賀川豊彦の畏友・村島帰之(183)−村島「歓楽の墓」(6)

  「雲の柱」大正14年9月号(第4巻第9号)歓楽の墓(6)

            歓楽の墓(六)                          村島帰之

 たとへ或る点において幻滅はあっても、芸者を女王とする歓楽の王國は、若い男にとって、どこよりもなつかしく、慕わしい場所であった。機曾を待ち望む者に、機會はしげしげと来た。私はその一つすら取逃す事をしなかった。
 私は次第に多くの芸者の名を覚えた。爪のやうに小さい名刺の幾枚かが宴會毎に私の名刺入の奥深く仕舞はれた。
 『また近い内に、よんでくれやすやな。きっとだっせ』
 返り際に芸妓からダメを押されて、自分は善い気持になってゐた。そして、私は早くも何人かの馴染芸者を持つやうになった。馴染といってもまだ性的の交際かある詳ではなく、数回の面識と、或程度の友愛を持つに過ぎないのであった。その馴染芸者に對しては、私の名で『合ひ状』が用ひられるやうになった。
 合ひ状といふのは左の如き雛形のものであった。

  △△様(客の名)ゆへに
     一寸なりともお越し待入り候
              何々(貸座敷の名)
  何々席
   何 某(芸者の名)様

 右の合状はお茶やのお茶子によって席(検番の如きもの、各御茶屋からの芸者の招聘をを受付け、各芸者に通づる處)に運ばれ、更に席の男衆(妓丁)によってその芸者の屋形(前者の住所)に齎らされる。然し若しその芸者が既に他の座敷に聘せられてゐた場合には、その合状は更にその座敷へまで運ばれるのである。
 合状を受取った芸者は、差出人の名を見て、さして行きたくもないと思へば、その儘合ひ状を懐中に突込んで黙殺して了ふのである。之に反し、その合ひ状の主が、現在勤めてゐる座敷の客よりも、より望しい客であると考へる場合には、客及びその茶屋の女将なり、仲居なりに頼んで、合ひ状の差出人の方へ行くのである。此場合、さきの客は妓が勝手に早く座を立ったのにも拘らず予め定められた花代は少しも値引されないが、他方、合ひ状を出して他の座敷から妓を奪った客は、花代の外にその女冥加の課税として『貰ひ花』(呼出花)といふ一種の歩増(日本)を課せられるのである。つまり妓は二重の花代を取得する訳である。そこに狡猾な花代制度がある。
 勿論、さきの客は、他の客からの貰ひを許してやらなければならぬといふ法はないが、歓楽の王國の道徳は、そうした場合、目をつぶって妓の要求を聞いてやるのを以てお客の度胸とし、之を無碍に拒むものを野暮として擯斥するのである。内心、野暮で妓を離したくなくても、廓の道徳に従って、怨みを呑んで妓を他の座敷へやるのを承知しなければならぬ事は、大部分の客にとっては何よりの苦痛であらねばならない。
 尤も、その座敷に待べる芸者の教が少くて、今、中座されては座が白けるといふ場合などには、女将や仲居が、そこは巧みに釆配をふるふて、貰ひに応じさせるといふやうな事をしない。そうした場合、「合ひ状」はその効用を発しないが、差出人に對しては『誰さんは耳です』との返答が行く。即ち、『あなたの事はあの芸妓の耳に入れてありります』の意味に外ならない。
 芸妓は酒間を斡旋し、技芸は演じて花代を労働者である。一厘でも多ぐ稼いで、一日も早く借金を返さねばならない身である。従って一日廿四時間を廿四時間として花を賣ってゐては迚ても借金の足が抜けない。茲においてか、廿四時間を三十時間、四十時間にも賣る事を考へるのである。
 大阪附近の花代制度は「仕切り花」制度で、廿四時間を廿四分して平均に一時間を幾許と定める許りでなく、「朝から昼」「昼より暮」「暮よりりん(十一時半)」「書夜通し」「明し(十一時半より翌朝まで)」と、一日を三つ四つに仕切って、それぞれ異った花代をきめてゐるのである。殆んど需要のない朝から昼までの数時間の花代は僅か九本、(一本二本といふのは、昔、花代を線香一本燃える毎に幾許と勘定した名残りで、花代の単価を示す物である。今日一本の花代は十五銭である)に過ぎないが、暮れからりんまでの数時間は、時間としては却って前者より短いが、客の立てこむ時間なので三十本といふ高い花代を払はねばならぬのである。つまり、花代制度は、客の弱点につけこんで需要の多い時間に高き花代を徴し、需要の少い時間に安い花代を徴してゐるのである。
 芸者は此の仕切り制度を巧みに悪用し、甲の座敷で、暮からりんまでの約束で仕切つておいて、中途から「貰ひ」のかゝった乙へ出かける。そして乙から、その時間以後の花代に「貰ひ花」五本を添へてとる。更に乙との約束の時間の尽きない内に、又もや丙へ貰はれて、同様の花代を稼ぐ。かくして一夜五六時間を、狡猾な妓は十数時間に活用するのである。殊に午後十一時半からの明し花といふのは、たとへ三十分でも明し花十四本を徴収する定めになってゐるので、賢い妓は、午後十一時半以後に数軒に明し花を賣って、腕のない妓が十四本の花代を得てゐる時、その妓は之に数倍する花代を稼ぐのである。
 『あたし、今日は明し花を四はい賣ったワ』といふ妓があったらその妓は午後十一時半以後の時間を四倍に活用して五十本近くの花代を稼いだ妓である。こうして二重、三重に花代を取得する事を「おどらす」といって、妓の腕のあるなしは此處でも明かに現れる訳である。
 私は合ひ状を出して馴染の妓が今に来るか来るかと待つてゐた。階下の格子のあく毎に、小胸をとどろかせてゐたが、いつも他の座敷へそれて了った。その時、その妓は屹度他の座敷で淫(ざ)れ唄でも唄ひながら、笑ひさんざめいてゐるのに違ひなかった。私の送った合ひ状は鼻紙と一緒にふところに突込んだまゝ――
 けれども、そこは廓である。心の中では、じれったさに舌鼓の百萬遍を打ってはゐても、表面は、そんな芸者がゐたかしらんといふやうな顔をしてゐなければならなかった。
 終りまで忍ぶものは救はるべし。待ってゐた彼女は遂ひに来た。『早やう来とおましたんやけど、ねえちやんが、いなしてくれやはらしまへんだんねヮ……』
 白々しく弁解し乍ら傍らに座って
 『ながい事来てくれやはらしまへんでしたナ』
 と、さも思ひに耐え兼ねてゐたやうな口吻をもらすのであった。
 『ウン、つい忙しいものだからね』
 私は彼女の言葉の真偽を疑うやうな余裕は毛頭なく、只だ相見る事の出来た悦びに、幸福に酔ふてゐた。
 こうして歓楽王國の住民に、表裏の二枚舌があっても、その國の光と彩りと匂と媚に眩惑されてゐる身には、それを識別する余裕の持合せすらなかった。
 此時分も、私は未だ童貞を保ってゐた。盎惑的な芸妓に直面しても、私はまだ恥しさの方が先行した。妓の視線と私の視線が合ふ時でも、あはてゝ視線を外すのは妓でなくて私であった。
 然るに、私が廿五年間、持ちこたへて来た童貞を破る日が家た。それはホンの機會であった。私が希望したといふよりは、見えぬ手に引づられて行ったのであった。私はいよいよ恥づかしい「遊女行」に筆を移さねばならなくなった。