賀川豊彦の畏友・村島帰之(185)−村島「歓楽の墓」

    

         村島帰之著「歓楽の墓」
        (大正14年、文化生活研究会)

           
          

 
          賀川豊彦の「跋」

 今から、八年前であった。私は、初めて、大阪府知事官邸で村島兄に會った。そして、そのはっきりした句調で、色々面白い貧民窟研究の話をしたのであった。
 その時、村島兄は、既に「ドン底生活」や「生活不安」の著作を次から次へ、新聞に発表して居られてゐた。その筆の冴えた、人間愛に燃えた美しい文章に、私は心より尊敬を払うてゐたが、大正八年頃から、一緒に色々な労働組合の問題に携はるようになって、私は村島兄が、美しい性格の持主であることを知って、宗教の開係を越えて、互に親しくしたのであった。
 然し、その当時、村島兄には、一つの悩みがあった。それはこの美しい文章で書かれてある『歓楽の墓』に記されてある通り、多くの青年の持つ悲しみと、同じ誘惑の手にかかってゐられたのであった。
 元来蒲柳の質である、村島兄は度々病床につかれた。そして、之がまた同兄に取って、福祉のよすがとなった。病床に臥す日が永いだけ、君は神に對する自覚を明瞭に持たるるようになった。そして殆ど半年近くも病床に親しんでゐられる中に、君は全く生れ変わった人となられたのであった。村島兄は嘗て人の悪口なぞ書いたことの無い人である。だから、生れ変わったと云っても、彼の親切とか、同情の点に於て大きな変化を見たと云ふのではない。彼の神と人間に對する態度が、全く変わって来られたのであった。それから後は、私は、同兄の親切を受けるばかりであった。私は兄の親切を御礼云ふ機會のないのを悲しむ位である。私は著作の筆記でもお世話になれば、校正から、事業の経営、曰く何、曰く、何、それは一口では云へない。元来親切な同兄のことだから、神と人間に對する態度の明確になって来られた同兄は、徹底的に私の小さい事業の中心人物のひとりとなってくれられたのであった。私達の事業は小さい仕事である。然し毎月何千圓かなければやって行けない。それ等は凡て私達の出版物の印税と原稿料から来るのである。それをよく知ってゐられる村島兄は、私の病んでゐる日などは、わざわざ私の枕元に来て、私の云ふのを筆記して、一冊に纒めて出して下さったのであった。私の著作『愛の科學』はかうした、村島兄の愛の所産であった。
 村島兄は、その後、今迄の過去を凡て世界に告白して、自分のような低迷の世界に迷うてゐるものに読ませたいと私に告げられて、この『歓楽の募』に筆を染められたのであった。
 だから、この書は村島兄の懺悔録である。それはルソーのそれにも比すべき、何をも欺かざる告白録である。私はこの大謄な告白に對して、村島兄を一層尊敬するものである。君は勇躍して、過去を一蹴し、未来に對する希望と勝利に燃えてゐられる。
 私は、この書物を読んで、魂の勝利を思ふ。これは罪悪よりも救の力の強いことを教へてくれる恩寵の記録である。ビュリタンはこんな告白録を書かないと人は云ふであらう。
 然し、時代は進む。新しい時代には新しい告白がある。そして君は新しい告白を以って新しい神の寶座を贏ち得んとしてゐられるのである。私はその勇ましい姿を見て、同兄の勝利を祈らざるを得ない。
 罪悪に目を蔽ふな! それは現実である。寧ろ、凡ての罪悪を曝け出して、神の日光消毒を受けよう。そして、村島兄はその曝日の勇気を今、示しつつあるのである。
 私達は恭しく、同兄に對して、帽子を取らねばならぬ。

  一九二五・一一・ 一八      
                         賀川豊彦