賀川豊彦の畏友・村島帰之(182)−村島「歓楽の墓」(5)

  「雲の柱」大正14年8月号(第4巻第8号)歓楽の墓(5)

          歓 楽 の 墓(五)
                            村島帰之

 周囲に女の友達を持ってゐなかった当時の私としては、芸著と話が出来るといふ事だけで、お茶屋遊びは、此上もない歓ばしいものに思はれた。その事以外、異性と歓談する機会は、滅多に与へられない自分である事を知ってゐたからである。
 かてゝ加へて、私の目に映った芸者といふ芸者は、凡べて眉目美しく、気高き女性であった。一筋のおくれ毛もないまでに綺麗に結上げた黒髪、手を触るれば、曇るであらうと思はれるほど、クッキリと白いかんばせ、絢爛の晴着、わけても燦然たる金糸のぬいの幅太帯、それに、裾をこぼれる燃えるやうな緋の蹴出し、――若し夫れ膝をにじらせ乍ら、自分の方へ近寄って来るなら、男の官能を狂はせん許りになつかしい指粉の香と、香水の匂が五臓六腑に浸みわたって、若き男の心はなやましさと、やるせなさに溶け出すかと思はれた。
 私は、只だ異性と話を交へる喜びを再び持ちたいといふだけの望みから、ひたすら後の機會を待ち望んでゐた。
 然し、機会の来るのには、余り日数は要らなかった。私の勤務する××新聞社の忘年會が催されて、私は胸に行進序曲を奏し乍ら、大股で料亭堺卯の門を潜った。
 型の如く宴會は初まったが、私を特に喜ばせた事は、さきに北新地の料亭の宴会で見知り越しの芸妓の顔が一人ならす、数人見えた事であった。それで、私は打寛いで、その妓たちから酌を受ける事が出来た。
 舞ひが始まった。老妓の地に合せて、愛らしい二人の舞妓が振袖を翻しつつ、かろがろと舞った。美しい曲線を描いて体を交はす時、脊からながながと垂れた緋のダラリの帯が、夢のやうに揺めいて、金のぬい糸が、電光に反射して光るのだった。あらかじめ配布された宴会のプログラムによって、その中の一人が当時の名妓富田屋八千代の妹芸者小八千代である事が判った。
 一さし舞ひ終へて、再び酒間の斡旋に戻って来た小八千代が、思ひがけなくも私の前へ坐って『どうぞ』と酒瓶を向けた。
『ありがたう……』 私は光栄に胸を躍らせ乍ら盃を出した。そして一息に呑み干した後、何と愛想の言葉を掛けて善いかと思ひ惑ふてゐた。然し、その心配は無用だった。馴染でもない客の前で、一刻も停止してゐる小八千代ではなかった。彼女は光栄に打ちおのゝいてゐる野暮天の前をツと立って、他へ移って行った。私は掌中の玉を失ったやうに暫くは呆然としてゐた。

 宴會が果てたのは、かれこれ十時過ぎであったらう。私の心はまだ宴席の夢を追ふてゐて、只だ独り自分をまってゐてくれるであらう母の居ますわが家へは向かなかった。
 『君! どうです。呑み直しませんか。』
 堺卯の大玄関を離れて、石畳の上を歩いてゐる時、背後から肩をたゝかれたので振向くと、同じ部のT君がニコニコし乍ら立ってゐた。
 『結構ですね。行きませう』
 オスカーワイルドの小説の中に『誘惑に對して私共の探るべき態度は只だ一つしかない。それはその誘惑に応づるといふ事である』とあったのを思ひ出して、言下にその勧誘に応じた。                              
 二人は間もなく、ある家の二階、小ぢんまりとした部屋に丸い煊徳火鉢を中央にして相對坐してゐる二人を見出した。そこは南地の中筋、春の家と呼ばるゝ貸座敷であった。
 貸座敷といふのは、東京の待合と同じやうに、遊客のために座敷を提供し、酒をすゝめその望むところの料理を他から取寄せ、又芸妓を聘して興を添へしむる家であった。二流以下の貸座敷では、娼妓をも聘する事が出来る制度になってゐた。之れは南地(新町の一部にもあるが)の特色で、そこには居稼店制度の娼妓でなぐ、送り込みと呼ばれて、貸座敷からの招聘に応じ、娼妓がその置屋から、貸座敷へ出掛けて行く制度がひかれてゐたのである。(送り込みについては後段に述べる)
 『お馴染さんは?』 仲居が、顔を出した。芸者を招聘するについて、馴染があるなら、その妓を呼ばうといふのである。
 『今日宴會に来た連中は?』
 『イヤ、あれは皆お約束芸者だから、こんな處へは来やしないよ。あれは君、あゝ見えても皆一流株だぜ』
 なるほど、そう言はれて見ると、宴會に出た芸妓の名は、赤新聞の廓通信などで散見する名であった。曩(さき)に北新地の宴會で見た顔が、堺卯の宴會ても見受けたといふのも、畢竟、彼女達が一流芸者で、そうした宴會か、特別の座敷でない限りはザラには出ない優秀な階級に属するものであったからである。
 お約束芸者といふのは、予め何日の何時から何處へ来てくれと、約束されて出て来るもので、臨時に、行き当りばったりに招聘される連中と区別するために、そう呼れるので、花代(招聘した時間に對して支彿ふ金)も普通の花代(線香代ともいふ)以外に、約束花と稀して幾分の割培を出す規則になってゐる。
 私は約束花の制度を聞いて、私達があの美しい芸妓達には、宴會ならでは會へない身である事を知って失望した。
 『資本主義社會の土に芽生えた美しい毒草だ。園主以外、貧乏なプ口レタリヤに手も触れさせぬやうにしてあるのに何の不思議もない!』 私は心でそう思った。
 あくまで華かに、そしてあくまで自由な歓楽王國だと思ってゐた私の幻想は、茲でまづ第一に破れた。
 幻滅の悲哀! それは美人さへも、特権階級が壟断して、一般民衆をして垣間見る事をも許さぬ事であった。
 私はその夜遅くわが家に戻って末て、次のやうな或想文を書いた。

 考へでも見給へ、現代の令夫人、淑女なるものが夫を撰ぶに当って標準とする處は果して何であるかといふ事を。結婚に必要な条件は両者間の愛情の有無であるべきである。然るに愛情の有無の如きは毫も之れを問はず、一に財産、二収入、三に位置を云々するのではないか。一厘でも多くの金を待った男にその身を賣り、その娘を嫁がしめんとするのではないか、愛情を財産に代えて販賣する事は、賣笑婦と何の選ぶところがあらうぞ。
 併し之は絶えず生活の不安に襲はれてゐる現代の男女としては、寔(まこと)に止むを得ざるものとして尚恕すべしとするも、遂に黙するに忍びざるものは、中流以下の家庭に生れた女の婚姻である。
 京都は古来美人の産地として知られてゐる。之れは加茂川の水が京女の肌をなめらかにするにも依るだらうが、夫れよりももっと大きな原因がある。
 夫れは京郁が永く帝都の地となってゐて、日本の権力が此處に集中してゐたといふ一事である。
 凡そ権力の集中する處、天下の鋭才はマグネットに吸引さるる鉄粉の如く此処に集るは自然の理である。求むる者は権勢を振翳して之を求め、求めらるゝ者は栄達を望んで之れに応ずるからである。
 美人とても然うである。京の文武百官は天下の美人を自己の膝下に呼集めんとして努力し、地方の美人は栄達を求めて召に応じて此處に馳せ參するのであった。
 艶麗を京の花と競ふた小野の小町の如きも秋田の在の女であったが、その召に応じて入洛した一人である。
 斯く京には天下の美人が集った。その子孫に眉目美しき女の生れるのも素より当然である。
 換言すれば、京に美人多きは、全く往昔権力に依って美人の集中を行ふた結果である。
 美人を集め得た京は美しさを増するが出来たらうが、みじめなのは美人を引抜かれた地方である。評判娘や小町娘を都に浚はれて、残るは醜い女のみである。
 此の美人集中の傾向は今日においても尚依然として変りがない。
 読者、若し試みに貴顕紳士の家にその妻女を訪れ、更にその足を以て貧民街に山の神の面相を拝見するならば、読者の思ひ、蓋し半に過ぐるものがあるであらう。
 言ふまでもなぐ貧家の娘中眉目美しきものは、或は芸妓となり、或はお妾となって上流の側女として引上げられるが為めに、下層社会は愈々美人の沸底を告げ、上流は美人を独占するに至るのである。
 美人を引抜かれ、その妻として、その母としてしこめのみを残された下層社会の男女こそ惨目である。
 併し悲惨なものは必しも此の青年のみではない。
 上流に引抜かれて行った女とても亦惨目なものなる事を記憶せねばならぬ。彼は身に綺羅を飾り喰ふに好き嫌ひを云為し、出づるにも、ヤレ自働車よヤレ俥よと騒がれるが一歩その裏面に這入って見れば、更に幻滅の悲哀を感せざるを得ないのではあるまいか。
 富の集中のみが、社會問題ではない。