賀川豊彦の畏友・村島帰之(184)−村島「歓楽の墓」(7)

 「雲の柱」大正14年10月号(第4巻第10号)歓楽の墓(7)

         歓 楽 の 墓 (七)                         村島帰之

 それは私の廿五六才の春の事であった。当時、私は既に約一年間の新聞記者生活を送り、光の巷に出入する事も多かったが、尚辛くも童貞を保ってゐた。それは自分一箇としては潜かに矜りのやうにも感じてゐた。叉友人達にも、その淡い矜りを打ち毀してやらうと企てる好事家はなかった。うぶな男といふよりも、野暮な男として、悪友からは見放されてゐたのであった。
 どうせ一度は、童貞を破る日が来るであらうが、その場合對象となる女は、是非、容貌品格共に卑しからぬ婦人であるやうに。――仮染にも、先輩達が経て来たやうな遊女達によって、尊きものを失ふやうな事のないやうに。――のみならす、更に望しきは、そこには緋鹿の子のやうな彩りのあるローマンスが織りなされて、二つの異性がつひに相寄って一つに混融し、恍惚境に入る事の出来るやうに――。
 かうした願ひを持ち乍ら二十五の春まで辛くも冷たき理性によって持ちつづけて来た私の純潔が、もろくも地上に踏みにじられ、あまつさへ、その瞬間まで持ちつづけて来た對象の女の資格や、ローマンチックな要素の殆んど一つさへ叶へられずに終らうとは、神ならぬ身の、全く思ひもよらぬ事であった。

 ×××大學の先輩Y氏は、当時大隈伯爵が主宰する雑誌『新日本』の大阪支局主任を務めてゐたが、私が彼の依頼で同誌のため寄稿した経済論文に対するお礼をしたいからといって私を誘ひ出しに来た。それは私が新聞記者生活に這入った翌年の春の夕方であった。
 『心斎橋か道頓堀を散歩して、サッパリしたものでも食べませうか』
 さういった後、二人は間もなぐ肩を並べて、帯のやうに細い心斎橋筋の光の中を歩いてゐた。
 私達は鰻谷の角に、古ばけた行燈を出した、汁ばかしを食べさせる家に這入って、一廉の道らしく、幾種類かの汁をすゝった後、道頓堀へ出て、川に臨んだ、生洋菓子のやうな恰好をしたキャバレーズ・パノンに這入った。そこは主として画家の出入するところで、私は見知り越しの頭髪を長く伸した人々を、階段の脇で見掛けたが、お互に路傍の人のやうな顔をして通り過ぎて了った。                              
 『いらつしやいまし』
 胸高に掛けた白いエプロンの下にふっくらともれ上った乳のあたりから上を、心もち斜に曲げて会釈し乍ら、一人の美しい女給が来た。Yが金口を口へもって行くのを見ると、長い振りの袂からマッチを取り出し、無言のまゝ火をすって、Yの口元へ持つて来るのであった。註文を聞いて女が去った跡を見送りつつ、Yは、
 『素敵な美人だね。あんな連中をものにしようとするには暇と根がなくちや駄目だよ。マア少ぐとも一月位は日參するんだね。』
 『そして、それから?』
 『ウン、それから、まァ宝塚あたりへ連れ出すんだね。運動費が可成り要るから、算盤をもってはやれる仕事じゃない』
 『つまり、ものにするまでのプロセスを享楽するんですかネ?』
 『まめ、そんなもんだ』
 短い間ではあるが、その時までに経過して来た私の亨楽の経験は、プロセスを楽しむために、恋を漁る人の心持に或る程度まで同感出来るやうに思はれた。そしてその頃読んだ或る雑誌に、当時の名妓春本萬龍の言葉として『男は口説き落すまでが恋で、女は口説き落されてからが恋だ』とあったのを思ひ出して、彼岸へ達するまでの興味と努力に引きかへ、彼岸へ達した後の興ざめを覚ゆゐ移気な男心にも多少同感する事が出来た。                                
 『つまり、男は気が多いんですね。一生に何遍も恋をして行かうといふんでせう』
 『まあそんなもんだ。若し恋が出来なかったら毎日とっかへ、ひっかへ違った玄人を漁って行くんだね。』
 『変化性の満足ですか。あなたは浮気者ですなア』
 『ハハハさうかも知れない』
 『森田草平の「煤煙」に女が男に向って「ピアノのキーからキーヘと移るやうに、唇から唇へと絶えず動いて行くのが恋か、それとも一つのキーを押へて、たえ入るばかり、その音に聞き恍れるやうに一人の恋人を守るのが恋か、どっちでせう」といふのがあったと記憶しますが、あなたは唇から唇への組ですね』
 『君だってさうでせう』
 『いや、僕にはまだ体験がありませんから・・』
 『では体験に出かけるか』
 『体験ですか、探検ですか、どっちです』
 『両方だらう』
 『ㇵヽヽヽ』

 二人はやがて数杯の洋酒をあふって、善い加減にほてった顔を外気で冷し乍ら、陶然として道頓堀の裏町を歩いてゐた。Yがこれから私を連れて行かうとするのはどこの何といふ家かは判らないが、そこに美しい女の居る家である事は想像に難くなかった。いや、事によると、さっきの冗談を本統にして、『唇から唇へ』の体験をさせてくれようといふのかも知れない――さうも考へられたが、その場合不思議な事には、大なる危険が忍び足で近よって来る事を、はっきりと意識し乍ら、しかもさうした危険から逃れようといふ考への少しも動いて来ない事であった。二十五年の童貞を捧げるのだもの、少くもかうあってほしいといふ條件が、日頃は私の頭に浮んでゐたのに・・・それは余りにイージイゴーイングな気持であった。
どうとでもなれ! どうせ一度はある事だ! 童貞のほこり、そんなものが何だい! ・・・さうした投げやりの心さへ湧くのだった。
 私は不可抗な或る大きな力に引きづられて居るかのやうに、Yのうしろからすなほについて行った。
 今から思ふなら、二人は道頓堀から戎橋筋へ出て、中筋を西へ折れ、所謂芝居裏のお茶屋街を歩いてゐたのであった。
 Yは私がうしろがらついて来るのを知って何の躊躇もなく、ずんずんと大股で先へ進んで、その速度のまま、とある家――貸座敷と書いた軒燈のある――へ這入って行った。私もそれにつづいた。然し、さすがに私の心臓はあわただしぐ鼓動を打ち始めた。恐怖と、好奇心と、そして歎楽の未知境に對する憧憬が、三つ巴になって私のからだ中をのた打ち廻った。
 どうとでもなれ! 断崖に立ったやうな心持が、外面だけの平静を装はせた。
 螺旋形になった梯子――場所を少しでも多く取らせまいためであらう――をトントンと登って行くと、うしろから仲居らしい女が続いて上って来た。
 二階は四つ位の部屋に仕切ってあるらしく、私達が通されたといふよりもズカズカと上り込んだ部屋はその内の一番廣い部屋であった。今から思へばそれは散財部屋であった。                       
 このあたり一帯の茶屋は芸者も這入れば、娼妓も這入る事が出来た。散財部屋といふのは、主として芸者をあげて呑めや唄へやと騒ぐ場合に使用されるもので、無数の小さく仕切った部屋は、専ら娼妓と宿泊する場合に使用せらるゝのであった。
 『別嬪さんをよんまひよか』
 『ウン』
 『お馴染は』
 Yは仲居の言葉を取って、
 『君は此處の娼妓に馴染はないのか』
 果然、予期通り我等は今、娼妓を呼ばうといふのである。私は生れて始めてたほやめの柔肌にふれようといふのである。
 『どうとでもなれ!』といふあきらめの心よりも、最早、その時は、一体どんな女が現れるのだらうとの好奇心の方が先行してゐた。芝居の花道に揚幕の開く音がして、今まさに役者が現れようとしてゐる、それにも似た心のときめきが全身を支配した。
 『そんなら、まかしとくれやすか』
 『ウン委す』
 仲居は女の選定を一任されて階下へ降りて行った。
 『君は未だこんな處へ来た事はなかったんかね』
 『全く始めてです』
 『一概に娼妓といっても、此處のは「まんた」又は「送り込み」といってね、吉原や松島のやうに身賣りしたが最後、落籍されるまでは金輪際、廓の外は愚か、その女郎屋の外へも、検査の時以外は外出の出来ない所謂「寵の鳥」とは違って、一定区画内の往家は自由だし、区画外でも目立たぬ風をすれば滅多な事露見する事もないし、可成り自由なんだ。そしてお茶屋からおへんじが来ると、妓丁に這られて屋形から茶屋へやってぐるんだ。玉もてらしよりは大分上だよ』
 Yの説明を聞いてゐる間も、階下から聞えて来るであらう女の足音に注意して、全身が耳になったかと思へた。

 ああ、女は遂ひに来た。不思議、私の心は却って平静に帰った。遂に来るところまで来たんだ。何、構ふものか、行くところまで行かう。――さうは思ふが、私の顔はほてって、私の前に並んだ筈の女の方には向かなかった。
 『どちらさんをどっちに』
 仲居は、二人来た女のいづれいづれに割り当てるかも迷ふてゐるらしかった。            
 『君、どっちなりと、先に選び給へ』
 『いいえ、あなたが先に』
 私は先輩に譲るといふ意味ではなく、どっちが善いなどと選定する余裕が迚てもの事なかったのでさういった。
 『そんならクジ引きにしまひよ』
 『ざうだ、それが善い』
 仲居はさうした事には馴れてゐるらしぐ、忽ち袂から塵紙を出して二つのクジを作った。女もそれを手傅ってゐるらしかった。
 私は始めてその時、チラと女の横顔を盗み見た。一入は肉体の、百姓くさい女であった。そして一人は梢垢ぬけのした、酌婦タイプの女であった。
 『どうぞ、おひきやしとくれやす』
 仲居が差出した茶ぼんの上のクジを取らうとした私の手はふるへた。
どっちでもいゝとはいった私だったが、どっちかといへば、酌婦型の方に魅力を感じた私だったのに――                      
 『あんたはんは、紫さん』
 私が引きあてたのはお百姓型の方であった。

 読者よ。ゆるして下さい。私は遂にかうした場景を描かねばならぬ順序に立ち至ったのです。今の私にとって、之等の事を追懐する事は如何に忍びがたき苦しみであり、恥辱であるかは大体御想像下さる事と思ひます。然し、歓楽の墓を立てるためには、醜いものをも一度は白日の下に曝さねばならぬのです。いつはらず、あるがまゝの事実を、あるがままに記すためには茲暫く皆さんの御寛恕を願はねばならぬのです。
 ああ、私の筆は渋ります。 

 『君、もう帰らうか』
 突然、壁隣りからYの聾が聞えた。此處へ来てから、最早二時間はたったであらう。
 二つの部屋を仕切った壁の中央上部に圓形の窓を抜いて、そこに五燭光位の電燈が両方の部屋を照してゐる。部屋は三畳敷であるが、それでも置床があって、その上に花鳥の軸がかゝってゐる。
 『まだ、よろしうおますがな』
 女は押し止めるやうにいった。そして蒲團の上に寝そべったまゝで、枕許の煙草盆の火を移して、さもうまさうに巻煙草を吸ふた。紫の煙が、暗い狭い部屋に立ち舞ふて、電燈の光の中を陽炎の如くかすめる。
 嘗て芝居で見、ものゝ本で見た遊女屋のロマンチツクなムードがどこにあらう。だらしなく腹這ひになった女の肩から足へかけて、なだらかな曲線が流れてはゐても、それは美しいといふよりも、淫らなものだった。只、びらうどのやうな肌の触感だけが、甘ぐ快いものとしていつまでも私の官能に残ってゐた。それとモウ一つは、
 『今どきの書生さんで、二十五の年までおなごはんを知らん人がおまっかいな』
 と、私の童貞を信じなかった女の言葉と――。あとは凡べて地獄の鬼にくれてやりたいやうな、はづかしい事のみであった。それどころか、あいての女それ自身に對して言ふべからざる嫌悪の情が湧いた。
 『こんな女に、俺の真珠をくれてやったのか』
 先刻、惜しくもないと思った童貞が、今更になって惜しく思はれ出した。
 『どうでしたね』
 Yが皮肉に訊くのに對し、『予期したやうな感激と歓喜がなかった』といはうとしたが、笑はれさうに思へて、引込めて了つた。
自分も到頭男になったのか、ナアーンだ、つまらない。恐れと喜びとの中に待ち設けたものが、永い間、少しでも遅くと延して来たものが、ああこんな没趣味な中に済んで了ったのか――
 期待が大きかったためであらうが、それはどっちかといへば幻滅に近かつた。
 やっぱし僕等はプロセスを楽しんでゐる方が善いんだ。彼岸に泳ぎついて得たものは只だ疲労があるのみだ――
 宵にパノンでYと話した言葉が、また思ひ返されるのだった。
 私達二人は、互ひに違った事を考へ乍ら、道頓堀の人ごみの中を、涼しい顔をして歩いて行った。まるで教会の戻りのやうな態度で。


        ♯          ♯


「雲の柱」大正14年11月号の巻末には、以下の言葉が収めれた。

       「歓楽の墓」 打切の言葉
 恥づかしい思ひをし乍ら、前号まで告白を続けて来た時、わが「歓楽の墓」は思はざる障碍に打突かった。それは私の告白が、「あるがまゝの事実をあるがまゝに」と願ひつつ筆を進ませたために、その描寫が余りに露骨に過ぎ、その筋から御注意を受けた事である。それで賀川主筆および福永重勝氏と協議の結果、本稿は前回限りで打切る事に決した。
然し、歓楽の墓は土台石だけ出来てそれで放棄すべきものではない。私が新しい第一歩を踏み出すためにも、此の墓だけは完成したい願ひに満たされゐる。賀川主筆及び福永重勝兄もロを揃へて「今茲で筆を折るのは惜しい。此種のものは嘗て誰も試みた事のないものだ。是非完成するが善い。そして単行本にして出すが善い。』と勧めてくれるのであった。
 私は今、娼婦研究の稿を起こしているのだが、それは横断的の研究であるに反し、「歓楽の墓」は、一人の遊蕩児が経験して来た倫落の世界を、縦断的に研究したものである。横断的研究を発表する前に、まづ一人の放蕩児を解剖台に乗せて研究した結果を世の中に送って置く事も穴勝無意義ではない――そう考へた私は一度打折らうとした歓楽の墓の建築を継続する事に決心した。福永大兄は是非このクリスマスまでに世の中へ送り出したいと言はれる。私もそのつもりで、今セッセと筆を運ばせてゐる。自省心のない男が魔道へ陥ちて行く経路、頽廃の倫落世界の模様を引統き愛読してやらうといふ篤志家は、どうかそれを見て頂きたい。私は祈りの中に、今も筆を運ばせてゐる。
                    村 島 帰 之