賀川豊彦の畏友・村島帰之(178)−村島「歓楽の墓」(1)

  「雲の柱」大正14年3月号(第4巻第3号)への寄稿分です。

          歓 楽 の 墓 (一)                        村島帰之 

    は し が き
 或人は、これを一つの『小説』として読むかも知れない。叉或人は、これを一つの『懺悔録』として見るかも知れない。更らに或人は、これを一人の遊蕩児について、縦断的に研究した社會問題の『報告書』として受取るかも知れない。然し、読み方、受取り方は、読者の心に委せる。筆者は啻だ純なる心持をもって、あからさまに、あるがまゝの事実を、あるがまゝに記すまでの事である。
 小説にしては、余りに「筋」の変化がなさすぎるであらう。懺悔録にしては、余りに敬虔さが乏しいでもらう。叉報告書としては、余りに記述が散漫に過ぎるであう。然し、筆者の態度は、最初から、小説の「誇張」と、懺悔録の「詠嘆」と、報告書の「生硬」を避けて、専ら、偽らず、一人の遊蕩見の経て来った淫蕩なる生活を、描き出さうとしたまでである。
筆者は今、過去の生活を悔いてゐる。その心持から言へば、この一巻は懺悔録ともなるであらう。叉、筆者が今、茲に筆を執るに当って、女の唇から唇へと渡って行ぐ遊蕩児の生活と、ブルジュアー社會の産物として生れた買淫の実相を、能ふ限り、正直に、詳細に、そして適切に記述するに努めた。その態度から言へば、この一巻は、社會問題の報告書として受取らるべきものであるかも知れない。
  然し、そうした詮索は姑く措筆者は、人生報告者としての立場と、報告者的良心に基いて、この一巻を成すと共に、空の空なる過去の淫蕩生活に、今、最期のサヨナラを告げる。
 これは、脱ぎ捨つるところの古き破衣である、と同時に、過去の自分を葬る墓表である。筆者は白き墓碑を茲に建てて、一切の過去の私にサヨナラを告げ、新しき生命に這入る。
 この一巷は、筆者が地球の一角に、のこすところの、我楽の墓である。

     一 學生時代

 『性的衝動は、野生の象を馴す突針よりも鋭く、焔よりも熱い。それは、恰度、人間の魂に射込まれた矢に似て居る』――
 その強烈は、性的衝動を、臆病の上に立った自制心と、冷たい智慧に依って、辛くも節制し得た學生時代を顧みる時、私は今において、寧ろ、それを不思議とする。それほど、当時の私の周囲には誘惑が満ち、淫蕩な空気が漲って居たからである。
 後に述ぶる如く、後年、私が加速度を以て、驀地に、歓楽の世界へ突進して行ったのも、畢竟、此の淫蕩な學生生活の中にあって、終始、性的節制を保つを得た、その反動とも解すべきである。
 当時――大正二年頃――某雑誌は、學生堕落の実情を報告する為めに、特別号を発行したが、その中に於て、△大學々生中、全く異性を知らざる者の極めて少きを指摘し、更に進んで、未だ花柳病に罹らざる者の数が、罹れる者よりも遥かに少数である事を記して世人を驚かした。然し、迂遠な世人は兎も角、実情を知悉する者にとっては、それは決して単なるヂャーナリストの誇張とは思はれなかった。
 思ひを、十数年前の、金釦と角帽の自分及びその周囲に運ぶ。――
 中學校を卒へて、△大學に入學すると共に、私は、生れて始めて雨親の膝下を離れ、下宿生活に這入った。それは戸塚の穴八幡から戸山ヶ原に通づる並木道に面した古い二階建の下宿で、三十名近くの大學生が止宿して居た。私がその止宿者中の最年少者であった事は言ふまでもない。その時、私は十九歳、まだ筒つぽを着て學校へ通ってゐた。「筒つぼの大學生」は△大學でも、廣島から家てゐた△と、そして私の、僅か二名であった。
 下宿の客は全部△大學の學生であった。
 ○といふ梅暦の丹治郎を思はせるやうな、にやけた文科生は、『太陽』の懸賞小説に当選して百圓の賞金を得たが、『俺が当選してゐるのを知って、一人位ひは女が訪ねて来さうなものだが。――女子大の奴等は一体何をしてるんだらう』と、まじめに冴かってゐた。
 今は××座の名優として、舞台にも、叉スクリーンにも、その名を謳れてゐるA君も当時、私の向側の部屋に陣取って、アントニオの台詞などを坪内博士の口吻を真似て喋舌ってゐたかと思ふと、折柄廊下を歩いて来た稲公――十四歳位の少女――を掴へて、いたづらをし始めたらしく、稲公がキャッキャッと廊下を逃げ廻ってゐるのを聞ぐ事などが屡々あった。
 叉、Eと呼ぶ眉のキリッとした理工科生の部屋には、下宿の娘の花ちゃんが、たへずいりひたってゐた。花ちゃんは、今ならば、キネマの女優にしたらと思はれるやうな、顔の道具が大きくて、輪廓の極めてはっきりした美人であった。Eと花ちゃんの特別な友情は、両親を始め下宿人、雇人の公認するところであった。下女の話では、Eが物持の忰なので、胴慾な親爺やおかみが、寧ろ花子の尻を押してゐるのだともいはれてゐた。
 然し、此の『公認』は程度問題で、花ちゃんが他の客から言ひつかった用事や、お膳の運搬を半途にして、Eの部屋へ這入って了った時など、嫉妬まじりで、憤激する、衣肝に至り、袖腕に至る政治科生もあった。Eはそのために、下宿でも全く無援孤立の有様であったが、花ちゃんが懐妊したのを動機に、程遠からぬところへ別の世帯を持って了った。
 女中は二三人づゝゐたが、絶えず顔がかわってゐた。多くは桂庵から送られて来た、下宿向きの「海千山千」であった。彼女達は、家庭離れて始めて下宿生活に這った私には、傍で見開きしてゐてさへ面映ゆい事を、平気でしたり、言ったりしてゐた。それが叉下宿人たちにば歓ばれてゐる様子であった。
 或る女中は、夜、用事に来たついでに、ランプの下で予習をしてゐる私の傍らへ、すれすれに坐り込んで話かけた。そうした時、当時未だホンのこどもであった私は、ギョツとして思はず此方から体を引いたものだ。すると女は『あなたはまじめね』とあざけるやうな言葉を残して、そそくさと、出て行くのだった。
 私がその下宿に這入って、半年もたった頃であった。おみつといふ盎惑的の女中が雇はれて来た。下宿人の眼は、おみつの前に異様に光った。彼女はいつも白いものを塗ってゐた。そして、各所の部屋で、彼女と學生とがいたづらをしては、金切聾をあげたり、どたばたと暴れる音の聞える事が多くなった。
 或日、此の下宿に来てから最初に友人になったSが、私の部屋へ来て、出しぬけに
 『――君。君の机の曳出しに、おみつの寫真か這入ってやしないか』
 『いーや、なんにも』
 私は怪訝な顔をしてSの顔を見た。
 『フーン、可笑しいなア』 Sは首をかしげ乍ら、
 『実はね、おみつが僕の机の曳出しへ寫真を入れて置きあがったんだよ。』
 『それは素敵だね』 私は半ば嘲笑的に、半ばはねたましく言った。Sは笑ひ乍ら
 『ところがネ、僕んとこだけじゃないんだ。Aのとこへも、Oのとこへも、それからNところへも……』
 『フーン』 私は自分一人除外された事の当然さを思ひ乍らも、なほ、取残された淡  いかあさと、妬ましさを感せずにはゐられなかった。
 『彼奴は淫賣じゃないかい』 私は皮肉な調子で訊いた。
 『どうも、そうらしいんだ。一番のTの部屋なんぞには、時々泊り込むらしい』
 Tといふのは商科の學生で、モウ三十近くの髭の濃い肥えた男であった。私などが全くの小僧ッ児扱ひをされてゐたは勿論、AもSもOも、皆Tの前には存在を認められず、誰れ一人口をきいたものもなかった。只だ彼の部屋へ三日にあげず、あだつぼい酌婦風の女が訪ねて来ては、泊って行く時もあるらしい事が、若い下宿人のロの端にのぼってゐた許りである。
 おみつは下宿人からクヰーンの如く持囃されるやうになった。
 然し、そのクヰーンの在る日は極ぐ僅かで、間もなく、彼女のその白い顔が、卒然として消えて了った。
 『思はしい獲物にぶつからなかったからだらう』とSはそう解釈を下した。
 私は、こうした中で約一年を過した。芝属の立見などに行って、十二時過ぎに戻って来る事はあっても、外泊する事はついぞなかった。
 『――さんは全くまじめだ。交際するならあゝいふ風な人としなさい』と、下宿の親爺はSにそういった事もあったさうだ。
 然し、それは私がまじめであるといふよりも、寧ろ私の周囲があまりに不真面目すぎたのであった。
 その頃早稲田界隈には多くの淫賣屋があった。學校の東手、目白へ通づる道の両側に並んだ曖昧屋――「料理」などと看板はかけてあっても、内側に料理屋らしき何物を認める事の出来ない家――がそれであった。鶴巻町の横町にもあった。戸塚村にもあった。そこに「淫賣屋」の暖廉がなくとも、あぐどい色彩に包まれた、それでゐてどことなく抜けたやうなところのある女性が、時間遅れに朝風呂?へ行くのを、見受けたりなどする事によって、明かにそれと感付かれるのであった。
 芝居の立見の戻りに『ちょいと』と闇の中から囁かれて、仰天して大跨で歩いて帰った事もあった。
 友人Tと、ダラウンドヘ野球を見に行って帰途、學校裏門前のしもたやから出て家た女が、Tの顔を見るや『アラ』と声をかけやうとして、Tから目くばせをされ、あわてゝロを被ふた光景なとが――Tは今もって、私がそれに気付いた事を知らぬであらうが――思ひ出される。
 淫賣屋に馴染のあったのはT許りではない。聖人らしい顔をしてゐるクラスメートの中にも、ひそかに通ふ者があるらしかった。その事は、恰度はその頃起った「淫賣退治」運動で判明した。私は勿論、淫賣退治の勇士の、その幕下の一人であった。『どこの淫賣屋の瓦斯燈を壊した』などと前夜の快挙を教室で手柄顔に物語ってゐる時、『おすこは此頃始めた許りさ』とか『あすこは二人しか女がゐない』などと、淫賣屋の内容を知悉してゐる事を、問はず語りに白状して了ったからである。
 淫賣退治運動は効を奏して、数百の白首が、一時早稲田界隈から姿を消した。然し淫賣屋の絶滅は、決して學生の風紀を革新するには至らなかった。なぜならば、淫賣屋の客となる學生の数は、全遊蕩學生の凡べてでなく、寧しろその一小部分であったからである。
 遊蕩学生の多くは新宿、洲崎、吉原の遊郭に通ふた。そして少数の者が、神楽坂、富士見町の待合に通ふた。
 『今日は土曜日だが、生憎五圓がねえや』――と呟くのは、遊廓行を志しても、金の持合せのないために、怨みを呑む學生である。五圓といふのは、大正二年頃の一回の登桜費であった。
 『いきなり敵娼(あいかた)に五圓札を渡しとくと、その中から帰りの電車賃だけを引いて、残り丈けで遊ばしてくれるんだ。學生さんは大持てさ。』と、得意に話して聞かしたのは、私が最初の下宿から、グラウンド前の三層楼に引越した頃、その下宿の前の素人家にゐたNであった。Nは土曜の夜は殆んど宿にゐなかった。言ふまでもない。五圓札を握って洲崎へ走ったのである。
 その頃、私はまだ遊廓へ足一歩も踏入れた事はなかったが、柳浪の「今戸心中」を始め紅葉、眉山、風葉及び梢々新しいところでは荷風、泡鳴などの小説から、遊廓の輪廓丈けは教えられてゐたので、Nの話も最早遠い夢の國の物語ほどには思はなかつた。
 私はNに頼まれて、得意の美文まじりで、女への手紙の代筆をしてやった事もあった。叉敵娼から、古い和歌を贈られて返歌に因ってゐるNのために『君がり行くに羽根なからずや』などゝいふ歌を書き与へた事もあった。
 Nとその敵娼とは深い馴染らしく、Nと彼女の定紋を金で焼き込んだ湯呑茶椀が贈られて来たのを見せられた事もあった。Nが秋のボートレースで獲ち得たメタルを、簪(かんざし)の頭に作りかへてやるのだといって家の主婦さんに頼んでゐるのを聞いた事もあった。
 Nの同宿のTも、屡々Nと行を共にするらしかった。或時Tの國元から、父親が来るといふので、TとNが私のとこへ書物を借りに来た事があった。
 『どうして本が要るんだい』と訊くと
 『親爺には度々本代を無心してあるんで、少し本を並べて置く必要があるんだ。それでなるべぐ偉らそうに見える本を十冊許り貸してくれ給へ。親爺が帰ったら直ぐ返すから』
 言ふまでもない、Tの本代は、洲崎で費消されたのである。
 同じくクラスメートのFの處へは『妹よ』といふ手紙が屡々来た。 
 『妹はいくつだい』
 『フフ、十六だ、七だ』
 Fの答へは曖昧だった。私の第六感はその頃、モクそれに對して疑ひを狭み得るほどまで、発達してゐた。表を返して見ると、消印はFの郷里の大阪ではなくて、「新宿」としてあった。
 『妹に會ふのは五圓札がいるんたろ』
 私は誇らしげに皮肉った。
                (つづく)