもハッキリ党えてゐるのは、久留氏が大阪へ赴任した日かその翌日、鈴木會長の紹介状を携へて、大阪郊外の十三に住む筆者を訪ねて来た日の事である。勿論、初對面であった。
「時に、賀川豊彦さんを御存じでせうか。鈴木會長から、賀川さんにいろいろ御指導を仰ぐやうにと、特に言ひつかって来てゐるのですが。」
「ええ、知ってますとも。去年の五月、アメリカから戻って来て、神戸の貧民窟で貧民の世話をして居る人です。」
 筆者が賀川氏を始めて知ったのは大正六年七月十四日の午後の事だ。かくまで正確に言へるのは、記憶が確かだからではなく、その日、氏が試みた講演の大要を筆者が書いて載せた大阪毎日新聞の切抜が残ってゐるからである。場所は大阪堂島田簑橋々畔の大阪府知事官邸。大阪府救済事業研究會の月並例會の席上である。
 六年七月十四日といへば、氏がアメリカから帰ってまだ二ケ月経つか経たぬかの時である。その日の筆者の印象は、如何にもアメリカ戻りらしい瀟洒な青年學者で、非常に謙遜な、愛嬌のある、人触りの百パーセントに善い人――といふのだった。確か、白い麻の夏服を着てゐたが、その上衣の極めて短いのが大変にその人をスマートに見せた。
 筆者は小河滋次郎博士に紹介されて名刺を出した。すると氏は、
 「おお村島さんですか。僕はあなたのお書きになった『ドン底生活』を圖書館で面白く拝見しましたよ。大変善い参考になりました」
 あだかも十年の知己のやうに、堅く筆者の手を握った。今もさうである如く、人を外らさない氏のアットホームのその態度に、筆者はすっかり氏が好きになった。思へば、これが筆者を氏に結びつけて、労働運動に、労働者教育に、社會事業に、宗教運動に同志として、協力者として、シンパサイザーとして、信者として、読者として半世二十余年を倶に在らしめた機縁をなしたものであった。
 その日、筆者が大阪毎日新聞紙上に、一段きっかりといふスペースを割いて紹介した氏の講演の大要なるものは次の如くである。今を去る二十四年前の事だ。新聞記事もまだ文語体であった。


         貧民心理の研究
         十四日救済事業研究會にて 賀川豊彦氏講演

 機械の発明は都市の集中となり、都市の集中は人間の集中となり、茲に過住を来すに至れり、過住は群衆心理を誘致し、趣味の低下を来す等の弊害あるのみならず、恐るべき死亡率の増加を現すものなり、而も自殺者及他殺者の多きは注目に値すべし、米國に於ける他殺は世界無比にして、昨年に於ける他殺者数は二萬八千人の多きを示せり、之等は概ね貧民窟に於て行はれし事論を侯たず、貧民窟の特徴の第一は不潔之なり、這は貧民の心臓が過労の為めに弱り果て掃除をなすの余力なきに依るものにして、貧民を不精なりとして咎むべきにあらず、吾人は市が掃除人夫をして奮励して特に貧民窟の清潔に留意せられん事を希望するものなり、若し貧民窟の清潔が幾分にても改善せられんか犯罪、教育、病気及死亡率に大なる効果あるべきを疑はず、米國労働局の調査に依れば清潔なる家屋に於ける死亡率は千分の百十五乃至百六十三に止まれるも、不潔なる家屋にありては其約二倍の比率を示せりといふ、貧民は又特殊の食慾ありて脂肪分を悦ぶ事甚し、買喰は貧民の一種の病的作用にして、神戸宇治川部落に於ける一箇年の買喰代金十九萬圖の巨額に達せりといへる一事に依りても想像するに足るべし、蓋し買喰は調理方法を知らず、而も過労の結果多数のカロリーを摂取するの必要上、味覚の満足を之に買ふに外ならず、彼等の衣服は印絆纏を以て昼夜、家屋の内外を押通すものなれば、彼等は自ら印絆纏社會なる一階級を想像して長もの(着物)羽織、袴、洋服の社會と区別しつつあり。
 貧民の感覚は普通人に比して遥かに鈍く著しく退化せるを見る。視覚、臭覚、味覚は更なり、痛覚の中枢麻痺して痛さを感ぜざるものあり、「フジミ」と称して己が腕に小刀を突剌て流血淋漓たるに平然たるものすらあり、智識としては算術拙にして読方書方に巧なるが、大体に於て之に秀れたるものを見ずして感情一点張なるを常とす、今彼等の感情を分類せんに左の如し、
 本能的 生理的事情(貪慾、色慾、遊戯的分子)、其他内部的事情(驚異、厭世、小胆、愚痴)、外部的事情(憤怒、残忍、冷酷、滑稽、無頓着)、倫理的・個人的事情(羞恥心、名誉心、利己心、満足、感謝)、社會的事情(偏狭、じゃらつき、不平、羨望、つけ上り、あぱづれ、同情、勇肌、ひがみ、猜疑、競走心、顔、嘲弄、軽蔑、團結心)其他、美的感情、多くの欠点を有する一方掬すべき美風のあるを閑却すべからず、即ち秀れたる慈善心のある事之なり、彼等は善きに悪きに隣保扶助をなすの風ありて、貧民窟夫れ自身が一個の共和國を組織せるの感あり。
彼等は又意思の屈折多く、今笑ひ居るかと思へば直ぐ怒鳴り出す事等珍しからず、喧嘩の如きは歇むかと見れば又始め出す有様にして、常識にて判断し得ぺき限りにあらず、夜逃も亦之に類似し、今日夜逃したる者が数日を経て元の古巣に戻り来る事敢て珍しからず、夜逃の原因は借銭のためにするもの六割を占め、酒の為め色情の為めにするもの之に次げり、
最後に一言すべきは宗教にして、真宗を信仰せるもの多数なり、而も彼等の宗教は宗教を持てりといふのみにして信仰の念薄弱なり、余は貧民窟に居住する事十年なるが、救貧の真髄は救済事業の組織如何に依るにあらずして、全く個人的に貧民に接触するにあるを痛感しつつあり、真宗僧侶其他経世家の一考を煩はしたきものなり。

    (この号はこれで終わります)