賀川豊彦の畏友・村島帰之(165)−村島「本邦労働運動と基督教」(4)

  「雲の柱」昭和14年4月号(第18巻第4号)への寄稿分です。

        本邦労働運動と基督教(4)
                          村島帰之

   ユニテリアン協會の私生児
 今日でこそ日本一の労働組合として押しも押されもせぬ全日本労働總同盟ではあるが、大正元年八月一日、「友愛會」の名を以て弧々の声を挙げた時には、會員わづかに十五名。事務所といっても、三田四國町のユニテリアン協會事務室のテーブルの引出しの一つに「友愛會」と貼紙されたのがその全部であった。つまり、独立した事務所など、素よりあらう筈はなく、會長たる鈴木文治氏が、ユニテリアン協會の幹専として充てがわれてゐる机の引出しの一つを、その事務所とも、倉庫とも、編輯室ともしてゐたのである。
 鈴木氏は、前に記した如く東京朝日新聞社を去って、間もなく、先輩小山東助氏の勧めで、このユニテリアン協會の斡事となった。それは明治四十四年十一月の事だった。ユニテリアン協會(その後、統一基督教弘道會と改称)は理智的信仰を標榜する基督教の一派で、その当時は安部磯雄氏が曾長であった。鈴木氏は幹事となると共に、同協會の本部のある惟一館(今の總同盟の建物)に催される講習會の世話をしたり、機開誌「六合雑誌」の編輯をしたり、惟一館の二階に居住する宣歌師マコーレー博士の用事の手傅をしたり、叉同會の外廓運動であった内ケ崎作三郎氏の統一基督教會を助けたりしてゐたが、新聞記者時代の「浮浪人研究會」の継続として、この惟一館を利用して何か社會事業をやって見たいと考へ、仕事の合間に、氏は附近の工場地帯――そこには芝浦製作所や姻草専買局や、沖電気日本電気、池貝鉄工所等等があった――に働く労働者の状態を視察して歩いた。勿論、工場は廣く、且つ立派だった。しかしそこに働く労働者の生活状態は決して江東の浮浪人と相距ること遠からぬものがあった。氏の胸には桑田博士から開眼を受けた「労働問題」がうづき初めた。何とかして、この人たちに働きかけて見たいものだ。出来ることなら、この惟一館をロンドンのトインビーホールのやうに、労働階級のセンターとしたいものだ――そう考へついて、氏は職工たちの唯一の休日である一日と十五日のうち、十五日夜を選んで、惟一館の楼上で、労働問題講話會(その後、通俗講話會と改む)を開き、大學の先輩や記者時代の知人を頼んで来て修養講話や技術の講義をして貰った。又、惟一館の表に「人事相談部」といふ小さな看板を出して、悩みを持つ人々のため善き相談相手たらんとした。
 かうして講話會や人事相談をやってゐるうちに、次第に労働者の知人も殖えて来た。そして彼等の労働條件の不良なることを知るやうになって、どうしても労働者の団結を作り、その自治的自助的團体の力で、つまり、組織された彼等自らの力でその地位の向上を圖らねばならぬと痛感した。そこで、氏はそれまでに自分の周囲に集った労働者十五名を以てまづ労働組合を組織することとした。時に大正元年八月一日――不世出の大帝の神去り給へる後二日の事であった。
 この日、労働組合の旗挙げのため惟一館の圖書室に集った者は鈴木氏の外に機械工五名、電気工二名、撒水夫三名、牛乳配達一名、塗物職一名、畳職一名と、現職の三田署の巡査一名の合計十五名だった。
 巡査といふのは、後の友愛會主事板倉定囚郎氏で、熱心な基督教信者だったが、鈴木氏に共鳴し、サーベルを佩く手前、名を出さない約束で同志に加ったものだった。
 これ等十五名の同志が署名した會員名簿の上へ、鈴木氏は感激の手を置いて、黙祷した。それから互に握手をした。
 會の名は英國のフレンドリー・ソサエティーを直訳したものであった。
 勿論、これはミッションやユニテリアン協會の事業ではない。全く鈴木幹事個人の仕事である。只だミッションや協會がこれを黙認したといふだけである。いはば、友愛會はユニテリアン教會の事務所の一私生子であった。兎にも角にもミッションの理解と同情に則した寛大な處置が友愛会を誕生せしめたのであって、弘道會の安部会長以下の好意もさこそ乍ら、宣教師グレイ・マッコレー博士が「この運動は必ずしも宗教運動ではないが、宗教的大精神を以て当たるべき最も正義なる、最も必要なる神の事業だ」として陰に陽に助力を惜しまなかったことも特筆すべき事だと信ずる。

     余りに基督教的な
 斯うして友愛會は、基督教会の一部に、多くの基督教の指導者たちの庇護の下に、會長の黙祷の裡に弧々の声をあげたのである。
 従ってその標榜するところも、闘争的なものは徴塵もなく、むしろ、宗教的なところが多分にあった。まづその綱領を見ると次の如くである。
 一、我等は互に親睦し一致協力して相愛扶助の日的を貫徹せんことを期す
 一、我等は公共の理想に従ひ識見の開発、徳性の涵面、技術の進歩を圖らんことを期す
 一、我等は共同の力に依り着実なる方法を以て我等の地位の改善を圖らんことを期す
 労働組合の第一の信條であるべき「地位の改善」が末尾に記されて、第一に「相愛扶助」といひ、第二に「徳性の涵養」を云為するあたりは、上記の後援者及び會長たる鈴木文洽氏個人の信仰の影響するところ甚だ大と見なければならない。
 顧問や評議員には大学時代の恩師桑田博士や、高野博士や、浮浪人研究會時代の指導者小河博士などの外に、内ケ埼作三郎、三並良、留岡幸助等の錚々たる基督教界の先輩が名を連ね、宜教師マツコレー及びピーボデイ両博士は名誉會員といふ事になり、常任幹事には牧師の高山豊三氏が就任した。基督教的な、あまりにも基督教的な友愛會であったのである。幸ひにして友愛會は順調に発展して行った。大逆事件のあったあとわづか二年しか経過してゐないこととて、若し社會主義者の人々がリードする團結だったら、恐らくは斯うまでスムースには進展しなかったであらう。ところが、鈴木氏始め指導者は大部分基督教者で皆温厚な君子であり、その掲ぐる處の綱領も着実穏健すぎるほどのものだ。当局としても、これに弾圧を加へる理由は少しもなかった。それどころか京橋支部の会會式に際しては、鈴木會長の友人、先輩といふ関係もあったが、時の警覗廳方面監察官丸山鶴吉氏が金ピカの制服で臨席して祝辞を述べたりした。
 創立一年後の大正二年八月一日には、曾員数は百倍に躍進して千三百二十六名と註せられた。そして、どこの組合でも初期において行ふ通り、法律顧問部、体育部、医療部、娯楽部、出版部、貯金部の諸部を設けた。医療部では医師と特別契約をして、割引又は無料診療を受け得る制度が出来てゐた。法律相談は勿諭鈴本氏が当った。
 かくて漸次内容の整備して行った時、大正二年六月、友愛会最初の争議が勃発した。即ち友愛會川埼支部員の勤めてゐる神奈川県川埼町の日本蓄音機商會が職工全部に二ヶ月の休業を命じたところから、鈴木氏が乗出して行って、資本主である米人と交渉し、つひに(一)休業時期を一ヶ月に短縮し(二)休業中二週間分の給料を手当として支給することを承認させて凱歌をあげた。
 つづいて大正三年六月一日には不当解雇に依る東京モスリンの争議を中途から引受けて交渉に任じ、結局若干の慰労金を獲得して解決した。この争議から職工団結の必要を痛感し、友愛會に人會する者も多かった。
 機開誌も、初めの菊版二倍大四頁の「友愛新報」が大正三年九月からは菊版二倍大数十頁の「労働及産業」となった。筆者はその創刊号から寄附を受けて、編輯者阪本正雄氏からの依頼で原稿を送ったこともあった。(早稲田を出た許りで大毎入社前の事である)
 大正三年十一月、機関誌の拡大を機とし従来の會費五銭から十銭に増額した。すると、約二千を数へてゐた會員が千五百名に減じた。経営は頗る困難で、年末の雑誌の印刷代を払ふために鈴木会長の一帳羅のフロックや時計まで質屋へ運ばれた。職員の月給も遅れ勝ちだった。しかし、そうした困難をも乗り越えて、友愛會は次第に発展して行った。

     日米親善は労働者から

 大正四年になった。友愛會は創立四年を迎へんとし、會員数は六千五百を越えた。この時、海の彼方のアメリカで排日問題が起り、これが緩和の一助として、「労働団体の代表者を渡米させて米國の労働者と握手せしめよ」との議が、親日家のマシウス、ギューリツク両博士によって唱へられた。マシウス博士はシカゴ大學總長、ギューリツク博士は米國基督教會聯合會の國際部長、共に明治初年に日本に渡来した組合派の宣教師で日米親善の特使として再度来朝されたのだった。
 特にギューリツク博士は義弟のフヰッシャー氏が日本學生基督教青年會同盟の名響主事として久しく日本に在るところから、同氏とも相談し斡旋せしむるところがあった。この日米労働者の握手による日米親善案に、まっ先に賛成したのは添田壽一博士で、博士は更らに渋沢男を説いてその同意を得、ギュリック博士と旧知の間柄の安部磯雄氏等と共に「その代表としては鈴木友愛會長の外にその人なし」とて、鈴木氏の渡米を慫慂した。そこで鈴木氏は同年秋開かるる加州及全米労働大会に出席のため、六月十九日横浜解纜渡米した。費用予算四干圓は會員や知人の寄附で整った。未だ開係の切れない弘道會の方は萬事安部氏が含んでゐてくれるし、ミッションでもマコレー博士は大いに喜んで、ボストンのユニテリアン協會本部を訪問して来るやうにと言ひつけた。渋沢男も若干の餞別を贈った。
 アメリカでは片山潜氏らの妨害があったが大した事はなく、叉加州労働同盟会でも「日本労働者移入反對は持論であるが、そうだからといって日本労働代表の来朝に反對する理由はない」として友誼代表として大会に出席を許した。全米大会でも同様で、いづれも日米親善に役立つことが出来た。
 氏は英語で演説した。日本人といへば、加州の移民のみを知ってゐて英語も碌に喋舌れたいものと決め込んでゐたアメリカの労働者には、これは鳥渡意外だったらしかった。氏は全米大会の壇上で會長ゴンパース氏と握手し「我等は人種、言語、國境を越えて共同の敵に向って戦ふ」と語り、ゴ氏も「我等は共同の日的、共同の敵に向って戦ふ」といってこれに和した。
 氏は大会終了後も各地の労働組合を歴訪し、日米親善を圖ると共に、労働運動の善い勉強をした。労働組合の會議の議事に使ふギャベルなども、この時氏がアメリカから齎した土産の一つだった。友愛會創立五周年大会以後、いつも使川するやうになったバッチもその一つだった。(五周年大会のハッチは、筆者も出席して貰って保存してゐるが、労働運動方面ではこれが日本最初のものであらう)
 鈴木氏は大正五年一月四日、一旦帰朝し、さらに同年九月重ねて渡米した。前回の成績がよかったからである。それから二年置いて大正七年十二月には巴里平和會議にも出席した。
 右は友愛會の本部における活動の歴史である。地方における同會の消長はどんな具合であったか。再び筆を開西に返さう。

     関西における労働運動
 関西では、政治や學術の中心地である東京ほどに、以前から社會主義運動も活溌に行はれはしなかった。明治年間における関西での運動を簡単に一瞥して見ると、まづその魁として、明治十二年六月に設立を見た彼の大井憲太郎氏等の「大日本労働協會」を挙げねばならぬ。大井氏は自由党の左翼に属する政客であったが、党内の堕落に噴激して自由党を脱し、明治二十五年十一年六日、新に「東洋自由党」を組織し、財政、経済の立直しの外に、民力の休養――殊に貧民労働者の保護の必要を主張し、別働隊として党内に「日本労働協會」及び「普選期成同盟」を設けた。その中の「大日本労働協會」は明治三十二年六月大阪に設立を見たのだった。
「大日本労働協會」の綱領は労働者職業紹介、出獄人保護、労働者教育、庶民銀行設立、労働者生命火災保険等で、機関雑誌として「大阪週報」を発刊し、主筆は萬朝報記者たりし栃内萬之進氏であった。大阪週報の第一号に大井氏が我労働状態に向って放った疑問は、労働者は世の進歩に件うて改進しつつありや、労働運動を無識なる労働者の頭分に一任するは当を得たるや、労働時問は年齢の割合男女の差別に応じて間然する所なきか、賃銀はその労力の程度に応当して公平を保たるや、等であった。大日本労働協會はその又別働隊として「小作條例期成同盟會」(大井憲太郎、宮崎虎之助、栃内萬之進諸氏発起)を設立した。当時大阪府下では小作料軽減運動が激烈で、地主對小作人の衝突が甚しかったから、当然盛大にならなければならなかった。然るに、時勢がまだ早かったのであらう。同會が委員を送って大に遊説に努めたのにも拘らず、予期の成果を収め得ないのみならす、母胎である労働協會の勢力が却って衰運の歩調を辿って三十三年の春からは「大阪週報」が「大阪月報」となり、遂ひに三十四年五月、大日本労働協會そのものが消滅するに至った。これは当時の民衆が無自覚であったためにも因るが、入会金二十銭といふ当時としては高きに失する嫌ひのあったことも一因であったのだらうと想はれる。
 なほ大日本労働協會の外、関西における労働運動で風変りのは明治三十三年神戸の海陸仲仕三萬人によって組織された「清国労働者非雑居期成同盟」であらう。これは純粋の労働運動ではなく、清國の労働者の流入に反對した運動である。その宣言文を読むと「夫れ、國民の多数を占むる者は労働者なり、これを保護するは将に同胞の責に存す。然るに、一朝、清国労働者の入國に會はば、彼等は必ず衣食の道を失ひ、饑渇に迫るの結果、無頼の徒を現出し、醒風血雨、惨憺たる光景を現出するに至るは必定・・・」とあって、支那人雑居制限勅令の不備を鳴らし、絶対に雑居を禁ぜしめんとしたものであった。
「労働者に國境なし」といひ「萬國の労働者結束せよ」といって國際性の高調せらるる近代の労働運動とは相距るところ甚だ遠かりしものといへやう。
 いづれにもせよ、この期成同盟會は、神戸において三回に亘って演説会を開いたが、つひにモノにならす、同盟會もいつの間にか消滅した。
 関西における運動は、この程度のもので、始んど問題となったものとてはなく、組合もさきに記した石工組合ぐらゐで、大正四年の友愛會大阪支部の設立を見るまで、全くの處女地として置かれたのであった。

   友愛會と期成同志會
 大正四年三月、東京深川区の友愛會江東支部幹事が偶々大阪に転職して来たところから、その勧誘によって十数名の會員が獲得されたのに始まり、その漸次會員の増加を見て、まっ先に北区支部の設置を見、これが大阪支部と改称され、一年後の大正五年四月には會員数は六百余名を数へ、遂に支部分立の必要を生じ、従来の大阪支部の外に大阪第一支部の設立を見た。同支部は一時は會員千二百名を算し大阪支部の二百五十名の約六倍を数へるといふ優勢を示した。これ等の支部員は大部分鉄工であった。即ち大阪支部の砲兵工廠、黒田ゴム、大阪第一支部の住友伸銅所、汽車會社、藤村鉄工所、大阪瓦斯日本兵器等で、黒田ゴム、大阪瓦斯の両者を除いては何れも鉄工許しであった。
 その後、同會は幾多の変遷を経て、大阪、大阪第一支部の外、西、九條、傅法、木津川、松島、難波の各支部の新設を見、大正六年には會員数二千五百と註せられた。
 大阪には、この友愛會の運動と併行して、「職工組合期成同志會」が活動してゐた。同會は工場法の発布を見た大正五年に創立され、「天は自ら助くる者を助く」といふ格言を信條とし、友愛會の基督教色彩の濃いのに對し、どっちかといへぱ東洋思想の傾向があった。その綱領を見ても「地位の向上」を第一項に掲げ、その次項には「我等職工は富國強兵の基を築かんがために理想的職工組合を組織し・・・」云々と記してゐるし、その機関誌も単独発行に至るまでは、大阪工業會の幹事であった長谷川氏の主宰する「一心」と題する修養雑誌の一隅を借りて、會報に代行してゐたほどである。そしてその事業としては、医療部、共済部、貯金部等の福利運動に力を注いでゐた。幹部には堂前孫三郎氏を始め、今の總同盟の大立物西尾末廣氏や先年惜しくも長逝した總聯合の坂本孝三郎氏かゐた。当時、西尾氏は二十三四歳、坂本氏に至っては二十歳になるかならすの青年であった。当時、大阪毎日新聞の記者だった筆者は、陰に陽にこの運動を助けてゐたので、友愛会の機開誌「労働及産業」に「大阪毎日新聞ともあらうものが、くだらない組合の提灯を持つとは」といって冷評されたこともあった。
 同志會々員の加盟工場は堂前、坂本両氏の勤務した汽車會社や西尾氏の勤務してゐた安治川鉄工所を始め住友鋳鋼所、大阪電燈、砲兵工廠、大阪鉄工所等十四工場であった。しかし、この同志會は在る事一年、大正六年に至って解散し、その後、大正八年に至って大阪鉄工組合として更生した。
 この時である。賀川豊彦氏がアメリカから帰朝して、関西の労働界に力を出しだのは――。

      (この号はこれで終わりです)